世界を破滅させる天使
「ふい~……」
クロトは疲労困憊といった様子で、ソファーに深く座り込んだ。
柔らかいクッションが、クロトを包み込む。
その座り心地に知らず知らずのうちに瞼が重くなる。
うたた寝しかけたクロトの前に仄かに湯気が上がるカップが差し出された。
(……アイリか?)
クロトがゆっくりと視線を上げる。
だが、目の前にいたのは、クロト専属のメイドではなく、
この屋敷の主――エミナだった。
「お疲れ。クロト」
「ん……あぁ、お互いにな」
クロトは差し出されたカップに口をつける。
うん。上手い。
流石はエミナ。
アイリに家事や料理を叩き込んでいるだけの事はある。
アイリが入れた紅茶よりも香りもコクもある。
鼻孔をくすぐる仄かな香りは、上等な茶葉でも使ったのだろうか。
あまり飲んだ事のない紅茶だった。
それに、舌の上で広がる風味は、苦みがほとんどなく、苦い物が苦手なクロトの喉を自然と流れる。
角砂糖やミルクなんて必要ない……
クロトが紅茶本来の味を味わうのは、あまりない。
いつも、甘々にした誰が見ても体に悪いだろう――という程の砂糖を投下したオリジナル紅茶よりも断然、こっちの方が好みだった。
「ふぃ~……」
体の芯から温まる。
全身に蓄積した疲労が抜け落ち、クロトは間の抜けた吐息を零した。
「どうだ? 美味いか?」
エミナが瞳を爛々と輝かせながら、クロトの目を覗き込んだ。
クロトは、微睡の心地に身を委ねながら。
「美味いよ」
と素直に感想を零す。
「そうか、そうか。これは私の秘蔵の一品だからな」
「お前の秘蔵の一品って酒をイメージするけど……」
「酒は、な。美味いのはあの店の酒で充分だ。まぁ、この屋敷にも少しはあるが、お前はまだ飲めないからな……」
少し残念そうにエミナが呟く。
そんな、顔するなよ……
クロトは呆れたように頭を掻きむしる。
「飲めなくはねぇよ」
酒の味は知ってる。
クアトロだった頃、飲んだ事があるからな。
けど、どちらかと言えば、クロトは酒が嫌いだった。
初めて、酒を飲んだは――カザリを亡くした時だろうか。
まるで現実を否定するように、酒に溺れ、呑まれていた。
師弟揃って似た酒癖だな……とクロトは苦笑いを浮かべる。
「飲ませないぞ。そもそも今のお前は未成年だろ?」
「まぁ、そうだけど……」
「……お前が酒を飲める歳になったら一緒に飲もうな。その時は私のおススメを紹介してやる」
「それってあの店だろ?」
「わかったか?」
クスクスと自然な笑みが二人から零れる。
エミナとクロト――この二人だからこそ、二人はここまで穏やかになれるのだろう。
クロトはエミナに甘えうように愚痴を零す。
「けど、シャーリィには驚いたなぁ……」
「あぁ、私も驚いたよ……どこからアイリの事を知ったのか……」
「あぁ、そういえば、アイリの為にこの屋敷に来たんだっけか?」
「あぁ。アイリを元に戻せってな……」
「それが出来れりゃ苦労しねぇんだけどな」
「まったくだ」
今のアイリは一種の自己防衛本能だ。
解決の鍵を握るのはアイリ本人だけ。
クロトもエミナもただ、彼女を信じて見守るしかないのが現状だった。
だが、シャーリィに出会えたのは運がよかった。
守護天使ソフィアから少しだけ話を聞くことが出来たが、魔族の事はまだ何もわからないに等しい。
それに、カザリの事もだ。
死淵転生の呪法も、そして、その可能性も知らずにいるのは、あまりにも後手に回りすぎている。
本土に戻ったシャーリィの情報に淡い期待を抱きながら、クロトは、少し、言いよどむ。
「なぁ、エミナ」
「ん。何だ、クロト?」
「ノエルの事、知ってだろ?」
「――ッ!?」
クロトの一言にエミナの体が強張る。
手に持っていたカップがカチャカチャと音を鳴らしていた。
エミナは俯くと、一言。
「あぁ……」
と零す。
「どうして言わなかった?」
「すまない」
「黙っていたのは別にいいよ。けど、俺はその理由を知りたいんだよ、エミナ」
卑怯だとは思いながらも、クロトは、エミナの師のように、問いただす。
謝ってほしいわけじゃないんだ。
エミナは肩をビクッと震わせ、まるで、幼いあの頃に戻ったように、狼狽え、泣き出しそうな表情をクロトに見せる。
「……そういえば、忘れたよ。お前の悪い癖だぞ、それ」
「……わ、わかってはいるんだ。けど、お前のその瞳は、私をあの頃に引き戻す……弱かった、あの頃の私に」
エミナは、ゴクリと生唾を嚥下すると、意を決したように、クロトを見つめた。
「話せなかった理由は簡単だ。それが、ソフィアとの契約だったから」
「ソフィアとの?」
「あぁ。直接会ったならわかるだろ? 彼女の絶対的な力を」
「まぁな……」
クロトはバツが悪そうに頷く。
あれは、天災とも言うべき存在だった。
生物とのしての根本が違いすぎる。
彼女が使う魔術の一端はクロトでは――いや、この世界の人間には到底真似できない魔術だろう。
あの時、アイリの力を使って、ゼリームの魔術を獲得した行為がいかに蛮行だったか……
今のクロトには痛いほど理解出来てしまった。
(ほんと、よく生きてたよな……)
「彼女の事を一切口外しない。彼女の身の安全――まぁノエルの安全だな。これを確保する――これがソフィアとの契約だった」
「その代わり、ソフィアはこの国には、俺たちには干渉しない。そんなところか?」
「あぁ、クロトの言う通りだ」
エミナは渋面を浮かべながら、カップに口をつけた。
クロトも同じく紅茶を喉に通すが……
なぜだろうか、さっきよりも味がしない。
「だが、その契約は、私が破ってしまった。この世界の結界が破たれたからな……」
「けど、それはエミナのせいじゃねぇだろ」
カザリの封印を破ったのはあの魔族たちだ。
だが、エミナはクロトよりもソフィアとの面識は深いみたいだ。
クロトが聞けなかった情報を知っているかもしれない。
「なぁ、ソフィアは何か言っていたか? 鍵の事とか?」
「ん、まぁな。世界を救う為の力だと。あと、猶予がないとも言っていたな」
「猶予?」
「あぁ、あちらの世界――魔族の世界だろうな。そして、まだこっちの世界には猶予がある」
「……なんのことだ?」
「さぁな。そればかりは私にもわからん」
答えを知るのはソフィアだけ……か。
なら、もう一度、ソフィアから話を聞ければ、大きな前進になるかも……
「止めておけ」
「……まだ、何も言ってねぇけど?」
「クロトの事だ。わかるに決まってるだろ? もう一度、ソフィアと会いたい。だろ?」
「まぁ、そうだけど、なんで止めんだよ。いいだろ、別に会うくらいは」
「それが、ダメなんだ。あいつはこの世界には干渉しない。目覚めるつもりないだろう。だが、もし……」
「もし?」
「ソフィアが目ざるような事があれば、この世界は滅ぶぞ」
「ま、マジ……かよッ!?」
ドクンッ! と心臓が脈打つ。
あれほどの化け物が本気で暴れれば、本当に世界が滅ぼされかねないからだ。
額に滲む汗を拭いながら、クロトは震える声で呟く。
「な、なんで……」
「あいつは器であるノエルの為だけの天使だ。彼女に危険が差し迫った時じゃないと覚醒しない存在。
そして、アイツはノエルを誰よりも大切に思っている。ノエルを傷つける世界なら躊躇いなく破壊する程にな」
「……」
言葉が出なかった。
ソフィアに会うにはノエルに危害を加えるしかない。
だが、それはソフィアの逆鱗。
触れれば世界が破滅する。
安全にソフィアに出会う方法は――ない。
「むしろ――」
とエミナは剣呑な眼差しでクロトを見つめる。
「ソフィアを顕現させない為に、ノエルを守らなきゃならないだろうな」
「……だろうな」
命に関わるような事件に巻き込まれないように、ノエルを守らなきゃいけない。
彼女を――ノエルに眠る守護天使を目覚めさせない為に。
(けど、出来るのか、そんな事。俺やエミナの二人で……?)
クロトは、この世界の命運を握る爆弾を抱え込んでしまった事に、拭えない不安を抱くのだった――