ミレイ=カタリアの提案
同刻。ウィズタリア魔術学院――
人気のなくなった廊下で足を躓かせたレティシアは前のめりに倒れようとしていた。
意識が遠のき、足元が覚束ない。
倒れると自覚した時にはもう遅く。
地面がゆっくりと近づく光景だけが目に映っていた。
「あら、大丈夫ですの?」
ポスッと柔らかい感触がレティシアを包み込む。
覚悟していた衝撃とは真逆の感触にレティシアの意識がハッキリとしてきた。
「あ、い、いえ……大丈夫です、ミレイ先生」
レティシアを受け止めた女性――レティシア達の新しい担任であるミレイ=カタリアは目を瞬かせ、レティシアを抱きしめていた。
ミレイは三つ編みで束ねた髪先を片手で器用に弄りながら、眼鏡越しに衰弱したレティシアを観察する。
「なるほど……驚くほどに魔術に耐性がないのですね」
「へ……? 先生?」
未だ、頭にもやがかかったような状態だったレティシアはミレイが囁いた言葉を聞き取る事が出来ず、首を傾げた。
ミレイは取り繕ったような笑みを浮かべる。
「いえ、何でもありませんわ。きっと疲れているのでしょうね。何もない場所で倒れるなんて、きっとそうに違いありませんわ」
「そう……ですかね?」
そう言われてみれば思い当たる節がいくつかある。
昨日のエミナの授業を少しでも理解したくてほとんど寝ずに勉強していたのだ。
疲れが溜まっているいるのかも知れない――とレティシアは納得してしまった。
(なら、あれも幻だったのかな?)
意識が遠のく直前、レティシアは確かに目にした。
空を覆う白銀の光。
その光の一つがレティシアの胸に。そしてミレイの胸に突き刺さる光景を。
だが、胸元を見ても何かが突き刺さったような跡はなく、ミレイも普段と変わらない。
倒れたのはやはり疲れ。あの幻覚は関係なかったのだろう。
でも、少し気になる。
「あの、先生?」
「あら、なんですの?」
「さっき、空とか光りませんでしか?」
「……」
レティシアの言葉を聞いた直後、ほんの一瞬、ミレイが押し黙った。
だが、それも数刻。ミレイは「さぁ?」と首を横に振る。
「さぁ、それよりもお話があるのでしょう? 赴任したばかりで何かと散らかっていますが、ここが私の研究室ですわ」
ウィズタリア魔術学院に併設された研究施設の一室。ミレイ専用の部屋の前。ミレイは扉に手をかけながら、レティシアを中へと促す。
「話は中でゆっくりと聞きますわ。コーヒーでもいかがかしら?」
「あ、ありがとうございます」
促されるままに部屋の中へと入っていくレティシア。
ミレイはその背後で、チラリと手元へと目を向けた。
「……本当に面白い国」
その手にはソフィアがウィズタリア全土に放った白銀の矢が握られていた――
◆
「私に手ほどきを……?」
「はい!」
差し出されたコーヒーに注視しながらレティシアは力強く頷く。
マークによる洗脳の経験。そしてエミナやクロトのレクチャーもあり、レティシアは格上の魔術師に対し、一定の警戒心を抱けるようになっていた。
親しい間柄ならともかく、今日あったばかりの魔術師に対し、暢気に構えるような間抜けはもう犯さない。
暗示、催眠などの洗脳の類い。加えて、魔術的な拘束や誓約がないのを注意深く観察しながら、レティシアはコーヒーに口をつけた。
(う……苦い)
ブラックが飲めないレティシアさんである。
思わず砂糖とミルクを探そうと視線が泳ぐのを必死になって我慢する。
それより、部屋の観察だ。
涙目で我慢しながらコーヒーを飲みつつ、ミレイが思案に耽っているその間に室内を観察。
(うん。このコーヒーにも部屋にも怪しい魔術はないみたいね)
ようやく緊張の糸が緩む。
魔術の世界に足を踏み入れてからというもの様々な事件に関わってきた。
その中でもマークによる洗脳はレティシアの心に深く息づいており、魔術師の研究室というだけで息が詰まりそうになるのだ。
ミレイのようにレティシアに対し、本当の教師のように振る舞う人物は案外初めてかもしれない。
(思えば、エミナさんも無茶苦茶だからなぁ~)
そもそもあの人は規格外だ。そう思えば、ミレイはレティシアが求める全てを兼ね備えている。
魔術に対する知識もさることながら、それを教授する技量に加え、親身になって考えてくれる。
(やっぱりクロトとは違うわ)
クロトはまるで鬼だ。
魔術に対して誰よりも詳しいくせに、誰にも教えようとしない。
レティシアに対していつも意地悪ばかり。
(ほんっと、最低な男よね)
偶に。凄く偶にだが、格好いいところはあるが、基本的にクロトは最低という称号の服を着て歩く最低な男だ。
平気で人をバカにするし、人の好意にも素直になれない。隠し事だって多い。エロ本ばかり集めて、最近では女の子に買いに行かせる始末。
まだまだ上げればきりがないが、今さらながらにクロトを師と仰ごうとしたあの時の自分を殴りたくなってくるレティシアであった。
「アートベルンさん?」
「あ、は、はい」
どす黒い思考の海に溺れていたレティシアの意識がミレイの一言で浮上する。
慌てて居住まいを正すレティシア。
そんな光景をミレイは優しく見守りながら、申し訳なさそうに口を開いた。
「アートベルンさん、申し訳ありませんが……」
「だ、ダメですか……?」
最初に囁かれた謝罪の言葉にレティシアが食い付く。
ミレイはふるふると首を横に振ってから話を続けた。
「いえ、そういう事ではありませんの。師となる事は一向に構いませんわ。ですが、ご覧になった通り――」
ミレイは部屋を見渡す。
ミレイの研究室は魔術師の研究室というわりにはひどく殺風景だ。
学院が支給した参考書しかなく、ミレイが持ち込んだと思われる魔術的な研究材料は何一つない。(もっとも、こんな部屋だからこそ、魔術初心者のレティシアでも、魔術的な罠がないと見破れたわけだが……)
「今、教科書に載っている魔術以上の知識を教えるには教材が足りていませんの」
「そう……ですか」
確かに、魔術を教えるとなればそれなりの設備は必要だろう。
だが、ミレイの研究室にはそれが一切ない。
ミレイが断る理由ももっともだ。
レティシアは知らずに盛大に肩を落とす。
「ですが……」
「先生……?」
続くミレイの言葉に思わず首を傾げるレティシア。
もうてっきり話は終わったものだとばかり思っていたのだ。
そして、その次のミレイの言葉にレティシアは光明をみる。
「私の元いた研究施設であれば、ご教授する事も可能ですわ。幸か不幸か、修学研修先が私のいた研究所でして、荷物もその時に受け取る予定でしたの。もし、アートベルンさんさえよければ、研修の時からでもよろしいかしら?」
思ってもいない申し出に考える余地さえなかった。
レティシアは数瞬と待たず首を大きく振り、
「はい、よろしくお願いします!」
目を輝かせ、ミレイの弟子になる事を受け入れていたのだった――