アイリ、初めてのお使い(下)
「……おじさん、少しいい?」
路肩で売店を営んでいた中年小太りの男性に純粋無垢なサファイアの視線が向けられる。その人物は現在、クロトからお使いを言い渡されたアイリ=ライベルその人である。
アイリは迷子になった子供のように落ち込んだ視線を店主に向ける。一体何事だ? と眉を顰めた店主は「どうしたんだい?」と落ち着いた口調でアイリに話しかけた。
「……ここに行きたい。けど、場所が……」
屋敷を出る際に学院指定の制服に着替えたアイリはポケットから小さなメモ用紙を取り出し、それを店主に差し出す。
「誰に聞いても教えてくれないの。もしかして嫌がらせ?」
「ほう。そんな性根の腐ったヤツがいるのかい? どれどれ……」
目の前のいたいけな少女に随分と辛辣な態度をとる連中がいるものだな。自身の国の治安の悪さに心を鬼にしながら差し出されたメモ用紙を見やる。
果たして店主の表情はこれまでアイリが同じ質問を投げかけた連中と同じ――戦慄した表情へと一瞬で切り替わるであった。
二度、三度、店主の視線がアイリとメモ用紙を交互に見る。その顔は戦慄の表情を浮かべたまま、硬直していた。
アイリはそのただならぬ様子に「また?」と首を傾げる。
「お、お嬢さん。どうして、こんな場所に?」
「ん? お使い」
「お――ッ!」
店主の声が詰まった! ついでに手にしていたメモがグシャリと握りつぶされる!
「そ、それは……本当かい?」
「ん。本当。クロトがこの店に行ってメイド服の参考にしろって……」
「……(ピキピキ)」
その瞬間、店主の額に青筋が浮かんだ。アイリが口にした『クロト』という名の人物を血祭りに上げようーーと引き攣った顔が如実に語っていた。
アイリは豹変した店主の雰囲気に小首を傾げながら、わけがわからないとでも言いたげな表情を覗かせる。そして言うのだ。
「おじさんも、教えてくれないの?」
「そ、それは……」
その瞬間、店主は理解した。真の悪党はその『クロト』と名乗る人物なのだと!
これまでこの子に道を尋ねられた連中はきっと今の自分と同じような理由で答えに窮したに違いない。
まるで世の中の汚れを知らない、純粋すぎる女の子にこんなお使いを頼ませる男を呪いながら、同時に言いようのない恥ずかしさに体を切り刻まれたのだろう。
だが、この店主は違う。酸いも甘いもかみ分ける人物。すでに最愛の妻子がいる身だ。将来、愛する娘が同じ事をされたら……という幻想に頭を痛めながら、帰りを待つ家族の為に裏切ることは出来ないと腹を括る。
「悪いが教えることは、出来ない……」
それが答えだ。愛する家族から白い目で見られない為に、店主はアイリに『メイル・ヘヴン(18歳以下の立ち入りを禁ず)』の場所をはぐらかした。
憎むべきはそんな場所に女の子を送り出す『クロト』のろくでもない精神性だろう。
アイリは見るからにシュン……と落ち込んだ。
それは当然のことだった。
場所がわからず、これまで何人もの人に道を尋ねて来たが、皆が一様に同じ態度を示すのだ。これではクロトのとの約束――メイド服の資料を手に入れることは出来ないだろう……
そう思うと無性に悲しくなり、胸が締め付けられる。
アイリはほとんど泣きが入った声音でボソリと呟く。
「どうしよう……これじゃあ、同じ事、出来ない」
当然、アイリが口にしたのは『メイド姿を披露』だ。
だが別人格になって以来、どこか天然気質の入ったアイリの言葉は肝心な要所が抜け落ち、その言葉が店主の股間にダイレクトヒットしたのだ。
「――ッ! お嬢さん、今、『同じこと』をと口にしたのかい?」
「ん? そう、だけど?」
「そ……それは何故だい?」
「……喜んで欲しいから」
その一言に店主は胸を押さえ蹲る。なんと健気な娘だろうか……! 相手の要望に真摯に向き合おうとするその真っ直ぐな視線に心を撃ち抜かれる。妻を持つ店主ですら、アブノーマルな営みを行う事に躊躇し、踏み出せなかったのだ。
それなのに、この子は前人未踏の関係に手を伸ばそうと言うのだ。それもただ喜んでもらいたい一心で――
きっと、恥ずかしいだろう。たった一人で野獣の男どもが欲望の限りを詰め込んだ聖域へ突入するのだ。きっと心細いに違いない。
それでも、この子はこの道を進もうとする――後には引けないと知りながら。
なら、妻や娘に白々しい視線を向けられようと、そっと背中を押すのが男の性ではないだろうか?
「そうかい……お嬢さん――いや嬢ちゃん。その店はこの裏手を真っ直ぐ進んだ先にあるぜ」
店主はさながら門番のように厳かな雰囲気を醸しだし、親指をクイッと動かし背後の通路を指し示す。
「おじさん……?」
「いいかい? 俺は通過点にすぎない。この先もまだ、嬢ちゃんには試練が降り注ぐ。その全てを乗り越えた先に嬢ちゃんの欲しいものがある。その事を努々忘れるんじゃねえぞ?」
今の店主はただのクレープ屋の店主ではない。結婚するのと同時に捨て去った漢の矜恃を呼び戻した一人の戦士だ。
かの歴戦の戦士に背中を押され、アイリは人気の少ない路地へと押し込まれる。
端から見ればいたいけな少女を影に連れ込もうとしている変質者(実際にその通り)だが、決意に固まった瞳はある種、壮絶だった。
「ん……ありがとう、おじさん」
アイリはメモ紙をポケットに戻すと薄らと笑みを浮かべる。
そして、最後に一言――爆弾を投下するのだった。
「いつか、おじさんにも同じの見せに来るから……」
「――ッ!」
その言葉に咄嗟に股間を押さえる店主。
もちろん、アイリにそんな卑猥な意図はない。
ただメイド姿を見せる――という一言がどうしてこんな卑猥な発言を生み出すのか……永遠の謎だった――
◆
そして、そんなアイリの後ろ姿を見守る人影がもう一つ。
妙にやつれた顔を覗かせるクロトだ。
服はどことなくボロボロで髪も乱れている。
だが、本人はそんな事を気にした素振りも見せず、終始ハラハラした様子で店主とアイリのやりとりを見守っていたのだ。
「大丈夫かな……」
思わず漏れる呟き。その一言がクロトの心情の全てを物語る。
無事に話し終えたのか、アイリが『メイル・へヴン』に向けて着実と歩みを進める。
消えたアイリの背中を追いかけようとクロトは先ほどまでアイリと言葉を交わしていた店主の横を軽く会釈しながら素通りしようとした――
その直後。
「おい……」
怒りを幾分か孕んだ声がクロトの足を縫い付けた。
またか……と辟易しながら、クロトは店主に向き直る。
続く言葉は予想出来た。
「お前が『クロト』か?」
「そう……だけど?」
直後、二人の間に流れる沈黙。
その沈黙を破ったのが、
「このろくでなしがあああああああああああ!」
拳を振り上げた店主の絶叫だった! (やはり、女の子をアダルト店にお使いに出させる行為が腹に据えかねていたのだろう)
突然の乱闘にクロトもまた絶叫で答える。
「どうしてこうなるんだよおおおおおおおおお! (また、あの馬鹿のせいかあああああああああああああ!)」
その日、社会的に抹殺されたクロトはしばらくの間、路地裏を住処とする野生の男どものブラックリストに乗る羽目になるのだがそれはまた別の話。
◆
「……ここが?」
店主の言った通りの試練――をくぐり抜けたわけでなく、ただ路地を道なりに歩いただけでアイリはお目当ての店に辿り着くことが出来た。
店の看板とメモの店名を確認。間違いが無いことを確認する。
アイリが初めて訪れた『メイル・へヴン』に抱いた感想は、
「なんだか、キラキラしてる……」
飾り気のない率直なものだった。
表通りの店は看板こそ建てるが、ここまで装飾に凝ったものではなかった。
路地裏にあるこの店はまるでここがオアシスだと言わん出で立ちで、その存在を主張している。
様々な光を放つ《インスタント魔術》を使用してイルミネーションのようにライトアップされたお店。
アイリの目にはまるで夢の国のように輝いて見えていたのだ。
当然、店舗にでかでかと書かれた女の子イラストにも目が行く。
それが、偶然にも際どいメイド姿の獣耳少女だったのが、アイリの心に小さな火をつけた。
「あれがメイド姿?」
違う。
恐らく誰もが口を揃えて言うツッコミ。しかし、今、この場には悲しい事に世間に疎いアイリしかいないのだら、誰もその間違いを指摘出来ない。
アイリは心のシャッターを何度もきり、様々な角度からそのイラストを観察する。
そして、十分に堪能した後、アイリはふんす! と鼻を鳴らして『メイル・へヴン』に入店するのだった。
「帰りな……」
店内に入った直後、言い渡された言葉がそれだ。
アイリと相対する男は筋肉質の細マッチョで、パツパツの黒いシャツに様々なイラストが描かれた勲章をエプロンにつけたシュールすぎる禿げ男だった。
他にも数人の男が遠目から恥ずかしそうな眼差しをアイリに向けていた。手に様々な雑誌やアイテムを握って。
アイリはチラリと彼らを流し見る。
その手にした雑誌は肌色率が高めだが、雑誌に書かれた服が制服姿や修道服姿など様々なバリエーションがあり、その種類の豊富さから、ここにはお目当ての代物もあるだろう――と心を躍らせる。
「何が目的かは知らねえがここはお前さんが来ていいような場所じゃねえ。悪いことは言わねえ。すぐに帰んな。今なら何もしねえからよ」
「どうして、私はダメだの……?」
アイリにしてみればもっともな疑問。
なぜ、自分だけ放り出されないといけないのか。
他のお客と何が違う?
禿げ店主はピクリと頬を引き攣らせながら、「お前、正気か?」と疑わしい視線を向ける。
別にこの店主も女の子の来店を拒みはしない。
事実、この店にはコスプレ品として女の子用の衣装も置いてあるのだ。
偶にだが女の子も来店する。
それなのに、店主がアイリの入店を断った理由は実にありふれたものだ。
「お前、学生だな」
「ん、そう」
「目の前の看板見たか?」
「キラキラしてた」
「……ここは18歳以下、もしくは学生服着用のガキはお断りだって言ってんだよ!」
目尻をカッと吊り上げて、店主は叫ぶ。もっともな理由だった。
因みにクロトがここを利用する際はもちろん私服だ。(ちなみに『クアトロ』の転生者なので年齢的にも実は問題無かったりする)
アイリは驚愕の瞳を覗かせ、体を硬直させた!
「……そう、なの?」
「ああ、そうだ。だから――」
「じゃあ、服を脱げばいいのね?」
「は――?」
店主の続く言葉を遮って、アイリは勝手に自己完結する。
それも途轍もなく悪い方向に!
思わず唖然とする店主の前で、アイリは制服の外套に手をかける。
ふわりと舞う赤い外套。残されたのは白いブラウスのみ。そのブラウスのボタンに手をかけようとした直後。
「いいから、さっさと帰りやがれ!」
いい加減、キレた店主がアイリの腕を掴んで店の外に放り出そうとしたのだ。
「む……」
だが、相手が悪かった。
いくら人格が変わり、記憶を失おうと、アイリは魔術師。それも超がつくほどの凄腕。
半ば反射的に《完全武装術》を発動。体そのものを武器と認識し、腕を絡めて逆に細マッチョを吹き飛ばすのだった!
店の商品を巻き込みながら吹き飛ぶ店主にアイリは眠たげな視線から打って変わって鋭い視線を向けていた。
「……なに、するの?」
アイリの言葉には幾分か怒りが含まれている。なにせわけもわからず掴みかかれた――と本人は認識しているのだ。
軽くステップを踏みながら容赦なく店主を睨み付けるアイリに店にいた客全員がゴクリと息を呑んだ。
そして、細マッチョはニヒルに笑みを零し、起き上がると、同じく拳闘の構えとる――なぜだ?
「面白い……この筋肉が無駄じゃないって教えてやるよ! おい、ガキ! 欲しいものがあるなら、俺を倒してからにしやがれ!」
簡単に吹き飛ばされた事が癪に障ったのか、店主は決闘の勝敗を引き合いにする。
その申し出にアイリはニヤリと小さな、それでいて獰猛な笑みを浮かべ――
「……面白い。その勝負受けて立つ」
店全体を巻き込む乱闘騒ぎになったのだった。
その光景を遠くから伺っていたクロトは――
「――よし、帰るか!」
問題児をそのままほっぽり出し、トボトボと帰路につくのだった。
因みに、無事、アイリがエロ本を入手したかどうかは――
その日の夜、屋敷で正座させられたクロトとアイリ(獣耳メイド服着用)がエミナから長い長い説教を受けていたことを踏まえ、お察し頂きたいところだ。
さらに後日、学院に対し、女の子が立ち入り禁止の店に入り、乱闘騒ぎを起した事件が通報されたこと、そのことでクロトとアイリに熱いお灸を据えられたのもまた別の話だったりする。
更新が遅くなってすみません!
次回から新章突入です! 新章のタイトルは『最低魔術師と守護天使』です!