アイリ、初めてのお使い(上)
「たくっ、なんで俺がこんな面倒くさいことを……」
ブツブツと愚痴を零しながら屋敷の廊下を歩くクロト。
その表情は僅かに苛立っているが、同時に悪巧みを覚えたいたずらっ子な子供の笑みを浮かべていた。
その理由は至極単純。これからアイリに遣わせる初めてのお使いに想いを馳せてのものだ。
◆
時間は少し前に遡る。
先の神殿の襲撃以降、心に深い傷を負ったアイリは自我の崩壊を防ぐ為に本能的に第二の人格を創りだし、主人格であった元のアイリは深い眠りに就いた。
生まれて間もない新たな人格のアイリを保護という名目でエミナが屋敷に招き入れたのは事件があらかた片づいた数日前のこと。
それまで暮らしていた宿屋からこっそりと荷物を運び出し(アイリの居住者に気付かれたくないから)今のアイリの部屋に運び終え、ようやく引っ越し作業も一段落。アイリの新生活は様々不安を抱えながらゆっくりとスタートしていた。
今日は学院が休みで、クロトは例に漏れずひたすらに惰眠を貪ろうとしていたのが、そうは問屋が卸さない。
深い眠りに就いていたクロトを理不尽な暴力の化身が叩き起こしたのだ。
「お早う、クロト」
「……今、何時だと思っていやがる?」
窓から差し込む朝日を一瞥し、クロトは柔やかな笑みを浮かべる黒髪の女性――エミナーアーネストを白い目で見た。
「ん? 8時過ぎだが?」
「寝かせろよ」
「十分寝ただろ?」
それはお前だけだろ?
とクロトは布団を頭までかぶりうめき声と共に呟く。
ここ数日クロトは従者になったアイリの指導に当たり、寝る時間が遅くなっていたのだ。
因みにエミナも一緒になって指導するが、ほとんどクロトに丸投げだったりする。
その理不尽を指摘して見るが、エミナはまったく気にしたそぶりを見せないどころか、ベッドで寝転がるクロトに馬乗りになってくる始末。
「グエッ! お、重い……」
「私の愛がか?」
「……お前の体重が」
ここ数日の内に自分の思いに躊躇いがなくなってきたエミナ。今みたいに平然と好意を寄せるのが当たり前の日常になりつつある。
原因は、まあ、あれだ。カザリとエミナを両方救い、愛すると誓ったのが原因だろう。
それまでクロトはエミナに対する後ろめたさから彼女の好意に目を背けていた節がある。その好意をようやく受け止める決心がついたら、この有様だ。
エミナが子供の頃からクロト(クアトロ)に好意を寄せていたのは知っている。一度は憎悪に飲まれた感情だが、長い年月とクロトとの再開により、愛情に転化されたのだろう。
年上の女性が醸し出す色香にクロトの下半身が「呼んだ?」と起き上がるのは時間の問題かもしれない。
自制心を総動員させながら、腹部にのしかかるエミナの重みを必死に無視する――
が、ゆさゆさと揺れるエミナにその心は呆気なく砕け散りそうになった。
「……なに、してんの?」
「ん? 起そうと思ってな」
何を? とクロトは尋ねなかった。それが地雷になるとわかっていたから。
代わりに思いっきりしかめ面を浮かべ、再度。
「だから、重いんだって……」
そう呟いた。
その直後。
クロトを誘惑するように揺れていた体がピタリと制止し、虫けらでも見るような蔑んだ視線がクロトに向けられる。
どちらにせよ、地雷だったらしい……
「《我が身に纏いし星の息吹、この身に降り注ぐは大地の胎動。我、星々の輝きをその身に宿す者なり。万有の力よその戒めをここに――》《重化》」
「ぐえええええええええええええええええっ!」
頭に血が上ったエミナの完全詠唱による重力負荷の魔術が容赦なくクロトにのしかかる。
ベキベキ! とベッドが軋み、同時に床がその重みに耐えかねて抜ける。
フワリとした浮遊感の直後、凄まじい圧力がクロトにのしかかり、勢いよく地面に叩きつけられた。
ベッドがクッション代わりになっていなければ大惨事だ。(すでにクロトの自室は大惨事)
「な、何しやがる!?」
魔術が解け、自由の身になったクロトは即座に飛び起き、クロトの自室から見下ろす悪魔を睨み付けた。
だが、エミナはクロトの視線を無視し、代わりにベッドの周りに散乱していたある物を見据えていた。
その視線に気付いたクロトがギギギ……と嫌な音を立てながらベッドの周りを見て――その表情を氷らせた。
クロト秘蔵のコレクション。一度エミナの手によって灰にされた物をこっそり買い直した秘蔵のコレクションパートⅡといったところか。
まだ冊数も少なかったので安全を期して一番身近なシーツの中に隠していたのだが、今の魔術によって明るみに出てしまったらしい。
破けたシーツから覗く見目麗しい女性たちの煽情的なポーズの数々。未だ一度もおかずにしていない彼女達が、悪魔の目に触れてしまったのだ。
「違うんだ! コレは!」
クロトは浮気現場を押さえられた夫のような言い分けを口にするが、悪魔は聞く耳を持たない。
無言で向けられた手の平にクロトは「これも、俺の業か……」と一瞬悟ったような表情を見せるが……
「《燃えろ》《炎火》」
ピンポイントで放たれたエミナの魔術に泣け叫んだのは言うまでもなかった。
「まったく、お前というヤツは……」
未だに泣き崩れるクロトにエミナは眉間に皺を寄せていた。
「何もそこまで落ち込むことはないだろ?」
「いや、だってよ……」
クロトはジト目でエミナを睨むが、エミナはスッと視線を逸らした。
クロトはエミナの後ろ髪を見ながら深いため息を吐く。
《契約》という魔術がある。
エミナがアイリを学院に迎える条件にアイリの祖国に敵対しないと約定を結んだ魔術――それが《契約》だ。
一度《契約》を交わせば、契約者が死なない限り半永久的に継続される呪いの一つ。
なぜそんな説明するかといえば……
その《契約》をクロトは半ば強引に結ばされたからだ。
内容は《エロ本を買わない》ただそれだけ。
あまりに馬鹿馬鹿しい《契約》――こんな低俗なことに《契約》を使ったのは世界広しといえどエミナただ一人だろう。
だが、いかに阿呆らしい《契約》とはいえクロトの心を抉るには十分過ぎる内容だった。
青春真っ只中の少年がその迸るリビドーを解放出来ないのは些か問題がある。
これから先どうすれば……と項垂れるクロトに爆弾が投下される。
「筆下ろしの相手ならここにいるだろ?」
「……冗談は口だけにしてくれ。お前は俺の『大切』なんだから」
流石にただの性欲のはけ口としてエミナを抱きたくない。
あの口ぶりから察するにそれでもエミナは喜びそうだが、クロトの気持ちとしては、もっと大切に扱いたいのだ。
ただでさせ辛い思いをさせてしまった過去がある。一層大切にしたいと思うのは当然だった。
「そ、そうか……」
頬を赤く染め、クネクネと腰を揺り動かすエミナを見て「チョロすぎないか?」と不安に思うが、エミナが心を許す相手は一人だけだとわかりきっているので、無駄な心配だと斬って捨てる。
ただ、浮かれすぎて羽目を外さないか……それだけが心配だが……
目下の解決すべき問題としてはコレクションの代わりになる代用品を見つけることだが……果たして上手く見つかるのか?
いっそのこと《契約》の穴を突いてみるほうがいいかもしれない。
そう考え直したクロトはどうやって《契約》の穴を突くか必死に考えてみることにした。
そして、その妙案は案外すぐ浮かんだのであった。
◆
そして現在に遡る。
「そうだよ。俺が買う必要ないじゃないか」
クロトは屋敷の扉の一つで立ち止まり、そう呟いた。
今のクロトには優秀とは言えない従者が一人いる。
まだ、従者生活をはじめて数日。
だがその数日で、彼女――アイリのダメさは嫌というほど思い知った。
まず、掃除や片付けといった肝心の家事が出来ない(クロトも同じ)
料理が出来ない(クロトも同じ)
日がな一日ボーッとしている(クロトも――以下略)
つまり、単なるダメ人間が一人増えたようなものだ。
幸いと言っていいのか、クロトやエミナの役に立とうと一生懸命なのはクロトと大違いなのだが……
だからこその妙案だ。
「これも経験ってヤツだよな」
クロトは自分に言い聞かせるように呟いた。
アイリを元の状態に回復させる為には心の傷を乗り越えるしか方法はない。そして、その傷は今のアイリでは乗り越えることが不可能だった。
だからこそ、今のアイリには様々な経験を積ませ、来たる日の為に心身共に強くなってもらいたいのだ。
だからこれは大切な試練なのだ。決して下心だけで考えたのではない。
「よし、行くか」
幸いエミナも今はレティシアに再度施した封印の様子を確かめに席を外している。チャンスは今しかなかった。
今、ここに『アイリ、初めのお使い作戦(エロ本を求めて)』が発動した瞬間だった。
クロトはゴクリと息を呑み込み、遠慮がちに扉をノック。
「アイリ? 起きてるか? 入るぞー」
そう言いながらゆっくりと扉を開けたクロトは、その瞬間絶句した。
部屋にはクロトが運び込んだ家具が綺麗に置かれ、机の上には無造作に投げ捨てられたアイリの私服。
そしてベッドの上では赤子のように体を丸め、スヤスヤと眠るアイリの姿が……
そこまではいい。昼もとっくに過ぎてるんだからいい加減起きろ! とツッコミもしない。
ただ……
どうして裸なんだ……?
ベッドの上で眠り続けるアイリは何故か衣服どころか下着すら身につけていなかったのだ。
青みがかった髪がなんとか彼女の大切な部分を覆い隠してはいるが、全身十割の肌色比率にクロトの体温が一気に急上昇する。
その光景に言葉を失ったクロト。アイリが裸族と知るのは彼女が目を覚ましてからのことだった。