もうすぐ新馬戦
4月。野々森牧場では続けざまに2頭の仔馬が産まれた。
カヤノキが産んだ牝馬には「レインフォレスト」という名前が付けられ、クォーツクリスタルが産んだ牡馬には「クリスタルコンパス」という名前が付けられた。
「お母さん、良かったわね。母も仔も元気で。」
「そうね。こうやって母仔が一緒に過ごす光景を見ると、私達もうれしくなるわね。」
「この2頭、牧場の経営に一役買ってくれるかしらね。」
「そうなるといいけれどね。」
葉月と蓉子は、嬉しそうに母親に寄り添うレインフォレスト、クリスタルコンパスをモニター越しに見つめながら、会話をしていた。
「ところで今年はカヤノキはお休みだけれど、クォーツクリスタルには種付けするんでしょ?」
「そのつもりよ。クォーツクリスタルは現役時代に一番の実績馬を残した馬だから、遊ばせておくわけにはいかないと思っているし。でも…。」
「でも、何?」
「種牡馬の料金は抑えないといけないわね。」
「どうして?去年、ライスパディー達を売って稼いだお金はどうなったの?」
「そのお金はすでに従業員の給料や、今年の種付け料などで使い切ってしまったし、さらにはライスフィールドの預託料もかかるから、今までのようなペースでお金を使っていくわけにはいかないと思っているのよねえ…。」
「あっ、そうね。それにこれまでうちの競走馬として走っていた所有馬も引退して、賞金が手に入らなくなってしまったし…。」
2人は仔馬の誕生のことも忘れ、いつしか牧場経営の話をするようになっていた。
確かに野々森牧場では現役の競走馬がいなくなってしまい、ライスフィールドのデビューを待つか、夏のセリ市でパーシモンなどの1歳馬をセリに出さない限り、新たな収入は得られない状態だった。
そのため、蓉子や葉月、そして太郎を含めた牧場の従業員はライスフィールドに大きな期待を寄せていた。
一方、ライスフィールドは、ライスパディーやその他の2歳の僚馬と併せ馬を繰り返し、段々と競走馬らしい体を作り上げていった。
調教には厩舎に所属している鴨宮君が騎乗し、馬体重や調子、体調などを細かくチェックした。
そして彼は気付いたことを善郎に伝えた。
「ヨシさん、ライスフィールド、この調教タイムなら期待できそうですよ。」
「そうだな、シン。ライスパディーと併せ馬を行った時にはほとんど負けたことがないし、気性も素直だから実力をしっかりと発揮できている。これは掘り出し物になるだろうな。」
「はい。あとは飼い葉をいっぱい食べて、馬体重を増やしてくれれば言うこと無しなんですね。せめてデビューまでに400kgを超えてくれればいいのですが。」
「僕としてもそれは同感だ。新馬戦が始まるまで1ヶ月半を切ったが、まだ394kgだからな。」
2人はライスフィールドの体重が思うように増えないことを気にしながらも、大きな期待を寄せていた。
そしてそれらの内容は、メールで野々森牧場に伝えられた。
「なるほど、ライスフィールドは何とか仕上がるメドが立ちそうね。」
「そうね。体重さえ何とかなれば6月の新馬戦でデビューすることもできそうね。」
「デビューすれば、久しぶりの競馬場になるわね。」
「早く競馬場に行く日が来るといいな。」
蓉子と葉月の2人はメールの内容を読みながら、ライスフィールドのデビューを心待ちにしていた。
5月。2歳馬がデビューに向けて馬体を絞り、ゲート試験を行う中で、村重厩舎では3歳以上の馬達が続々とレースに出走していった。
最初に出走したのはフロントラインで、3歳未勝利戦(東京、芝1800m)だった。
しかし結果は12頭立ての7着に終わり、5戦走ってまだ勝利のないままだった。
翌週には同じく東京競馬場で、ユーアーザギター(オス4歳、クラス500万下。今年3月に堂森厩舎から移籍)が500万下(芝1400m、15頭立て)に出走した。
鞍上は坂江陽八騎手で、善郎も必勝を期していた。
しかし結果は5着に終わってしまった。
「うーーん、また勝てなかったか。遠いな、1勝が。」
そう言う善郎の顔はさえなかった。
「でもヨシさん、厩舎の初勝利を挙げる時はきっとやってきます。大丈夫です。それに、厩舎で初めて5着以内に入る入着賞金が入りましたよ。」
「ま、まあそうだな、ミチ。これで預託料以外の収入が初めて入ったわけだからな。」
「これからどんどん稼げますよ。きっと1着の賞金も入ります。そして大きなレースでもきっと勝てるようになります。だからヨシさん、あごを上げてください。」
道脇君は懸命に善郎を元気付けようとしていた。
その翌週にも1頭が出走したが、16着のシンガリに敗れてしまい、賞金を獲得することはできなかった。
そして5月最後の週に出走したのは10歳のオーバーアゲインで、京都ハイジャンプ(J・GⅢ)だった。
先月中山グランドジャンプが行われた後ということもあって、それ程目立った有力馬はおらず、レース自体は小粒なメンバーとなった。
出走馬は14頭で、オーバーアゲインは高齢ということもあってか、10番人気だった。
(人気薄だが、これを勝てば厩舎初勝利を重賞という形で飾ることができる。自分が調教に乗って、一生懸命鍛えてきたんだ。何番人気であろうとやってやるぞ!)
厩舎で唯一障害の調教ができる道脇君は、気合いを入れながらパドックを回った。
結果、オーバーアゲインはゴールまで完走することはできたものの、10着に敗れてしまった。
(うーーん…。年齢のせいなのかなあ。今日は障害を飛越するだけで精一杯という感じだったし…。)
惨敗続きの状況を目の当たりにし、表情はさえなかった。
(それでもあきらめるわけにはいかない。もうすぐ2歳新馬戦が始まる。ライスフィールドなら新馬戦の開幕週に出せそうだし、絶対に勝つつもりで向かっていこう。)
彼はトレセンに向かっていく馬運車の中で、懸命に自分を奮い立たせていた。
その頃、ライスフィールドの馬体重はようやく出走するための最低限の目標だった400kgに達し、デビューへ向けての追い切りに入ろうとしていた。
それをメールで知った蓉子と葉月は、北海道から東京に行くための予定を立て、お手ごろ価格で予約できる飛行機やホテルについてインターネットで検索をしていた。
いよいよ来週、2歳新馬戦が始まる。