最後の追い切り
有馬記念の日が刻一刻と近づく中、ライスフィールドの調子が一向に上向かないことは、野々森牧場のスタッフにも告げられていた。
太郎はそれを聞いて、心配な表情を浮かべずにはいられなかった。
「困ったな。種牡馬としての評価を上げるにはこのレースを勝ってもらうしかないし、どうしよう。何とか秋天で見せたあのド根性をもう一度見せてほしいけれど…。」
彼は雪が降りそうな雲行きを見つめながら、そうつぶやいた。
一方、同じ頃、牧場の馬房で馬の世話をしている葉月は、カヤノキの様子が気になって仕方がなかった。
(カヤ、心配そうに上を向いている日が続いているけれど、どうしたのかしらねえ。一体何がそんなに心配なのかしら?また病気になったりしなければいいけれど…。)
彼女は繁殖牝馬を引退して、事実上余生を過ごしている形となっているカヤノキの健康状態が気になって仕方なかった。
(ライスフィールドが引退してこの牧場に戻ってきたら、カヤノキも安心してくれるかな?そのためにはあと少しだけ我慢して。戻って来てくれればその後はずっと一緒に暮らせるから。)
葉月は何度も同馬を励ましながら、他の馬達の世話をしていた。
牧場の陣営がモヤモヤした気持ちを抱える中、いよいよ有馬記念の週を迎えた。
出走予定馬は16頭を上回り、フルゲート間違いなしの状況になった。
主な出走予定馬は次の通りだった。
ライスフィールド(前走天皇賞(秋)優勝、有馬記念が引退レース)
ソングオブリベラ(前走天皇賞(秋)2着、有馬記念が引退レース)
シルバーリリー(前走エリザベス女王杯 優勝、有馬記念が引退レース)
シルバーサイレンス(前走マイルCS優勝)
トランクロケット(前走マイルCS 2着)
クリスタルロード(前走マイルCS4着)
グリーンレジェンド(前走ジャパンカップ 2着)
ホタルブクロ(前走ジャパンカップ4着、有馬記念が引退レース)
フォークテイオー(前走ジャパンカップ5着)
なお、前走でチャンピオンズCを勝ったパースピレーションは、当初有馬記念に出走する方向だったが、ダートの方が活躍できるのではないかという話が持ち上がった。
そのため、来年のフェブラリーSから海外へと向かうことになったため、回避となった。
トランクミラクルは有馬記念を回避して来年のAJCCか日経新春杯を目指すことになり、トランクゼウスはすでに引退を表明していたため、出走はかなわなかった。
人気はソングオブリベラやライスフィールド、トランクロケットやシルバーリリーに集まりそうだったが、このレースは久矢君にとっても引退レースになるため、ソングオブリベラが1番人気になりそうな雰囲気を漂わせていた。
そんな中、各馬はトレセンで追い切りを行い、決戦への最終準備をしていた。
水曜日。すでに航空券と宿の準備を整え、関東へ向けて出かける気満々の太郎は、事務仕事のかたわら、出発の準備をしていた。
そんな中、事務所の電話が鳴りだした。
「何だろう?誰からかな?」
彼は事務机のところまでやってきて、受話器を取った。
「もしもし、野々森牧場です。」
『村重厩舎の道脇です…。』
「こんにちは、お世話になります。今回は何の用ですか?」
『実は…、お伝えしなければならないことがありまして…。』
そう話す道脇君の声は明らかに重かった。
「何ですか?何か暗いですよ。一体何ですか?お伝えしなければならないことって?」
太郎からそう言われた道脇君は、重い口調のまま厩舎で起きた出来事について話し始めた。
その内容は、ライスフィールドが追い切りの最中に故障を発生したこと。そしてすぐに獣医師の診察を受け、緊急手術を受けることになったというものだった。
突然予期せぬ宣告を受けてしまった太郎は、すぐにはその出来事を受け入れることができず、その場で呆然と凍りついてしまった。
『本当に申し訳ございません…。』
「それで、ライスフィールドは、ライスフィールドはどうなるんですか?助かるんですか?教えてください!助かるんですか!?助かるんですよね!?」
『まだ…、現時点では…分かりません…。とにかく手術ということに…なりました…。』
「………。」
太郎は頭が真っ白になったまま、返答できなくなってしまった。
『とにかく今…、ヨシさん達はライスフィールドのところで…、経過を見守っています…。詳しいことが分かり次第…、また連絡します…。本当に、申し訳ございません…。』
道脇君は震えるような声でそう言い残すと、恐る恐る電話を切った。
(ライスフィールドが故障…。)
太郎は会話を終えた後もしばらくの間、その場にへたり込んだまま動けなかった。
とにかく故障してしまった以上、もう有馬記念で同馬の姿を見ることはできなくなる。
これまで牝馬の集まり具合に不満があったとはいえ、これでは1頭も牝馬が来ないことになってしまう。
そうなったらシンジケートは一気にご破算となり、種牡馬としての収入もなくなってしまう。
だが、今の彼にはそんなことなど関係なかった。
もう走れなくてもいい。牝馬などどうでもいい。せめて命だけは助かってほしい。そのことしか考えられなかった。
ライスフィールドが故障したという報告は、その後太郎から蓉子や葉月にも伝えられた。
彼女らも思わぬ一方に動揺を隠せなかった。
「それで、その後厩舎の人達からの報告は入ったの?」
「いや、まだ…。」
「本当に入ってないの?ねえ、ライスフィールドはどうなったの?」
「知らないよ、そんなの。」
「ねえ、こっちから厩舎の人に電話をかけてみたらどうなの?」
「そんな勇気ねえよ。考えただけでも手が震えてくるし、怖くてかけられるもんか!」
きつめの口調で問い詰める葉月に対し、太郎も思わず感情的になって返した。
「やめなさい、2人とも!」
蓉子は大声で2人の間に割って入った。
「これは…、私達にも責任がありますね…。思えば、私達は秋天を勝った時、一旦は満足をしました。しかしその後、ライスフィールドで少しでもたくさん稼ごうという意識が働き、厩舎の村重さん達にもう1レース走らせてほしいという意見を述べるようになりました。それがライスフィールドに大きな負担をかけてしまい、今回の故障につながったのでしょう。私達が生産者の人達の意見に押されて、ついついエゴ意識を持ってしまったから…。」
そう言っているうちに、蓉子の声はどんどん震えてきた。
それ以降、葉月と太郎も言葉を失い、3人とも時が止まったように何も言えなくなってしまった。
(大変なことになってしまった…。果たしてこれからどうなってしまうのか…。でも手術を受けるということは、その場で死なずに済んだということよね…。そしてまだ連絡がないということは、今頃ライスフィールドは懸命に生きようと頑張っていることよね。思えば、カヤノキも調教中に命にかかわる重傷を負いながら無事に生還したんだから、ライスフィールドもきっと生き伸びてくれるよね…。)
蓉子は必死にそう考えながら、何とか冷静になろうとしていた。