お兄ちゃんの怒りと悲しみ
ここでは珍しく、レインフォレストの一人称で物語が進行します。
それは私が野々森牧場に放牧に出ていた時だった。
私はお兄ちゃんがフロントラインお姉ちゃんと仲良く過ごしていて、うらやましいと思っていることをママに打ち明けた。
それを聞いてママも喜んではいたけれど、どこか心配そうな表情をしていた。
『フロントライン、もう6歳だから、もしかしたらもうすぐ引退してしまうかもしれないわね。』
『えっ?引退?』
『そう。私は7歳まで現役だったけれど、牝馬で6歳と言ったら、そろそろ繁殖入りを考える時期だから。もしそうなったら、フィールドは果たして別れの辛さを乗り越えられるかどうか…。』
『別れってそんなに辛いものなの?』
『そうよ。私だって親友だった同性のスペースバイウェイと別れることは本当に辛かった。でも異性を好きになってしまえば、別れはもっと辛いものになってしまうそうよ。もしかしたら、泣いて過ごす日々になったり、荒れすさんでしまうかもしれないわね。』
『……。』
『どうしたの?レインフォレスト。』
『な、何でもない。』
あの時、ママが言っていたことは、今まさに現実となっていた。
フロントラインお姉ちゃんが引退したという知らせを受けたお兄ちゃんは『何で何も言わずにいなくなっちゃうんだよおおっ!!』と言いながら、その場で泣き崩れてしまった。
『ママが言っていたの。異性を好きになれば別れはとても辛いものになるって。きっとお姉ちゃんだって辛かったはずよ。ただ、直接さようならを言う勇気がなかっただけ。』
『これからは私がお姉ちゃんに代わって支えてあげるから。』
私がそう言って励まそうとしても、お兄ちゃんは狂ったように泣き続けていた。
もしかしたらこのまま一生泣き続けて過ごすんじゃないかと思ってしまったこともあった。
『先輩なんかと出会わなければ良かった!』
『もうフロントラインなんか嫌いだ!きれいさっぱり忘れてやる!』
お兄ちゃんはようやく泣きやんだと思ったら、今度は怒りに満ちた表情でこのようなことを言い始めた。
その後も私に向かってきついことを何度も言ったり、八つ当たりをしたりして、まるで厩舎の問題児と化してしまいそうな状況だった。
当然、ライスパディーさんやクノイチさん、クリスタルコンパス、さらには入厩したばかりの2歳馬のアヴェレジーナやトランククイーン、ヒストン達には迷惑なことで、お兄ちゃんを避けるようになってしまった。
(このままではいけない。お姉ちゃんに『フィールド君のこと、お願いね。』と言われて『うん。』と答えたんだもの、私が何とかしなければ。フロントラインお姉ちゃんは母親に対する自責の念にずっと苦しめられていたところをお兄ちゃんに救われたんだもの、私だってお兄ちゃんを救えるはず。頑張ろう。)
私は自分にそう言い聞かせながらお兄ちゃんと会話をした。
そしてかつてのお兄ちゃんがそうだったように、何を言われても決して言い返さずにじっと話に耳を傾けていた。
(異性を好きになるということは喜びだけでなく、こんな苦しみをも連れてくるんだ…。恋愛ってこんなに大変なものなのね。)
私はなかなか立ち直れずにいるお兄ちゃんを見ながら、心の中でそう思っていた。
それから間もなく、私は3歳500万下のレースに出走した。
(私が留守の間にお兄ちゃんが厩舎で何をするか、ちょっと心配だけれど、今は考えないことにしよう。私が頑張って結果を出せば、お兄ちゃんもきっと心を開いてくれる。そう信じて頑張ろう。)
中山競馬場の本馬場でウォーミングアップをしながら、私はそう考えていた。
レースは13頭立てで1番人気に支持された私は、鴨宮騎手の指示に応えながら、懸命に走った。
そして見事に人気に応え、私は2勝目を挙げることができた。
(よし、勝ったわ!これでオープン入りね!)
私は心から嬉しいと思いながら記念撮影に臨んだ。
その後のインタビューでは、厩舎の人達はライスフィールドお兄ちゃん、フロントラインお姉ちゃんに続いて3頭目の平地オープン馬が出たことをすごく喜んでいた。
それが私にとって、喜びに一層拍車をかけることになった。
その日の夜、厩舎に戻ってくると、真っ先にお兄ちゃんに勝利をを告げた。
『…おめでとう、レイン…。』
お兄ちゃんは落ち込んだ表情をしながらも、そう言ってどうにか喜んでくれた。
『ありがとう!私も頑張るから、早く元気を取り戻してね。』
私は満面の笑みを浮かべてそう返した。
正直、落ち込む相手にこう言うのはある意味複雑な気持ちだった。
でも2年前にお兄ちゃんが懸命にお姉ちゃんを元気づけるために奮闘していたことを考えると、私もへこたれるわけにはいかないと思い続けた。
そんな努力の甲斐もあったのだろう。お兄ちゃんは少しずつ立ち直ってきたようで、私との会話もスムーズになってきた。
そのおかげで、ライスパディーさんやクノイチさん、クリスタルコンパス達もお兄ちゃんに近づいてくれるようになった。
それはとてもうれしいことだったけれど、一方で私の心の中にはある悩みが芽生え始めてきた。
(お兄ちゃん、立ち直ってきてくれたけれど、もしかしたら私もあのような悩みに苦しめられることになるのかな…。だったら、あの牡馬に近づいたり声をかけたりとかはせずに、あこがれの存在のままでいた方がいいのかな…。)
私は他馬にはなかなか言いにくい思いを抱えながら毎日を過ごしていた。
厩舎の人達の話し合いにより、私の次走は端午Sに決まった。
このレースは天皇賞(春)当日に、京都競馬場で行われる3歳オープン(ダート1400m)のレースだ。
お兄ちゃんの次走は天皇賞(春)なので、私達は一緒に京都競馬場に出かけることになった。
さらに、私達は併せ馬で一緒に走ることになり、調教の時間でも一緒に過ごすことが多くなった。
とはいえ、私は前からスタートするにもかかわらず、ゴールするまでの間にいつも追い抜かれてしまう立場だった。
私がまだ成長途上の3歳馬ということも差し引いても、お兄ちゃんの脚の速さは天下一品だった。
これだけの俊足の持ち主でなければGⅠを勝つことはできないのか。いや、これだけの俊足を持ってしても長いトンネルをさまようことになるのか。
私としては、GⅠの恐ろしいまでのレベルの高さを、調教を通じて思い知らされていた。
でも競走馬である以上、私も頑張って上を目指していかなければならない。
特に私はGⅠ馬の妹という肩書きがあるだけに、なおさら勝たなければ…。
私は何とも言いようのない不安を感じながら、日々を過ごしていた。
世間ではゴールデンウィークという期間になり、天皇賞(春)と端午Sが行われる日が近づいてきた。
追い切りはいつものとおり(?)お兄ちゃんと併せ馬で行った。
私は今まで調教で手を抜いたことはないし、この日も全力で走って何とか先着しようとした。
だけど結局最後に追い抜かれてしまい、世間にはお兄ちゃんの仕上がり具合が順調だということを証明する材料になってしまった。
(私だって勝つつもりで頑張っているのに…。)
私は調教の面では悔しい思いを抱えていたけれど、一方でお兄ちゃんの表情がすっかり明るくなってきたことがうれしかった。
調教の後、私は心の中に引っ掛かっていた悩みを思い切って打ち明けてみることにした。
そして、自分にはあこがれの牡馬がいるけれど、どう声をかけていいのか分からず、あこがれの存在のままでいた方がいいのかということを包み隠さずに話した。
『へえ、レインには好きな馬がいたのか。知らなかったよ。』
『好きってわけじゃないけれど、でも大ファンなんです。』
『名前は知ってるのか?』
『知ってはいるけれど、言うのが恥ずかしい…。』
私は顔を赤らめながら、何とか打ち明けようとしたが、なかなか言えなかった。
そうしていると、ふと近くを1頭の牡馬が通りかかった。
それを見て私はびくっと反応し、さらに顔を赤らめてしまった。
『ん?レインはあの馬のことが好きなのか?』
『好きじゃなくって大ファンなんですっ!』
私は顔から火が出そうになりながら必死に反論をした。
するとその馬が私の大声に反応したのか、立ち止まってこっちを見た。
『あっ、す、すみません!あの、その…、し、失礼します。』
私は穴があったら入りたい気持ちになりながら顔をそむけ、足早に厩舎に戻っていった。
(どうしよう…。失礼なことを言っちゃった。嫌われちゃったかな?もし今度会ったら私は何をすればいいのかしら…。)
私は気がついたらその馬のことばかりを考えながら厩舎の馬房で勝手に盛り上がっていた。
でも、もしその馬と両想いの関係になったら、お兄ちゃんのようなつらい別れを私もいつか経験するのかな?
だったら、近づかずに憧れのままでいた方がいいのかもしれない。
だけど、やっぱり近づいて話がしたい。これから先にそんな未来が待っていても。
それならどうやって近づけばいいのだろう…。
結局、いくら考えても、答は出てこないままだった。
ちなみに、私の憧れの馬とは…、やっぱり読者の皆さんの前で言うのが恥ずかしいので、秘密。




