トンネル
ジャパンカップ当日、ライスフィールドのレース当日の馬体重は414kgで、前走と比べて6kg減っていた。
「うーーん、思ったよりも減ってしまったな…。少し前まで420kgくらいだったから、この調子でいけるとは思っていたんだが…。」
「まあ、元々体重が減りやすい体質だから仕方ないです。とにかく長距離輸送がなかっただけでもまだ良かったけれど。」
善郎とアキは姉弟らしく、そろって腕組みをしながら同馬を見つめていた。
その頃、オーストラリア馬のサージングクラウドにまたがっている久矢君は、近くを歩いているライスフィールドのことが気になっていた。
(あのライスフィールドという馬がカヤノキの仔なのか…。あの馬が大けがをしながらも無事に生き延びてくれて、そしてGⅠ馬の母親になったのか…。カヤ、生き延びてくれて、本当にありがとうな…。あの時、君に乗っていた人は君のことを恨んでなんかいないし、元気に過ごしているから心配しないでくれ。)
彼は8年前、まだ若手騎手だった頃に、当時3歳だったカヤノキの面倒を見ていた。
そして9月のある日、同馬が調教中に大けがをして苦しんでいる姿を目撃したことがあった。
診断の結果は重度の骨折で、一時は生死の境をさまよう程の状況だった。
しかしどうにか生き残ったカヤノキは、1年以上の長期休養を経て5歳時に復帰を果たした。
その後、7歳の春先に引退するまで、ほとんどのレースで騎乗してきただけに、非常に思い出深い馬だった。
彼は来日後、日本馬について調べていた時、ライスフィールドの母がカヤノキだということを知ってから、ずっとその馬のことが気になっていた。
そして今日、ゼッケン9番をつけた同馬を見て、感慨深いものを感じていた。
(話には聞いていたけれど、確かに小さな馬だ。でもすごく駿足で、さらにはゴール前で差し返してくる根性でGⅠを勝ち、関東の星と呼ばれた馬だと聞いている。できることならいつかこの馬に乗ってみたい。今は無理だろうけれど、いつの日か…。)
時間的にわずかではあったが、久矢君は勝負のことも忘れ、カヤノキと過ごした忘れられない日々や、その仔であるライスフィールドに出会えたことを考えていた。
だが、場内からワーッという歓声が上がり、ファンファーレが鳴り始めるとすぐに気持ちを切り替え、サージングクラウドと、同馬を応援している関係者、そしてオーストラリアの人達のために頑張ることを決意した。
レースがスタートすると、ライスフィールド騎乗の鴨宮君はあまり前に出ていこうとはせず、中段の位置取りを選択した。
先頭に立ったのは2番のアブソルートゼロで、前走の天皇賞(秋)で逃げに打って出たユーアーゼアは3番手辺りに控えた。
皐月賞の後、ダービー2着、神戸新聞杯3着、菊花賞4着ともどかしい状態が続いているトランクゼウスは先行策を取った。
ただ、外枠を利用して馬場のいいところを走ろうとしたのか、鞍上の逗子騎手はすぐに内に入ろうとはしなかった。
スタート直後はしばらくの間アブソルートゼロと並走していた3番のファントムブレインはやがて後ろに下がっていった。どうやら坂江騎手は差しの作戦で行くようだった。
ホタルブクロはライスフィールドをマークするような形で中段につけた。
そのすぐ近くを外国馬であるパーマフロストがやはりマークするような形で走り、やや出遅れたサージングクラウドは久矢君のとっさの判断で最後方につけ、1コーナーまでの間に内に潜り込む作戦に打って出た。
レースは天皇賞とは打って変わって縦長になり、ハイペースになった。
「確かハイペースの時は後方からの方が有利なはずよね?」
「うん。確かに私もそう聞いたことがあるわよ。」
「ということは、ライスフィールドに有利な展開ってことだな。」
蓉子、葉月、太郎はそう言いながら3人並んでレースをじっと見守っていた。
そのライスフィールドはやや外枠だったことが響いてか、コーナーで外を回ることになったため、コーナーワークで順位を下げていき、向こう正面に差し掛かった時には内を走っていたファントムブレインに並んでしまった。
この状況はずっと外を走っているトランクゼウスも同じで、せっかくスタート直後に先行したにも関わらず、やはりコーナーワークで中段よりやや後ろまで順位を下げてしまった。
(Oh, it seems too fast. We mustn't follow Absolute Zero.)
(速すぎるようだな。アブソルートゼロについていってはいけない。)
ユーアーゼア騎乗のベニー騎手はそう思いながら、ペースを上げたがる同馬をなだめていた。
ライスフィールドは外を回ったままファントムブレインと並んで3コーナーに入っていき、4コーナーでスパートを開始した。
(ここで動けば遠心力で外に振られていく。しかし最後の直線では不利を受けることなく、馬場のいいところを走ることができる。だから、追い込みを決めてくれよ。天皇賞で見せたあの根性を見せてくれ!)
鴨宮君はそう思いながら手綱をしごいた。
それから数秒後にファントムブレインとトランクゼウス、さらにはホタルブクロもスパートを開始し、最後の直線に入っていった。
残り500mを切ってから、15頭の馬達は内から外まで横に大きく広がり、まるで徒競争のような状況になった。
そんな中、坂に差し掛かると次第に手応えの良い馬と良くない馬がはっきりと分かれていった。
ファントムブレインとパーマフロスト、ホタルブクロ、そして出遅れたサージングクラウドは後ろから猛然と伸びていき、ぐんぐん順位を上げていった。
一方、逃げたアブソルートゼロは坂で大きく失速し、みるみる馬群にのまれていった。
大外からの追い込みにかけていたトランクゼウスは鞍上の逗子騎手が懸命に手綱をしごいているものの、思うように伸びていかなかった。
その状況はライスフィールドも同じだった。
(頑張ってくれ!頼むから伸びてくれ!最後まであきらめなかったあの天皇賞の時の根性を見せてくれ!)
鴨宮君は祈るような気持ちでムチをふるい続けた。
坂を過ぎ、残り200mを切った時点で、先頭はユーアーゼアに変わった。
このまま行くのかと思った次の瞬間、ファントムブレインがすぐ脇を通り抜けていき、先頭に立った。
(よし、まだ馬に若干だが余力があるようだ。これならGⅠ2連勝も十分に狙えるぞ。)
坂江騎手は確かな手応えを感じ取っていた。
彼の思惑通り、ファントムブレインの脚色は最後まで鈍ることはなかった。
『ファントムブレイン、2馬身のリード!もう2冠は間違いない!』
アナウンサーがそう叫び声をあげる中、ファントムブレインは1番人気に応えて堂々と1着でゴールインし、天皇賞(秋)と合せて2冠を達成した。
(勝ちタイムは2分23秒5)
2着にはパーマフロストが入り、ホタルブクロが3着。
以下、4着、5着にはそれぞれユーアーゼア、サージングクラウドと牝馬が2頭続いた。
一方、直線で伸びを欠いた2番人気のトランクゼウスと3番人気のライスフィールドはそれぞれ11着、9着と惨敗に終わってしまい、逃げたアブソルートゼロは15着とシンガリ負けを喫してしまった。
「結局このレースではライスフィールドが今までで最も悪い着順での敗戦となってしまいましたね。」
「時にはこんなこともあるでしょう。とはいえ、ファントムブレインはきっちりと勝っているわけですし。」
「あの馬を倒す前に、ライスフィールドがどのレースでも実力をフルに出し切れるようにしなければ…。」
道脇君、アキ、紅君は悔しさと懸命に闘いながら、何とか現実を受け止めようとしていた。
一方、善郎は蓉子達に謝りながら、有馬記念での雪辱を誓っている状況だった。
次走が有馬記念ということで、ライスフィールドは去年の朝日杯FS以来、1年間勝利がない状況が確定することになった。
2歳時はあれ程強かった馬が1年間にも及ぶ長いトンネルに迷い込んでしまったことは、非常に悔しいことで、まるで暗闇をさまようような気持ちにさえなった。
だが来年になればGⅠで背負う斤量が57~58kgに増えるだけに、何とかして55kgでいられる3歳時の間に勝利をつかもうという意気込みで、陣営は東京競馬場を後にしていった。
果たしてライスフィールドは暗闇をさまようような状況を抜け出し、3歳時に勝利なしという屈辱から逃れることができるのだろうか。それとも…。
3歳11月の時点におけるライスフィールドの成績
10戦4勝
本賞金:1億200万円
総賞金:2憶1120万円




