三十四話 「ヒーローが遅れてやって来ると」
「やばいな、遅刻じゃねえか…転移…は人がいっぱいいるとこだと迂闊に飛べねぇし」
昇級試験前日の朝、二度目の人生を歩む元勇者、否、未来の勇者であるエルロッド・アンダーテイカーは講義が始まっている時間だというのにも関わらず、未だ寮を出たばかりです。
程よく暖かな陽射しに涼しげな風。時間が停滞したかのようなふわふわとした空気の中、彼の中の走るという選択肢は早々に消え失せました。
急いでものんびりでも遅刻は遅刻、だらだら行くか、そう決めたのです。
もしも彼が今魔力感知を行えば、勇者育成機関で何やら不穏な動きがあることに気付けたはずですが。
「つか眠いな…ったく…ふぁ…」
よく見知った生徒達が命懸けで戦っていることなど知らずに、のんきなものでした。
―――――
「神狼ゥウウウアアアア!」
勇者育成機関のだだっ広い中庭。全生徒が整列してなおあまりある、中庭と言うには広すぎる面積を持ち、昼休みになれば生徒達が集い談笑する憩いの場。
そこは今、そんな普段の雰囲気とはかけ離れた戦場と化していました。柔らかな芝生はところどころ掘り返され、いくらか燃えている様子も見えます。
生徒達が休んでいる木陰は、影を作り出す木ごと消え失せ、見るも無残な有様です。
「ハハハハハハハハ!矮小な人の子らよ!もっと我を楽しませて見せよ!きりきり舞えい!」
いえ、これは戦場のような有様を作り出してはいますが、戦いではありません。
神狼ミハシュによる、五人の生徒達での遊戯。人外に足を踏み入れた子供たちを笑って受け流す本当の怪物は、ただひたすらに絶望を与え続けるのみでした。
「狼狽えるな!僕らの最優先は倒すことじゃない、死なないことだ!死なずに、時間か」
イム・ルッタオの言葉は最後まで紡がれることはありませんでした。この強大な白狼の方に最新の注意を払っていたと言うのに、その顎にあっさりと噛み砕かれてしまったのです。
「見えな…っ!?」
イムは不死ですから生きてはいるでしょう。しかし問題なのは速度。全力かはわかりませんが、少なくとも先程よりは圧倒的に速く攻撃を繰り出すことが可能なようです。
つまり、神狼が全力を出せば、誰にも止められないということ。イムやフレデリカ、ソーレリア、ガルテにぺネッツ。彼らが全力を振り絞り、それでも足りないと限界以上の戦いをしたところでそれは時間稼ぎですらなかったのです。
気まぐれを起こせば一瞬で消えてしまう命。それに気付いてしまったフレデリカはもう、先程までと同じようには動けませんでした。
「この男、死なずに我を留めるなどと…我の真の力を見誤るとは所詮矮小な存在よ」
ミハシュが口を開きました。吐き出されたイムは再生する気配がありません。
「っ…あ…あぁ……?」
へたりこむフレデリカと牙に裂かれて動かないイム。
ソーレリアとガルテとぺネッツの三人では手数が足りず、かすり傷が増えていくのが目に見えてわかります。
この調子ではいつか誰かが大きな一撃をもろに受けて脱落してしまうかもしれない。そう思いながらもフレデリカは、目前で暴れる死の気配に心を折られ、立ちあがる事は叶いません。
「…そこの小娘よ。戦わぬのか?仲間が一人死した、ただそれだけで戦意を喪うなど愚鈍にも程があるわ」
神狼の牙が目の前でゆっくりと開かれます。が、フレデリカにはどうすることもできません。ただ、身を任せ、死ぬのみ。
神狼をどうにかしようとソーレリア達が顔や首に攻撃を加えていますが、びくともしません。
「仲間が死したことに悲しみ、自らも死ぬこととなるなど、仲間に対しての最大の侮辱だと、そうは思わないか?」
ミハシュが語りかけてきます。しかしその声はフレデリカを立ち直らせることはなく。
むしろ今の自分の現状を叩きつけられ、思考すらままならなくなっていました。
「…つまらんものだ」
完全に口内に上半身が入った状態。今神狼が口を閉ざせば、肉体は二つに分かたれ永遠の別れを告げることになるでしょう。
「フレデリカぁあああああ!」
しかし今にも口が閉じられるというその時、横殴りの強烈な一撃がミハシュの横面に叩き込まれ、すんでのところで牙から逃れます。
フレデリカはその攻撃が飛んできた方向を見て―――嘆息しました
「…呼び捨てなのね」
「いや、フレデリカ嬢って叫ぶのも変だろう?呪詛」
そこにいたのは不死者にして呪いを操る我らが変態イム・ルッタオ。噛み砕かれ、吐き出されたその瞬間に発動された呪詛はそうと気付かない神狼にたった一つの誤作動を起こしました。
それは、イムが普通の人間のように死んでいるという幻覚。その場からぴくりとも動かないイムの姿がはっきり写っていた故に、通常の十倍近くまで膨れ上がった腕を振りかぶるイムの姿を認識できなかったのでした。
「今のは効いたぞ、男…イム、だったか」
ミハシュが口の端を少しだけニィと持ち上げ、凶暴な笑みを浮かべました。それを聞き、初めて名前を呼んだミハシュに対してヘラヘラと応えるイム。
「今の衝撃で忘れてなくてよかったよ。ところでひとつ耳寄りな情報がある」
大げさな手振りでミハシュに近寄るイム。首を傾げるミハシュに、告げます。
「僕らは単なる前座だ。このあと本当の化物がやってくるよ」
今度こそミハシュは、隠しきれない興奮に、悪魔のように牙をむき出して笑うのでした。
―――――
ゆったり、ゆっくりと歩いていたエルロッドでしたが、流石に近くまで来ると轟音や上がる煙、勇者育成機関を囲む騎士団とその影に隠れる生徒達と、なにやら異変が起きているのがわかりました。
「おい、どいてくれ。通してくれ」
エルロッドが戦いの気配を感じとり、止めるために人混みをかき分けて進みますが、人が多くて思ったように行きません。それどころか途中で騎士に止められる始末です。
「君、危険だ。今Aクラスの生徒達が戦っている、手を出すのは」
それを聞いたエルロッドは全身から魔力と闘気を吹き出します。
「俺が行く。俺が、行くっつってんだよ。どきやがれ」
エルロッドが口を開くより先に人垣が割れて道ができていました。怒りと焦りをどうにか抑え、足を大きく踏み込みました。
目にも止まらぬ速度でその場から消え失せた姿に誰かが呟きます。
「やっと来たか、彼奴め。さあて見せてもらうとしようか。その手並みというやつをのう」
勇者が中庭に到達した時、既に戦闘は終わっていました。
イムは鉄や木、よくわからない黒いものなどで地面に縫い付けられ、ガルテは魔法鉱石体化を解かれ頭から血を流し、ソーレリアとフレデリカは魔力枯渇による症状で顔が真っ赤に染まり、呻いています。もちろん傷だらけです。
「へぇ、ミハシュ、お前か。お前がこれを」
勇者がうわ言のように呟きます。その視線には鋭く静かな殺意。
「貴様、何故我の名を…いや、それはいい。只者ではないな。我の希望はひとつだ」
全身に纏う膨大な闘気を見るミハシュ。
「楽しもうではないか!矮小な人の子よ!」
「ははっ」
仲間を傷付け、平穏な日常を破壊しておいて楽しむ、前回と変わらぬその傲慢な態度にエルロッドは思わず笑みを漏らしました。
歪めた口から続けて言葉が発せられました。
「楽しむ時間なんて与えてやらねぇよ」
簡単に予測できる展開って、つまらないですよね………………。いえ、私の話ではなく…………私の話です。すみません。誰にも予測できない私だけの物語を作るために精進します。