2 不幸少女の嘆き
改めて寝転ぶと、ベッドは固くてとても眠れたものではなかった。マットレスも敷き布団も敷かれていない、薄いシーツとブランケットだけの寝台。自分が寝ているそれが、そもそもベッドなのかも紗也には判断出来なかった。もしかしたら、何か別の用途の台なのかも知れない。軋む身体で寝返りをうって、だとしたら何の為の台なのだろう、調理台ではないと良いな、と紗也は考えた。
目を瞑ると、やけに静かなことに気が付いた。射し込む光から夜ではないと分かるのに、人の声も車の音もしない。比較的治安は良い場所とセイバーは言っていたから、人っ子一人いないゴーストタウンではない筈だ。皆、働きに出ているのだろうか。夏休みなのに大変だなと思ったが、どうやらここは日本ではないみたいなので、今は夏休みではない可能性もある。
「あれ?」
紗也は思わず呟いた。一つの疑問に辿り着いたからだ。
「私、日本語喋ってる、よね」
敢えて言葉を発し、自分の耳で認識した。紗也は紛れもなく日本語で話している。セイバーとも、日本語でやり取りした。と言うより、日本語以外の言語を紗也は修得していない。
「じゃあやっぱり、ここは日本?でも、日本にいて東京を知らないなんて、いくら外国人でもないよな」
東京は海外からも人気の観光スポットだ。京都には及ばないが、訪れる異国の首都の名前くらい観光客は覚えて来るだろう。
「セイバーに京都の話を振ってみるか?いや、私も修学旅行で行っただけだし、自分で話題振っといて実はあまり知らないんです、なんてちょっと気まずいよな」
「なにブツブツ言ってんの、お前?」
「うっわあっ?」
唐突に話し掛けられて、紗也は勢い良くシーツを蹴り上げた。爪先が声の主を掠め、手に持った物を落としそうになる。「お、っと」間一髪の所で声の主がバランスを保ち、それが紗也の身体に落下してくることは免れた。
「危ねえな。何すんだよ」
赤い髪の青年だった。寝転ぶ紗也を見下ろして、不服そうな表情をしている。再び悲鳴を上げた全身の筋肉に、紗也は青年の言葉が日本語だと認識することも忘れてしまっていた。
「ご、ごめんなさい。びっくりして、つい」
「いや、こっちこそ驚かして悪かったな。寝てると思ったから、ノックしなかったんだ」
青年はばつが悪そうに紗也に謝ると、手に持ったトレイを紗也に見せた。そこには、水が入ったグラスと丸いパンが二つ乗っている。「セイバーに言われて持って来た。腹、減ってるだろ?食えよ」
「あ、ありがとう」
トレイを受け取った紗也は、とりあえず礼を言っておく。空腹は認識できなかったが、喉は渇いていた。パンはともかく、水は嬉しかった。
「セイバーはどうしたの?」
「セイバーなら、姉貴に呼び出されて行っちまったよ」
「そうなんだ。あ、えっと、私は」
「サヤだろ。知ってる。俺はレン。運良かったな、あんた」
人懐こい笑顔で、レンが言った。運が良い、なんてこの状況で言われるとは思わなかった紗也は、目を見開いてレンを見た。
「あんた砂漠で行き倒れてたのを、セイバーが拾って来たんだぜ。普通、砂漠なんかに入ったら、二度と町に戻ってくることはない。死体になってもだ」
「そうなの?」
「ああ。って知らなかったのか?そもそも、砂漠に何しに行ったんだ?」
「分からない。何で、この場所に来たのかも、全部」
紗也はトレイを傍らに置いて、水のグラスを手に取った。グラスは曇っていて、とても衛生的とは思えない。それでも、喉の乾きを癒す為に、一口だけ水を含む。ミネラル独特の風味が、絡み付くように喉を通って行った。事故に遇う直前まで居たファミリーレストランを思い出す。ドリンクバーでは、一体何杯のジュースを気にせず飲んだのだろう。
視線を下げ、黙ってしまった紗也を見て、レンは困ったように口を開く。
「あー、なんか、記憶が混乱してるんだってな、あんた。セイバーが言ってたよ」
「うん。そうみたい。自分でもよく分からないんだけど」
「無理もねーよ。ま、十日間も寝てたんだし。それだけ、身体がダメージ負ったってことだもんな」
身体を動かす度に表情を歪める紗也を見て、レンが心配そうな瞳で言った。自分を気遣ってくれることに、紗也は照れ臭くなった。見知らぬ人にこんなにも優しくされることに、慣れていないのだ。
小さく「ありがとう」と言うと、レンは歯を見せて笑顔を作った。「気にすんなって」そう、紗也の頭をくしゃりと撫でる。セイバーの優しさとは違う、だけど不思議と安心できる掌。
これを、頼もしさと言うのだろうか。こんなにも気軽に話しているのに、どこか男らしさを感じる言うか。紗也のクラスの男子には求められない、心地好い気遣いを感じる。その心地好さに身を委ねてみたい、そんなお年頃の紗也である。
頭をぐりぐりと撫で回されながら、紗也はふとあることに気が付いた。
「ストーップ!」大声でレンの掌を振り払う。
「お、なんだよ?」
「私、十日間、あの、寝てたんだよね?」
「そうだけど、それが?」
「その間、お風呂…とか。頭も洗ってないし。あんまり触られるのは、ちょっと」
正直、こんなに近くに寄られると、ニオイの方も気になってしまう。体臭に悩みを持ったことはないが、紗也も一応は花の女子高生である。体育の後にはデオドラントスプレーを浴びるように振り掛けている、女子高生なのである。突然現れた異国情緒溢れる美男や、頼り甲斐のある気さくなイケメンに、汗臭いまま撫で繰り回されて恥じらいが生まれない筈がない。
両腕を精一杯伸ばし、キープアウトの意思表示。今まで優しくしてくれた人物にこの態度はないだろうと紗也自身も思ったが、そんな紗也の道徳心は乙女の羞恥心には勝てなかった。
急に顔を真っ赤にし、慌てたように自分を拒絶する紗也を見て、レンも彼女の言わんとすることを察する。
「ああ、まあ、女の子だしな。俺は別に気にしねーけど、そう言う問題じゃねーんだよな」
気まずそうなレンの物言いに、紗也はもぞもぞとブランケットを引き寄せる。「うう…」と呻きながら、そのままカタツムリのようにブランケットにくるまり丸くなってしまった。
「と、とりあえず、食え、な?食い終わったらシャワーあるトコに案内してやるから」
「シャワー?」ブランケットの隙間から、チラリと視線だけ送る紗也。
「ああ。そんで、さっぱりしたら外の空気でも吸いに行こうぜ。色々見て回ったら、なんか思い出すかも知れねえし」
思い出すも何も、紗也は混乱していると言うだけで、別に記憶喪失と言うわけではない。そう伝えようとして、やめた。レンにとって、紗也がどんな状態なのか細かく説明しても意味はない。紗也を外に連れ出し、気分転換させることが重要なのだ。
優しいな、と改めて赤い髪の青年を見る。人懐こい深紅の瞳とかち合い、思わずブランケットを閉じ合わせた。そのままカタツムリの状態で、食事を終えた紗也なのだった。