1 不幸少女の始まり
今にして思えば、あの時の自分は浮かれていた。今なら、冷静にそう分析できる。痛みすら感じない暗闇のなかで、阿嘉月紗也は考えていた。視覚も聴覚も感覚もないが、思考だけは残されている状態。宙に浮いているのかも知れないし、水のなかに沈んでいるのかも分からない。そんな状態。最も新しい記憶は、迫ってくる救急車のサイレンと、男性の叫び声。自分は道路に倒れていたが、痛みはなかった。それよりも、固いという寝心地と、制服が汚れてしまわないかが気になっていた。学校帰りだったのだ。
一学期の終業式を終えた紗也は、炎天下のなかを軽い足取りで帰っていた。明日から夏休みだ。期末テストという試練を乗り越え、待ちに待った夏休み。学校近くのファミリーレストランで、友人と昼食をとりつつ八月いっぱいの予定を立てた。お互いに彼氏がいないことを慰め合いながら、ドリンクバーを最大限に利用した。友人と別れ、ファミリーレストランを出たのが午後の二時。日が暮れるまではまだ時間があるし、一度帰宅してから、暑苦しい制服を着替えて買い物にでも出掛けようか、まだバーゲンセールがやっていた筈、そんなことを考えながら近道の路地裏に入った。
視界の悪い細い道だが、紗也にとっては慣れた道。幼稚園の頃から通っていた、自宅への一番の近道。車の通りも少ないし、日陰が多くて大通りよりはいくらか涼しい。その涼しさが、紗也の意識を更に浮かれさせた。夏休みの課題が入った鞄が唯一紗也の気分を重くするが、今日は深夜まで遊んでしまおう。課題は明日から頑張れば良い。なんたって夏休みなのだ。
夏休み、なんて良い響きなのだろう。踊り出したいくらい気分が軽い。いや、往来で踊るのは駄目だ。ご近所さんに見られでもしたら、恥ずかしさのあまり向こう一ヶ月引き込もってしまう。それでは夏が終わってしまう。せめてスキップで留めておくべきか。スキップくらいなら大丈夫だろうか。そんなもの小学生以来していない。どんなステップだったっけ。足の筋肉と膝の間接を緊張させ、イメージを固める。よし、やるぞ。右足に体重を乗せ、左足を踏み込もうとした瞬間だった。
鼓膜を貫くような自動車のクラクションの音と、背後からの衝撃。見たこともない速度で、視界が変わってゆく。身体が地面に叩き付けられても、現状を理解することは出来なかった。
意識が戻ったのは、つい先程のこと。暗闇のなかで、車にはねられたのだな、と自分に降り掛かった災厄を実感する。意識と言っても、身体に感覚が戻っただけ。自分の輪郭を認識しただけだ。やけに静かだった。聴覚が機能していないのかも知れないな、と紗也は考えた。自分の状態について分析出来る程度には、論理的思考は戻っている。視界が暗いのは、瞼を閉じているから。
目を開けるのが億劫だった。夏休み直前に交通事故に遇うなんて、不幸としか言いようがない。最悪、クラスの笑い者。ネガティブな単語ばかりが脳内に羅列される。ただ一つだけ、痛みがないことが救いだな、と紗也は自嘲した。顔の筋肉がひきつった。唇の粘膜が渇いて、破れるような小さな痛み。痛覚がないわけではないらしい。
(ああ、最悪だな)
指先を動かすと、爪で繊維を引っ掻く感触があった。病院のシーツだろうか。それにしては、背中が固い。まさか道路に倒れたまま、放置されたのか。いや、救急車のサイレンは聞こえていた。搬送されなければおかしい筈。
もしかして、救急車は偶々、別の現場に急行中に通り過ぎただけだったのだろうか。自分を轢いた運転手は、紗也を捨て置いて逃げたのだろうか。轢き逃げ、という犯罪に、紗也は巻き込まれたのだろうか。いや、身体は大きな布にくるまれているのが分かる。轢き逃げた犯人が紗也の身体を簀巻きにするとは考えられないので、轢き逃げではなくどこか別の場所に紗也を捨てたのかも知れない。死体遺棄。感覚が戻ったばかりの掌に、じっとりと汗が滲む。
目を開けなければならない。現状を把握しなくては。そう言えば、今は何時、いや何月何日なのだろう。どのくらい意識を失っていたのだろう。事故現場に捨て置かれたままならば、そう時間は経っていない筈だ。
息を潜め、寝転んだまま小さく握り拳を作る。よし、と心の中で意気込んで、紗也は瞼をゆっくりと上げた。不自然な程、ゆっくりと。
「目が覚めたか?」
至近距離から、聞き慣れない男の声。低く、静かな声は聞き取りにくくもあったが、紗也の鼓膜をはっきりと揺らした。顔を横に向けると、男の黒いコートが見えた。視界の高さで、紗也はベッドに寝かされていると判断した。ベッドの隣の椅子に、男は足を組んで座っている。足が長い。身長もかなり高そうだ。
(綺麗な顔)
ただ、そう思った。銀色の長い髪が床に届きそうで、滝のようにきらきら光っていた。堀が深い、目鼻立ちのはっきりした顔立ち。日本人とは思えない。この男が、自分を轢いたのだろうか。だとしたらラッキーだな、と紗也は不幸の中に幸いを見付けようとした。元来、ポジティブな考え方の持ち主である。
「死んでいなくて何よりだ。十日間も寝ていたのだからな」
「とぉっ……」
十日と言う数字を聞いて、紗也は勢い良く身体を起こした。凝り固まった筋肉が軋み、激痛が走る。急に叫ぼうとした為、弱った声帯が悲鳴を上げた。紗也が踞り咳き込むのは、当然の結果である。
涙すら浮かべながら噎せ返る紗也に、男は呆れたように肩を落とす。
「急に動くからだ」
「だって、十日って…ゲホ…私、夏休み」
激しく咳をすると、その振動で腹筋と背筋が痛む。踞ったままの紗也の背中に、温かなものが触れる。男の掌だった。呼吸に合わせて大きく上下する紗也の背中を、男の大きな掌が優しく往復する。
「ゴホっ…ありがと。ちょっと落ち着いた」
荒い呼吸が深呼吸に変わり、漸く通常の呼吸に戻る。その時になって、紗也はやっと自分が置かれている状況を確認した。
「ここ、どこ?」
思わず呟いたのは、紗也の知識の中にある環境から、現状が逸脱していた為である。
鉄筋が剥き出しの壁。砂埃で汚れた窓。カーテンはない。射し込む陽光は柔らかく、眩しいとは思わなかった。
四角い部屋だった。手を伸ばせば部屋に置かれている物全てを取ることが出来そうなくらい、小さな部屋。春休みに、大好きなバンドのライブに遠征した際に利用したビジネスホテルよりも、更に狭い。壁紙はなく、絨毯も敷いていない。壁は所々湿気が溜まり、建材が変色している。古い建物なのか、管理が行き届いていないだけか。少なくとも、清潔な空間とは思えなかった。
病院ではない。その結論が、死体遺棄の可能性を強くする。しかし、生憎今の紗也は、まだ死体ではない。
「あなたが、轢き逃げ犯?」
紗也が男を見ると、端整な顔立ちが少しだけ斜めに傾く。銀色の髪がさらりと流れた。
「何を言っている?」
「違うよね。うん、そんな気はしてた」
訝しげに顔を顰める男を見て、紗也は何故か安心する。卑劣な犯罪行為をする男に十日間も寝姿を見られていただなんて、生きた心地がしないからだ。
この男は遺棄された紗也を保護し、介抱してくれたのだ。
「疑ってごめんなさい。あなたが助けてくれたのね、ありがとう」
「言っていることが分からない部分もあるが、礼は受け取っておこう」
「ここは何処?病院ではないみたいだし。十日も寝てたなら、お母さんに連絡してあるのかな」
「この階層の病院は機能していないからな。ここは第十三地区だ。第七階層の中では、比較的治安も安定している。残念ながら、お前の家族に関しては把握できていない」
「は?」
「だから、お前の家族は…」
首を傾げて聞き返す紗也に、男は低く繰り返す。
「そこじゃないって。えっと、ここが何?都内じゃないの?」
「とない…地区の名称か?第七階層に呼び名のある地区はない筈だ。…何処の出身だ?」
紗也はますます首を捻って男を見る。理解できない単語ばかりで、顔の筋肉がひきつるのが分かった。
「東京だよ、知らない?あれ、ここ、もしかして日本じゃない?私、海外に捨てられたの?」
不安と焦りで、口調が速く、声量が小さくなる。紗也の頭の中は、男から情報を得ることよりも、男と情報を共有し、安心したいと言う欲求に満たされていた。
混乱で泣き出しそうな紗也の表情を真っ直ぐに見詰め、銀髪の男は肩を落とした。それから、先程よりもゆっくりと優しい口調で話始める。
「かなり混乱しているようだな。無理もないか。落ち着く為の時間が必要なら、私は席を外そう」
「待って、一人にしないで」
「十分で戻る。水と、何か食べる物も持って来るよ。病人が口に出来る物が有れば良いが」
言いながら、男は立ち上がる。ベッドに踞ったまま不安気に見上げる紗也に微笑んだ。
「名前は言えるか?」
「…紗也」
「サヤ、良い名だ。私はセイバー」
「セイバー、嫌だよ。一人にしないで」
セイバーの黒い服に縋る紗也。握り締めたそれが彼のマントだと気が付く前に、セイバーの掌が紗也の指先に重なった。
「落ち着け。私はすぐに戻るから、少しだけ静かにして待っていろ。出来るな?」
優しく囁くセイバーに、泣きそうな紗也が頷く。「良い子だ」そう言って、セイバーは紗也の頭を撫でた。
男の人に頭を撫でられるなんて、いつ以来だろう。小学生の頃、担任の先生に褒められた時以来じゃないだろうか。あの時は、頭を撫でられることでこんなにも安心できるなんて、考えもしなかった。
セイバーの背中を見送り、廊下に繋がる扉が閉ざされるまで、紗也は触れられた箇所の熱を感じていた。