明日は今日よりきっと楽しい
友里と美希との三人で、あたしたちはお昼休みを満喫していた。お弁当の後にコンビニで買っておいたプリンを食べるのが、とてつもなく幸せな時間だから。
二人とも「カロリーが……」、なんて言っているけれど、いつも隙を見てはプラスチックのスプーンを引っ手繰ってくる。あたしも負けずと彼女たちのお菓子を強奪した。手が脂っこくなるのさえ、何故だか楽しい。日常だという感じが十二分にして、何かと振り回されがちな高校生には、きっと必要不可欠のものとさえ思う。
「そういえばさ、伊藤君とはどうなっているのよ」
と、友里がプリンに言った。違った、プリンを見ながら言った。スプーンを取られないように、しっかりと口に加えながら首を横に振る。
「ええー、別れたとか」
今度は美希がスプーンに言った。あたしは仕方がなくスプーンを手に持ち、最後の一口を収めてから、二人の額にチョップをかましてみた。もちろん、空いている左手でのヒットアンドアウェイ。
「元々付き合ってないし、なんで、あいつとくっつかなきゃならないのさ」
そうだ。伊藤拓海の名前が何故出てくる。拓海はただの腐れ縁である。ただ、家が隣同士で、ただ、二人の両親が超の三倍くらい仲がいいだけだ。
小学生までは、夏祭りなんかは二つの家族揃って出かけていたし、何処かへ旅行するときも連れ立っていたりしたけれど、それ以上でもそれ以下でもないと、あたしは頑なに言い信じている。幼馴染だからだといって、二階にある部屋の窓から窓へ飛び移ってくることはなく(辞書を二刀流で構えると、あいつは途中で諦めた)、毎朝学校に一緒に行くという阿呆な行為も、わざと寝ている振りをして(カーテンを閉めたまま家を出たせいで、母さんに怒られた)、成立させないようにしてきた。今では努力しなくても暗黙の了解となっているために、快適な生活を送ることできている。
一つ言っておこう。ここまで避けているからといって、仲が悪いわけではなく、あいつが嫌いなわけでもない。じゃあ、何故かといえば、お互いの親には、あたしたち二人を大学卒業後に結婚させるという魂胆があるからだった。
ふざけんな、と言ってやりたい。二人の人間の人生をそう決め付けていいのか、と耳元で叫んでやりたい。
拓海は、そのことを知らない。少なくとも二人の間にそんな話題は一回も出てきていないから、向こうの両親はまだ言っていないのだろう。
あたしは、そんな勝手な都合に振り回されたくはなかった。自分の相手は自分で見つけるし、まだちゃんと誰かに恋をしたこともないのだ。
漫画とか小説とかドラマとか、あんな嘘っぱちのようなものでもいいから、と、あたしは恋を求めていた。
「あ、噂をすれば」
美希の声が届くと同時に、思わず顔をあげていた。その勢いのまま廊下のほうへ振り向くと、何人かの男子が談笑しながら、教室に入ってきた。
その中に、あいつがいた。帰宅部の癖に、身長は百八十センチを超えていて、球技大会の時にはあのサラサラヘアーを汗でべたつかせながら、女子の声援を一身に浴びるあいつ。勉強だって何故かできるし、生徒会なんていうものにも入っていた。会長じゃなくて副会長というところがネックなのだろう、仕事なんてやっているところは見たことないから楽そうだった。
一言で言えば、才色兼備。母さんの言葉を借りれば、子どもは拓海君に似てほしいわねぇ。
体の堅さのせいなのか、あまり回らない首がついに痛みを帯びてきた。手にパックの牛乳を携えて輝いている拓海から視線を外し、他の男子を見てみる。
が、拓海の周りにしかオーラは見あたらなかった。悔しいけれど、母さんの言うことを認めざるを得ない。
まぁ、しかし。
女のあたしと容姿まで比べるのは、いささか無神経すぎやしないか。
あたしは顔の向きをすぐに直して、友里と美希に他愛の無い話題を振った。しかし、その返答を舌に乗せたまま、美希は口を閉じようとしなかった。友里に至っては、何故か席を立っていて、美希の細い肩に後ろから手を置いて何やらにやついている。
二人の視線を辿る先に、さっきまで友里が座っていた椅子があった。その背を大きな手が掴んだかと思うと、そこに拓海が腰を落とした。
牛乳パックをとんと机に置き、無言で笑いかけてくる。あたしはその胸倉を掴んで立ち上がり、教室の隅、掃除用具入れまで拓海を引きずっていった。クラス中の視線が集まったって、知るもんか。この光景はもはや月例行事だ。
「ねぇ、伊藤君?」
「なんだい、大木さん?」
「ふざけてんの……? 何度も何度も言っていたことをどうして破る」
拓海にはひとつ、学校では絶対近づくなと約束をしている。
「それなら愛子だってさ、この前一人で帰ったじゃねえか」
そして、拓海にひとつ約束させられてしまった。幼馴染チックな行動と学校での接触を避ける代わりに、帰りは一緒に、というものだった。
正直言って意味が分からない。
言い訳するのも癪だし、実際にそう思っていたのだから包み隠さず言ってやる。
「一緒に帰りたくないの。メリットが無い」
身長差のためか上目遣いに見えてしまうのを防ぐため、眉間に皺を寄せて睨んでみた。拓海はさほど気にしていないようで、口の端を持ち上げながらぼそりと言った。
――俺にはメリットがあるんだけどな。
そう聴こえたので、思わず顔を上げてしまった。目が合うと、彼はにんまりと笑った。
「お前と一緒にいれば下手に告白されずに済むんだよ。いっつも待ち伏せ喰らってっから、断るのがだるいだるい。ま、今日は頼むよ」
拓海の手があたしの頭の上に置かれる。ああ、だから、それをやめろって言ってんのに。
彼の鳩尾に思い切り拳を叩き込んでやり、あたしは自分の席に戻ることにした。
女子からはおかしな、あるいは殺気を含んだ視線を当てられ、男子からは特に興味なさそうなそれをいただく始末。付き合っていると思われているのならば、男子なんか当然こっちを向くはずも無く、女子からはいい男友達は紹介されず。
前言撤回。あたしは伊藤拓海が大嫌いだ。
午後の授業は一コマだけだった。選択制となってからは、六時間目に何にも入れないことでさっさと帰れるようにしていた。
使われない教室に入ると、美希が窓越しに空を見ていた。久々に晴れたせいか、秋だというのに何故か暖かい。太陽の光は、美希の元々柔らかい髪の毛を薄茶に染め上げ、私は何となく親指と人差し指でフレームを作っていた。
「愛子……? なにしてんの」
「んー、心のアルバムに入れとこうと思って」
くすりと笑う美希が、すぐ側にあった椅子を引く。そこを二回叩いたので、あたしは文字通り手作りのフレームを閉まって近づいていった。
「このあとはいつも通り、斉藤さんの授業?」
「うん。今日は必修のほうで全然進めなかったから、腹いせに抜き打ちとかあるかもしんない」
「うっわ、最悪じゃん。授業できなかったのは、遅刻してきた自分のせいだってのにね」
「まぁ、すぐに呼びに行かなかった私たちの過失じゃない?」
言葉とは裏腹に、美希はいたずらっ子のような笑顔を見せた。そっちの気があるわけでもないのに、なんだか持ち帰りたくなってしまう。
「その理屈だとさ、救急車呼ばなかったら殺人罪ってことになるような……」
すると、美希は舌を出した。なんだ、そのリアクションは、と突っ込みたいところだけれど、違和感ないから許すことにした。代わりに、彼女の額にチョップを置いてみる。
美希と語らうのも、日常になってしまった。早く帰ろうと思っていたけれど、いつの間にか彼女と話すのを優先していた。彼女は理系で、六時間目にもびっちり入れている。だから、始まるまでの十分間しか話さない。他の時間よりもすごく濃密だと、あたしはひそかに思っている。
今日一日あったことを二人とも知っていることなのに、もう一度笑いながら話した。さっきの斉藤さんの話もそうだけれど、先生それぞれの個性は授業を面白くするには十分で、絶対にひとつはポカをやらかしてくれるから、話題が絶えることは無い。授業間の休み時間だけでは全然足りず、帰宅してからもメールで続いてしまう。
日が陰り、肌寒さに窓を閉めようかなと思っていると、美希が目を伏せてこう言った。
「ほんと、伊藤君と愛子は仲がいいね」
さらに満面の笑みを向けてきたので、あたしは反射的に俯いた。照れくさくも何にもない(むしろ、彼女の可愛さにまたしても照れたけれど)から、いつもの通りに否定し、弁明の言葉を重ねようと顔をあげる。
美希は、ふっと窓の外を見た。一分ほどしてあたしに視線を戻したけれど、美希の表情は何処か寂しそうだった。笑っているのだけれど、それは顔の筋肉を無理やり動かしているみたいで、見ているあたしも苦しくなった。
「あたしさ、愛子のこと好きだよ。だからさ、応援したいし、祝ってあげたいし、一緒に喜びたい」
「美希? だけど、ほんとうにあいつとは……」
「嘘つかないで」
まだ美希は笑っていたけれど、そのまま涙を零した。あたしは何を言っても無駄な気がしたからか、俯いて下唇を軽く噛んでいた。
「付き合ってもないのにさ、あんなに……あんなに楽しそうに笑うはずないじゃん。あたしと話しても、伊藤君はあそこまで笑ってくれない」
もう笑っていなかった。両手で顔を覆うと、声を押し殺して泣きはじめた。
美希は可愛い子だ。黙っていたって半年に一回は告白されるし、彼女から恋の相談を受けたときは、十中八九彼女の勝ち戦だったりもした。
「ごめんね」
美希はそう言って、鞄を持って教室を出て行った。まだ泣き止んでいなかったし、あの状態では授業には出ずに帰るのだろう。
落書きが施された机に、額をぶつけてみる。ごちんと、地味な音だけがあたしをいっそう空しくさせた。その体勢のまま、あたしは「ちくしょう」と呟いた。握りこぶしを作っても、ただ震えるだけで何処にも飛んでいかなかった。
チャイムが鳴る。そういえば、理系の彼女は拓海と同じ授業だったはずだ。
心配してあげてくれないかな、と密かに思った。無差別に告白されて嫌ならば、美希と付き合えばいい。美男美女できっと絵になるのだろうし。
拓海の用心棒に使われているせいで、まさか美希までも斬って捨てることになるなんて思ってもいなかった。彼女のことだから、明日にはいつもどおりのお昼休みを過ごせるだろうけれど、それは今までとは違うものだ。
気が付けば泣いていた。拓海のせいで、彼女は傷ついて、あたしは何かを失った。無性に悔しかった。腹が立った。拓海の、せいで……。
視界の隅で何かが動く。
次第に大きくなってきたそれは、あたしの側に来るとため息をついた。
「一人きりで何してんの」
「別に……。拓海、授業は?」
「あー、先生休みで今日はなし」
あたしは顔を彼に向けて、やつと同じようなため息をついてみた。
「斉藤さんの授業、うちのクラスであったじゃん」
どうでもいいだろ、という言葉とともに、拓海は椅子の横にあった鞄をひょいとあたしの背中に乗せてきた。
「帰るぞ」
美希の顔が脳裏をよぎる。綺麗な泣き顔。頬を伝う涙。しかし、ごめんね、という彼女の謝罪はあたしに届いておらず、まだ空気中を漂っている。
背中が軽くなった。拓海があたしの鞄を持って、教室を出て行こうとしていた。仕方なく、ゆっくりと立ち上がった。戸のところから、彼はこちらを見ている。
何でこんなことになってしまったのだろう。考えても考えても、答えは出そうになかった。一度拓海のせいにしてしまったけれど、彼が悪者になってしまうのは、何故か嫌だった。憎んでしまえば、あたしの望みどおりようやく離れられるというのに。
文字通り足を引きずりながら、彼の後ろを歩いていく。いつもだったら、あたしが先頭に立っているからか、何処か違和感があった。
正面玄関から出て、彼の当初の目的の通り裏門に向かう。あらかじめ教室の窓から確認していたのか、正門には五六人の伏兵がいることはわかっているらしい。
途中、駐輪スペースから少しグラウンド側に置いておいたあたしの自転車を拾った。拓海の自転車は拾えなかった。珍しく、見張りがいたせいだった。
自転車を傍らにしても、あたしは拓海の後ろにいた。落ち葉を踏みしめると、音を立てずに崩れ去っていくようだった。チェーンの回る音だけが、ゆっくりと空気に溶け込んでいく。
吐く息がいつの間にか白かった。黒い雲が出てきたせいか、急に気温が落ちたのだろう。
あたしは前にも似たような光景を見たことがあった。それがいつ、どこでかは分からないけれど、先程の違和感と同じもので、懐かしくさえあった。
彼の背中が近づいてきた。あたしはそれが何を示しているのか気付かずに、思い切り前輪をぶつけてしまった。よろめく彼が一度だけあたしに振り返り、憮然とした表情でまた前を向く。
背伸びして肩越しに見てみると、どうやら裏門にも三人の女子が張っていたということだけ分かった。
「伊藤先輩、どうして避けるんですか。どうして、何も聞いていくれないんですか?」
三人の中で、一番背の低い子が今にも泣き出しそうな表情で言った。あたしはため息をついて、傍観を決め込むことにして、スタンドに蹴りを入れる。その音に肩をびくつかせた彼女は、他の友達に見守られながら懸命に言葉を紡いでいった。
「見えないところで捨ててもらっても構いません。だから、手紙だけでも受け取ってもらえませんか」
拓海は逡巡したように頭を掻いていたけれど、最初から答えは決まっていたようだった。
「……ごめん。それでも、無理だわ」
拓海を酷い奴とは思えなかった。彼女がストーカー並みにしつこいのではないのか、そうとさえ思った。彼が最初に言い淀むのは嘘をつくときだけだから、きっと彼女の気持ちは嬉しいのだろう。
愛子、行こう。こちらを見ずに言った拓海は、ゆっくりと彼女たちの横通り過ぎようとした。あたしもスタンドを蹴り上げて、あとに続いた。
「ちょっと待ってください。めぐみが、女の子がここまで言っているのに、無理って何ですか? 駄目だっていうのは最初から分かっているんです。気持ちだけでもっていうのは、そんなに望んじゃいけないことなんですか」
彼女の、向かって右の友達が拓海の腕を掴みながら、叫んだ。彼女――めぐみちゃんはもう泣き出してしまっている。
拓海はその子を一瞥すると、腕を振り払って何も言わずに歩き出した。すると、どういう思考回路が働いたのか、その子はあたしを睨んだ。あたしは彼女たちを横切れずに、ちょうど拓海とのあいだに壁を作られたようになってしまった。
「付き合っているわけではないんですよね。なんで、一緒にいるんですか。あなた、伊藤先輩の何なんですか」
「何って……」
さしずめ蛇に睨まれた蛙だろうか。ただ幼馴染だと言えばいいのにもかかわらず、あたしは言葉を探し続けてしまった。
めぐみちゃんが、もういいよぉ、と蛇女の腕にすがる。ちっともよくない、と蛇女が言う。拓海は拓海で、介入すべきかどうか悩んでいるようだった。彼の口から下手な言葉が出ることにより、あたしの怒りを買うとでも思っているのだろうか。
「なんでもないなら、伊藤先輩から離れてくれませんか。伊藤先輩がめぐみの気持ちを汲んでくれないのは、あなたのせいなんだから。
めぐみのほうが何倍も可愛いのに……、全然女の子らしくないくせにあなたがいるから」
あたしの耳にその言葉が届くや否や、何か形のくっきりしないものが走馬灯のごとく浮かんできた。眩暈とともに、手から力が抜けた。支えを失った自転車が、ゆっくりと地面に受け入れられる。
何故か目頭が熱くなった。あたしは俯いて、思い切り握り拳を作っていた。俯いたまま、走り出していた。彼女たちの脇を抜け、拓海を突き飛ばして。
美希も、同じことを思っていたのだろうか。
何処を目指すわけでもなく、ただひたすら走り続けた。
錆び付いてるためか、どんなに静かにこいでも音が鳴ってしまう。その金属音が追い討ちになっていそうな気がして、あたしは地面に足を突いた。ブランコの慣性だか遠心力だかが、あたしを押し出そうとしたけれど、必死で堪えた。
なかなか動いてくれない雲はさらに厚みを増していた。雨が降らないほうがおかしいくらいの空気だった。公園には当然あたし一人しかおらず、他にあるものといえば砂場に置き去りにされた赤いスコップとバケツだけだった。
涙はとっくに止まっていた。たぶんあたし自身が傷ついたことよりも、拓海があたしの邪魔なんかではなく、あたしが拓海の邪魔だったという事実に驚いたのが大きいと思う。それによって、少なからず美希の恋路にも立ち塞がっていたのだし。
「やっぱ、ここだったな」
聞き覚えのある声に顔をあげると、拓海が自転車を押しながらあたしに近づいてきていた。自転車は紛れも無くあたしので、鞄だけ持ってくれば良かったのにと思ってしまった。ありがとうの言葉がすぐに出てこない自分に、少し落ち込んだ。
「どうしてここが分かったの? あたしだって、気が付いたらブランコに乗っている感じだったのに」
「まじで? 昔、よく来ていたってこと覚えてないんだ?」
昔……。
そうだ。あたしは小学生四年生くらいのときに、男子にからかわれたことがあった。中性的な顔立ちの拓海と一緒にいることが多くて、あたし自身スカートを全くはかない子だったこともあいまったのだろう。一部の男子は、あたしの二人称を「男女」と称した。
無視しても、無視しても、時には箒で叩いて止めさせようとしたけれど、彼らは性懲りもなく呼び続けた。
その度に、あたしはいつも寄り道をして……ああ、そうだ、拓海が迎えに来てくれていたんだった。
「あん時からだよな、俺のことを学校で避け始めたのは」
彼の寂しそうな笑顔に不覚にも涙腺が緩んだ。あたしが拓海と一緒にいたくないと感じたのは、言われてみれば、母さんから例の企みを聞く前のことだった。家では普通に話すし、旅行だって一緒に行くのは嫌ではなかったのだから、自分自身がこれ以上傷つかないために避けていたとしか思えない。
あたしの膝に鞄がぽんと置かれる。落ちそうになったそれを、慌てて両手で捕まえて力強く抱きしめてみた。何年も前に、拓海の誕生日プレゼントとして買った香水の匂いがした。拓海に合うものは、と懸命に選んだ匂いはマンダリン。まだ使い切ってなかったのか、なんて野暮な考えは不思議とすぐに消えてしまった。彼が同じものを買い続けているという話は、母の長電話を盗み聞きして知っていたから。
「あいつらには、俺が説教しといたから」
「なんて」
「当たる相手を間違えているだろ……それと」
言い淀んだ彼を促そうと、顔を上げてみた。目は合わなかった。思い切り横を向いていた。立ち上がり、二三歩の距離をゆっくりと縮め、拓海の顔を覗き込む。
「それと?」
「俺のことを悪く言うのは構わないけど、あいつを今度泣かしたら、俺がお前らを泣かしてやる」
鳩が豆鉄砲を食らった。そんな感じだった。あたしはその意味を慎重に噛み砕いてから、思わず口にしていた。
「……いじめっ子」
言った途端、なんだこのやり取りは、と背中がこそばゆくなってしまった。照れ隠しに声を出して笑ってみる。彼が八年前にあたしに言ってくれた言葉は、「あいつらが愛子を泣かしたら、俺があいつらを泣かしてやるから。ぜったいに、我慢すんなよ」だった。やはり、あの時もあたしたちは公園にいた。
「帰るぞ」
「うん」
自転車のスタンドが心地いい音を出しながら、跳ね上がった。あたしの自転車だったけれど、彼が乗った。あたしは慌てて後ろに乗った。迷ってから、サドルを両手で掴む。
柔らかい土に苦戦しながらも公園を出て、信号のない道路のど真ん中を右に左に揺れながら走っていった。しばらくしてから、拓海は静かに言った。
「俺さ、新田に告られたんだ」
「美希に?」
「そう、しかも昨日。だからさ、今日六時間目にあいつが来なくて、その前に愛子と話しているのを見て、ああ、こりゃ何かあったなって」
あたしは黙って聞いていた。何故かは知らないけれど、拓海が美希を振ってくれたことに少しだけ安堵していた。
「彼女はいないけど、好きな人がいる、って言ったんだ。そのときに、妙に悟った顔をしてたしな」
どう言い返したらいいかわからなくて、携帯を開いた。新着メールの表示をクリックすると、美希からもメールが来ていた。拓海からも来ていることに気が付いた。慌てて待ち受けに戻す。
拓海がブレーキをかけた。止まってから、反射的にあたしは自転車から降りた。
まだ家に着いたわけではないけれど、五十メートル前方に同じデザインの家が二軒並んでいるのが見えた。
「何か言われると困るんだろ。先行け」
そう言って、彼は自分の鞄だけ籠から取り出した。あたしは拓海から自転車のハンドルを受け取り、何度も何度も振り返りながら歩いた。
「早く行けよ。俺が帰れないだろ」
右手の甲で、しっしと追い払う仕草をしてきた。彼は、先程の言葉の意味を分かっていないのだろうか。どうにかこうにかポーカーフェイスを気取っているあたしは、ただの馬鹿か?
深呼吸した。なのに、心臓の鼓動は早くなる。
もう少し近づけば、どちらかの両親に聞かれてしまうかもしれないから、とすぐに決心を固めた。
「明日の朝!」
「それがどうした」
「あたしは、七時四十五分に家を出るから。わかった!?」
急いで自転車に乗った。たかが数十メートルの距離だから乗る必要はなかったけれど、彼に追いつかれてポーカーを挑まれたらきっと簡単に負けてしまう。下手をすると、自分から手札を喋ってしまうかもしれない。
おう、と大きな声があたしの背中に飛んできた。最後にもう一度だけ振り返ると、拓海は近くの電柱に額を何度もぶつけていた。
玄関のドアを後ろ手に閉めて、誰もいないことを確認したあたしは、堪えていたぶんまで思いっきりにやついてしまった。