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  作者: 霜月栞那
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5

「ユキ、尚貴さん呼んできてくれる?」

「はーい」

ダイニングからのお願いに応え、之路は読みかけの本をテーブルに置いた。ソファから立ち上がり、こちらに背中を向けてキッチンで格闘する蒼に声をかける。

「入っても平気なの?」

「ノックして、返事があったら大丈夫。もしなかったら戻っておいで。たぶん資料とにらめっこしてるから反応はあると思うけれど」

笑って送り出された之路は、リビングから少しだけ離れた場所にある尚貴の仕事部屋へと向かった。

忌まわしいあの日から数えて十日。その間に起きた之路の周囲の変化はめまぐるしいものがある。

振り払ってもめげずに手を差し伸べ続けてくれた蒼。彼があの優しい声でユキと呼ぶのを嬉しいと思うようになった。

突然泣き出した之路を放り出すこともせず、それどころか寝入るまで胸を貸してくれた尚貴。彼に容赦なく頭を撫でられるのには、まだ少し緊張してしまう。それでも、彼の掌から伝わる感情は之路の呼吸を楽にさせる。

彼らにはどんなに頭を下げても感謝しきれないと思う。

「……最初が最初だもんな」

思い返すと、蒼にも尚貴にも情けない場面ばかり見られてばかりだ。

それなのに彼らは、柔らかく穏やかなその空気を変化させることはなかった。初対面で人一倍手間がかかるというのに、腫れ物のように扱うでもなく一人の人間として之路に接してくる。

それに気づいた之路もまた、意識を少しずつ変え始めていた。

他人に対する恐怖がなくなったわけではない。彼ら以外の人間と対峙することを考えれば、きっと身震いが止まらないだろうとも思う。心に植え付けられた恐怖心はなくなってはいないのだから。

全ての人間があの男たちと同じではない。

少なくとも彼らだけは違うと言い切れる―――と思うようになった。


「尚貴さん」

蒼に言われた通り、ノックと扉越しに名前を呼んでみる。すると、唸るような声が中から返された。

恐る恐る扉を開けた途端、煙草の煙が容赦なく之路に襲いかかる。思わず咽ていると、その音に気がついた尚貴が慌てたように近づいてきた。

「ご、ごめ……っ」

「馬鹿、いいから廊下に出ろ」

押されるがまま廊下へ戻ると、後を追って出てきた尚貴が煙を中に閉じ込める。涙で滲んだ視界の中で、彼の手が之路へと伸ばされるのを見つけた。触れる瞬間、之路は心のうちで呪文を唱える。

これは、尚貴の手だから、だから、大丈夫。

背中が強張っているのは咽ているからだけではないと彼も気づいているだろう。だが、彼は何も言わずゆっくりと丸めた背中を擦る。

之路の咳が落ち着いた頃、尚貴が呆れた口調で呟いた。

「おまえ、本当に煙草に弱いんだな。これでよく、俺が煙草を消したときに咎めたよ」

「ち、違うよ! 咎めてなんか……」

「そうか? 視線が訴えてたぞ?」

「………」

誰かが自分のために何かをするのは、その裏に潜む心理があるからだと身をもって知った。無償の奉仕という言葉は嘘なんだと思うほどに。

音にできるはずもない理由に俯いていると、頭に落ちた掌が勢いよく髪の毛をかき混ぜた。完全子ども扱いをされているとは思うのだが、それが事実なだけに拒むこともできない。

親にさえされたことのない行為を彼らは之路に与える。そしてそれを受容れ始めている自分に、之路は小さな笑みを浮かべた。

「ん? どうした?」

「ううん、なんでもない。それより、蒼さんが待ってるよ」

振り仰ぐように見つめれば、その先にある瞳が安堵の色を映した気がする。彼は軽く之路の頭を叩くと、それを合図にリビングへと歩き出した。


彼らに挟まれる生活は心地好すぎる。

先を行く背中を見つめながら、之路は小さく溜息を落とす。落ち着き始めたからか、気になることが増えてきた。

どうして彼らは自分を拾って、しかもこうして世話を焼いてくれるんだろう、とか。

二人はどういう関係なんだろう、とか。

何か理由があるのだろうか。だが、それを聞いてしまうのはルール違反のような気がしていた。

彼らといつまでも関わっていられたらいい。そう思ってしまうほど、今の生活を気に入ってしまったから。

「ね、尚貴さん。蒼さんと暮らし始めてどのくらい?」

何気なく口にしたそれは、思いのほか尚貴を驚かせたらしい。足を止め、振り返った彼の表情はどことなく硬いものだった。

「……どうした、突然」

「え、あの……聞いちゃまずかった?」

之路としては素朴な疑問を口にしただけなのだが、どうやら彼らにとっての地雷だったらしい。あまりの気まずさに躊躇うと、一瞬の間をおいて彼は溜め込んでいた力を抜いた。その代わり、諭すような口ぶりで之路と向き合った。

「そうじゃない。……おまえが俺たちのことを気にするとは思わなかったからな。今まで俺たちのことを知ろうとはしていなかっただろう?」

「それは……」

傷ついた自分を慰めるのに必死で、周りを見ることなんて思いつかなかったから。

「いい傾向だよ。自分以外に視線を向けるだけの余裕が出てきたってことだ」

そういうものなのだろうか。之路が尚貴の言葉をゆっくり反芻していると、インターホンがそれを邪魔した。ぎくりと身を強張らせた之路に視線を向けた尚貴は、殊更のんびりとした声音で話しかける。

「こんな時間に宅配って訳でもなさそうだな」

このマンションは管理人が常に在住しているため、宅急便を直接受け取る必要はないのだと蒼から聞いている。直接この部屋の呼び鈴を鳴らすのはお客のみなのだとも。

「お客、さん?」

「いや、予定は特にない。招き入れるかどうかは蒼が判断するだろう。ほら、行くぞ」

「え……あ、うん」

促されるままリビングへと向かう。扉に手を伸ばしかけたそのとき、中からそれは開かれた。反射的に身を引いた之路に蒼はごめんと謝り、そしてすぐに尚貴へと向き直った。

「尚貴さん、下に松澤さんて方が来られてるんだけれど……」

「松澤?」

聞き覚えがないのだろう、尚貴は眉を潜めその名前を確認する。

繰り返される名前に、どくん、と心臓が大きな音を立てた。

松澤という名前に聞き覚えがある。父親の仕事でもう十年近くも彼の秘書を勤め上げており、彼の仕事上のパートナーだ。小さい頃は家に出入りをしたこともあり、之路を親代わりに叱ったりすることもある、人物。

反射的に胸に手をやり、逸る鼓動に落ち着けと念じた。それでも、まだ静まらない。

「他に何か言ってなかったのか?」

「それが……ユキの関係者だから、って」

二人分の視線を受け、之路は伏目がちに俯いた。

「之路、松澤という名前に聞き覚えはあるか?」

確認する言葉に、之路は一瞬視線を彷徨わせた。だが、意を決したように正面から向き直る。

「尚貴さんの知り合いで同じ名前の人がいなければ。父親の、秘書をやってる人なんだ」

「……会えるか?」

本当はまだ誰とも会いたくない。

だが、そう言ってばかりはいられないと理解している。

之路は頷くと、心配そうに見つめる二人に小さな笑みを浮かべてみせた。




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