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 ――。

 ―――夕闇。

 電燈のない田舎の夜が、本当に真っ暗闇なのだという事は、昨晩体験した。

 あれは、人が居るべき空間じゃない。

 だから、黄昏の時間帯以降の外は、人でないモノが蠢く刻で、人間達はその活動範囲を室内に狭めるしかなくなってしまう… はず、なのに…

 それは、黄昏刻にやって来た。夕食を取り始めようかというタイミングだ。

 はじめ、俺は誰かお客さんが大平家に訪ねて来たのだろうと考えていた。旦那さん。大平耕介さんが、その対応に当たるべく、席を立ったし。しかし、どうも、それにしては伝わって来る気配がおかしかった。穏便そうに思えたものが、徐々に騒々しくなり、そして遂には、怒鳴り声まで、

 「いいから、ここに泊まってる連中を連れて来い!」

 俺たちは、その声にビクリと反応する。

 ギクリとした感覚。

 知っている声も、響いて来た。

 「だから、あなた達のそんな態度が、却って外の人に誤解を与えるのよ!」

 高野さんの声だ。どうやら、俺達の事を庇ってくれているようである。“外の人達”の中には、もちろん、俺達も含まれているのだろうから。

 ここまで来れば、どんな事態になっているのかは、明白だった。

 “犬神騒動”を調べに来た俺達を、快く思わない村の人達が、俺達に抗議する為に、否、俺達の存在を拒絶する為に、わざわざここまでやって来たのだ。

 俺達は、食事には手を付けず、しばらく固まっていたが、やがて落胆したような重い足音が近付いてきて、「すいません。お客さん達に、ちょっと話があるって村の連中が来ているのですが」と、そう告げると、ゆっくりとだが、俺達は動き始めた。旦那さんが、俺達を呼びに来たのだ。

 和恵さんは、旦那さんに「却って、興奮させてどうするのよ」と、そんな事を言っていた。そうして、心配そうに俺達を見ながら、こう言う。

 「お客さんの安全を守るのも、宿の責任の一つです。怪我をさせるような事には、絶対にさせないので、安心してください。少し話せば、きっと納得をすると思いますので……」

 それが根拠のない発言である事は分かっていたが、それでも、俺は少しだけ安心をした。それと同時に実感もする。

 ああ、俺達は逃げられないのだ。と。

 廊下を歩いている最中で、俺は里中の姿がない事に気が付いた。本当に、いつの間にか消えていた。

 ヤロー、逃げやがったのか?

 俺はそう思ったが、直ぐに玄関に立ち並ぶ、怖い顔をした中年の男達の存在に意識が奪われ、緊張をし、その事はそのまま忘れてしまった。

 人数は5、6人程度だった。皆、力が強そうで、しかも、決して物分りが良さそうな人達には見えない。

 できうる限り、発言は差し控えよう。

 それを見て、俺はそう思った。暴力を振るわれるとして、それは注目を浴びた奴だろうと簡単に予想できる。そして、放っておいても勝手に注目を浴びてくれる奴が、この中にはいるのだ。

 新村正。

 少し可哀想だが、ほとんどのこうなった原因はこいつなのだし、仕方ないだろう。

 玄関が近付くと、玄関の外にも人が集まっている事が分かった。村の人達が野次馬として集まっているのだ。もしかしたら、止めてくれるつもりでいるのかもしれない。だとしたら、心強い。その中には、高野さんの姿も認められた。

 人の群を見ながら、俺は思う。

 集団心理。

 俺はそれが苦手だ。

 人の凶暴さと残酷さを露わにさせ、抑止力を失った状態にさせる一番の要因が、集団、だろうと思えるからだ。

 人を傷つける、という事に対して、鈍感にさせる、とも言える。

 戦争はもちろんそれだし、いじめだって、虐待だって、そういった惨たらしい事件には、必ず集団心理が関係してる。

 集団になると人は危険になるのだ。人殺しも平気になってしまう。

 俺は悪い予感をますます強くした。

 犬。

 俺はそこで思い出す。

 犬は集団で生活する生き物だ。だから、誰かと一緒に居たいと欲する性質を持ち、その為に孤独を嫌う。この点は、人間も同じだろう。

 犬。

 犬神。

 その霊達。

 (犬神)

 前方で、俺達を敵視し、身構える男達を見て、俺はそれを連想した。

 あの集団に俺が加わっているとする。そして、俺が自分達の行動に疑問を抱いたとする。それで俺は、それを発言できるだろうか? 俺がその疑問を、勇気を振り絞って口にすれば、きっと、集団から排斥をされてしまう。それを怖れるのなら、そんな疑問を口にできる訳はない。

 個人である俺には、集団に刃向かって何かをする事などできはしない。

 そして逆に、皆と同じ行動を同じ様に俺が執ったのならば、そこには一体感が生まれ、心地よい陶酔感に浸ってられる。自分達が正しいと思うからこそ、それは更に強くなり、その正当性を信じたまま、自分達の傲慢さには気付かないまま、悪い結果を齎す行為を行う。

 だから、集団は内部からは破き難い。

 そして、そんな陶酔する世界を構築してしまった集団には、外部からの忠告は攻撃として響き、自分達の正しさを信じ込むあまりに敵は悪だという意味付けがなされ、その対象に対して怒りが生じる。しかも、その怒りによって集団内の団結力はより強固になってしまうのだ。

 つまり、だから、外部からも破き難い。

 この場でも、それは同じだろう。何を言っても却って悪い結果を招いてしまいそうだ。

 打開策はなさそうだ。

 ここは、大人しく、彼らの要求を飲むしか方法はないのじゃないだろうか?

 怪我人を出さず、ことを無事に治める為には、それしかないような気がする。

 ……が、しかし、

 「お前ら、犬神の噂について色々と調べているらしいな」

 最前列にいるどうやら、リーダー格らしい厳つい顔の中年男性が言った。

 「その通りです!」

 それに対して、新村が誇らしげに答える。

 ……が、しかし、新村や田村が、犬神騒動の調査を止めて今まで調べた事も一切公にしない(恐らく、そんな事を言って来るのだろう)、というような要求を簡単に飲むはずはない。

 多分、新村が殴られ、それを見て周囲が慌てて止め、田村も渋々納得する、というようなパターンになるのが妥当だろう。

 そのまま新村が動くのかと思ったが、田村がその前に声を上げた。

 「大体、何を仰りたいのか、私達には察しが付いてます。ですが、恐らく、あなた方は、私達の事を誤解なされていように思います」

 新村に発言させてはいけない、とそう判断したのだろう。賢明だ。

 「私達は、決して興味本意で村を調べたりするような団体ではありません」

 それを聞くと、男どもは怒鳴った。

 「あん? 他人の村の事を、頼みもしないのに、余所のモンが勝手に調べて、それで誤解も何もないだろうが! それぞれな、人には触れられたくないモノってのがあるんだよ! それくらい分かるだろうが!」

 田村はそれで竦む。

 気丈には見えても、やはり腕力では男には勝てない。しかも、相手は複数だ。気圧されるのも無理はないだろう。しかし、そこに高野さんが割って入ってくれた。

 「あなた達! 大の男が、こんなに大勢で、か弱い女の子を脅すなんて、恥かしくないのかい? あなた達の、その行動の方が、よっぽど村の恥よ! もっと、落ち着いて穏やかに言いな!」

 この人は物怖じしないらしい。

 「うるせぇんだ おめぇは!」

 だけど、いけない。その恫喝にも沈静の作用はなかった。ないとなれば興奮は、更なる興奮を呼んでしまう。相乗効果で、事態は一層悪化する。

 こりゃあ、まずいなぁ…

 そして、そこで俺がそう思った時だった。こんな声が上がったのは、

 「何を怯えているのです?」

 それは新村の声だった。そして、その声の質は、とても落ち着いたものだった。新村は、こんな状況であるにも拘らず、全く動じず平然としていられるのだ、その無神経さ、というか、野太い神経は流石だ。

 そして、その冷静な声は、興奮している人間達の虚を突く効果があったようで、中年の男性達は、何故新村が平常心でいられるのか不思議がっているように見えた。否、その余裕の裏に潜んで在るかもしれない“何か”に、たじろいているのか。新村のキャラクターを知らないから、それは尚更効果的だ。しかし、それでも中年男性たちは言い返して来た。

 「怯えているだぁ?」

 「では、何故、怒っているのですか?」

 それに対して、新村はやはり平然と対応をした。

 「“怒り”とは防衛本能ですよ? 自分が攻撃をされていると判断するから、怒るのです。もちろん、怒って相手を攻撃すれば、相手も防衛の為に怒りを作用させて反撃をしてきます。すると、また自分も怒って… という相互作用の悪循環によって、事態はとても悲惨な望ましくない事態に陥ってしまう事がままある。どうか、今がそうなってしまわないように」

 それを聞いて、中年男性たちの動きが止まった。

 新村のそれは、中々に、見事な弁舌のように思えた。確信に満ちた話し方と合わせて、説得力がある。実際、中年の男性達の怒りは消沈してしまっているように思えた。なんと、皆、己を恥じ入るように黙り込んでしまっている。俺はそれを見て、少し新村の事を見直した。

 「あなたたちが怒っている理由は察しがついています。あなたたちは、僕らが“犬神騒動”を調査し、それが明るみになる事によって、自分達が何か被害を受けると考えているのでしょう……」

 新村の弁舌は、まだ続いた。

 中年の男性達は、やはりそれを黙ったままで聞いている。

 「……これは想像ですが、あなたたちは責任を感じているのではないですか? “犬神騒動”について。そして、それが明るみになれば、自分達の罪が明るみになってしまうと、それを怖れている。しかし、それは間違いですよ。あなたたちは、“犬神騒動”の被害者であって、加害者などでは決してない。村が、“犬神”などという奇怪な噂話に曝されてしまうのは、確かに好ましくない事態でしょうが、それを気にするのは既に手遅れです。噂は、既に広まり過ぎている。むしろ、その噂の悪文を払拭する為には、事を公にして、自分達が被害者である事を切に訴えるべきでしょう」

 今度もまた立派な演説だ。中年男性達は静聴をしている。その光景は驚くべきものなのだろう。高野さんが、それを見て目を丸くしている。この中年男性達を、説得する事とはそれほど大変な事なのかもしれない。その大変な事をやってのけた。新村はとても立派だ。が、しかし、立派過ぎる。俺は新村の演説を聞きながら、何かの齟齬、違和感を覚えていた。新村のこの論調。そして、新村は、今、“犬神”を、恐らく、自然科学的な意味合いで存在すると信じ込んでしまっている。

 という事は……

 新村は平然とした声質を、徐々に荒っぽいものに変えてしまっていた。

 「“犬神”などという、恐ろしいモノに相対すれば、普通の人間では太刀打ちできなくて当然なのです!」

 その説明を聞いて、俺は確信した。

 やっぱりだ。こいつは、犬神の実在を条件とした上で、村人達を被害者として見、犬神が実在するという観点から説得をしようとしている。そして、更にいけないのは、こいつが、怪異が関係すると簡単に興奮してしまう性質を持っている点だ。

 実際に、自分で語りながら、新村は明かに興奮をし始めている。

 まずいなぁ

 俺は田村を見る。田村も俺を見て頷いた。彼女も俺と同じ様に危機を察しているのだ。そして、中年の男性達も、新村の論調の微妙な“ずれ”に気付き始めたようだった。 はぁ? というような表情を見せ始めている。

 「あー、新村君。君の出番は終ったみたいだよ」

 俺は潮時だと判断をし、その時に、無理矢理に新村を引っ張った。

 「何するんだよ!」

 興奮し始めていた新村は、当然抗議をして来たが、そんな事には構っていられない。手遅れにならない内に、新村を退場させなければ…… 少々強引な方法で、不自然さは纏わりついてしまうけども…、

 「話が長くなり過ぎるんだよ! このまま、お前が喋り続けると!」

 俺が適当にそんな事を言ってそれを誤魔化すと、その隙に、田村が新村の後を引き継いだ。

 「あの… もちろん、その、主張は充分に分かるんです。村の悪い噂に触れて欲しくないっていう。ですが、さっきこの新村君も言っていたように、無理に隠し事をすれば、むしろ噂は悪化してしまいす」

 中年男性達は、お互いに顔を見合わせた。

 高野さんがその田村の弁を補う。

 「ほら、思い出しなよ。私達だって、上戸って人が何やっているんだか分からなかったから、さんざん、悪い噂をし合ったろう? それと同じだよ。負い目があるからって、外の人達を拒絶ばっかりしてたら、もっと事態は悪化しちまうんだよ」

 田村はそれを聞くと頷く。

 「ええ、その通りだと思います。噂は隠せば悪化しますよ。それが人の世の常ですから。分からないものに、人間は不安を抱き、そしてだから、想像力を余計に働かしてしまうのです。ですがそれは逆に言えば、“犬神騒動”で何が起こったのか、その正体を明かにしさえすれば、悪い噂はそこで消え、むしろ理解が生じるという事でもあるんですよ。好奇の目で見られるという一面ももちろありますが、それは一時で終るだろうし、社会科学的側面からそれを解き明かす事は、社会全体にとってもプラスにもなります」

 中年の男達には、最早、先に怒鳴り声で文句を言っていた時のような勢いはまるでなかった。意気消沈してしまっている。妙なキャラクターと、巧みな弁舌に翻弄をされて、気骨をすっかり折られてしまったのだろう。元々、自分達に、負い目を感じていた訳だし、怒りが排除された状況で、そこを指摘されれば弱い。

 田村の弁を聞くと、すごすごと口を開いた。

 「だがよ…、もしそれをやったって、どうせ何も変わらないんだろう? 例え、誤解が解けたって、こんな辺鄙な村に観光客なんか来ないし、大した産業もないから復興も無理だ。どんどんと寂れて、やがては廃村になるのが落ちだろうよ。なら、どうせ同じなら、色々と個人が気に病んでいる部分に関わる事を、探ったりなんかしないで欲しいんだよ」

 だが、どうも、調査をやめて欲しいという要求を引くつもりはないようだった。今度は、泣き落としのような感じで俺達を説得するつもりなようだ。

 俺は再び田村と顔を見合わせた。

 元々、失礼な行いをしているのは、俺達の方なのだ。要求を強行に跳ね除ける訳にはいかない。俺はそう思い、『仕方ないわね…』、といった瞳を田村も見せた。

 新村は、恐らくこれでは納得しないだろうが、俺と田村で強引に説き伏せれば、なんとかならない事もないだろう。

 最初に俺が想定していた最悪のパターンに比べれば、随分とマシな展開だろうと思う。しかし、その時だった。突然に声がしたのだ。

 「そうでもない、かもしれませんよ」

 それは里中の声だった。声は、後方から聞こえて来る。

 俺はヤツがいなかった事を、それでようやく思い出した。一体、今の今まで、何をしてやがったんだ?

 後ろを顧みる。

 『怪異研究会』のメンバーは、全員同じ動作をしていた。後ろを顧みている。村の人達は、訝しげな視線を俺達の後方にいる里中に送っている。

 「そうでもない、ってどういう事?」

 緊張感のない声でそう尋ねたのは、今まで黙っていた郁子だった。そういえば、一度も発言をしていなかったな、こいつ。

 「事を公にすれば、廃村に至るような事態にはならず、この村を救えるかもしれないって事さ」

 里中はそれに対して、澄ました表情でそう答えた。

 「どうしてだい?」

 前方からそう声がした。高野さんの声だ。見ると、高野さんだけじゃなく、あの中年の男性達をも含めた村人の全員が、高野さんと同じ疑問を抱いているのだろうとその様子から察せられた。

 表情がただ事ではなかったのだ。

 そりゃあそうだろう。俺達だって驚いているのだから。村人ならば、当事者自身なのだから、深刻になるのも無理はない。

 その全員の注目を受けて、里中は淡々と答えた。

 「待ってください。まずは伝えなくちゃいけない事があるんだ。実は、上戸家の正体が分かったんです」

 「上戸家の正体?」

 代表のように、そう言ったのは田村だった。

 「うん。なんで、上戸家への犬の販売を途中でストップしたのか、犬舎に問い合わせて調べてみたんだ。そうしたら、ちゃんと教えてくれたんだよ。因みに、この作業は、大平おばあちゃんにお願いをしたんだ」

 大平おばあちゃん?

 ああ、あの時、大平おばあちゃんに何かを頼んでいたのはそれだったのか。俺はそれを聞いて、思い出した。

 「ちょっと待って」

 そこで田村がまた発言する。

 「上戸家への販売をストップした? 上戸家が、犬を購入するのを止めたのじゃなくて、犬舎の方が、上戸家への販売を拒否したっていうの?」

 「その通りだよ。上戸家は、というか、上戸という人物は、犬を需要し続けなくてはならない立場にいたのさ。何故なら、犬は、彼の商売道具だったのだからね」

 「商売道具ぅ?」

 その疑問符を伴なった声を上げたのは、俺だ。村人の様子は普通じゃなかった。どよめいている。特に、“犬神騒動”を起こした当事者たち、中年男性達の様子は明らかにおかしかった。目が血走っていたのだ。

 「もちろん、犬神として使役する為、なんて理由じゃないよ、新村君」

 里中は、何か文句がありそうな新村に向けてそんな言葉を送る。

 「一体、何の商売をしていたって言うんだ?」

 中年男性達の一人、リーダー格の男が、震えながらそう訊いた。それを受けて里中はこう応える。

 「ああ、あなた達は、上戸家が犬を需要し続けていた事は知っていても、何の為に需要しているかまでは知らなかったのですね。もしかしたら、噂通り、殺して犬神を作り出す為だとか思っていたのでしょうか?」

 逆に問いを返した訳だが、それにリーダー格の男は何も返さない。

 「僕は、上戸という人物が、犬を購入するのをある時になって止めた、という話を訊いた時、逆の可能性も考えたんです。つまり、買うのを止めたのじゃなくて、売ってもらえなくなったのではないか?という可能性を考えた。上戸家が、購入を止めた途端、“犬神騒動”が起こったという話を聞いて、ある理由から、そう予想したのですが、その時はまだ上戸という人物が犬を利用して商売をやっているとまでは思っていなかった。だけど、今日の午前中に、そこにいる新村君が、上戸屋敷を探検しましてね。その内部の様子が、まるで犬を保管する為の設備の様だったという話を聞いて、もしかしたら、と疑い始めたんです。そして、更に、皆さんも知っている、シベリアン・ハスキーのチョビが、どうも雑種の疑いがあるという、ここにいる木下さんからの意見を聞いて、ある可能性を考え始めた… そして、その証拠集めを、大平おばあちゃんに依頼したんです。その証拠が、たった今集まったんだ」

 「だから、それは何なんだよ?」

 こらえ切れずに俺は、思わずそう言ってしまった。考えてみれば、俺は今日一日、その謎がずっと気になっていたのだ。

 「うん。『ヘテローシス』という言葉を聞いた事はないかい? 神谷君」

 自分の名前を呼ばれて、俺は驚いた。こいつに名前を呼ばれるのは始めてだ。もしかしたら、良いタイミングで口を開いてしまったのかもしれない、俺は。生徒の質問で、授業がやり易くなる教師、といったニュアンスだ。

 「ないよ」

 仕方なく、俺はそう答える。

 「これは、別名、雑種強勢とも呼ばれている現象だけど、違った遺伝子同士をかけ合わせると、強力な個体が産まれる、その現象の事を指して言うんだ。植物にも動物にも見られるもので、中には例外もあるのだけど、まぁ、生物に普遍的に見られるとみて間違いはない。因みに、雑種強勢は農業なんかでは実際に利用されているよ。トマト辺りが有名だね。その逆に、近交弱勢といって、似ている遺伝子を同士をかけ合わせると弱い個体が産まれるといった現象も存在する。性交、つまり、別々の個体が、遺伝子を半分ずつ分け合って、新しい一匹を誕生させるという行為は、変異の拡大の為に行われるのだけど、だからこそ、似たような個体同士が性交しても無意味なんだ。同じ種ばかりが存在していたら、環境の変異によって一度に絶滅してしまう危険性があるけど、様々な種を存在させておけば、どれかが生き残る事ができるだろう。つまり、リスクヘッジさ。進化の一要因だね。これを促す為には、雑種強勢や近交弱勢といったような仕組みが必要だったのだろうと思うよ」

 だから、それが何なんだ!

 長広舌を聞きながら、俺は心で思って、表情でそれを里中に伝えた。すると、里中は、いよいよをもって犬の話をし始めた。

 「雑種犬は強いって話を聞くけども、これもその一例さ。血統書付きの犬よりも、ヘテローシスによって雑種の方が病気とかに強いのだね。つまり、その点から観れば、雑種犬の方が優れていると言える。でも、品質は安定しないから、商売には向かないけどね。ただし、それは普通に考えれば、って事で、普通じゃなければ不可能じゃないんだよ。そして、上戸という人物が行っていた商売とは……、」

 そこまで話されれば、誰でも簡単に予想できた。要するに、上戸という人物が行っていた商売とは…、

 「雑種犬販売?」

 言ったのは、和恵さんだった。

 「あの人は、そんな商売を行っていたって事?」

 「ええ。ただし、それはただの雑種犬じゃない。“高級雑種犬”です。そして、恐らくはそれだけじゃない。それぞれの犬種には、それぞれに弱点があります。大きくなり過ぎたり、煩かったり、病気に弱かったり、運動をたくさんさせなくてはいけなかったり。もし、そんな弱点を克服していて、しかも、他の部分は血統書付きの犬と変わらない雑種犬がいたとしたなら、とても高く売れるとは思いませんか? 例えば、シベリアン・ハスキーは、大きくなり過ぎるのがネックの一つです。もし、小型のものがいれば、とても人気が出るはずでしょう。しかも、それが数少ない稀なものだったりしたら、絶対に高く売れる。ペット業界はこの不景気の最中にあって、順調に売れている数少ない業種です。儲かる、と考える人間がいても不思議ではありません。

 この村に一匹だけ残されたチョビは、もしかしたら、成功か失敗か悩んだ挙げ句、失敗だと判断されてしまったのかもしれませんね。それが時期的に出ていく時だったから、殺されずに放置された。実際は、成功だった訳ですが、見誤ったんだ。もしくは、売れ残ったのかもしれませんが」

 里中の説明を聞いて、辺りは静かになった。新村が、その空気を壊すかのように言う。

 「じゃあ、僕が観た、庭に埋めてあった、たくさんの獣の骨はどう説明するんだ?」

 また里中にとって、タイミングの良い質問だったのか、里中は、「うん」と頷くと、こう言った。

 「それがきっと、上戸という人物が、自分の商売を隠していた、一番の理由だと思うよ…」

 「隠していた理由?」

 「きっと、その所為で、上戸家の高級雑種犬商売は違法だったのだろうと思う。雑種犬は、商業ベースには乗せ難いって先に言ったろう? いいかい? 交配ってのは、生命の営みなんだ。人間にとって、都合の良い雑種が産まれるとは、だから限らない。つまり、失敗もたくさんあったって事さ」

 そこまでを里中が言った時、郁子が口を開いた。

 「つまり、殺してたって事?」

 ――仔犬達を。

 それは、冷たい声だった。

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