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――チョビ
「って、変な名前ですね」
そう悪気のない声で失礼な質問をしたのは郁子だった。チョビというのが、どうやらこのシベリアン・ハスキーの名前であるらしく、そのチョビを呼びに来たのは、四十代前といった感じの優しそうなおばさんで、飼い主ではないのだそうだが、時々世話をしていて、今はご飯が余ったから餌をやろうと呼びに来た所だったのだそうだ。
チョビは何でも、いつも村の出入り口辺りをウロウロしているらしい。もしかしたら、村を護っているつもりなのかもしれない。と、そうおばさんは笑って言った。だが、郁子がお菓子を出した程度で、心を許すような犬には番犬は勤まらないだろう、とそれを聞いて俺は思った。
郁子の悪気のない声の、名前に関する失礼な質問は、そのおばさんにも悪気のない失礼な質問として響いたらしく、おばさんは別に気を悪くするでもなく明るい屈託のない声で、
「子供たちが何でか知らないけど、そう呼び始めてね。わたしは始め似合わないと思っていたのだけど、呼び始めると次第に違和感がなくなっていってさ、今じゃ好きになってるよ」
と、そう答えて来た。
言葉はそれ自体で発展する。
俺はその話の内容を聞いて、そんな里中の弁を思い出した。
………。
チョビを呼びにそこに現われたこのおばさんは、俺達の姿を見て一瞬訝しげな表情を見せたが、直ぐに「ああ、」というような声を上げ、「あなたたちだね、大平さん家に泊まりに来るっていう変わり者の一行は」と、そう尋ねて来た。俺達は、そうです、と銘々大きく頷く。全員の表情に明るさが戻った。助かったー、と皆思っていたのだろう。
大平さんというのは、農家民宿をやっている方で、農家民宿というのは、農家の暮らしを体験しようといった趣旨の、ま、平たく言ってしまえば、一般の農家が家の余ったスペースを利用して、民宿もやっているという、ただそれだけのもんである。俺達は、ネットでこの大平さん家の存在を知り、そしてそのままネットで予約をして環村にやって来たのだ。ただ、農業の体験などのサービスは抜きにしてもらった(そういったサービスもあったのである)。目的から考えれば当然だが。
「久しぶりの、しかも団体の客だって喜んでたのに、中々来ないもんだから、皆、心配してたんだよ」
そのおばさんは、自分の名前を高野と名乗った。それから、親切にもその高野さんは大平農家民宿まで案内してくれるというので、俺達はその厚意に甘える事にした。俺達がお礼を言うと、「良いんだよ、どうせ暇なんだから」とやはり屈託なく笑いながら高野さんはそう応える。
そのチョビと一緒のその道行きで、発言していたのは途中までは、ほぼ郁子一人だった。色々と、犬の事で質問をしている。普段は微笑むくらいで、中々その感情を表に出す事のない、むしろクールにすら思える郁子が、皆が疲れて無口になっている今に限って妙に明るい。
変なヤツだ。
「チョビって、誰が飼ってるのですか?」
おばさんはそれを苦にするでもなく、快く答えていく。
「本当は、誰も飼ってないはずなんだけどねぇ なんだろう? 結局は、誰かしら構うから村に居付いているよ。村の皆で飼っているようなものかしらね?」
「チョビみたいな犬って、チョビ一匹なんですか?」
「村に犬はいっぱいいるけど、チョビみたいな立場なのは、チョビだけだよ」
そして、その郁子が色々とする質問のお陰で、環村の犬に関する情報が俺達に色々と入って来る。
……実は、環村の人間に、俺達が村に行く目的は説明していない。敵意や警戒心を持たれる事を怖れた為だ。だから、俺は郁子のこの質問で、それを高野さんに気取られやしないかと内心不安に思っていた。しかし、恐らく、郁子が純粋に犬にのみ興味を持って質問をしている所為だろう。高野さんは全く不審に思っていないようだった。だが、しかし、話がチョビの出生にまで及んだ時だ……
「……このチョビはねぇ、犬をいっぱい飼ってた人が、以前に村に住んでたのだけど、その人が唯一置いてった… 否、捨てていったのかもしれないのだけどさ、兎に角、残していった犬なんだよ」
「と言うと、例の、犬神憑きの家系の、上戸って人の犬ですね?!」
いきなり、そんな質問を新村がしてしまったのだ。犬神関連の話題になって、辛抱ができなかったのだろうか。しかも、まだ、上戸って人が犬神憑きの家系であると決まった訳じゃないのに、こいつの中では既にそれは確定した事実になってしまっている。
そうしてそれで、高野さんは俺達の来訪の目的を簡単に察してしまったのだった。
――ナニヤッテンダヨ!
俺は心の中でそう怒鳴った。
まぁ、いずれは、ばれる事ではあったのだろうが。
新村の質問を聞いて、高野さんの動きが一瞬かたまるのが分かった。それから、しばらく(と言っても、一秒もないが)そのままで、高野さんは息を吐き出すのを合図に凝固を解き、少し寂しそうな声で、「なんだい、あの事件の話を聞いて、やって来た人達だったのかい。ま、そうだろうね。昔から外部から人を呼ぶのに無関心で、だから何にもなかった村だけど、今はそれに輪をかけて何にもない村だものねぇ 楽しむのを目的をするのだったら、もっと別の土地に行ってるさねぇ」、とそんな事を言って来たのだ。
少しは期待してたんだけどねぇ
そんなニュアンスを含ませてある感じで。
道行きの明かりには、郁子の懐中電燈の他に、高野さんの持って来ていたライト(かなりでかい)も加わっていて、今ではおぼろげながら、薄明かりで周囲を見る事ができた。だが、流石に夜道では人のその具体的な表情までは観察できない。しかし、だからこそ余計に、声のトーンが俺達にその寂しさを伝えた。
辛うじて見える郁子の顔は無表情だった。何も言わない。
「……でも、犬神だなんて、都会の人達も迷信深いねぇ そんなもんありゃしないよ。このチョビがいい証拠じゃないか」
その言葉を受けると、田村が弁明をするように言う。
「いえ、犬神そのものを信じているって訳じゃないんです、私達は。ただ、それでも、犬神信仰というものが社会に影響を与えているのは事実で、だから、犬神が例え迷信であったとしても、それは文化としてとても重要なんです。調査すべき価値のあるものなんです。ここでの犬神の噂話がどういったものなのかは知りませんが、私達が決して安易な好奇心から、この村を訪れたのでない事は分かって下さい」
「アハハハハハ」
その説明を聞くと高野さんは笑った。しかし、今度の笑いは屈託がないとは言い切れなかった。
「大丈夫だよ。悪い気なんかしてないさ。こっちは人が来てくれるってだけでも嬉しいんだ。贅沢は言ってられないよ」
その会話の最中、里中は一言も喋らない。
何かを考えているらしい。
「大切なお客様。だからねぇ」
郁子が突然口を開く。
「犬は? 犬はどうしたんですか?」
財産を失う程犬を買ったのならば、当然、大量の犬がまだ村にはいるはずなのである。それが野良にもなっていないのであれば、全てそのまま飼っているのだろうか?
多分、郁子はそれを尋ねたのだ。高野さんも郁子の突然の質問の意味を、どうやらそのように捉えたらしい。それに対し、こう答えて来た。
「十何匹くらいは、それぞれの家で飼ってるよ。後は、全部、その上戸っていう人が、タダみたいな値段で買っていったね。この土地を離れる時にさ」
なんだって?
俺はそれを聞いて、正直驚いた。
その上戸という人物は、それでもまだ犬を欲しがったというのか? そんな事件の直後であるというのに。
寒気を感じ、肌が粟立った。
それにその話から察するに、熱が冷めた途端に、この村の人々は、財産を失うまでして買い求めた犬たちを簡単に手放している、という事になる。しかも、タダみたいな値段で。ならば、本当に、何の目的で犬を狂ったように買っていたのかが分からない。
……犬神
まさか、
本物?
俺は再びそう思い、高野さんには悪いが、薄気味悪いものを感じていた。絶対におかしい。そして“チョビ”を見る。その、犬神憑きの家系かもしれない上戸という人物が、何故か残していった唯一の犬であるというシベリアン・ハスキーを。
この“チョビ”は、高野さんの言葉を信じるなら、村の皆の手によって育てられているのだという。
なんで、そんな犬を、この村の人間達は受け入れる事ができるのだ?
もし自分だったなら、きっと追い出しているだろう。
まさか、呪いは持続しているのか?
その為に、村の人達は“チョビ”を飼い続けている……
馬鹿な考えである事は充分に自覚しているが、どうしてもそんな想像をしてしまう。
そういえば、郁子は先に、この“チョビ”におかしな点があると言っていた。一体、郁子は何に気が付いたのだろう?
一見して、郁子に妙な様子はない。チョビを怖がっているだとか、そんな素振りは見せてはいない。だから、郁子の発見したそれが恐怖を連想させるようなものだとは考え難い。 ……だが、何を見付けても、或いは木下郁子ならば、そんなに気にはしないかもしれない。
郁子は、高野さんの驚くべき説明に対して「ふーん」と、まるで何でもない事のように返す。そして、更にこんな事を述べた。
「あの、この“チョビ”ですが、少し気になることがあるんです」
気になること?
例のおかしな点か?
俺はそれを聞いてやや緊張した。
「この“チョビ”。シベリアン・ハスキーにしては少し小さ過ぎませんか? 最初見た時、まだ成長の途中なのかと思っていたのですけど、近くで撫でていたら、もう立派な大人であるように思えて…」
小さい?
そうなのか?
犬にそれほど詳しくない俺には、分からない事だった。
それを聞くと高野さんは、やや戸惑った表情を見せる。犬神発言の後にこんな質問を受けて、その意図を推し兼ねているのかもしれない。
ただ、しばらく迷うと、邪推はやめたのか口を開いた。
「さぁ? 私は犬にそんなに詳しくないからねぇ そうなのかい?」
郁子はまだ悩んでいる。
「うーん もしかしたら、シベリアン・ハスキーじゃないのかも… 別の、よく似た犬種とか… まぁ、偶然、小さいのが生まれたって事も考えられるけど… 私もちょっと知ってる程度だから…」
どうも、郁子は(分かっていた事ではあったが)犬神の事などどうでもいいようで、犬の方が気にかかっているようだった。高野さんも、そんな様子を見て、郁子が犬神と関連させて不思議がっているのじゃないと察し安心したようだった。
郁子はそんなキャラじゃない。
いつも思っているのだが、郁子は何故、『怪異研究会』などに入ったのだろう? こいつは怪異になんかほとんど興味はない。だが、それは、本人にも分からないのかもしれない。質問をしても、恐らく「なんとなく」、程度の返答くらいしか期待はできないだろう。
つまりは、自分でも分からない気紛れで入ってしまったのだ。そして、気が変わらないから所属を続けている。
郁子は、歩きながら、しばらくはチョビを観察していたようだったが、突然、「ま、いっか」と独り言を言うと、それ以降は本当に全く気にしなくなったようで、そのまま歩き続けた。そして、それから会話が途切れ、わずかばかりの間ができてしまった。すると、その会話の途切れた間を待っていたかのように、いきなり里中が口を開いたのだ。
「すいません。質問があるのですけど」
ずっとこの機会を待っていたのだ、という感じで。
「なんだい?」
そう言った高野さんの顔は、屈託のない表情に戻っていた。
「さっき、外から人を呼ぶことにあまり積極的じゃないって言ってましたよね? この村は。でも、僕らの聞いた話じゃ、この環村はかつて、都会離れをする人にとって、人気スポットの一つであったって事になってるのですけども……」
それを聞くと高野さんは、少しだけ得意そうな表情を見せた。
「そうだよ。昔はそうだったんだ。と言っても、そんなに昔の話じゃないのだけど、なんだか随分と昔に思えるねぇ… でも、その時だって何も観光名所があった訳じゃないんだよ。観光とかじゃなくて、住もうと思う人が多かったのさ」
「その話は本当なんですね? なら、どうして、昔は人を呼べていたんですか?」
「なに、この村は、今は寂れちゃってるけど、以前は色々と物を作っていたんだよ。で、その物を作る技術を教えてくれる人や、その物を作ってくれる人が必要だったのさ。だから、その為の人を外部から呼んだ。そもそもの始まりはそんなだねぇ でも、呼んだのは必要最低限で、それ以外は積極的に人を集めようなんてしなかったんだよ。ほら、外部から人が来れば色々と問題が起きるだろう? それを面倒くさがったんだ。結局、必要以上に人が来て、問題が起こっちまったって訳だけど…」
それを聞いて、田村が口を開いた。
「つまり、村を発展させる為の村作りが、却って村を衰退させてしまう原因を作ってしまったのですね?」
「そうだねぇ 結果論かもしれないけど、そうなるかねぇ 必要な人間以外の受け入れを拒否できてたら、こうはならなかったかもしれない。こっちから呼んだ人間には、何しろ村に適応できるかどうか、面接まで行ってたからね」
「入居の為の面接ぅ?」
そこで、俺は声を上げてしまった。
そんなの、聞いた事もない。
「あははは 面目上は、入居の為の面接じゃなくて、就職の面接だよ。雇う為に呼ぶのだもの。もちろん、それだけで人間を評価できるなんて思ってないから、その他にも村の暮らしを体験してもらったりね、ま、色々と。それでも上手くいかなかった事もあったけど、大きな問題になる事はなかったね」
すると、高野さんは豪快に笑ってそう説明した。
「あの……、物を作っていたって事は、何かこの村は産業のようなものがあったのでしょうか?」
次に、里中はそう質問をした。すると、それを聞いた高野さんはまた笑う。
「産業? あははは そんな大袈裟もんありゃしないよ。ただ、自分達が必要なもんを自分達の為に作っていただけさ」
それを聞いた一時、里中の目が輝いたのが分かった。ちょうど、高野さんの持っていたライトの光が当たる位置にヤツの顔があったので、その表情をよく観る事ができたのだ。明かに、里中は興奮している。何故なのかは分からないが。
「あっ、と。大平さん家に着いたよ。もう直ぐそこさ」
不意に高野さんはそう言った。暗い道で気付かなかったが、高野さんがライトをかざすと、大きな民家がそこにはあった。なるほど、これくらい大きいのなら、民宿くらいならばできそうである。
「大きいだろう? でも、安心しな。全然、堅苦しい人達じゃないから。大きいのは家だけで、中身は私達と変わらない生活なんだ。さて、私は挨拶をしたらチョビを連れて帰るよ。色々と聞きたい事もあるみたいだけど、それは明日にして、今日は休んだ方が良いのじゃないかい? 明日の昼間だったら、私も協力してあげるから」
言われなくても、恐らく俺達全員はそうするつもりだったろう。
恐らく、
だが。
大平さん家に着くと、真っ先に俺達を出迎えてくれたのは、妙に闊達な不思議な感じのお婆ちゃんだった。
高野さんが玄関を開け、そこに現われたのがそのお婆ちゃんだったのだ。トタトタ、と素早いテンポの足音が聞こえると、無言のままそのお婆ちゃんは姿を見せる。そして無言のままチャーミングに微笑み、喜びを表現した。俺は、それを受けて奇妙な印象を覚えたが、悪い気分にはならなかった。
「あら、お婆ちゃん、今晩は。連れて来たよお客さん。チョビ呼びに行ったら、村の入り口でばったり会っちゃってさ」
高野さんがそう言うと、嬉しそうな表情のままでお婆ちゃんはコクコクと頷いた。お礼を言っているのかもしれない。それから、お婆ちゃんは俺達を招き入れる動作をする。
「可愛いだろう?大平ばあちゃんは」
高野さんは、俺達を見るとそうにこやかに言った。
可愛い…
確かに分かる気もする。
「それじゃ、もう大丈夫だと思うから、私はこれで帰るよ」
それから高野さんは、そう言うと呆気なく帰っていってしまった。
俺達はそれから、その“大平ばあちゃん”に家の中を案内された。便所だとか、お風呂だとか、食堂だとかを巡る。大平ばあちゃんは、要所を通るその度に指で指し示し、俺達にそれを伝える。そうして、最後に、恐らく俺達の部屋なのだろう和風の間へと連れて行ってくれた。もちろん、男女それぞれ一部屋ずつあった。
その後何も言わずに大平ばあちゃんはその場を去っていってしまって、置き去りにされた俺達は、それぞれの部屋に篭もってどうすれば良いのか分からず、ただボーッとしているしかなかった。取り敢えずは、荷物を置く。それくらいしかやる事がない。多分、女性陣も同じような状況だったろう。それからしばらくが経って、足音が近づいて来た。俺達の部屋の戸が勢い良く開く。そこには、若い女性が一人立っていた。娘、といった感じではない。この家の嫁だろうか?その女性は、俺達を見るなり目を見開き、真っ赤になった。
へ?
俺はそれを不思議がる。
なんでだよ? 俺達を呼びに来たのじゃないのか?
それから、その若い女性は慌ててその場を去ってしまった。そして、廊下の向こう側で、「おばあちゃん! お客さんが来たんならちゃんと教えてくれなくちゃ駄目じゃない!」と大声で叫んでいた。
………。
それから改めて先の女性が家族と共に現れ、家の人達を俺達に紹介してくれた。さっきの大平おばあちゃんと、豪快な感じで、人の良さそうな旦那の、耕介さん。それから、当の本人の、和恵さん。この人は、やはりこの家のお嫁さんなのだそうだ。家はこれだけ大きいのに、家族はたったの三人しかいないらしい。三人だけだからこそ、スペースが余り、農家民宿を始めたのだろう。
「一応、これだけの小人数で、しかも家族でやってる民宿なので、いつもメンバーを紹介させてもらっています。お互い、驚かないようにね。ただ、プライベートは護りますし、これ以上関わりを強制する事もありませんから、安心してください」
気の所為か、そう俺達に説明したこの奥さんだけは垢抜けた感じがした。喋り方も都会を感じさせるし関わりを強制しないという、個人主義な主張も田舎の発想じゃない気がする。俺は、もしやと思い尋ねてみた。すると、
「ええ、元は東京に住んでいました。都会の暮らしに飽きて引越して来たのですけど、そのまま結婚しちゃって」
案の定、その通りだった。奥さんがそう言うと、旦那さんがこう言う。
「ラッキーでした」
それに対して奥さんは、
「アンラッキーでした」
と応える。
二人とも笑顔だ。
どうやら、こういう人達らしい。
俺達はそれから風呂が良いか食事が良いかと尋ねられたので、風呂を選択した。まずは汗を流したい。民家なので、それほど期待はしていなかったが、中々のもので、しかも女性風呂と男性風呂とで二つあった。たった三人なのに、管理が大変だろうと言うと、「おばあちゃんがまだまだ元気で頼まなくても勝手に手伝ってくれるし、それに掃除をするのは、お客さんが来る前だけだから、大した手間でもないんですよ」とそう説明をされた。
「もっとも、この村が寂れる前に作った風呂で、確かに今はこの民宿には大袈裟過ぎる代物ではあるのですけどね」
なんだか、バブル経済崩壊以後の社会情勢の話を聞いているような感じだ。
風呂から上がったら、直ぐに食事だった。田舎料理は味が濃い目で、疲れている俺達にはとても美味しく感じられた。
「日本人は塩分を取り過ぎるとかよく言うけど、汗をよくかく境遇にいる人達は、味の濃いものを好む傾向にあるんだ。塩分が不足するからね。だから、食文化も当然そうなる。昔に比べれば、日本人が汗をかかなくなってきてるだろう事は分かるけど、海外のデータと比較して、塩分取り過ぎだから健康に悪いって安易に結論出すのはどうかと思うよ」
その味を噛み締めながら、新村がそんな薀蓄を垂れた。つまりは美味いしいのだ。料理を新村なりに褒めているのだろう。田舎料理の味が濃いのは、田舎の人が汗水をたらしてよく働いている事の証拠なのだ。これも一つの社会現象なのかもしれない。
食事が終ると、皆、部屋に帰って休むことにしたらしかった。当たり前だ。もう動く気力なんかない。
しかし、
布団を敷いて、眠る準備をし終えると、里中が不意に何処かにいなくなった。俺は小便でもしにいったのかと思ったのだが、それにしては帰って来るのが遅かった。新村は早々と眠ってしまって、グウグウと鼾をかいている。俺は一人取り残されたかのような気分になり、何だか妙に里中の行方が気になってしまった。
好奇心がくすぐられたのだ。
もしかしたら、あいつは一人で調査を開始しているのかもしれない。俺達には内緒で。
だから俺は家の中を探してみる事にした。家の外に出ているのなら放っておく。そこまでして、野郎なんかを追いかけるつもりはない。
もし仮に里中がこの家の何処かに行くとすれば、きっと話を聞きたいに違いないから、誰かこの家の人を探すはずだろう。俺はそう思ってそれらしい場所を探すと、里中は呆気なく見付かった。
事務室だろうか? 里中はパソコンが置いてある部屋に、大平おばあちゃんと一緒にいて、二人でディスプレイを眺めていた。パソコンを操作しているのはなんとお婆ちゃんの方で、しかも軽やかに操作している。中々侮れない老婆である。本当に、素敵なお婆ちゃんだ。
「何やってるんだ?里中」
俺がそういきなり後ろから問い掛けると(意図的に、少しくらいは驚かしてやろうと思った訳なのだが)、里中はちょっと俺を顧みたくらいで、さして気にする様子も見せず、ディスプレイを見たまま、
「今、お婆ちゃんに、この家のホームページだとか、環村のホームページだとかを見せてもらってるんだよ」
と、素っ気無く答えて来た。
受け入れてもいないが、拒絶してもいない。そんな口調だ。なんだか、自分の存在がないような気分にさせられる。
里中はそれから独り言のようにこう言った。
「小さくて、こんな離れた場所にある村なのに、インターネットは随分と普及しているのですねぇ」
もちろん、実際はお婆ちゃんに言ったのだろう。
大平おばあちゃんは、それを受けるとコクコクと頷いた。
奥さん…、和恵さんがその場面に、麦茶をお盆に乗せて入って来る。どうも、飲み物を取りに行っていたらしい。俺を見付けると、「あら、コップもう1個持ってこなくっちゃ」と言って、お構いなく、と俺が言おうとする前に、廊下をトタトタと走っていってしまった。
和恵さんが帰ってくるまでのその間、里中は大平おばあちゃんとパソコンの操作を交代して、なんだか熱心に村のホームページを見ていた。村のホームページならば、ここに来る前にも見ていただろうに、何故、そんなに熱心に見るのか、俺には理解できなかった。
コップを持って来た和恵さんは、それぞれのコップに麦茶を注いで、俺達に差し出してくれた。
「そんなに熱心に見たって、観光するような場所なんてありませんよ」
そして、そう言う。里中は微妙に苦笑いを浮べながら、それを受けてこう言った。
「ネット設備がこの村はとても整っているみたいですね。一体、どうしてなんですか?」
突然質問をされて、和恵さんは、僅かに戸惑った風だったが、直ぐに気を取り直すと、こう答えてきた。
「うーん わたしが遣って来た頃には既にこれくらいのネット環境は整っていたから、詳しい事情は知らないのですけど、どうやら、村でお金を出して、工事をしてもらったらしいですよ」
「村で? そんなにこの村にはお金があったのですか?」
「あったみたいですねぇ と言っても、莫大にって訳じゃないみたいですけど。村に欲しいものは一通り揃ってしまって、それで買うものがないから、それじゃインターネットの設備でも整えようかって感じに話が進んだみたいなんです。裕福というよりは、お金を遣う目的がなかったから、なのかな? ただ、ネットの設備を整えた事による影響力は村人の予想を超えていたみたいで、この村に入居する人の数は、一気に増えてしまったらしいです。実の所は、わたしもその一人なんですけど」
なるほど、そうして色々なモノが入って来た。それは単純に“人”の事だけを言っているのではない。人は“文化”を連れて来る。“生活”を連れて来る。その連れて来たモノは村の文化と混ざり合い、村の様相を変えてしまう。そして、良いモノばかりが入って来るとはもちろん限らない。その色々と入って来るモノの中には、悪い影響を与えてしまうモノだって含まれてあったのだ。
例えば、
犬神。
「ネット設備を整えたのが、悪い事であったのか良い事であったのか、一概には何とも言えないとわたしは思ってます。中には、悪し様に否定する人もいますけどね。それに、それが本当はどうであれ、廃れてしまった今では、ネットはこの村の必需品になっています。村の人達の多くは農家で、生活は厳しいのですけど、ネットを通しての一般の方や食料品店への直接販売で、なんとかやっていけているのですから。あ、直接販売すると、農協の流通を通すよりも高く、お客さんにとってみれば安く、商品を売れるのですよ。だから、助かってるんです。流通に関する人手を省けるからなんですがね」
和恵さんは、俺達が犬神の事件を知っている事を察しているのかいないのか、そんなことを少しだけ寂しそうに語った。
里中はそれを聞くと、少しだけ目を瞑った。何をやっている仕草なのか分からないが、もしかしたら、考えを纏めているのかもしれない。何を考えてる?俺はそれを勘繰る。恐らく、里中は何かを観ているのだ。俺には分からない何かを。
それから、目を開くと、里中は大平おばあちゃんに向けて、不意にこう尋ねた。
「お婆ちゃんは、何が悪かったと思いますか?」
すると、お婆ちゃんは俺達の前では、初めて声を出し、こう答えた。
「“蛇”が這いまわってたんだわ」
へび?
「いっぱいな…」
どういう意味だろう? 何か謎掛けのような台詞だ。和恵さんにも、その言葉の意味は分からないらしかった。困惑している。
里中は妙な顔をしていた。意味は分からない。だが、何かが引っ掛かる。そんな事を考えている表情。
それから里中は、「では、僕は、もうそろそろ眠くて仕方なくなってきたので、寝る事にします」とそう言うと、自らの部屋へと引き返していった。
何か考えがあって、ここを訪れたのだとすれば、その作業を終えたという事になる。得るものがあったのかなかったのか、それは分からないが。
和恵さんは関わりを強制しない、というその言葉通り、あっさりと「お休みなさい」と挨拶だけをして、麦茶を片付けた。それから、俺も里中に続いて寝室へと向った。




