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 ………。

 中継地点の駅に着いた。

 この時点でかなりの田舎だ。

 この場所から、バスで1時間ばかり行けば、目指す環村という村に辿り付くのだそうだ。

 バスが出るまでには、まだ30分ばかりの時間があった。だから俺達は、休憩も兼ねて買い物をする事にした。飲み物や食い物、お菓子やなんかを補充する。バスに乗れば、それからは自由に買い物なんてできないだろうと判断したからだ。

 かなりの田舎ではあったが、一応駅前にはコンビニがあった。ただ、入ってみて俺は少し驚いた。近所の手作り製品のようなまんじゅうが売ってたり、野菜なんかも、恐らく近くで取れたであろうそれが、まるで八百屋のようにそのまま販売してあったからだ。

 なるほど、所変われば、だなぁ などと、それを見て俺は思ったりした。

 妙に牧歌的な雰囲気のコンビニエンス・ストアなのだ。

 それで俺が、物珍しそうに店内を見回していると、同じ様に店員も俺の事を珍しそうに見ていた。目と目が合う。すると店員は、俺に話し掛けて来た。

 「あなたたち、こんな何も無い所に、一体、何しに来たんだい?」

 なるほど、珍しそうに見られていた理由が分かった。俺達は出で立ちからいって、地元の人間ではないし、かといってここら辺りは行楽に適した土地でもない。外部の人間が集団で訪れる事など、滅多にないのだろう。

 「いえ、環村に用があって来たんですよ。これからバスに乗って、向かうんです」

 その店員はおばさんで、多少、無神経で無遠慮なようには思えたが、悪い印象は受けなかったので、俺は明るくそう返した。

 「環村?」

 それを聞くと、そのおばさんは益々訝しげな表情を見せた。

 「そりゃまた、変な所に行きたがる人達もいるもんだねぇ 昔から何もなかったけど、今は廃れちまって、もっと酷くなってるよ?」

 俺はそれにこう応える。

 「そうそう。それなんです。その廃れてしまった理由。それに関して、妙な噂があるんですが、それを調べに行くんですよ。ちょっとした社会調査みたいなもんで」

 まさか、『怪異研究会』とは名乗れない。

 「ふーん」

 おばさんはそう言って、しばらく俺の顔をじっと見つめていたが、不審がっている素振りは見られなかった。

 「そういえば、ちょっと前に噂になったねぇ 犬神に取り憑かれて、環村の男共が、犬を買いあさったって」

 それから、溢すようにそう言う。

 「知ってるのですか?」

 やはり有名な話なのかもしれない。

 「そりゃまぁね。ほら、ここら辺て田舎で何もないでしょう? だから、話題がなくてさ、そういうような噂は直ぐに広まるんだよ。第一、実際に、あの村はそれで廃れてしまったんだしさ。ただ事ではないでしょうよ」

 ちょうど、そのおばさんの言葉が終るか終らないかくらいのタイミングだった。

 「その話、もっと詳しく教えて下さい!」

 「犬神って、この地方には、犬神の伝説があるのですか? 憑き物筋の家系が住んでいるとか?」

 そう二つの声が同時に聞こえたのは。

 「新村くん駄目じゃない。もっと、順を追って聞いていかなくちゃ。怪異に重要なのは社会的背景なのよ」

 そう発言をしたのは、田村鈴子という名前の、眼鏡の女。

 「田村さん、だって犬神だよ? 興奮せずにはいられないじゃないか」

 そう応えたのは、新村正という名前の、眼鏡の男。

 どちらも、この『怪異研究会』の最古参で、恐らく一番この調査を真面目に面白がっている二人だ。

 おばさんは呆気に取られている。

 「え? 憑き物筋? なんだい、それは……?」

 その台詞を聞いて、やたら残念そうな顔になる新村。その新村正の顔に向けて、田村鈴子は言う。

 「ほら。今という時代が、伝統をそのまま活かしているとは限らないのよ。犬神だとか、そういった憑き物は情報が激しく流通する過程で、そのほとんどは社会システム的なものから、単なる娯楽になってしまっている。憑き物の名前くらいは多くの人が知っているけど、実体は知らない人がほとんど。だから、犬神って名前で呼ばれているからって、古来より伝わっているそれと同じものだとは考えない方が良いわ」

 同じ古参でも、この田村という女は、社会現象的に怪異を捉えるといった発想に拘泥していて、やたらそういった言葉を使いたがる。それに対して、新村という男は、伝承に伝わっている怪異、その文化自体を喜んでいる。ただ、それは文化を大切にしようだとかいった殊勝なものではなく、むしろ単純な娯楽として楽しむ傾向の強いそれで、つまり新村は、できれば、それが本物であって欲しい、と信じたがる人間の内の一人なのだ。

 「大体、犬神が伝わっている地方じゃないじゃない。ここら辺は」

 社会科学的に捉えるとは言っても、田村鈴子も怪談好きの人間の内の一人、それなりにそういった関係には詳しい。

 「だからこそ!」

 それを聞いて、新村は反論する。

 「だからこそ、僕は興奮したんじゃないか。犬神がもし、環村にも旧くから伝わっていたんなら、大発見だよ」

 その時の新村が、我を忘れているのは明かだった(こいつは、怪異絡みになると、直ぐに我を忘れて興奮するのだが)。何故なら、犬神がどうこう、という噂話は、この調査を決定する以前から『怪異研究会』に届いていたのだ。別に新たな情報でも何でもない。

 俺がそう言うと、新村は、

 「だって、あれは僕らの中に飛び込んでて来た時点で、既に色々な人伝で、現地の話に脚色がされてあった可能性が捨て切れないじゃないか。でも、現地でも、“犬神”って事になってるのなら、これは発見の可能性があるかもしれないよ!」

 そんな事を興奮して語って来た。

 こういうタイプが興奮すると、少しの希望的なデータを誇張させて、やたら大事であるように扱いたがる。

 見ると、店のおばさんは俺達を見て呆れていた。

 まぁ、当然か。

 「すいません。こういう連中なんです」

 俺は何故か謝った。

 しかし新村は、そんな俺の謝罪の言葉を台無しにしてしまった。店のおばさんに嬉々として語りかける。

 「憑き物筋っていうのは、憑き物を持っている家系の事なんです。憑き物を使役できるとされている一族、の事。とでも言いましょうか。どうです? そんな家系は存在しませんかね?」

 どうも、まだ犬神が伝統的なそれである可能性をこいつは捨てていないようだ。

 田村はそれを聞いて飽きれた顔になった。

 ところが、それを聞くと、おばさんはこんな事を言ったのだ。

 「どうかねぇ? そんな話は聞いた事がないけど… でも、元々、犬神をあの村に持って来たのって、余所から引越して来た上戸って人だって言う話だから、多分、違うのじゃないかねぇ?」

 え?

 その話を聞いて、俺達は固まった。

 つまり、憑き物筋の家系が、引越して来た、という事なのだろうか? この土地に。それで、男達が犬を買いあさるという事件を引き起こしたというのならば、それは、もしかしたら、

 ―――。

 「本物?」


 それから一番精力的におばさんから話を聞いていたのは田村鈴子だった。憑き物という社会的な装置が作用するには、その為の文化社会的な土壌が必要、というのが(何処から仕入れて来た知識だかは知らないが)彼女の主張だからだ。もし仮に、環村で“犬神”が作用したというのならば、それに見合っただけの文化が存在していなくてはならない。

 だが、コンビニエンス・ストアのおばさんからでは、それほど詳しく環村の文化特性を聞く事はできなかった。ただ、それでも事件の経過の凡そは聞く事ができたが。

 環村はどうやら、僻地にしては珍しいほど物資に恵まれており、しかも豊かな自然に囲まれているから、暮らすのには適していると、嘗ては、ひっそりとではあるが話題になっていた土地で、その為に所謂“都会離れ”を夢見る人間が多くやって来ていたらしい。そして、もちろん環村の人間達も、そういった人々の事をある程度は受け入れていた。

 その現象は、村にインターネットが普及する事によってより顕著になり、そして、問題の“犬神”を持って来たとされている上戸という人物も、普及後に遣って来た内の一人であったらしい。

 この人物、最初から他の新住民達とは少しばかり違っていたようで、まず村の他の人間達と全く交流を持とうとしない。それは、他の新住民達にも少なからず見られた点ではあったのだが、上戸の場合、極端過ぎた。また、男性であり独り身であったらしいが、家には彼の他にも二、三人が住んでおり、それら全ては、どうも、犬の飼育の為に、上戸が雇い入れた者たちであったらしい。

 つまり、飼い犬を、それだけたくさん飼っていたのである。これだけでも普通ではないだろう。

 そして、上戸の職業を、村の住民の誰もが全く知らないでいた。上戸は、それを頑なに隠していたのだ。そんな贅沢な行いができるのだから、何かの仕事に就き相当に稼いでいなくてはならないはずだが、働いている素振りすらない。何しろ、家からほとんど出ないのである。もしかしたら、相当な資産家なのかもしれないが、だとしてもその行動は不自然過ぎた。

 そして、更に不気味な事に、上戸は犬を環村に移り住んだ後も尚買い求めていたらしいのだ。しかも、高級な犬ばかりを。引越して来た時に、既にかなりの数の犬を連れて来ていたのだ。これは、幾らなんでもおかしい。環村の人間でなくても怪しむだろう。

 そして、妙な噂話が囁かれ始める。

 上戸は、実は犬の霊…、“犬神”を使役していて、それで裕福な暮らしができる。そして、だから、更に多くの犬神を得る為に、犬を購入し、殺しているのだ。別に、こんな噂も流れた。犬の霊に取り憑かれている上戸は、犬の群で生活をするという性質を満足させる為、犬達に、犬を買い求めさせられている。

 もちろん、そんな噂を本気で信じる者などほとんどいなかった。だが、それから間もなくの事だったらしい。村の男達が、まるで何かに取り憑かれでもしたかのように、高級犬を買い求め始めたのは。そして、村は荒廃に向っていった。


 「―――本物! 本物だよ!」

 環村へと向うバスの中は、その話題で持ち切りになった。

 「本物の“犬神”だよ!」

 新村がはしゃいでいる。この新村の言う“本物”が、社会科学的な意味での“本物”の事であるのか、それとも、霊現象だとか、自然科学的な意味での“本物”の事であるのか俺には分からなかったが、恐らく、新村自身にも、それは分かっていなかったのではないかと思う。既に、認識の境界性をなくして、曖昧なままで、その全体を喜んでいるように思える。

 そんな新村に対して、田村は冷静で落ち着いていて、腕組をしながら、「あれだけの情報からだと何にも判断はつかないわ。もっと、村の文化を知らなくちゃ」などと、呟いている。

 郁子といえば一人、「それだけのたくさんの犬達は、一体、今は何処に行ったのかしらね? わたし、犬好きだから、見てみたいのよ」と、そんな外れた所に関心が向かっているようだった。

 ――そして里中は、

 ……何故だか、バスの中でも、俺はこの男の隣に座る事になってしまったのだが、

 里中は、俺が「お前はどう思う?」と尋ねると、こんな事を言って来た。

 「基本的には田村さんと一緒だよ。主体の外を観察する場合の、思考方法を思い出してくれ。全ては不確定に認識するしかない。情報が足らない状況下では、特にそれはそうなんだ。明確に判断はできない… けど、そうだな。その話からでも分かる点と、そして、疑問に思う点があるよ」

 「分かる点?」

 「うん」

 あっさりと頷くと、しばし逡巡したかのような仕草を里中は見せる。

 「文化と文化に差ができる事によって生じる、不調和。それが、環村に起こっていたって事は、取り敢えず分かる」

 俺はそれを聞いて、分からない、といった表情をしてみせた。

 里中はそれを見て説明を続ける。

 「これは、主体の外を観察する思考、それとも関係があるのだけど、というか、それができていない場合に起こる現象なのだけど、……うーん、戦前の日本の、共産主義者達に対する弾圧なんかが良い例になるかな? 当時の政府は、共産主義者達の事を危険分子として弾圧していたのだけど、実は危険な非合法活動を行っていた共産主義者は全体の極一部でしかなかった。しかし、他のデータは隠して、その危険な一部のデータのみを公表する事によって、一般の人に共産主義イコール悪者、というイメージを植え付けた。つまり、情報操作だね。一般の人の、隠れたデータが存在する可能性を自覚できない思考を利用して、都合良く操作したのさ。精神病患者が時折引き起こしてしまう猟奇的な事件のその凄惨な印象によって、本当ならば、一般の人間よりも遥かに危険性の少ない精神病患者を社会が迫害してしまう。そういった現象とも同じだね」

 俺はその説明を聞いて、しばらくの間考える。

 ……つまり、

 「つまり、上戸って人に関する情報が足らないから、本来の主体の外を観察する思考ならば、不確定に認識しなくてはならない所を、環村の人間達は、勝手に情報を補って、妙な噂話を作り上げて認識してしまったって事か?」

 里中はそれを聞いて、うんうんと頷く。

 「人は分からないモノに対して不安を抱くからね。だから、それを想像力で補って、無理矢理にでも確定してしまおうとする。環村の人達が、まずは行わなくてはならなかったのは、未知の存在である上戸って人のその行動の秘密を知る事だったんだ。多分、色々と方法はあったと思うから。そんな噂を作り出してしまう前にね。まぁ、その話を聞く限りじゃ、村の人達よりも、むしろその上戸って人の方に非はありそうだけども… それでも」

 「ふーん」、と俺は言う。

 都会から遣って来た上戸という人物と、環村の住民達とには、生活スタイルその他で文化的なギャップがあった。そして、文化と文化に差が生まれれば、何かしら問題発生の原因になる… って事か。

 「で、疑問点ってのは、何なんだよ?」

 そこで俺は、いつの間にかに、かなり里中に対してくだけた接し方をしている自分自身に気が付いた。まだ、ほとんど何も知らない里中に対して…

 …どうも、問題発生の要因は、未知の情報の存在や、文化と文化に差があるからといった事だけではなさそうだ。

 「疑問点は、何故、環村が物質的に恵まれる事ができていたのかって点さ」

 「うん? なんで、そんな事が疑問なんだ?」

 「疑問じゃないか。良いかい? 物質的に恵まれているって事は、何かしら産業が環村にあって、それによって金銭を得ている。そして、商品を購入できるってパターンが通常考えられる普通なんだよ。ところが、環村へと向う道のりは、僕達が今経験している通り、非常に不便だ。交通の便がこんなにも悪いのに、何故物質的に恵まれる事ができるんだ? それに、何か際立った産業が、環村にあるって話も聞いた事がない。人口も他の地域に比べると少ないだろうから、商業だって盛んになりはしないはずさ。絶対におかしいよ」

 俺はそれを聞いて納得する。

 「なるほどね。だけど、それは今回の調査と何か関係があるのか?」

 「それは調べてみないと分からないけど、多分、僕は関係があるのじゃないかと思っている。だって、そもそも、上戸って人が環村に引越して来た理由はそれなんだろう? 環村が、僻地であったにも拘らず、物質的に恵まれた場所だったから、都会離れをしたい人達に人気だった。社会現象ってのは、経済をも含めたシステムと深い関係があるんだ… 無視はできないと思うよ…」

 そこまでを里中が語った時だった。

 「犬神って、犬の神様の事?」

 そんな郁子の疑問符の声と、新村が必死に説明している声が飛び込んで来たのは。

 「うん。間違ってはいないけど、ちょっとニュアンスは違うかもしれない。“霊々”と書いて、“かみがみ”と読むのだけど、ここでの“神”はそんな感じかな?」

 その説明を聞いて、田村が言う。

 「あのねー 新村くん。確かに、古来の犬神の何かは今回の事件の犬神も受け継いでるかもしれないけど、同じものだとは思わない方が良いって何回も言ってるでしょう? そんなに明言しない方が良いと思うのよ。第一、文化風土が違っていれば、受け継いでいたって別物よ。別の作用の仕方をする別の存在になってるのだから」

 どうも軽い議論に発展しそうな様子である。それを尻目に俺は訊いた。

 「因みに、“犬神”についてはどう思ってるんだ?」

 里中は小さな声で答える(議論に加わりたくないのかもしれない)。

 「これも、基本的には田村さんと一緒だよ。古来より伝わっているものとは別物の可能性が大きいと思う。情報が足らないから、まだ分からないけどね」

 「基本的には一緒?」

 じゃあ、基本的じゃない部分では違うってことじゃないか。俺がそんな含みを持たせた声でそう発言すると、里中はやっぱり説明をして来た。

 「言葉には、実体があるって主張を知っているかい? ラカンっていう哲学者の言葉なんだけど」

 この俺が知っている訳はなかった。首を横に振る。

 「言葉には二つの性質がある。記号としての性質と、実体としての性質。猫でもCatでも、記号としての性質では同じだけど、実際は違うものだろう? 猫と表現するか、Catと表現するかで、伝わる影響は変わってくる。これは、言葉には実体があるからだって、まぁ、そんなような主張なんだけどさ」

 なるほど。

 俺はそれを聞いて思った。

 歌の歌詞を聴いてると、それはよく分かる。日本語で聴くのと、英語で聴くのとじゃ、リズムを無視しても、全然受ける印象は変わってくるのだ。

 「緑の怒りが、黒の昏迷に、様々な過程で、埋没しかけた」

 俺が納得をすると、里中はいきなりそんな訳の分からない事を言って来た。

 詩か?

 俺が不思議そうな顔をすると、里中はこう説明して来る。

 「今の文は、意味が通じないだろう? つまり、記号としての性質は機能していない言葉なんだ。だけど、そう言葉を発すれば、何かしら社会や人間に影響を与えることができる。これも、言葉が実体を持っているって一例さ」

 それを聞いて、俺は再びなるほどね、と思った。詩かなんかじゃないかと俺は里中の言葉を聞いて思った訳だが、記号としての意味を持っていない訳の分からない言葉でも、詩などになら幾らでも出てくるし、そしてそれらにはちゃんと効果がある。

 「そしてね、」

 里中は更に続けた。

 「言葉には実体があるのだから、言葉は実物を離れて、言葉自体で発展できるんだよ」

 「言葉自体で発展?」

 「そう。例えば、最近、携帯電話が略してケータイって呼ばれているだろう? そして、それで社会の中で、ちゃんと意味が通じている。携帯電話って文字は漢字で、漢字は表意文字だから、ケータイだけじゃ本来ならば意味が通じない。記号としての性質はこの時点で失われてしまっているはずなのさ。もし、携帯電話がこんなにも普及する前にケータイなんて言ったって社会で通じはしないよね? つまり、ケータイって言葉は、それ自体で実体を持ち意味を持ってしまったんだよ。時代の流れと共に」

 俺はそれを聞いて、しばし逡巡した。まだ、あまり納得し切れていない部分があったからだ。しかし、その疑問は何だか曖昧でモヤモヤとしていて、はっきりと“言葉”にはできなかったし、それで会話の流れを断つのもどうかと思い、俺はそのモヤモヤを無視して次を促すことにした。

 「なんとなくは分かったよ。で、その言葉の実体の話がさっきの“犬神”の話にどう絡んで来るんだ?」

 「言葉に実体があるって事はさ、本来ならば実体のない存在しないものだって、言葉を使えば存在させられるって事になるとは思わないかい? モノを表現する記号として、言葉が作られるのじゃなくて、逆に言葉がモノを作ってしまう」

 それを聞いて、俺はそれについて少し考えてみようと思った。だが、俺が何かを考える前に里中は続きを言ってしまった。

 「例えば、権利、罪、罰、なんかはそういったモノだよね? 本来は、自然界には存在しなかった。だけど、言葉によってそれを人間社会は、自らの内に存在させてしまった。そして、役立たせている。もちろん、言葉を機能させるのは社会だから、人間心理の影響も残した文化がこれには重要なんだけど…… そしてね、霊、妖怪、もちろん、憑き物なんかも、多分、これに入ると僕は思うんだよ」

 里中の言いたい事は、なんとなく、分かった。

 “犬神”。その言葉自体が持つ実体が、環村の“犬神”についても重要だと、そういったことが恐らく言いたいのだろう。田村の意見と重なる部分も多々ありそうだが、その認識が加わっている点で、里中の“犬神”に対する観方は、少しばかり違っているのかもしれない。

 つまり、そういう事か。

 基本的には一緒。

 の、

 基本的以外が分かった気がした。

 「一体、どれくらい事件の核心と、“犬神”が関わってるのかは不明だけどね。でも、もしこれがもっと縁起の良さそうなものだったり、明るい印象を与えるようなものだったら、きっともう少し変わってきていたと思うのさ」

 里中は、それから淡々とそんな事を語った。

 「だから、さ。まだまだ分からない事だらけだから、“犬神”が本物かどうか判断できないのは分かるよ。でも、さ、それは犬神が本物であるかもしれない可能性もあるって話だろう? もしかしたら、九州だとか四国辺りから、憑き物筋の家系が引越して来たのかもしれないじゃないか」

 それは、新村の声だった。里中の弁が終ると同時に飛び込んで来たのだ。どうも、田村との議論を続けているようだ。

 「だからねー もし仮に、上戸家が憑き物筋の家系だったからって、それが環村で機能するのはおかしいって私は言ってるのよ。環村の文化風土で、“犬神”が元からあるのだったら話は別よ? でも、そんな可能性はなさそう。なんで、引越して来た別の人の文化に、環村の人達が合わせなくちゃいけないのよ。大体、環村の人達が、犬神ってものがどんなものなのか、詳しく知ってるはずないじゃない」

 「今の時代は、情報が激しく流通しているんだよ? 知っていたっておかしくはないさ」

 「ただ、知ってるだけじゃ無意味なのよ! 文化的装置ってのは!」

 かなり白熱している。

 一方、この議論の発端であったはずの郁子は、自分のした質問の事なんかとっくに忘れてしまっているようで、関係のない顔をして、「シベリアン・ハスキーいないかなぁ? 大きくなり過ぎるとか、飼うのは難しいとかっていうけど、可愛いから、触るだけなら、触りたいのよねー」などと、独り言を言っている。

 「ね?」

 俺に向って、そう同意を求めて来た。

 知らん…

 俺は心の中でそう呟いた。


 バスがバス停に着いても、まだそこは環村ではなかった。否、環村の敷地内には入っているらしかったが、民家などは少しも見当たらなかったのだ。これでは、誰かに話を聞く事などできるはずはない。それで、結局、俺達は歩く事になった。歩くしかなかったのだが。

 バスの運転手さんに教えてもらった道をただ進む。

 昔、暮らしに適していると評判であった頃は、もっと交通の便が良かったらしい。だが、犬神の事件以来すっかり人の行き来が途絶えてしまい、行き来が途絶えれば、交通手段は失われてしまう。

 ただ、その名残なのか、一応、しっかりとした道はまだ残っていた。

 皆、その道を無言で不機嫌に歩いた。もうかなり疲れていたし、誰も好きこのんで徒歩で進みたくはない。しかしその中で、唯一郁子だけが何故か上機嫌だった。

 「犬神の事件で買われた犬たちが捨てられて、野生化して、群れてたりしてねぇ そうしたら、わたし達、襲われちゃうかも!」

 なんだか、怖い妄想をして喜んでいる。そういえば忘れていたが、郁子はこういった事を苦にするタイプではないのだ。歩くのが大好きで、わざわざ徒歩で行かなくても良いような所にまで徒歩で行き、俺はその散歩によく付き合わされたりもする。

 もちろん、その段階では、郁子の言葉なんかを真に受ける者は一人もいなかった。しかし、そうして聞き流しながら歩いている内に、ポツリと田村鈴子がこんな事を言ったのだ。

 「日が暮れたら、ちょっと危ないかもしれないわね…」

 皆、環村に到着するまで、どれくらい時間がかかるかを知らなかった。だから、大体の見当を付けて出発時間を決めた訳だが、どうやら予想以上に時間がかかってしまっているようだ。後どれくらい歩くのか分からないが、だから、日が暮れてしまう可能性は充分にあった。

 その言葉で郁子以外の全員は焦ってしまったようだった。雰囲気でそれが察せられた。何だかんだ言って、田村鈴子はこの集団の中で、頼りにされている賢明な判断力を持った人間の一人なのだ。その彼女がそう口を開くからには、それなりの信憑性がある、と、皆思ってしまったのかもしれない。

 疲れていて、物事をネガティブに受け取りがちになっていたという事もあるだろうが。

 “犬が襲ってくる”

 そして、そこに郁子のそんな発言が重なって来る。

 田村は恐らく、犬の事を念頭に入れて口を開いた訳ではなかったのだろうが、しかし、自分の言葉で皆が影響を受けて不安になると、その皆の不安に当てられて、徐々に自分自身も不安になり始めたようだった。そして、その田村の気配を読んで、更に周囲の不安は加速する。

 個と集団の、相互作用だ。

 ただし、木下郁子以外。

 彼女だけは呆気らかんとして、妙に明るい。そして、皆がそれに救われていた感も少しはあった。

 「虫除けスプレー、かけておいた方が良いわよー みんな」

 かばんの中から、色々なモノを取り出している。その中には、懐中電燈もあった。そういえば、辺りは暗くなり始めている。

 「これで道を照らして歩きましょう」

 田舎の夜は本当に暗い。真っ暗闇だ。もし本格的に日が暮れてしまったなら、足許は見えなくなる。それに、道は基本的には一本道のようだが、視界が悪いと地図にも載らないような小さな脇道に迷い込んでしまうといった危険性だってある事はある。もちろん、田んぼやドブ川に落ちてしまう危険性も。

 明かりは必要だろう。

 皆、無言で郁子の提案に同意を示した。

 夕暮れで、オレンジ色が印象的に辺りを包む。綺麗だったが、それと同時に恐ろしい気配も立ち昇っていた。

 誰ぞ彼、刻。

 黄昏刻。

 そこにいるのが誰だか判別が付かなくなる刻、それが、黄昏刻、という言葉の語源なのだという話を俺は思い出していた。

 本当に、誰だか分からなかったのだ。

 隣に並んで歩いているのが、郁子なのか、田村なのか、新村なのか、里中なのか、まるで分からない。だから、想像をしてしまう。もしかしたら、そこにいるのは人ではない他の何か、なのではないか?と。

 圧倒的な闇が降って来るのを予感し、俺はそんな妄想を抱かない訳にはいかなかった。

 足音を聞きながら、その足音の数を確認したくなる。しかし、ここまでの人数になると流石に音では判断が付かない。誰か一人くらい増えていたって、或いは減っていたってそれに気付く事はないだろう。だがしかし、もちろん、視認もできない。“分からない”、のだ。分からないと想像力が膨らむ。こんな田舎の道だ。何がいたって不思議じゃない。それが不思議じゃなくなる空間がそこには広がっている。

 圧倒的な自然の闇。

 ざっざっざ

 ただ、ただ、足音。

 なるほど、情報が足らなくて不確定な状況下ってのは不安だ。怖い。

 俺はその中で、里中の話を思い出し、それを実感していた。

 しかも、全く見えないのじゃない。気配があるのは分かる。だからこそ、不安になる。

 何かで補って、その不安を消したくなるのも無理はない。

 だから、人はそれを創ってしまうのだ。

 以前に、田村や新村から、妖怪は境界線に沸くのだという話を聞いた事がある。自分達の世界と、他の世界の“境界線”にそれは沸くのだと。今ならば、それを俺は理解できる。“分からない”世界が観えてしまうのだ。境界線に立つと。

 薄闇の田舎道が化け始め、徐々に闇の濃い人でないもの達の時刻になり始める。夕焼け空の綺麗なピンク色は、いつの間にかに赤黒い、グロテスクなものへと変わっていった。

 「郁子」

 なんとなく、俺は郁子の名を呼んだ。

 もう辺りはかなり暗い。

 俺はすっかりお化けとでも一緒に歩いているような気分になっていた。

 心細かったのかもしれない。

 しかし、

 「何よ?」

 そう郁子が言って、懐中電燈の明かりがこちらに向けられると、それに照らされた俺達は、やはり俺達でしかなく、それ以外の何者でもなく、しかもいきなりで強い光を向けられ竦んだその姿は、かなり間が抜けているようにすら見えた。

 その一時、皆は足を止めた。

 「何でもない」

 俺がそう応えると、落胆したかのような空気が流れ、皆はまた歩きだそうとする。疲れているのだな。全員。

 当たり前か。

 俺はその空気に触れてそう思い、何か悪い事でもしたかのような気分になった。しかし、郁子がまた明かりを前へ向けようとし、再び皆が足を上げたその時だった。前方に、何かの気配が迫って来る。

 荒く、息をする音。

 ハッハッハッ

 軽い足音、地を蹴る感じ。

 それは、間違いなく獣の気配だった。

 皆、その気配の所為で動きを止めた。郁子が懐中電燈の明かりを向ける。まずは、光が反射して目だけが見えた。集団ではない。一匹だ。犬。しかし、俺はその顔を見て驚愕してしまった。

 オオカミ!

 一瞬、本気でそう思った。しかし、それが狼であるはずがなかった。俺は犬と狼の外見上の違いを見分けられはしないが、それだけは分かる。その姿は知ってるものだったのだ。既知の存在でありながら、俺にオオカミを連想させたその犬の犬種は…、

 「シベリアン・ハスキー!」

 郁子がそう喜びの声を上げる。

 そう、その犬は般若を思わせる顔を持つ、シベリアン・ハスキーだったのだ。暗い夜道の怪しげな気分の時に、あんな顔をいきなり見れば、誰だって混乱する。

 シベリアン・ハスキーは特別俺達の事を敵視しているようには思えなかった。しかし、警戒を解いている訳でもないようで、こちらの様子をじっと覗っている。郁子が予想した通り、このシベリアン・ハスキーは、例の事件の所為で野良になってしまった犬の内の一匹なのだろうか? だが、それならば単独でいるのはおかしいようにも思う。犬は群れて生活をする動物だ。野良になってしまった犬が一匹だけでないのなら、群を作っているはずである。

 「おいで」

 その内、郁子は喜びの表情を見せながら犬にそう言って近づいて行った。俺は止めようかとも思ったが、どうせ無駄だし、何故だか無根拠で大丈夫なようにも思えたので、そのまま放っておく事にした。

 犬は最初、警戒をして後ずさりをしていたが、ある程度郁子が近付いてしゃがみ込むと、180度態度を変え、尻尾を振って嬉しそうに郁子に駆けていった。

 郁子の手の平を舐めている。どうやら、なにかお菓子でも上げているようだ。

 郁子は犬を撫でながら、「可愛い、可愛い」と連呼していた。俺達はその姿に向けて、戸惑いながら近付いていく。

 郁子は前を向いたまま、後姿で説明をする。

 「犬は、小さい相手に、より警戒心を解き易いのだよ」

 なるほど、だから郁子はしゃがんだ訳だ。

 「身体が小さい方が、威圧感を感じないからね」

 田村鈴子が微妙に悔しそうにしてそう続けた。郁子はそれを聞いているのかいないのか(聞いていても気にしないが)、それには構わず、

 「んー なんか変よ、このこ」

 と呟いた。俺は「何が?」と尋ねようとしたのだが、その時、不意に、

 「チョビー」

 と、そんな声が聞こえてきたので、それを止めてしまった。

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