みちのく福袋
「2011年3月11日の東日本大震災はマグラチュード9.0
と史上最大規模。死者不明者は約2万人。福島の原発事故と
共に、日本人の意識を根底から揺さぶった。(東ニ本題震災)」
「マルコポーロのジパング黄金伝説のモデルは、平泉の金色堂
である(ジパング伝説)」「荒城の月の作詞者・土井晩翠は
180曲近くの校歌もつくっていた(校歌)」など、東北地方に
関連する興味深い人物や事件の数々。
みちのく福袋
━東北地方に関連する
人物・事件の数々━
「2011年3月11日の東日本大震災はマグラチュード9.0
と史上最大規模。死者不明者は約2万人。福島の原発事故と
共に、日本人の意識を根底から揺さぶった。(東ニ本題震災)」
「マルコポーロのジパング黄金伝説のモデルは、平泉の金色堂
である(ジパング伝説)」「荒城の月の作詞者・土井晩翠は
180曲近くの校歌もつくっていた(校歌)」など、東北地方に
関連する興味深い人物や事件の数々。
<目次>
○2011年東日本大震災/第3の原爆投下/津波の現場/
2011年4月/貞観大津波と貞山堀/負けないで
東海・東南海・南海3連動地震/喪失感と痛み
仙台の戦災復興計画
○仙台牛タン事始め/「牛タン焼き」の発祥は終戦後。
山形県出身の料理人・佐野啓四郎が、仙台市一番町
3丁目に焼き鳥屋を開店した事に始まる。
○宮城野/楽天球場の土地は、平安朝の貴族が萩の花を
歌に詠んだ宮城野と呼ばれる野原だった。ここに
樹齢1300年程の銀杏の古木がある。
○桜/平安後期の桜を熱愛した歌人・西行は、生涯二度、
奥州藤原氏の都・平泉を訪れた。束稲山
に咲く1万本の山桜にここは吉野山かと驚嘆した
○松/仙台の南・岩沼宿に日本三大稲荷の1社、
竹駒神社がある。芭蕉は、神社北側の武隈の松を
めでたき松と称えた
○国見八景第一景「大崎八幡神社」仙台城下鎮守の
国宝・大崎八幡神社。司馬遼太郎は桃山様式を見た
ければこれを見よと絶賛した。
・国見八景第二景「南山閣」/明治・大正の頃、
国見の一角に南山閣という別荘があった。ここに
正岡子規、与謝野鉄幹、土井晩翠らが訪れ詩想を練った
・国見八景第三景「龍雲寺」/この寺に林子平の墓が
ある。子平は海国兵談を著し海軍の重要性を説いた。
この本の重要性を見出したのは幕末の吉田松陰だった
・国見八景第四景「北山五山」/仙台藩祖・伊達政宗は
北山丘陵に五山を設けた。資福禅寺開山の虎哉宗乙は
政宗の師。光明禅寺には支倉常長の墓がある
・国見八景第五景「輪王寺」/ 京都五山の別格は南禅寺。
北山五山の別格は輪王寺。開山は室町時代。庭園が
美しい
・国見八景第六景「荘厳寺」/ 伊達62万石分裂の危機を
描いた山本周五郎著・樅の木は残ったの主人公・原田
甲斐屋敷の門が移築されている
・国見八景第七景「大願寺横丁」/ 1945(昭和20)年
7月10日の仙台空襲で1066名が死亡し、108体
が大願寺に葬られた
・国見八景第8景「芹沢美術館」/ 東北福祉大学構内に、
染織家・芹沢銈介美術館がある。 芹沢は民芸運動の
柳宗悦を師と仰ぎ、型絵染の技法を極めてゆく
○相馬黒光/(新宿中村屋創始者)/明治の仙台に
生まれた星良は、東京帝国大学前に中村屋というパン屋
を開く。夫の愛蔵はシュークリームをヒントにクリーム
パンを考案し大ヒット。
○カリーライス/新宿中村屋の相馬愛蔵は英国のお尋ね者・
ボースを匿った。彼は黒光に本格インドカリーのレシピ
を伝授した。
○中村屋サロン/新宿中村屋には明治・大正・昭和を
代表する文化人が集まる不思議な磁場があった。
○ユネスコ外伝/ 終戦直後の仙台で、上田康一は仙台
ユネスコ協力会という、世界初の民間ユネスコ運動
組織を立ち上げた。
○八甲田山/1902(明治35)年1月25日、
青森歩兵第5連隊210名が八甲田山で凍死すると
いう事件が起きた
○ジパング伝説/マルコポーロが中国東方にチパングと
いう黄金の国があると東方見聞録に書いたが、
モデルの建物は平泉の金色堂だと思われる
○小説と史実の間/平安時代末期、平家と源氏、奥州藤原
3大勢力が並立していた。それは和製三国志とも言える。
だが奥州藤原氏には謎が多い
○校歌/荒城の月の作詞者・土井晩翠は、約180曲の
校歌を作詞した。校歌は世代を越えて歌い継がれて
ゆく隠れたロングセラー
○水の味/ニッカウイスキー創業者の竹鶴政孝は、
北海道積丹半島の余市と、仙台宮城峡に蒸留所を設置
した。余市の水からは男性的なモルトが、宮城峡からは
女性的なモルトが生み出される
○北畠顕家/南北朝動乱。誰が敵やら味方やら。複雑怪奇に
入り乱れた時代。若き貴公子・北畠顕家は奥州兵と共に
打倒足利尊氏の兵を挙げた
○北畠顕信/南朝は崩御した後醍醐天皇の後をうけて
義良親王が後村上天皇として即位。そして奥州平定に
向かったのは、戦死した北畠顕家の弟・顕信だった
○青葉城//奥州藤原氏滅亡後、多賀城付近は留守氏が
千代は国分氏が支配していた。慶長5年に伊達政宗は
千代を仙台に改めた
○多賀城/大和朝廷は広大で豊饒なる土地を求めて軍隊を
派遣し、陸奥鎮所を置いて新田開発を行った。後の
陸奥国府・多賀城である
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o
○2011年東日本大震災/第3の原爆投下/津波の現場/
2011年4月/貞観大津波と貞山堀/負けないで
東海・東南海・南海3連動地震/喪失感と痛み
仙台の戦災復興計画
○第3の原爆投下
大地震といえば宮城県の場合、
1978(昭和53)年6月12日
のM・7.4/震度5の宮城県沖
地震だった。死者28名、建物
全半壊7400戸。この時の
津波は、仙台港で30センチ
だった。過去に30~40年周期
で大地震に見舞われている為、
30年以内に大地震の確率80%
と言われ続けていた。
で、来たと思ったら2011年
3月11日14時46分宮城県
牡鹿半島沖約130kmの海底
24kmで、マグニチュード
9.0(史上最大の大地震)が発生。
東北から関東の広範囲で10
メートル超の大津波が襲来した。
海洋研究開発機構は東日本大震災
の震源域で、日本列島が乗った
北米プレートが太平洋側に約50
メートル移動して、約7メートル
隆起したと発表した。
1995年1月の阪神大震災が
マグニチュード7.3。死者
6434人。2010年の
ハイチ大地震がマグニチュード
7.0で死者31万6千人なのに
対して、東日本大震災はマグニ
チュード9.0。マグニチュードは
1上がるごとに地震エネルギーは
30倍になるという。マグニ
チュード9とは、7クラス地震の
30×30=約1000倍。
それは三陸から茨城沖にかけて、
3000メガトンの核弾頭が一斉に
爆発する威力に匹敵するという。
米中露などの1メガトンの核弾頭が
東京上空で炸裂すると、960万人
が即死して首都壊滅する。それが
3000発。第3の原爆という表現
は、あながち的外れではないだろう。
長崎原爆で被災した美輪明宏さんや、
広島原爆で被災した長老、東京大空襲
を語る
小沢昭一さんなどが、今回の東日本大震災
による大津波現場を見て、広島・長崎の
原爆投下後+大空襲後の廃墟と同じだと
語っている。
私が仙台市宮城野区の蒲生海岸と、
名取市閖上の廃墟に立ってみて体感した
のも、やはり原爆投下直後の広島・長崎
の写真であり、映画では「戦場のピア
ニスト」後半に出現する、瓦礫の山と
化した町の中と一致した。日本に第3の
原爆が投下されたのだと。
広島8月6日8時15分17秒に投下
された原爆・リトルボーイは、43秒
落下し、8時16分に摂氏数千度の
ファイアーボールを発生させた。この
瞬間まで広島市民の誰もが、普通に生活
していた。原爆投下後の町は、夏だと
言うのに蝉も鳴かず、市電も自動車も
物売りの声もせず、不気味なほど静か
だった。仙台市宮城野区蒲生や名取市閖上
のの現場に立った時、これと似た静寂が
あった。閖上では浜辺近くで動く重機の
音が、唯一人間の生活音と言えた。鴎や
猫の姿もなく、植物の緑も見つからない。
不気味な死の町と化していた。
原爆投下後の広島は、軍が道路の遺体
を道路の両側に積み上げて救援道路を
確保し、街の膨大な数の遺体は穴を
掘って重油をかけて焼いた。この惨状は
ハイチ大地震の現場に近いかもしれない。
これらの遺体は8時16分まで普通に
生きていたのだ。記録に残る最期の言葉
はNHK広島中央放送局の古田アナウン
サーが発していた警戒警報だった。
「8時13分、中国軍管区発令。敵大
型機3機、西条上空を西・・・」
彼は死の瞬間まで、ごく普通に生きて
いたのだ。
まさかこのエピソードをもう一度書く事に
なろうとは、思ってもいなかった。
2011年3月11日14時46分の
30分後、岩手県大船渡市に8m超、
宮古市に19m超、宮城県女川町に
17.6m、南三陸町に15m超の大津波
が襲来した。南三陸町防災センター・危機
管理課の遠藤未希さん(24歳)は、防災
センター庁舎で、津波警報を流し続けて
いた。最初は「10mの津波が来ます、
ただちに高台に避難ください」だった。
すぐに13mに修正された。だが防災
センターを呑みこんだのは15mの津波
だった。15時20分頃だと思われる。
5月2日、沖の海から彼女の遺体が発見
された。彼女は9月に挙式の予定だった
という。死にたくなかっただろう。
彼女の決死の言葉に突き動かされて避難
行動をとり、命を救われた人も多いだろう。
しばらくそちらで休養していてください。
そのうちに町も人も、あなたが生まれ
変わりたいと思えるように再生しています
から。被災地には広島風お好み焼き隊も、
長崎チャンポン隊も来てくれました。
いずれ生まれ変わったならば、南三陸町
名物をひっさげて、どこかの被災地に
出向いてください。
○津波の現場
3月20日、私は自転車で原ノ町から梅田川
河川敷を進み、福田町の七北田川福田大橋から
東に進んで蒲生海岸を目指した。海岸から
5キロ内陸の福田大橋近くの川中に、津波
で流されてきた家があった。だが付近の建物
は無事。家庭菜園の畑も見うけられた。
高砂中学辺りから、道路上に破壊された家の
部材などの散乱が目立ち始める。この辺りに
桜並木+公園がある。あと20日もすれば
満開の桜が咲き乱れるだろう。手前の堀に
JR貨物のコンテナと車が一台転がっている。
シュールな光景だ。
ここから先は倒壊し、津波で流された家屋の
残骸だらけとなる。川の河川敷に、あるはずの
ない家が建っており、高砂橋の下にも家が
刺さるようにして建っている。道端に積まれた
材木片の向こうに、地蔵堂+お地蔵さんが
そのまま生き残っていた。
見渡す限り倒壊した家屋の残骸の光景。中野
小学校の校舎は大破していて、四角い構造物が
校舎の2階に突き刺さっていた。蒲生の海岸
に続く道は破壊され、どこが道だったのか
わからない。海岸には濃い松林があった
はずなのだが、疎らに木が見える。あの木
の先に高砂神社から蒲生干潟に面した、標高
6mの日和山。大阪市天保山(標高4m)に次ぐ、
日本で2番目に低い山があった。山頂のベンチ
に腰掛け、干潟の鳥たちを愛でながら、
暖かい陽射しの中でくつろぎ「のどかだ!!」
とつぶやいていた思い出が甦る。視界の先に
蒲生海水浴場とバードウォッチングの干潟。
鯉の洗いの店「すなぎ屋」と鯉の生け簀や、
乗馬クラブなどもあった。
津波で破壊され尽くした光景の中に立つと、
ただただ茫然としたまま、七北田川河口の
水面を眺めるより他なくなる。路上に人は
いるが、誰もが無言で、恐ろしく静まり
返っている。テレビでは「家はなくなった
けれど、命は助かりました」
というメッセージを耳にするけれど、家が
無くなる喪失感というのは、こういう茫然と
した薄ら寒い静けさなのだろう。絶句と
深い感情を押し殺したような静寂と、死者
たちの無念の声が、心の中で鈍痛のように
こみ上げてきた。
被災地は第3の原爆投下に例えられ、数々の
修羅場を潜り抜けてきたカメラマン、不肖
宮嶋をして「カメラマンになった事を後悔
した」と言わしめた現場なのである。
未だに未発見遺体が埋まっているだろう場所
である。車椅子が運河の中にあり、子供の
靴やぬいぐるみが散乱し、現場に立った
被災者が涙も出ぬまま絶句して、茫然と立ち
尽くした場所である。テレビで現場を取材
して伝える記者やレポーターが、思わず
こみ上げてきた感情を抑えられずに泣き出す
シーンをよく見かける。泣くよな、そりゃ。
仕事でなければ、沈黙と静寂の中で、ただ
ただ祈っていたい心境だった事だろう。
<朝日新聞立川支局・三浦英之4月10日
記事>
遺体はどれも、一ヶ所に寄せ集められたように
折り重なっていた。リボンを結んだ小さな頭が、
泥の中に顔を埋めている。細い木を握りしめた
ままの30代男性がいる。消防団員が教えて
くれた。
「津波は引くとき、川のようになって同じ場所
を流れていく。そこに障害物があると、遺体が
いくつも引っかかってしまう。」
遺体は魚の腹のように白く、ぬれた蒲団の
ように膨れ上がっている。涙があふれて止まら
ない。隣で消防団員も号泣していた。
震災翌日から現地に入り、18日間取材を
続けた。最初の数日はまともに記事が書けな
かった。目の前の惨状に、何がニュースか
わからなくなり、気がつくと空ばかり見ていた。
「なぜ、こんなにも多くの人が―」瓦礫の
中を歩くたびに、怒りと悲しみに満ちた疑念
が、胸の中に押し寄せた。
被災地では、土砂にまみれた時計の多くが、
地震が起きた午後2時46分ではなく、午後
3時20分前後で止まっていた。津波が押し
寄せた時間だ。多くの命が奪われたのは、
地震発生直後ではなく、おそらく約30分後
のことだ。
そう思うたびに胸が張り裂けそうだった。
30分は決して長くはないが、何かしらの対策
を講じることができた時間だからだ。その
与えられた時間を有効に使える対策や手だてを、
私たちは事前に準備することが出来ただろうか。
答えはたぶん「ノー」だろう。今回の津波では、
海岸沿いに建てられた病院や老人施設で、
たくさんの人が亡くなっている。多くの人が
車で移動し、避難所さえも津波で呑まれた。
私たちが真っ先に取り組むべきこと。それは
あの30分に人々がどう動いたのかを克明に
記録・検証することだと、私は思う。それを
新しい国や地域の仕組みにいかした上で、後世
にしっかり語り継いでいこう。
・津波の現場<2>/3月30日・名取閖上
蒲生の現場に行った10日後、私のマウンテン
バイクは、国見・伊勢堂山を駆け下り、土橋
から広瀬川に架かる澱橋、大橋、評定河原橋、
霊屋橋を渡り、愛宕橋から河川敷遊歩道に
出て長町の広瀬橋から、河川敷下の道を千代
大橋のたもとまで進んだ。
この間大震災や大津波の影響を思わせる
光景は一切無く、気温も春を思わせる10度
あたりまで上昇し、誠にのどかで平和な光景
だった。思わず「♪ 広瀬川 流れる岸辺♪」
という鼻歌を歌いたくなる、川のせせらぎと
雲雀の鳴き声が聞こえていた。
千代大橋から仙台バイパス歩道を南下。
「どこがガソリン不足なんじゃい」
と思うほどの交通量で、上り車線は渋滞気味。
だがやはりガソリンスタンドに並ぶ車の列は
見かけられた。名取川に架かる名取大橋を
渡ってすぐ、河川敷の道へと曲がる。河川敷
に広がる畑は何事もなく、ビニールハウスも
無事。川中には流木も家も車も無く、いつも
と変わらぬ平穏な光景が続いていた。
袋原地点でこの先堤防工事中との事で、河川敷
道を降り袋原の住宅地を東進。この辺りも
いつもと変わらぬ日常の光景が続いている。
だが仙台東部道路の高架橋の下から、光景は
一変する。明らかに閖上内浦のヨットハーバー
から流れ着いたであろう小型クルーザーが
高架下にあり、家屋の材木が散乱。道を塞ぎ、
通行が困難になった。河川敷上の道が空いて
いたので、自転車を降りて引き歩きしながら、
潮でぬちゃぬちゃする瓦礫の山を進む。
生臭い異臭がたちこめている。民家などの
野菜や魚の腐った臭いだと思いたいのだが、
津波は大量の砂と土砂を伴って押し寄せ、
家も車も人体も押し流してから引いていった。
土砂のやや深い個所に人体が埋まり、その上
に家屋の木材などが覆いかぶさったまま
だとしても、おかしくない現場だった。
漂流物の中に、幼児用の水色の靴が片方だけ
転がっていて、胸が痛んだ。
河川敷上から見る名取側河口付近の水面は、
穏やかだった。前方に松の緑を発見。閖上の
シンボル「あんどん松」だ。
「生き残ったか!! 」
あんどん松は伊達政宗が遠州から取り寄せ、
閖上湊と仙台城を結ぶ街道に植えた松並木と
いうから、樹齢400年程。かつては2km
にわたっていたそうだが、今でも530m間
に69本が残る。幹の平均直径75センチ。
樹高30mの黒松である。閖上の人だろうか、
樹の根元の漂流物を、座敷を刷き清めるように
清掃していた。
古樹はその土地に深く根ざした地霊である。
神秘思想家のシュタイナーは、大地に流れ
植物に働きかける国土の光を「光エーテル」
と呼び、土地と深く結びついた琉球・アイヌ・
大和民族は光エーテルの強い民族だと語った。
その民族魂(民族霊)を体験するには、植物
を体験する事だと。そして司馬遼太郎が断言
する如く、日本は松の国なのである。
植物にはそれぞれの性格があり、感情がある。
大津波の大災害でどれだけの松が犠牲に
なった事か。樹齢200年の陸前高田の
ド根性松は、仲間たちを想って慟哭していた。
自らも海水の塩分に苛まれ、深く傷ついて
いた。彼だけではない。岩沼の武隈の松
も、多賀城の末の松山の松も、あんどん松
たちも、身を震わせながら慟哭していた。
あんどん松に挨拶した後、河川敷堤防下の道
を進む。家の輪郭が残っていて、内部だけが
ごっそり津波にやられていた。しばらく東に
進んでから右折して閖上の町へ入る。残骸、
残骸、また残骸。無事な建物など1つも
無い。町1つが「壊滅」するとはこういう事
なのだ。住宅地も多かったが、かまぼこ工場
や会社の事務所など、コンクリート製の小ビル
もあったと記憶している。ただどこが魚市場
でどこがヨットハーバーだったか、記憶が
追いつかないほど、わけがわからない状態に
なっている。道路は砂でジャリジャリし、
コンクリートと剥き出しの鉄骨、潰れた家の
廃墟と化していた。
商店街跡には、潰れた家に魚屋の看板。変形
した自動販売機。かつて私も食事をした食堂。
幼稚園も小学校も潰れていた。寺も大屋根に
潰されていた。という事は墓も流されたか。
神社はどこにあったのかすらわからない。
瓦礫の山の中で唖然・茫然としていると、
だんだんに「この世は夢ぞ、ただ狂へ!!」
と、南北朝動乱で京の都を焼かれた民衆の
ように、半ば発狂して踊り出したくもなって
くる。体力と気力がひどく減退し、沈黙と
苛立ちが交錯するのだった。
○2011年4月
3.11後、仙台市は電気・ガス・水道
のライフラインがストップ。電気は2日後
に復旧したが、断水+都市ガス復旧は場所
によって1ヶ月かかった。
4月7日午後11時32分ごろ、宮城県沖で
M7.1の大地震が起こり、震度6強の
激しい揺れを観測した。近所まで大阪
ガスの工事屋さんが来ていたのに、都市
ガス復旧=風呂が延期になった。毎日震度
4~5の余震が続いていたが、6弱はひと味
違っていた。コンビニは未だに部分的再開
にとどまり、スーパーには行列+整理券
配布の入場制限+1人10点までの買い物
制限という状態だった。
じゃあ何処で食品を購入していたかと言えば、
普段ならば立ち寄りもしない八百屋、魚屋、
肉屋などの個人商店+老舗の仙台味噌屋、
蒲鉾屋、仙台駄菓子屋などだった。場所は
八幡町、木町、荒町などを自転車で駆け
回った。街中にはリュックを背負った
にわかチャリ族の買出し人で溢れた。
11日の3日後に街に出てみたが、電気・ガス・
水道が止まっていた為、たいていの飲食店は
閉まったまま。炭火焼きの牛タン店が奮闘している
くらいだった。そんな中、藤崎デパート向かいの
白松が最中中央通店に少し行列が出来ていた。
握り飯やインスタント麺のやきそばなどが続いて
いた為、老舗の甘味は何よりだと思った。ひと口
サイズのミニ最中だけだったが、10個入手。
白松の創業は昭和7年。最中のパリッとした皮は
宮城産の粳米(もち米)。餡は十勝産大納言小豆+
大福豆白餡+ゴマ餡+栗最中の4種類。非常時の
疲れていた時に家族揃って食べた最上級の甘味
というのは、記憶に深く刻まれた。無論家が倒壊
せず、家族が無事だったからの味なんだけどね。
仙台駄菓子の1つ「太白飴」。広瀬町の兵藤飴
老舗は創業明治17年。もち米を蒸して麦芽を
加えて糖化させ、出来た水飴を煮詰めて純白
長方形につくった、自然食品である。飴は
日本書紀にも記された、日本古来の甘味である。
そんな由緒ある飴屋ながら、いつもは素通り
していた。一袋20個以上入っていて300円。
それを包装紙で包んでくれる。さすが老舗
だった。自然な淡白な甘味がいい。太白とは
愛の星・金星の事。愛の星金星の甘さに慰め
られた。
○貞観大津波と貞山堀
大津波の被害といえば、岩手県三陸海岸の
明治三陸大津波やチリ地震津波の印象が強い。
1896(明治29)年6月15日午後7時
32分釜石東方200キロ、M8.2~8.5
の地震発生。30分後、北海道の襟裳岬で
4m、青森県八戸で3m、岩手県宮古で
14.6m、大船渡で22.4m。死者は
2万1915名に達した。
徳川家康の駿府記に慶長16(1611)年
12月2日・慶長三陸津波の記述に「伊達政宗
所領海涯人屋波涛大漲来・悉流出す溺死者
5千名余」とある。現在の岩手県宮古・釜石・
陸前高田・大船渡は全て気仙郡であり、仙台藩
の所領なのである。(気仙沼・志津川などは
本吉郡)津波は内陸から約5kmの若林区霞の
目辺りまで押し寄せたと、浪分神社の創建
記録にある。
さらに平安時代の貞観11(869)年旧5月
26日夜半、M8.4の巨大地震が発生。
陸奥国府・多賀城城下に津波が来襲し、
死者4千人余。大地震の発光現象で、昼の
ように明るくなったという。この時、仙台
平野の内陸3kmまで津波の痕跡が確認
されている。だが海岸線は延々砂浜で、
河口は大湿地帯であまり人が住んでいな
かったため、仙台方面の被害は少なかった
だろう。
伊達政宗が着工を命じた貞山堀は、石巻の
北上川河口から鳴瀬川河口・塩釜・多賀城
を経て、仙台の名取川・亘理の阿武隈川
河口まで60キロを掘削した日本一の
長さを誇る大運河である。かの司馬遼太郎
も{街道をゆく・仙台石巻編」を書くに
あたり、真っ先に訪れたのがこの貞山堀
である。南部藩と大崎平野の米は北上川から
石巻に集積され、阿武隈川の湊から江戸に
向けて積み出された。江戸時代初期、江戸
で消費された米の3分の2は、仙台米だった
という。仙台藩は巨大な米穀商だった。
貞山堀は、仙台藩が政宗時代から明治まで
総力をあげて取り組んだ大土木工事である。
両岸の松並木や防風・防砂林も、軟弱な
砂の地盤を固める目的もあって、こつこつ
と植林してきたものだ。だが今度の大津波
でことごとく流された。工事に携わった
全ての祖先の無念さが私の中に流れ込んで
きた。
歴史とは人類・民族・個人の夢が自分の夢
として受け取り、その感情が流れ込む事だと
神秘思想家のシュタイナーが語る。夢の感情
には死者が働き、現世と死者の共同体を形成
する事が人智学であると。私は歴史の時空を
旅しながら死者たちと対話を重ねるうちに、
あの世もこの世も関係なくなってきたような
気がする。万象は連鎖し、全ては繋がって
いる。当然、今回の地震と津波で犠牲に
なった方々とも、共に再生の物語を紡いで
いきたいものだ。
○負けないで
2007年5月27日はZARDのボーカル、
坂井泉水さんの命日。ZARDと言えば津波で
壊滅した陸前高田市の、流された自宅前で
瓦礫の町を見ながら泣きながらZARDの
名曲「負けないで」をトランペットで
吹いていた、県立大船渡高校3年の
佐々木瑠璃さんが健気で感動的だ。
陸前高田といえば、高田の松原でただ1本、
奇跡のようにすっくと立っている「ド根性松」
が新聞で紹介されていた。今や陸前高田復興
のシンボルになったこの松を復興の象徴に
しようではないかと。
松は極度に痩せた土壌にも根を張り、土のない
岩のような場所でも生き延びられる。潮風
にも強いことから、古来より海岸の防風・
防砂林として松原の名所をつくってきた。
司馬遼太郎は「この国のかたち」で、日本
は松の国であると断じている。
雪にも風にも強い松は、どんなに絶望的な
状況にあっても、光を見出す手助けをして
くれる植物だという。スピリチュアルな意味で、
松は光の木なのである。光輝く針葉の力強い
波長で、光を引き寄せ、生命との繋がりを
再発見させてくれる植物なのである。
「めでためでたの若松様よ 枝も栄えて葉も
茂る(山形県・花笠踊り) 」
陸前高田市の南、大船渡市は歌手・新沼謙二の
故郷だが、北国の春には、やはり白いこぶしの
花が似合う。気仙沼市は、美味い牡蠣を養殖
するには、川の上流の森を豊かにして。海に
養分を送り込もうという取り組みをしていた
町だ。しかし海の養殖場はもちろん、山火事
で森もかなりの痛手をうけた。
今は瓦礫の撤去が先決だろうが、一段落したら
木と花を植え続けよう。松原の松はもちろん、
桜やケヤキ、楠などを植えて、花見の名所や
仙台市と比肩するようなケヤキ並木をつくり、
100年後、200年後の子供たちに手渡し
たいものだ。 気仙沼の大島には向日葵畑や
菜の花畑が似合う。
さらに陸前高田で生き残ったのは松だけでは
なかった。海岸から1.5キロの今宮天満宮に
在る樹齢700~800年の天神大杉も津波
に流されなかった。鳥居や拝殿・社務所は
流された。そしてこの杉の下で、幕末の頃、
北辰一刀流開祖・千葉周作も幼少時に遊んで
いたという。
千葉周作は1793(寛政5)年に、気仙町
字中井の天満宮下で生まれた。曽祖父は
相馬中村藩の剣術指南役。祖父は北辰無想流
を創始した。父は指南役に推挙されながら
馬医者を開業した人物。とはいえ、根っから
の剣術家系と言っていい。幼少時の周作は
杉の木の下で木刀で素振りでもしていたの
だろう。
6歳の頃、中西派一刀流・浅野義信に入門し、
1822(文政5)年、29歳の時江戸・日本橋
品川町に剣術道場
「玄武館」を建て、後に神田於玉ヶ池に移転。
幕末3道場の一に数えられ、山岡鉄舟や新撰組
の山南敬助など門人多数。1835(天保3)年
には水戸藩主・徳川斉昭の剣術指南役となる。
今宮天満宮の杉の木は、千葉周作に成り代わり、
町の人たちに「負けないで」と語りかけている
のかもしれない。
○東海・東南海・南海3連動地震
時代区分でここから先は幕末というのは、江戸湾
浦賀沖にペリー提督率いる米艦隊4隻が来航した、
1853(嘉永6)年7月以降だろう。8月には
長崎にロシア軍艦4隻が来航している。翌年の
嘉永7年2月にペリーの米艦隊7隻が再来し、
3月に伊豆・下田と渡島(北海道)の箱館を開港
する日米和親条約が締結される。
この1857(嘉永7)年以降、人災+天災も
相次いだ。5月に京都大火。7月に伊賀地震。
そして12月23日にM8.4の東海地震、
24日にM8.4の南海地震、26日に
M7.4の豊予地震と、フィリピン海プレート
が連動する3連続地震+大津波が発生。
死者・不明3万人超という東日本大震災に
匹敵する犠牲者を出した。
この凶兆から脱すべく、嘉永は安政と改元
された。その直後八丈島沖を震源とするM6.9
の地震が発生。夜だった為江戸では多数の
火災が発生し、死者4000人。4月には
再び江戸大火が発生した。6月15日M7.4
の伊賀上野地震。11月5日M8.4の安政
南海地震。11日夜10時、M6.7の
江戸直下型・安政大地震。12月23日M8.4
の安政東海地震。翌年安政2年2月1日
M6.8の飛騨地震と続く。こういう状況を
「踏んだり蹴ったり」という。
今回のM9+余震はおおむね太平洋プレートで
続いているが、それがどうもお隣のフィリピン
海プレートを刺激したらしい。すでに長野・
新潟と秋田県沖では地震が発生しているが、
16日12時頃には栃木を震源とする地震が
発生。他に東京湾、神奈川西部、新島・神津島、
静岡東部、石川・福井県境、飛騨地方も地震
活動が活発化している。安政5年2月26日
にも、M6.7の飛越地震が起きている。
安政の2回連続東海・南海・東南海連動型地震
は、元禄~宝永年間にも起きている。赤穂浪士
討ち入りの翌年、1703(元禄16)年12月
31日の元禄関東地震、関東南部は大津波。
M8.1(死者52000人とも20万人
とも) 1707(宝永4)年10月28日、
M8.4~8.7の宝永地震。死者2800~
2万人以上。大津波での流出家屋6~8万戸。
49日後に富士山大噴火。安政大地震はこの
149年後。さらに149年後は2001年。
言われ続けている東海地震が今後30年以内に
発生する確率は87%、南海60%。M8~
8.5が予想されている。神津島~富士山
ラインが危ないという指摘もある。
想定外の巨大地震で日本海溝全体が同時に壊れた
とされる東日本大震災の地殻変動。関東フラグ
メント(関東平野真下にあると推定される小規模
プレート(安政2年の江戸大地震がこのプレート
直下型)のひずみが増大し、フィリピン海プレート
もだいぶ沈みこんでいるという。明らかに東海
地震+関東直下型地震が非常警戒レベルの切迫
した状態にあるという事だ。
3連動が恐ろしいのは地震の規模について1+1
が2ではなくそれ以上に巨大化するからだ。長大な
震源域にわたってプレート境界が滑り続けるために
断層のずれはより大きくなる。その結果震動もより
強く、津波も高くなるのですとは、古村孝志・東京
大学地震研究所教授(地震学。別々の地震がわずか
な時間差で起きた場合津波に津波が重なって波高が
上がる現象も起きる。15~20分差が最も顕著に
なるという。
南海地震がM9・0規模だと大阪湾を5・5mの
津波が襲い大阪府全域が水没する。大阪城がある
上町台地の一部だけが岬のように水面上に残る。
東南海地震では三重県から愛知県にかけて多数ある
中部電力の火力発電所が打撃を受けそう。
東京湾北部地震で最大1万1000人が死亡し、
建物や生産額低下などの経済被害は112兆円にも
及ぶという。
684年白鳳地震、南海地震。東海・東南海地震が連動
887年仁和地震、南海・東南海地震。東海地震が連動
1096年永長地震、東南海地震。東海地震が連動
1099年康和地震、南海地震が単独。
1361年正平地震、南海・東南海が連動。
1498年明応地震の2ヶ月前に南海(単独)
1498年明応地震、東南海・東海地震が連動
1605年慶長地震、南海・東南海・東海地震が連動
(揺れは大きくなかったが津波が発生)
1707年宝永地震、M8.6南海・東南海・東海地震
が連動。
1854年12月23日・安政東海地震(東南海・東海
地震が連動)
・12月24日・安政南海地震、安政東海地震の
32時間後
・12月26日・豊予地震 M7.4
1856(安政2)年11月11日・安政江戸地震
M6.7(関東フラグメント・江戸直下型)
1944年12月昭和東南海地震、M7.9東南海
・37日後三河地震 M8.0
1946年12月昭和南海地震、M8(南海(単独)
歴史史料から見て東海地震が単独の例はない。
発生の周期はおおむね90~150年間隔。これらが
連動して3つの地震が同時に発生するか、数時間
から数年の時間差で個別に発生する。前回の昭和
東南海地震、昭和南海地震の際には、
東海地震は発生しなかった。その為東海地震を
引き起こすアスペリティ(固着域)は破壊されて
おらず、現在でもM8クラスの地震を引き起こす
だけのエネルギーを蓄えたままだと考えられる。
東海地震に関してはいつ発生してもおかしくない
と警戒されて、特別な観測態勢がとられている。
○喪失感と痛み
「このたびの「東北地方太平洋沖地震」により
被害を受けられた皆さまに、心よりお見舞い
申し上げます。1日も早い復旧と皆さまの
ご健康を心からお祈り申し上げます」
といったCMが、ACの押し付けがましい
道徳観よりも鬱陶しい。かくも無味乾燥で
形式的な、印刷された年賀状のような言葉が、
本当に被災者の心に届くとでも思っているの
だろうか? まあ、とりあえず何か言っておけ
みたいな思考停止し、なおかつ人の心の痛み
を察する感性に欠けているような彼らに
「心から」などという白々しい言葉を聞き
たくない。
こうした非常時には、思いがけず一人一人の
人間が発する言葉が、うわべを取り繕う虚偽
を露わにしたり、被災地との距離感を露呈
したり、逆に魂を震わす言葉に遭遇して涙
する事もある。JNN絆プロジェクトで
仙台出身の大友康平が語りかける奥底から
搾り出す言葉には心が震えた。
「被災者の方々が経験した痛みと喪失感には
比ぶべくもありませんが・・・」
仙台出身の彼の心の中に無ければ「痛みと
喪失感」という言葉は出てこなかっただろう
と思う。そうなのだ。海沿い以外の東北人は、
家と家財の一切を流されたわけでもなく、
肉親や友人・知人と死別したわけでもない。
にもかかわらず主として東北に居住する私
たちは、心の中に大きな痛みと喪失感を抱え
ているのだ。
それは例えば私の場合、「気仙沼の魚市場と
マグロ漁船は、夏休みの絵日記に描いたんだぞ!!」
という思い出に始まる。父の仕事の関係で母と
共に気仙沼に滞在し、碁石海岸などを訪ね
たり、南気仙沼の高台から大川に打ちあがる
花火見物をした、幼少期の家族の思い出だ。
アルバムには陸前高田の松原で、友人たちと
写る私がいる。冬休みに水道管の漏水調査の
アルバイトで、大船渡に滞在した事もある。
寒かったなぁ!! 先祖が登米町という事もあり、
北上川沿い~牡鹿半島は家族でのドライブ
コースだった。
サンドイッチマンは震災前の気仙沼を見て、
「高校時代の合宿で来たよな」と語っていたが、
私の高1時の合宿は山元町の廃校になった
小学校だった。野蒜海岸(奥松島・東松島市)
には林間学校で行ったよな・・・松島海岸は
従兄弟の居住地で幼少期から勝手知ったる庭の
ような場所だった。
3月11日の震災当日、仙台駅が閉鎖になって
松島に帰れなくなった従兄弟が、うちに
避難してきた。ローソクの灯る部屋でラジオの
ニュースを聴きながら、大津波の甚大な被害に、
暗澹とした気持ちに沈むばかりだった。仙台市
若林区荒浜の浜辺に2~300人の遺体が放置
されたままになっている・・陸前高田、大船渡
壊滅、気仙沼炎上中などの悲報が次々に飛び
込む中、松島に関する情報はなかった。
もともと従兄弟+叔母の住む所は、仙石線松島
海岸の高台の方にあるため、おそらく津波も
あそこまでは押し寄せてくるまいと思って
いた。松島に関する情報は、停電が復旧して
ネットが使えるようになってから、ツイッター
を通じてやってきた。
「旅行者です。松島では瑞巌寺の避難所にいま
した。お坊さんがよくしてくれまして・・・」
瑞巌寺は松島の観光桟橋から国道45号線を
挟んで、あまり高低差の無い所にある。大津波の
威力からすると、壊滅していてもおかしくない
場所だった。まずはひと安心だった。その後
地元番組で、松島海岸に並ぶ土産物商店街の
レポートを見た。床上浸水してライフライン
復旧以前の状態だったが、家が流されたり破壊
されることもなく、海岸間近の場所にある
アクアマリン松島のペンギンたちも無事だった。
雄島への橋は流されたけど。
塩釜から亘理の阿武隈川河口+鳥の海までの海沿い
は、過去十数年にわたって「海チャリ」と称する
サイクリングコースとして、濃厚な思い出がある。
広瀬川河川敷から仙台バイパスを南下。名取市を
縦断して岩沼市へ。阿武隈川河川敷を河口まで
下る。ここまで約30km。
2007年には河口にアザラシの「あぶちゃん」
がやって来ていた。私も見に行った。案の定
人だかりが出来ていた。アザラシ君は10分に
1回くらい水面に顔をのぞかせ、こちらを
見ていた。
帰路は河口から防潮堤の上のサイクルロードを
延々と北上。右手に南北一直線に伸びる水平線。
さすがに太平洋だなと思う景色だ。波の音+
松林から香る松風。数あるサイクリングコース
の中でもここが最高の道だろうと思っていた
まさかこの堤防+松林を乗り越える津波が
襲ってくるなど、思ってもいなかった。。
コースは仙台空港脇の貞山堀から閖上漁港、
名取川河川敷~広瀬川へと続く。走る事6時間
あまり。つまり今回の大津波の被害地域は、
それらの思い出も一緒に押し流していったのだ。
そういう喪失感であり、心の痛みなのだ。
人にしても同様だ。確かに名前も知らないし
親戚でもない。けれど例えば、蒲生のお地蔵さん
の先でアイスを買った店のおばちゃんとか、
仙台市役所前の市民広場の南三陸フェアで
ホタテを焼いていたおばちゃんとか・・同じ
街の住人としての関わりが無数にある。
会社の営業やマスコミ関係者の人も、
1歩踏み込んだ人間関係が必ずあるだろう。
津波被害の地域は、全て海沿いの景勝地だ。
釣りやサーフィンのレジャー。夏の海水浴場
や民宿。美味い海産物の店。家族や友人、
恋人とのドライブ+デート。特殊な例だと、
仙台新港周辺で深夜の暴走行為。東北の
住人+東北と関わった全国の人々は、
そうした美しくもほろ苦い思い出の数々を
失い、当分の間「喪失感と痛み」に苦しめ
られるのだ。その感情を理解出来るかが
距離感の違いが出てくる
のだろう。
○仙台の戦災復興計画
仙台も日中だいぶ暖かくなり、春めいて
きた。震災後3月中閉店したままで、
何の役にもたたなかったコンビニも、4月
になってようやく開店し始めた。
そこで私は定禅寺通り西端角のローソンで、
100円のアイスバーを買い、定禅寺通り
中央分離帯公園のベンチに座り、アイスを
食べながら千思万考的休憩に入った。
「あっ、空が青い!!」
普通ここから見る空は緑色だ。ケヤキは
まだ枯木立だが、まあいい。葉が芽吹く
のは新緑5月頃からだ。
ローソンの裏手は、明治時代に新宿中村屋
を創業した、相馬黒光の生家があった所。
その向かいの西公園は、伊達騒動で原田甲斐
に殺された伊達安芸の屋敷跡地。そしてこの
定禅寺通りだ。いつも思うことだが、広い。
12mの中央分離帯公園。その車道側に
2列のケヤキ並木。車道は各々3車線。
両側歩道は各々7m。車道側歩道に2列の
ケヤキ並木。計46m4列のケヤキ並木。
東京青山の表参道も緑濃い並木道だが、
さすがに中央分離帯2列の並木は無い。
ケヤキは藩政時代からの仙台名産・仙台
箪笥の材であり、樹齢100年材は和太鼓に
用いられるため、新潟県佐渡島の鼓動村
にも植えられている。定禅寺通りのケヤキ
は、1958(昭和33)年に戦災復興を
願って156本の若木を植樹した事に
始まる。以来50年余を経て、見事な
大木群に成長したというわけだ。夏は
蝉時雨が濃く、本州で一番涼しい場所と
なる。
定禅寺通りは西公園側から東二番丁交差点
まで、わずか800mくらいしかない。
車の通行を遮断すれば、通りはたちまち
祭りの舞台に変身する。5月の仙台青葉祭り
の武者行列やすずめ踊り。8月の七夕パレード。
9月の定禅寺ジャズフェスティバル。12月
にケヤキ並木に電飾する光のページェント。
2011年7月16日には第1回東北六魂祭
が開かれた。祭の舞台として機能している。
震災後、東北に未来都市をという論調が盛り
上がっているが、つらつら思うに、この
定禅寺通りはすでに未来都市のニーズを
満たしていると思う。
仙台市中心部は1945(昭和20)年7月
10日未明の仙台空襲によって瓦礫の山と
なった。仙台駅から西公園が見えたそうだ。
私は震災で瓦礫の山と化した蒲生や閖上の
現場に立つまでは、正直なところ、空襲後
の仙台写真に大した思い入れはなかった。
だが津波被害で壊滅した町は、これと
まったく同じ光景だった。これが三陸の
宮古から陸前高田、大船渡、気仙沼、志津川、
石巻、野蒜、塩釜、仙台、亘理、山元、
相馬から茨城県へと延々続いているのである。
それだけでも少し気が遠くなってくる。
仙台市の戦災復興事業は、1946(昭和
21)年に岡崎栄松が市長に就任したことに
始まる。岡崎は1882(明治15)年
名取郡秋保村長袋生まれで、この時64歳。
東ニ番丁通り、青葉通り、広瀬通り、定禅寺
通りなどのメインストリート、西公園や
県庁前の勾当台公園整備などの戦災復興
土地区画整理事業は、全て岡崎市長の主導に
よって行われた。
国道4号線でさえ二車線だったこの当時、
仙台駅から仙台城方向に延びる青葉通りと、
並列に東西に延びる広瀬通り、定禅寺通り
と、それらと南北に交差する東ニ番丁通りを、
いずれも50m級幅+無電柱とした。舗装前
のだだっ広い土地は、乾燥して砂埃が舞い
「仙台砂漠」と揶揄され、市長の政敵から
は「無駄・無意味」と批判された。これに
対して岡崎市長は「青葉通りは私の死後、
必ずや評価されるだろう」と語った。
無論、岡崎市長に感謝こそすれ、その
先見性を批判するような愚かしい仙台市民
など、誰もいないだろう。
小説「海の壁/三陸沿岸大津波」や「関東
大震災」などの著作もある作家・吉村昭は
「関東大震災ノート」というエッセイの
中で「明治維新後、大正時代に入って深化
し複雑化したさまざまな矛盾が、あたかも
化膿部分から膿が一時にほとばしり出た
ように流れ出た歴史的意味をもつ災害だと
思う」と述べている。
近代日本史にはいくつかの「以前と以後」
の節目がある。明治維新・関東大震災・
昭和20年8月15日の終戦の日。そして
1995年1月17日の阪神大震災と
2011年3月11日の東日本大震災+
福島原発事故である。死者・不明者2万人
の大災害以後、日本人の意識は根本的に
変化した。この歴史的潮目は今後、政治
やエネルギーインフラを含む都市計画を、
行きつ戻りつしながら幕末から明治の
ように大きく変容させてゆく事だろう。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o
○仙台牛タン事始め/「牛タン焼き」の発祥は終戦後。
山形県出身の料理人・佐野啓四郎が、仙台市一番町
3丁目に焼き鳥屋を開店した事に始まる。
仙台名物といえば「牛タン・
笹かまぼこ・ずんだ餅」の
三役と、。仙台味噌・
長茄子漬け銘菓「萩の月・
白松ヶ最中・くるみゆべし・
仙台駄菓・仙台駄菓子・
三色最中・支倉焼き・
くるみ味噌・焼きハゼ出汁
の雑煮・仙台四郎+仙台幸子
カラスコ弁当・ほやの塩辛
と美味いものだらけ。山海
食材の宝庫だ。
さて、全国的に有名な仙台
牛タンだが、そもそも
「牛タン焼き」の発祥は
終戦後。山形県出身の料理人・
佐野啓四郎が、仙台市一番町
3丁目に焼き鳥屋を開店
した事に始まる。当時は
食料調達が困難な時代。
焼き鳥屋といっても、豚の
タン(舌)やホルモン(内蔵)
を混ぜて使わなければやって
いけない時代だった。
さらに日本に駐留していた
米兵は、牛のサーロインや
ヒレ、ロース肉ばかりを
食べ、タンやテール(しっぽ)
は魚のアラのような余剰部分。
ゆえに安く調達出来たわけだ。
しかし「なんだ、米兵の余り
ものか」などと、日本人と
して卑屈になる必要はない。
天皇家(宮内庁)の食に対する
基本的な思想は、明治の食医
(食べ物で治す医者)・石塚
左玄が提唱した「一物全体食」。
これは畜産物を肉と内蔵に
分けるような事をせず、食材
を丸ごと食べましょうという
事。これは、和食の鉄人・道場
六三郎氏の「食材を成仏させる」
という言葉にも通じている。
また、タン・シチューと言えば、
昭和初期から東京のデパートで
食道の高級メニューだったわけで、
単に米兵が牛タンの美味しさを
知らなかったというだけの話
なのだ。フランス料理で牛タン
(ラング・ドゥ・ブウ)は、燻製・
焼く・茹でる・煮込むなど、
さまざまに調理されている。
佐野もさまざまな調理法を試し、
最後に炭火焼きで塩・コショー
のシンプルな味付けが最も
美味しいという結論に達した。
そして焼き鳥屋の「グリル番町」
から「太助」と名を改め、
1950(昭和25)年に、牛タン
焼きが店のメニューに加わった。
牛タンが仙台名物になったのは、
1980(昭和55)年に「きすけ」
2号店が仙台駅前の日の出ビル
に出店し、表に「仙台名物・
牛タン焼き」の看板を出した
のが始まり。それ以後、店に
地元国会議員の先生やら、
大会社の会長さん、茶道の家元
などの名士が来店し、口コミで
「仙台名物」になっていったと
いうわけである。
牛タン屋の元祖「太助」にしろ
「きすけ」でも牛タンは定食と
して出される。麦飯と炭焼きの
牛タン、白髪ネギ入りテール
スープに漬物。日本古来の
「一汁一菜+香の物」にも通じ
ているし、塩味には麦飯が合う。
麦飯や玄米は、米飯よりビタミン
B1・B2、食物繊維が豊富で、
テールスープの辛味成分・硫化
アリルがビタミンB1の吸収を
促進する。
食物繊維は便秘の人に効果的で、
テール(牛のしっぽ)や骨をじっくり
煮込んだスープに含まれるコラー
ゲンは、美肌効果抜群。牛タン
定食は高たんぱく・低カロリー
の、女性にとっていい事ずくめの
料理。むろん、生活習慣病が気に
なる男性諸氏の体にも優しい。
もうひとつの仙台名物「笹かまぼこ」
は、白身魚のすり身。仙台の病院
では朝食に欠かせない一品。
美容と健康に仙台名物・牛タンと
笹かま」をお勧めする。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o
○宮城野
仙台に生まれ育った私にとって、
歴史的東北地方と言って真っ先に
思い浮かぶ言葉は「蝦夷」
である。京のみやこびと都人が、
野蛮人の住む遠い辺境の未開地と
イメージし、蔑視しているので
あろうと思っていた。
ところが平安朝の貴族たちは、
陸奥国にロマンチックな憧れを
抱いていたらしい。今から
1260年程前、東大寺大仏を
黄金で飾った砂金は、陸前
(宮城県)で発見された。以来
陸奥国は、黄金花咲く
国となった。
また、古今和歌集をはじめと
する多くの歌に、白河の関
(福島県白河市)や宮城野の萩が
詠まれている。その詩的感情は、
たとえば私たちが井上靖の西域
小説を読んで、遠い異界の時空を
夢想する気分と似ているのかも
しれない。
東大寺の大仏建立と時を
同じくして、聖武天皇は全国
に国分寺・国分尼寺の建立を
命じた。陸奥国分寺は、現在
の仙台市若林区木ノ下の地に
建てられた。「奥の細道」の
旅でここを訪れた松尾芭蕉は、
「日影ももらぬ松の林に入りて、
ここを木ノ下といふとぞ」と
記している。一面の赤松林
だったのだろう。
この陸奥国分寺の北に広がる
野が、平安朝の頃から萩の名所
として知られていた「宮城野」
である。紅紫色の萩の花が、
秋風吹く宮城野に咲き乱れる
という、可憐でありながら
寂しげなイメージが、平安朝
貴族の詩情をかきたてたの
だろうか。
木ノ下の北隣のなだらかな岡が、
つつじが岡である。今は桜の名所
榴ヶ岡公園になっている。この地
はその昔、「鞭楯」と
呼ばれていた。源頼朝が奥州藤原
氏を討つべく19万の大軍で遠征
した際、藤原泰衡が
これを迎え撃つ為に陣を張った
場所である。
泰衡は、先陣の国衡が敗れた
知らせを受けて平泉へ引き揚げ、
やがて泰衡も家臣の裏切りに
よって殺され、黄金の奥州藤原
王国は滅亡する事になる。
木ノ下・榴ヶ岡から、宮城野原
を通って陸奥国府・多賀城政庁
(宮城県多賀城市)へと続く道は、
「奥大道」と呼ばれていた。この
道の途上に、一本のいちょうの木
がある。推定樹齢は、1200年
とも1300年とも言われている。
1200~1300年前と
言えば、奈良時代の聖武天皇の
頃ではないか。その頃生まれた
樹が、今も現役で生きていると
いうのは、やはり驚きである。
誰が呼んだか「宮城野の乳銀杏」
銀杏町の名も、むろんこの樹に
由来している。
乳銀杏は、高さ32メートル。
幹の太さはおよそ8メートル。
雌株である。宮城野の大地に
深々と根を張り、地の霊気を
吸い、神霊の風格を宿している。
黒々とした太い枝からは、牛の
乳房のような気根がいくつも
垂れ下がっている。秋になると
今でも、数多くのぎんなんを
実らせる。まさに「宮城野の
最長老・オババ」と言える。
乳いちょうの前に立つと、
まずその神気に圧倒
される。
「うっ・・ん─・・すっ・・
すごいっ・・」
確かに圧倒されるが、威圧的な
霊気ではない。恐る恐る、畏敬
の念をこめて幹に触れてみる。
凝縮された1300年の時空が、
身体を貫く。ふっと全身の力が
抜け、広々とした青空のような
気持ちになってくる。これが
本当の、「自然の叡智」という
ものなのだろう。
乳銀杏は、宮城野八幡神社の
境内にある。この神社は、桓武
天皇の延暦17(798)年に、
征夷大将軍・坂上田村麻呂が、
男山八幡の分霊を勧請して社殿
を造営したのが始まりとされて
いる。
源氏の軍神・八幡太郎義家は、
前九年の役が終息する康平5
(1062)年にこの神社を訪れ、
奥州阿倍氏を討つべく戦勝を
祈願した。
時移り、元弘2(1332)年、
陸奥守・北畠顕家は、
北朝の敵・足利尊氏を討つべく、
弓矢と太刀を献じて戦勝を祈願
した。北畠顕家というとなじみ
は薄いが、1991年のNHK
大河ドラマ「太平記」で、後藤
久美子が演じた役と言えば、
多少は親しみが湧くかもしれない。
ともあれ「おお、歴史だ」と
思う。乳銀杏は、坂上田村麻呂
や源義家、北畠顕家や伊達政宗
といった歴史上の有名人の実物を、
生で見ていた事になる。千年と
いう時間の単位に、軽いめまいを
覚える。
巨樹・古木というのはすごい。
地震・台風・落雷といった自然
災害をやり過ごし、空襲や宅地
造成などの伐採という人災をも
かいくぐって、今日まで生き延び
ているわけである。ちょっと
調べてみると、案外身近な場所に、
人知れず在るもののようだ。
○o。..。o○o。..。o○o。..
○桜
毎年の事ながら、桜前線
北上のニュースが巷に流れ
る今頃になると、妙に心が
ざわめく。これが、古代
より連綿として桜を愛で
てきた、日本人の民族魂
というものだろうかと、
誇大に思う事もある。
桜の名所は全国に数々
ある。私が見た中で圧巻
だったのは、やはり皇居
千鳥が淵あたりの夜景
だろうか。視界一面、
染井吉野の桜・桜・桜・・・
現実とも夢幻ともつかぬ、
淡桃色の眩暈の中に身を
置いた感覚だけになれ
る場所の一つだと思う。
現在目にする桜の多く
は、染井吉野という品種
である。パッと咲いて
ハラハラと散る姿が、
はかなくも美しい。だが
この品種の背景に、政治
と洗脳の悪臭を感じると、
単に美しいとばかりは
言っていられなくなる。
染井吉野は、明治政府
が国策として全国の城跡
などに植林したもので、
遠く平安から江戸期に
かけて歌に詠まれた桜は
「山桜」だった。歌人たち
は、咲き匂う生命の輝きを
詠んだのである。「散る
桜」の美学の背景には、
日本国民を戦争に駆り
立てた政治家や軍人たち
の思惑が反映されている
のである。
山桜の名所といえば、
奈良県吉野熊野国立公園
の一部である「吉野山」
だった。修験道の開祖と
されるえんのおずぬ役小角
(637~701)が、桜
の木に蔵王権現の像を彫り、
大峰山を開いた事から、桜
の木を御神木として愛護
したのがそもそもの始まり
だと言われている。全山
の桜は10万本とも言われ
ている。
「吉野山 花の盛りは
限りなく 青葉の奥も
なおさかりにて」
と、平安末の歌人・西行は、
吉野の桜の輝きに圧倒され
ている様子が伝わってくる。
西行は生涯に2度、奥州・
平泉(岩手県平泉町)の藤原
秀衡のもとに旅をしている。
当時の平泉は、人口約15
万人。京・鎌倉と並ぶ北の
都だった。中尊寺の金色堂
に象徴される黄金文化が、
満開の桜のように咲き誇って
いた。
平泉から北上川を渡った
所に、牛の背にも似た標高
596メートルの、束稲山
(たばしねやま)という山が
ある。全山に1万本以上の
山桜が植林されていた。
「ききもせず 束稲山の
さくら花 吉野の外に
かかるべしとは」
西行は、吉野山以外にも
このような桜の名所が
あった事に、感嘆した歌を
残している。
西行はもともと、佐藤
義清という名の武士だった。
平清盛とほぼ同期である。
清盛は保元の乱・平治の乱
を勝ち抜いて頭角を現し、
自らは太政大臣に昇りつめ、
平家一門も隆盛を極める。
だが、風前のともし火
だった源氏が次々に挙兵
し、清盛死して4年後、
平家一門は壇ノ浦の海中へ
没したのである。
さらに源頼朝は、奥州へ
出兵して平泉の藤原王国を
滅ぼし、鎌倉幕府を成立
させる。西行はその全てを
見届けた。まさに諸行
無常・諸業流転の、変転に
次ぐ変転の時代だった。
「願はくは 花のしたにて
春死なん そのきさらぎの
望月の頃」
西行はその歌の願いの通り、
満月の夜、満開の桜のもとで
73歳の生涯を閉じたと伝え
られている。
明治政府は、西行が愛した
吉野の桜3万本の伐採を命じ
た。吉野桜は封建制度の象徴
であり、仏教的御神木など
とはけしからんというのが
理由だったらしい。むろん、
平泉・束稲山の山桜も伐採
された。
桜を愛でる心無き「薩長
の馬鹿ども」は、軍備を
増強し、朝鮮半島や台湾へ
の侵略やら、日清戦争に
血まなこになる。日本美術院
を創設した岡倉天心は、著書
「茶の本」の中で、昔文芸を
楽しんでいた時の日本は野蛮
な国と呼ばれ、侵略戦争を
始めてからは近代国家と
呼ばれていると、皮肉を込め
て語っている。その「近代
国家」は、自己肥大したあげく、
大東亜戦争で自滅してゆくの
である。
いつまでも、桜花を愛で、
風雅を味わう日本人であって
ほしいものだ。
それと、美酒を少々・・・
西行に乾杯。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..
○松
日本は松のくにであると、
「この国のかたち」の中で
司馬遼太郎が述べている。
静岡県清水市の名勝地・
三保の松原には、天女が
舞い降りたという「羽衣
の松」がある。このように、
伝説や歌枕と共に親しまれ
ている「名のある松」は、
全国に数多くある。
「松の事は松に習へ、
竹の事は竹に習へ」と
言ったのは、俳聖の松尾
芭蕉である。また「野に出
(いで)よ。野から学べ」と
語ったのは、芭蕉と同じ
伊賀上野に生まれた、書家
の榊莫山である。莫山先生
と芭蕉を尊敬する私は、
それではと、野に出て松
から学ぶ事にした。まっ、
粋狂と言うところだろう。
仙台市の四里程南に、岩沼
という旧宿場町がある。奥州
街道(国道4号線)と浜街道
(国道6号線)の追分(分岐点)
であり、竹駒神社の門前町
でもある。竹駒神社は日本
五大稲荷の1社であり、武隈
(たけくま)稲荷明神とも言う。
創建は平安時代の承和9(842)
年と、かなり古い。穀霊倉稲魂
(うかのみたま)という、難しい
名の農業神を祀っている。
現在、境内中央にデーンと
建つ彫刻だらけの古びた唐門は、
天保13(1842)年の建築
だから、元禄時代に当地を訪れ
た芭蕉は、これを見ていない。
芭蕉が見たのは「武隈の松」
である。
武隈の松は、竹駒神社境内
北側の外郭にある。根元から
二股に分かれている様子から、
「二木の松」の別名がある。
「今はた 千歳のかたち
ととのほひて、めでたき松の
けしきになん侍りし」
と、300年前にこの松を見た
芭蕉が「奥の細道」で、1000
年前の姿を偲ばせるめでたい松
だと述べている。
芭蕉はこの松の事を「歌枕」
として知っていた。たとえば
平安時代の漂白歌人・能因法師
(988~?) の歌
━ 武隈の松はこのたび跡も
なし ちとせを経てや 我は
来つらむ(後拾遺和歌集) ━
能因法師がこの地を訪れた
のは、竹駒神社創建の150
年後の事である。この時すでに、
武隈の松は古樹・名木として
多くの歌に詠まれ、有名だった。
陸奥守・藤原元善が植え、野火
で焼けた後、源満仲や橘道貞
が植え継いできた松だった。
ところが実際に来てみると、
陸奥守・藤原孝義なる者が木
を伐らせ、名取川の橋杭に
してしまって跡形もないじゃ
ないかと、嘆いているのである。
かくして藤原孝義は、松の木
一本伐らせたばかりに、
1000年後までこうして語り
継がれる悪人になってしまった。
芭蕉は「古人も多く旅に
死せるあり」として、自らも
古人の如く漂白の旅に出ようと、
奥の細道冒頭で語った。その
古人とは、能因法師であり
西行だった。芭蕉は芦野の里
(栃木県那須郡那須町芦野)の
「清水流るるの柳」の前に
立つ。その柳は500年前に、
西行が木陰で涼を求めた柳
だった。
「西行もこの場所に立ち、この
柳の木陰で涼んだのだ」と、
芭蕉は感激する。500年と
いう時の隔たりを超えて、ある
種の一体感が生まれたのだろう。
私もまた、芭蕉と300年の
時を隔てて、武隈の松の前に
立った。そして、ずっしりと
密度の濃い幹に触れてみた。
その瞬間、松の霊気が私の全身
を貫いた。
樹齢100年以上の古樹には、
必ず神気・霊格が宿ると語った
のは、樹木医の草分け・山野
忠彦である。松は総じて瞑想的
な樹木だが、奥州の大地にしっ
かりと根を張った「武隈の松」
は、1000年を1日として
生きているような瞑想者だった。
私と芭蕉と松と奥州の地霊が、
渾然一体となったような眩暈に
襲われた。
それは言葉として表現出来
ない「直覚」だった。なるほど、
松の事は松が教えてくれる。
それを体験したければ、私
同様の「粋狂」で、古樹を
探して会いに行き、手で触れて
対話してみるとよい。古樹との
間に、親密な友情が生まれる事
だろう。たぶん。
..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○国見八景・第一景
「大崎八幡神社」
確か西郷隆盛夫人だったと思う
が、「うちの人はそんなに偉い
人だったんですか?」と驚いたと
いう。身近な人物であればある
ほど、評価ば「あたりまえ」
「ごく普通」というものになる
のだろう。
同様に、生まれ育った町の通い
慣れた場所というのも、本人に
とっては「日常」の、ごく当たり
前の所になっている。ところが、
少し離れた視線から改めて眺めて
みると、けっこうおもしろい。
意外な人物がひょっこり現れたり
するものである。
さて、ここはみちのく・仙台市。
仙台駅から北西約5キロの高台。
私が生まれ育った「国見」という所。
家の目の前には、元大リーグ・マリ
ナーズの大魔人・佐々木主浩(かず
ひろ)投手の出身校である、東北
福祉大学がある。
旧町名は「長者荘」だった。
仙台藩当時、富裕な商家の別荘
があったのだろう。赤松多い
山林で沼が点在しており、仙台
城下御府内の北限だっただろう。
伊勢堂山中腹の標高100m程
の所にあり、場所によっては
太平洋の水平線を望める。海
から昇る、丸く熟した朝日は格別
に美しい。
この長者荘から八幡町方向に歩く
事15分で、仙台市立第一中学校、
略して仙台一中に着く。今でこそ
鉄筋コンクリート3階建てだが、
私が通学していた当時は、年代
ものの木造校舎だった。もしここ
が火事になったならば、消防車
は全て「裏」に集結するだろうと
噂されていた。仙台一中の「裏」
にある建物こそ、国宝・大崎八幡
神社なのである。
鬱蒼とした杉木立に囲まれて、
黒漆を基調にした社殿がある。
国宝というだけなら、特に
ありがたがる義理はない。私が
興味を持ったのは、大阪生まれの
司馬遼太郎がみちのくに憧れ、
大崎八幡神社に是非一度来たい
と願っていたと知ってからの事
である。
「それほどのものだったのか」と、
再認識したわけである。
そもそも仙台藩祖・伊達政宗は、
伊達家17代目の当主である。
鎌倉から室町時代は、福島県
伊達郡や、山形県米沢を領有
していた。それが豊臣秀吉の
命によって、宮城県に移封され
たのである。
伊達政宗が宮城郡国分ノ内千代
(せんだい)に築城を始めたのは、
1600(慶長5)年12月24日
の事で、千代を「仙台」と改め、
縄張り始めの儀式を行っている。
古代から人が住み、田畑が開けて
いたのは、仙台の北東・陸奥国府
多賀城と七北田川流域であり、
仙台は沼沢・渓流が多い原野
だった。
大崎八幡神社は、仙台城下
鎮護の目的で1604(慶長
9)年秋に着工された。普請
奉行・富塚内蔵頭
信継。造営奉行・木幡杢助
(もくのすけ)旨清。頭領・
梅村三十郎頼次。工匠・刑部
(ぎょうぶ)左衛門国次。日向守
家次。鍛師・雅楽助(うたの
すけ)吉家。画師・佐久間右京
など、全国から集められた
名匠たちだった。
平成の解体大修理の際、
「なんだか知らぬ間にこんな
所まで連れて来られて、仕事
するハメになってしもうた」
という、愚痴的文書が発見
されている。
この社殿がなぜ国宝なの
かは、桃山様式という、全国
にほとんど残っていない建築
様式として現存しているから
である。司馬遼太郎も「秀吉
好み」の桃山建築が見たかった
のだろう。秀吉の後を継いだ
徳川家康が秀吉の好みを嫌った
為、桃山様式は10数年で
亡んだという。
大崎八幡の社殿は権現造りで、
本殿・拝殿・石の間の三殿一体
の様式になっている。床や柱・
板戸は黒漆塗りで、欄干は黄金。
天井やらん間は、仏教的・道教的
彫刻が過剰なまでの極彩色で
飾られている。だが全体が黒を
基調にしている為、日光東照宮
のようなごてごてした感じはない。
黒と金という色彩感覚ですぐに
思い浮かぶのは、大阪夏の陣で
焼失した大阪城天守閣である。
金を最も美しく見せる黒色。
家康は江戸城や名古屋城などの
天守閣を、全て白に塗っている。
戦国オセロゲームとでも呼びたく
なる。黒と金の組み合わせが、
安土桃山時代の美学を象徴する
色だったのだろう。
伊達政宗という人物は、禅で
磨いたヘソ曲がりと反骨の胆
(はら)があり、同時に秀吉好み
の「芸」を心得ていた。1592
(天正20)年3月、朝鮮出兵の
軍団が京を出発。前田・徳川軍
の後に、伊達軍三千が続いた。
軍団は紺地に黄金の日の丸の旗
30本。鉄砲・弓・槍組の徒歩兵
は全て、黒塗りの具足で、胸と背
に金の☆マーク。騎馬武者は黒の
母衣に黄金の太刀大小を
帯びるという軍装。
この伊達軍団の渋いダンディズム
を、都人が「ダテ者よ」と感嘆
して囃したという。政宗は、これ
ほど美しい軍団を泥だらけの
最前線に送るような秀吉ではある
まい、という読みもあった。政宗は
幼い頃、疱瘡(天然痘)で右目を失明
し、独眼竜の異名を持つ。黒と金の
美学から、猿と竜との化かし合いも
見えてくる。
○国見八景・第二景「南山閣」
インターネットで女流詩人
と知り合った。彼女は高浜
虚子が好きだと言う。明治
時代の俳人の事など、私は
ほとんど知らなかった。
芭蕉や蕪村を調べていた時
だったので、虚子も少し
探ってみた。
虚子は1874(明治7)年
2月、愛媛県松山市に池内清
として生まれた。ちょうど
一年前、同じ松山市に河東
乗五郎が生まれていた。後に
虚子と同級生となり、同じ
俳句の道を歩む河東碧梧桐
(かわひがしへきごどう)で
ある。
虚子は生涯に20万句
もの俳句を生み出した。
「銀河西へ 人は東へ
流れ星」
「悠久を思ひ 銀河を仰ぐ
べし」
と、宇宙を詠むあたり
「荒海や 佐渡に横たふ
天の河」という芭蕉の
句を思い起こさせる。
また芭蕉は、「西行の
和歌、宗祇の連歌、雪舟
の絵、利休の茶、其の貫道
するものは一なり」と、
笈の小文で語っている。
表現様式は違っていても、
精神の在り様はひとつだと。
これを虚子は
「芭蕉忌や 遠く宗祇に
遡る」と、さらに圧縮
して詠っている。両者五分
と五分の力量と観た。
虚子は1891(明治24)
年に、碧梧桐を介して同郷の
先輩・正岡子規と出会う。
1867(慶応3)年9月
生まれの子規は、この時
24歳。虚子は7歳年下の
17歳だった。
司馬遼太郎はこの正岡子規
に、陸軍騎兵隊の秋山好古、
海軍参謀の秋山真之
という、四国・松山が生んだ
三人の人物を軸にして、小説
「坂の上の雲」を書いた。彼
は子規に対して、並々ならぬ
愛着を抱いていたようだ。
だが私は子規が苦手だった。
脊椎カリエスという病に冒され、
病床7年あまり。35歳の若さ
で死去するという、人生の
概略程度は知っていた。何とも
痛々しく、悩ましい人生である。
それゆえとっつきにくかった。
「柿食えば 鐘がなるなり
法隆寺」という、あまりにも
有名な句の作者が子規である
ことも、俳句の弟子に夏目漱石
がいることも知らなかったので
ある。
その子規が、1893(明治
26)年7月に、仙台を訪れて
いる。東大を中退し、日本新聞社
に入社した頃である。
「松島の風、象潟の
雨に心ひかれ」とあるから、
やはり俳聖・芭蕉を意識した旅
だったのだろう。
芭蕉は「おくのほそ道」冒頭
で、「松島の月まず心にかかりて」
と旅の動機に触れ、象潟(秋田県
由利郡象潟町)に舟を浮かべて、
「松島は笑うが如く、象潟は
うらむが如し」と対比させている。
こうした美しい形容を、実際肌身
で体感してみたいと思うのも無理
はないだろう。
「みちのくの 涼みに行くや
下駄はいて」と、子規は開通
間もない東北本線の汽車に乗る
こと12時間。仙台に到着し、
国分町大泉旅館に宿を求めた。
翌日、友人・鮎貝槐園
が住む「南山閣」を訪れた。
「はてしらずの記/7月31日。
旧城址の麓より間道を過ぎ、
広瀬川を渡り槐園子を南山閣に
訪ふ」
国分町から仙台城(青葉城)
大手門へ向かう大橋を渡って、
現在の県立美術館あたりの道を
大崎八幡神社方向へ。神社大
鳥居から西へ200m程行くと、
荒巻南山を登る「うなぎ坂」と
いう急坂がある。この細道を
えっちらおっちら、息を切らし
汗を流しながら登ってゆくと、
雑木林に囲まれた「南山閣」
に着く。
現在の住所だと、国見3丁目
である。
「閣は山上にあり。川を隔てて
青葉山と相対す。青葉山は即ち
城址にして、広瀬川は天然の
溝渠なり。東に眺望
豁然と開きて、仙台の人家樹間
に隠現し、太平洋の碧色空際に
模糊たり」と、子規は漢詩の
如き美文で述べている。
そもそも南山閣とは、仙台
藩士・石田家の別荘だった。
明治になり、帰農した石田家
に代わって、上山五郎が入居
する。彼は映画俳優・上山
草人の父であり、宮城医学校
教授。静山と号し、漢詩を
よくした。
上山と交遊し、南山閣を
訪れた者の中に落合直文・
鮎貝槐園兄弟がいる。彼らは
1893(明治26)年に、
与謝野鉄幹らとともに
「浅香社」をおこし、新短歌
運動をおこした。子規とは、
この運動を通して知り合った
のである。
子規と槐園は、南山閣で
詩を語り、歌を語り合った。
「涼しさの はてより出たり
海の月」
太平洋の水平線から昇る、
丸く大きな月が目に浮かぶ。
子規は仙台や塩釜神社、松島
に遊び、8月5日作並から山形
方面へと向かった。この後の
病床を思うと、何とも切ない
程すがすがしい旅だった。
「秋風や 旅の浮世の
果知らず」
せめてあと30年、芭蕉同様
の旅をしたならば、子規は
どんな句を詠んだだろうかと
思わずにはいられない。
上山は「荒月の月」の作詞者
として知られる、地元の詩人・
土井晩翠とも交遊があった。
土井もまた南山閣に遊び、処女
詩集「天地有情」などの構想
を練ったという。荒城の月は、
子規が南山閣を訪れた5年後の、
1898(明治31)年、晩翠
28歳時の作である。
「春高楼の花の宴 めぐる盃
影さして ちよ千代の松枝
わけい出でし むかしの光
いまいずこ/秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて 植る
つるぎに照りそいし むかし
の光 いまいずこ」
子規が「天然の溝渠」と
評した広瀬川の断崖。濃い杜
の緑。太平洋に昇る太陽と月。
国見の里には、漢詩的な詩魂が
ひっそりと息づいているの
かもしれない。
○o。..。o○o。..。o○o。..。
○国見八景・第三景「龍雲寺」
酒飲みは甘いものが嫌いと
いうのは、世間の常識なの
だろうか。私は酒も甘味も
好きである。幼少時からの
甘味といえば「子平
まんじゅう」だろう。茶の
薄皮と、まろやかな餡の味が
絶妙で美味い。
小中学校での祝い事や、
敬老的紅白まんじゅうも、
子平まんじゅうの味である。
まさに国見の里に根ざした
甘味なのである。店は子平町
にあるが、旧町名「伊勢堂下」
と呼ばれた頃から子平まん
じゅうだった。町名もまん
じゅうの名も、寛政の三奇人
と言われた林子平という人物
に由来している。墓所が町内
の、曹洞宗金台山龍雲寺に
あるからである。
龍雲寺は仙台開府から間も
ない1606(慶長11)年に、
輪王寺9世久山和光和尚の
隠居寺として開山したのが
始まりである。ここが林家
の菩提寺であった。林子平
友直は、1738(元文3)年
6月21日、幕府旗本
620石の岡村源五兵衛良通
の次男として、江戸小日向
水道町に生まれた。八代将軍・
吉宗の時代である。子平3歳
の時、父が刀傷事件を起こ
して浪人となり、医者である
叔父の、林従吾に引き取られた。
子平には6歳年上の姉・
奈保がいた。奈保12歳
の時、仙台5代藩主・伊達吉村
の侍女になる。やがて吉村の子
で6代藩主・宗村の側室「お清
の方」になり、藤五郎(土井左京
亮利置)と、静姫(松江城主・
松平出雲守治好室)の一男一女
を産むに至る。子平の兄・友諒
(ともさと)は150石で仙台藩
に召しかかえられ、林家は仙台
へ移住するのである。
子平は頭脳明敏にして、健脚
な旅好きだった。北海道から
九州まで、下駄ばきで闊歩した
という。乗馬が得意で、武芸で
精神を磨く好奇心旺盛な侍だっ
た。
長崎へは3度遊学している。
最初は1775(安永4)年の
事で、子平38歳。通詞・松村
元綱所蔵の「世界之図」を書写
している。子平はここから国際派
へと脱皮する。この年の前年、
前野良沢・杉田玄白による
「解体新書」が刊行されている。
子平はオランダ人・ロシア人
と積極的に交流し、海外情報を
吸収していった。その知識と
思想の集大成が、「三国通覧図説」
である。ここで彼は、蝦夷(北海
道)・樺太・千島列島は、日本の
領土であると主張した。だが
この主張は誰にも理解されな
かった。当時これらの地域は、
不毛の外国と観るのが常識だった。
もし文句があるならば、大日本史
を編纂した水戸黄門氏にでも
言ってほしい。
三国通覧図説は幕末、フランス
語とドイツ語に翻訳される。
アメリカとの外交交渉では、
小笠原諸島が日本領である証拠
としてこの本が示された。時代
の常識などというものは、いつ
の時代でもあまりあてになら
ないものらしい。
子平はさらに、「海国兵談
(全16巻)」を著す。彼はここで
日本の海防を説き、砲台を設置し、
造艦・操船・練兵を行う海軍の
重要性を説いた。極めて先見的
な兵学書だった。
しかし時代が悪かった。清濁
併せ呑む田沼意次政治の反動と
して、11代将軍・家斉を補佐
したのは、もと白河藩主の老中・
松平定信という厳格・潔癖な
人物だった。彼は朱子学以外の
異学を禁じ、言論・風俗を厳しく
取り締まった。
「白河の 清きに魚のすみ
かねて もとの濁りの田沼
恋しき」と、狂歌が定信を痛烈
に皮肉った。
海国兵談は板木召し上げ。本人
は一切の活動を禁じられて幽閉
の身となった。
「親もなし妻なし子なし板木
なし 金もなければ死にたく
もなし」と、六無斎
と号した子平は、和歌を唯一の
気散じとしながら、1793
(寛政5)年6月21日、56歳
で病没した。
しかし子平の著作は、時代の
情勢に呼応して復刻される。
そしてこの書の重要性を認識
した人物が、長州(山口県)で
著作を講義することになる。
松下村塾の吉田松陰である。
子平は国防の先見者として、
伊東博文ら松下村塾出身の
明治政府の元勲らによって
尊敬され、名誉を回復される
事になるのである。
ところで龍雲寺には、もう
一人「奇」なる人物の墓が
ある。名を細谷十太夫直英と
いう。彼は1844(弘化元)年、
伊達郡(福島県)細谷村に生ま
れた。仙台藩大番士で食録は
50石。色白の小男ながら、
剣槍弓銃術などの武芸に長じ
ていた。時は幕末・戊辰戦争、
奥州白河小峰城攻防戦。24歳
の細谷は、安達・信夫二郡
(福島県)のやくざ衆80名
あまりを従えて「衝撃隊」を
編成し、官軍営舎を次々に
夜襲した。
黒装束に太刀という姿から
「鴉組」と称され、30余戦
すべてを成功させ、官軍の心胆
を寒からしめた。戦いそのもの
は銃の威力に勝る官軍が勝利
したが、時の仙台藩主・伊達
慶邦は、鴉組の活躍を愛で、
細谷に武一郎の名を与え、
200石を加増した。
細谷はその後、1877
(明治10)年に勃発した西南
の役に、陸軍少尉として参戦。
1894(明治27)年の日清
戦争にも、千人長として参戦
している。刀と銃弾の修羅場
を、幾度もくぐり抜けてきた
根っからの武人だった。
その細谷が、晩年頭を丸め
て龍雲寺の住職になるので
ある。彼は林子平をこよなく
尊敬していたという。子平が
火種となり、吉田松陰が点火
し、動乱の時代が始まった。
その渦中を、細谷は戦場で
生き抜いてきた。戦さゆえ、
人を斬った。その手ごたえは
生々しいものだろう。戦死者
の霊よ安らかにと、祈りたく
もなるだろう。細谷は今、
龍雲寺の境内で「細谷地蔵」
として墓参者に微笑みかけて
いるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。
○国見八景・第四景「北山五山」
鎌倉五山とは、建長寺・円覚寺・
寿福寺・浄智寺・浄妙寺。京都
五山といえば、天龍寺・相国寺・
東福寺・建仁寺・万寿寺で、その
上に南禅寺があった。
五山の由来は祇園精舎・
竹林精舎・大林精舎・誓多林
精舎・ならんだ那蘭陀精舎と
いう、天竺五山に
まで遡る。中国では、径山
興聖万寿寺・阿育王山広利寺・
大白山天童景徳寺・北山
景徳雲隠寺・南山浄慈報恩
光孝寺となる。
まあ、主要な5つの禅寺と
いったところだろうか。五山
の僧は漢詩をよくした。
ひっくるめて五山文学と言った。
仙台藩祖・伊達政宗も、禅と
漢詩の素養を身につけて育った。
仙台開府と共に、青葉城北部の
北山丘陵に五山を設けた。
私が住む所は伊勢堂山中腹
だが、北山丘陵はその隣に
位置している。五山は全て
臨済宗の寺で、遠山覚範禅寺・
慈雲山資福禅寺・無為山東昌
禅寺・松蔭山光明禅寺・
當牛山満勝禅寺である。
鎌倉時代の伊達家は、
伊達郡桑折(福島県)を本拠に
していた。初祖とされる朝宗
(ともむね)は、満勝禅寺に
葬られている。4代政依
(まさより)の頃、東昌・光明・
満勝・観音・光福の五寺を、
伊達五山とした。
16代輝宗は、1572
(元亀3)年米沢(山形県)の
地に資福寺を再興し、虎哉
宗乙和尚
を招いた。虎哉は美濃国
方県郡(岐阜県)の生まれ。
甲斐国(山梨県)で武田信玄
の師であった快川紹喜
(かいせんしょうき)の、
二甘露門(高弟)の一人だった。
快川は織田信長の恵林寺焼き
討ちに際し、「安禅必ずしも
山水をもち須いず。心頭を
滅却すれば火も自ら涼し」
という名言を残し、炎と共に
入寂した傑物である。
虎哉は輝宗の子・政宗を、
6歳の頃から40年あまりの
長きにわたって、禅と学問に
よって鍛えあげた人生の師で
あった。覚範寺は1601
(慶長6)年、仙台開府と共に
虎哉によって開山された。
資福禅寺は、別名「あじさい寺」
と言われている。山門から本堂
まで、石段の両側を紫陽花が
埋め尽くしている。梅雨時の花
の盛りに訪れると、普段は俗塵
にまみれている心も、詩情の
ゆらめきに洗われる事になる
だろう。
また資福禅寺境内には、幹が
7つに分かれている、樹齢
320年の七香木蓮、樹齢200
年の五葉松、同じく樹齢200年
のこうざんようなどの古樹もある。
東昌禅寺本堂前には、樹齢
350年の赤松が2本ある。
そこから少し離れた所に、伊達
政宗が仙台城の鬼門除けに植えた、
樹齢500年の「マルミ(丸実)
ガヤ」がある。秋の初めになると、
今でも多量のカヤの実を落とす。
この実は「御前ガヤ」と称し、
政宗も好んで食べたという。むろん
私も食べた。なかなか「渋い」味
だった。
光明禅寺には、支倉六右衛門常長
の墓がある。政宗は、当時スペイン
(イスパニア)の植民地だったメキシコ
(ノビスパニア)との貿易を望み、
スペイン国王に使者を送る事を決した。
辛抱強い男がよかろうと、家臣団の
中から選ばれたのが、支倉常長だった。
1613(慶長18)年9月15日、
500トンの木造帆船「サン・ファン・
バプティスタ号」は、仙台領牡鹿半島
月の浦を出航。黒潮にのって太平洋を
渡り、北米サンフランシスコ沖から
メキシコ、キューバを経て、2年後
スペインの首都・マドリードに到着
した。
常長は奥州国王の名代として、
政宗の書状を国王・フェリーペ三世
に手渡した。また、王立デスカルサス
修道院において、国王臨席のもと、
カトリックの洗礼をうけた。洗礼名
フランシスコ。ドン・フィリポ・
フランシスコ・ハセクラの誕生
だった。
その後常長一行は、フランス
のサン・トロペを経てイタリア
へ向い、1615(元和元)年
11月3日、ヴァチカン宮殿
でローマ法王パウロ五世に
謁見した。遥か東方よりの
使者に対して、彼らには
ローマ市民権証書が贈られた。
この頃の日本国内は、大阪
冬・夏の陣で豊臣家が滅び、
キリシタン禁教令による迫害
が、全国規模に拡大しつつ
あった。京・大阪の宣教師や
信徒は、迫害を逃れて奥州に
集まり、政宗も寛大に受け
入れていた。
1616(元和2)年、徳川
家康75歳で死去。翌元和3年、
常長一行はメキシコで、政宗の
使者・横井将監と会い、帰国
命令をうけた。横井はメキシコ
で洗礼をうけ、「ドン・アロ
ンソ・ハーシャルド」となる。
常長や横井は、フィリピン
のマニラに2年間とどまり、
1618(元和4)年8月、
ひそかに帰国した。政宗は
5年におよぶ常長の労苦を
労ったが、幕府のキリシタン
禁教令の圧力には逆らえず、
元和6年に至って伊達領内
すべての者に改宗を命じる
事になるのである。
1622(元和8)年7月1日。
支倉常長は柴田郡支倉村(宮城県
川崎町)で病没。52歳だった。
仙台領のキリシタン信徒は、
支倉家を中心にして広まって
ゆくのだが、1640(寛永
17)年3月1日、改宗に
応じない常長の子・常頼が切腹
して果てた。42歳だった。
弟・常道は、キリシタンのまま
他国へ逃亡した。
常頼の家僕・与五右衛門と
妻・きり、常頼の養女・しいな、
料理人・大窪太郎兵衛と妻・せつ、
召使い惣四郎、常長と共にローマ
に行った家僕・勘右衛門ら、
改宗に応じない支倉家の人々は、
「釣殺しの刑」と呼ばれる処刑法
で死んでいった。
光明寺墓地の、木立に囲まれた
穏やかなたたずまいの支倉常長
の墓所を訪れると、時代の思惑
に翻弄され、信仰に殉じた人々
の光と影を想い、哀切の情に
包まれるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。
○国見八景・第5景
「輪王寺」
ギタリストの友人が、琴と
胡弓でコンサートを開くと
いうので、秋の夕暮れに
散歩気分で出かける事にした。
会場は北山の曹洞宗金剛宝山
輪王寺。かつて仙台領808
ヶ寺の僧録司(曹洞寺院の
総管掌)だった禅寺である。
京都五山の別格が南禅寺なら、
北山五山の別格が輪王寺なの
である。
交通量の多い北山バス
通りから、一歩輪王寺参道
に入ると、静謐な「気」に
包まれる。街灯もなく、
松の木の陰から辻斬りに
襲われそうな闇がある。
そこに元禄年間に建てられ
た山門(仁王門)が現れる。
古びた感じが渋い。「海東
禅窟」の扁額がある。
輪王寺の開山は、室町時代
の1441(嘉吉元)年4月
8日。伊達家9世・大膳
大夫政宗夫人(輪王寺殿蘭
庭尼大姉)の祈願により、
11代持宗が伊達郡梁川
(福島県)に創建したもので
ある。当時学徳兼備の名僧
として知られた、太庵梵守
和尚を開祖として迎えた。
9世政宗夫人・蘭庭尼は、
3代将軍足利義満夫人の妹
にあたり、6代将軍足利義教
は、後花園天皇に奏請し、
「金剛宝山輪王禅寺」の
宸筆の額面を賜っている。
輪王寺はその後、伊達家の
居城とともに移転し、山形県
米沢市、福島県会津若松市、
宮城県岩出山町を経て、
1602(慶長2)年に現在
の仙台市青葉区北山の地に
落ち着いた。
輪王寺の造営は、仙台藩祖・
伊達政宗から4代にわたって
受け継がれ、綱村の代に至って
ようやく完成した。参禅弁道
の雲水は常に数百人と言われ、
奥州随一の禅の名刹だった。
しかし1876(明治9)年
3月、野火の類焼により
仁王門を残して、本堂・
営舎のことごとくが灰燼に
帰してしまった。
曹洞禅の大本山・永平寺と
総持寺は、名刹の廃滅を
惜しみ、福定無外和尚を
住職に特選して復興を図った。
無外和尚の寝食を忘れての
働きによって、1915
(大正4)年に本堂と庫裏が
完成した。
無外和尚は次に、造園に
着手した。
「園林諸堂閣種種宝荘厳
宝樹多華果 衆生諸遊楽(法華経)」
の精神を具現化した造園である
という。コンサートはその庭園
に面した、20畳程の部屋で
行われた。舟遊びが出来る
ほど広くはない池があり、その
周囲には四季の花が咲く。水面
の上に月も映る。そうした庭の
風光を愛でながら、茶を喫し、
あるいは友人が奏でる「琴と
胡弓」を楽しむなど、無外和尚
の願いにかなった、仏法的平和
というものだろう。
輪王寺第41世・無外和尚は、
1943(昭和18)年5月22日
に遷化し、天外五峰和尚が後を
継いだ。天外和尚は空襲で荒廃
した仙台の街に立ち、辻説法を
して復興を説く、骨太の禅者
だった。開祖・道元の「只管
打座」の精神で、参禅する者
を導いたという。
仙台城北部の北山丘陵には、
西から羽黒神社、輪王寺、
資福寺、覚範寺、東昌寺、
光明寺、鹿島神社と、ずらり
と神社仏閣が並んでいる。
この配置は、もはや「城壁」と
いう以外にない。政宗もおそらく、
そういう軍事的意図をもって
いた事だろう。
藩政時代、この「城壁」の西
と東の端から、北に向う道が
二本あった。東端は芭蕉の辻
から青葉神社へ直進し、光明寺
の下から堤町に抜ける奥州街道
である。仙台藩の幹線道路として、
江戸初期の元和年間に開通した
道である。堤町の先にある北根村
は、戸数0の黒松林だったという。
そして輪王寺の西端を北に
向う道が、七北田街道である。
実はこの道、いにしえの奥州
街道(古街道)であり、別名
「秀衡街道」と呼ばれていた
のである。
平安時代、奥羽全域を支配下
に置いていた藤原清衡(1056
~1128)は、平泉に中尊寺
を建立し、大和朝廷から半ば
独立した形で独自の黄金文化
を築きあげてゆく。清衡の後を
二代・基衡、三代・秀衡、四代・
泰衡が受け継ぎ、源頼朝によって
滅ぼされるまで、およそ100年
余の栄華を誇った。
有史以来今日まで、人類が発掘
した金の量は約10万トンと言わ
れているが、藤原四代が使用した
であろう金は、およそ300トン。
2000万両にのぼると推定され
ている。時価1g3000円として、
9兆円である。
白河関(福島県)から青森県
陸奥湾の外が浜蓬田村に至る
「陸奥街道」には、1町(約9km)
ごとに黄金の阿弥陀仏を刻んだ
笠卒塔婆を建てて、道標にした
というからものすごい。砂金は
奥州の砂だった。
1180(治承4)年8月。
源頼朝が伊豆で挙兵した事を
知った源義経は、平泉から兄・
頼朝のもとへと向う。この時は
おそらく陸路であり、陸奥街道
を騎馬で南下したものと推測
される。輪王寺脇の、今では
名も無き普通の道を、義経やら
弁慶やらが駆け抜けていったのか
と思うと、何やら歴史のロマンと
いう香を放ち始めるから不思議
なものだ。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
国見八景・第6景「荘厳寺」
真保裕一という、エンター
テーメント系の作家がいる。
「奪取」という偽札づくりの
長編小説は、あまりの面白さ
の為、丸二日で読みきって
しまった。映画化された
「ホワイトアウト」も同様
だった。主人公の真情に共感
し、最後のページ近くで感動
の涙がこみあげてきた。
その手練の作家が、山本
周五郎作「樅の木は残った」
はすごいぞと書いていたので、
少し気になった。この小説は
仙台藩祖・伊達政宗亡き後
のお家騒動を扱った内容で、
1970年同名のタイトル
でNHKの大河ドラマとなり、
平幹二郎が伊達家の筆頭
家老・原田甲斐を演じた。
当時から大河ドラマの
ファンであり、小学生
ながら「竜馬がゆく」や
「天と地と」をワクワク
しながら見ていた私だった
が、「樅の木─」は時代
も内容も渋過ぎた。いわ
ゆる政治の腹芸であり、
大人の心理劇だったから
だろう。ゆえに作者の
山本周五郎作品も、熱心
に読んではいなかった。
それから30年を経て、
地元の資料に目を通して
いた時の事。新坂通りの
浄土宗荘厳寺という寺に、
原田甲斐の屋敷の門が移築
されていると書かれてあっ
た。近所のことゆえ、その
寺を探す散歩に出た。
大願寺横丁のゆるやかな
坂道を下り、歩く事10分
で目指す荘厳寺に着いた。
そして驚いた。寺の敷地内
に、私が通っていた幼稚園
があったからだ。私はそれ
とは知らずに、黒く古びた
原田邸の「逆さ門」を、
幼少時から幾度となく
くぐり抜けていたのである。
奇縁だった。
そもそも伊達騒動は、
1660(万治3)年7月
18日、仙台藩3代藩主・
伊達綱宗が、「諸事不作法
かつ悪事遊興不行跡のかど
により」幕府から「逼塞
(ひっそく)」を命じられた
事に始まる。この時綱宗
21歳。藩祖・政宗に似た
剛毅な性格だったという。
逼塞とはつまり、藩主を
引退して屋敷に引っ込んで
いろという事である。別に
綱宗が乱心したわけではない。
江戸・新吉原の遊郭で、多少
盛大に遊女たちと酒宴を
張っていたというだけの事で
ある。水戸光圀はじめ、若い
大名・旗本たちは、当然の
ように遊郭遊びをしていた。
幕府は3代将軍・家光の
頃までに、肥後熊本の加藤家
をはじめ、蒲生家、京極家
など、外様26家、一門・
譜代17家を取り潰してきた。
藩主や家臣のちょっとした
不始末が、お家取り潰しの
口実に用いられてきた。
綱宗の遊郭通いも、重臣
たちは反対だった。出来れば
幕府に知られたくない。だが
密偵を使って綱宗の一切の
言行を報告させ、話にある事
無い事尾ひれをつけて幕府に
報告した男がいる。伊達政宗
の十男・伊達兵部少輔
(ひょうぶしょうゆう)宗勝
である。つまり綱宗は、彼に
よって失脚させられたのである。
伊達兵部は、幕府の老中首座・
酒井雅楽頭忠清と、
伊達62万石分割の密約を結んで
いた。兵部の子・宗興(むね
おき)に30万石。綱宗の妹の夫・
立花飛騨守の子・直茂に15万石。
片倉小十郎を直参大名に取り
立てて3万石。残りは綱宗の兄・
田村右京むねよし宗良にという、
具体的な内容だった。綱宗は
品川屋敷に隠居し、2歳の亀千代
が伊達62万石を相続した。
伊達兵部と田村右京が、その
後見人となった。
この伊達家分割案は、4代
将軍家綱のお側衆・下総関宿
4万石の久世大和守(くぜ
やまとのかみ)広之から、伊達家
重臣・茂庭周防定元に漏らされる。
驚愕した茂庭周防は、妹の夫・
原田甲斐宗輔に相談する事になる。
原田家は、伊達家初代・朝宗の代
から19代伊達家に仕えてきた、
宿老の家柄だった。
原田甲斐は兵部の野望を阻止
すべく、あえて兵部の懐に飛び
込む。「虎穴に入らずんば虎子
を得ず」というわけである。
面従腹背の腹芸は、なかなか
わかりにくい。甲斐の真意を図り
かねて、彼のもとを去ってゆく
同士も少なくなかった。
だが甲斐は、信頼出来る家臣
を亀千代の毒見役にして毒殺から
守り、酒井と兵部の間に交わ
された密約書を入手するので
ある。甲斐は密約書を老中・久世
大和守に託した。
一方幕府は、田村右京と伊達
安芸の領地争いに対して老中評定
を開き、藩内不統一を理由にして
分割の流れをつくろうと画策して
いた。首謀者はむろん、大老に
なった酒井雅楽頭である。
甲斐は分割案を回避し、兵部を
排除し、なおかつ酒井ら幕府の
面目を潰さぬようにと、大手
下馬先・酒井雅楽頭屋敷の評定
の席において、伊達家重臣・伊達
安芸宗重(57歳)、柴田外記
とももと朝意(63歳)を刺し、
自らは蜂谷六左衛門
可広(58歳)と斬り結んで相打ち
になった事になっている。
だが甲斐が不意に伊達安芸を
刺す事が出来たにせよ、その後
誰も止めず、柴田が抵抗もせず
殺されたという状況にはやや無理
がある。屋敷内では皆、脇差だけ
なのである。伊達家の重臣たちは、
酒井家の家臣たちによって謀殺
され、その罪を甲斐がかぶったと
いう説明のほうが近いように
思える。
ともあれ原田甲斐は、1671
(寛文11)年3月27日、自ら
乱心し悪の汚名を着て、53歳で
死んだ。伊達安芸が死んで藩内
不統一の理由が消滅。久世の働き
かけもあり、亀千代と伊達62
万石は安泰となった。亀千代は
成人後、名を綱村と改める。
1703(元禄16)年に隠居する
までの26年間、安定した文治
政治を行った。
だが逆臣・原田家に対する処分
は過酷だった。嫡男・原田帯刀
(たてわき)宗誠(25歳)、二男・
飯坂仲太郎(23歳)、三男・平渡
(ひらど)喜平次(22歳)、四男・
剣持五郎兵衛(20歳)いずれも切腹。
宗誠の子・采女(うねめ・4歳)伊織
(1歳)は斬首。甲斐の母、慶月院は
終身禁固を申し渡され、自ら30日
の絶食を行って死亡した。
宿老・原田家は断絶となり、所領
の船岡館も取り壊される事になった。
家老の堀内惣左衛門は、船岡館に火
をかけ、原田家の菩提寺・東陽寺で
切腹して果てた。伊達兵部は所領
没収のうえ、土佐・山内家にお預け
の身となり、1679(延宝7)年
病没した。その翌年には4代将軍
家綱が没し、酒井雅楽頭は大老職を
免じられた。世は5代将軍綱吉の
時代になってゆくのである。
ふと思う。原田甲斐は、密約書
を久世大和守に預けて死んでいった。
そこには自らの命と引き換えにした
「信」があった。そして久世は、
その信を果たす。血なまぐさい
政治劇の中で、武士の信義がきらり
と光る。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..
○国見八景・第7景
「大願寺横丁」
私の家の近所は、寺と墓地が
数多くある。「墓地が恐くて
国見に住めるか」と言ってみる。
まず、門を出て約10メートル
の所に、西本願寺仙台別院の
墓地がある。その東に、浄土宗
大願寺、超光寺、称念寺、
永昌寺、充国寺、昌繁寺、
荘厳寺、正円寺、称覚寺、
恩慶寺という、浄土宗系の寺
と墓地が並ぶ。
正円寺の隣には、曹洞宗
江厳寺があり、臨済宗輪王寺と
北山五山の禅寺を加えると、
20余の寺社が密集して建ち
並んでいる事になる。墓は
3千を越える数になるだろう。
そもそも「墓」とは、土で
人をおおうという意味である。
盛土を「墳」と言い、樹木を
植えて墳墓と呼んだ。古代の
人々は、地下世界を死者(死霊)
の住居として怖れていた。死者
は危険で恐ろしいものであり、
生者に対して害を成す存在
だった。
石には、死霊や悪霊、あるいは
外敵を封じ込める霊力があると
信じられていた。イザナギ命が
黄泉国から逃げ帰った時、黄泉国
に通じる穴を石で塞いだという
話もある。
狐という動物は、古墳の穴を
好んで棲家にしていた。そのため
人々は、狐を見て死霊や祖霊の
化身だと思うようになった。この
考えはやがて、狐を霊獣とする
稲荷信仰と結びついてゆくので
ある。
古墳は権力者の象徴であるが、
当時は霊魂も上層階級の者のみ
に存在していた。一般人に霊魂は
無く、死体は野原にはふ葬られて
いた。「葬」とは、草で人を
おおうという意味である。京の都
では、主として加茂川に死体を
投げ捨てていた。墓石の下に土葬
するようになつたのは、室町時代
以降に、主として浄土宗系の寺が
開創してからである。
かつて大願寺の隣には、仙台
市営の火葬場があった。灰色の
高い煙突から、人体を焼く真っ黒
な煙が立ち昇っていた。私はその
煙を見ながら、近道だった称念寺
の墓地を通り、大願寺横丁のゆる
やかな坂道を下って、荘厳寺内の
幼稚園に通っていた。
親鸞上人ゆかりの称念寺門前脇
には、福来心理研究所という看板
を掲げた家もあった。この研究所
を主宰していた福来友吉(1889
~1952)は、東京帝大で
「催眠術の心理学的研究」で博士号
を取得。1910(明治43)年から
は、御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子、
森竹鉄子ら、念写や透視能力がある
と思われる者の実験を行い、超能力
研究を行った人物である。「貞子」
という名から、映画「リング」を
思い起こす人もいるだろう。思い
返すと、なんともホラーな通学路
だった。
今では約97パーセントが火葬の
日本だが、カトリック圏のアメリカ
は、火葬率13パーセントと、土葬率
が高い。イギリスやデンマークも
50パーセント程である。死者が肉体
と共に蘇る「ゾンビ」は、土葬的恐怖
と言えるだろう。
死者に対する恐怖といえば、仙台
心霊スポットという噂話集成の
ホームページがある。旧火葬場という
事もあり、大願寺界隈にはよく
「出た・見た」というコメントが載っ
いる。だがこの界隈に出現する幽霊に
まつわる因縁話は、単に火葬場が
あったからというだけのものでは
なかった。
大願寺門前には、樹齢250年の
たらよう。称念寺には樹齢300年の
きゃらぼくとカリンと姉妹いちょう。
正円寺には樹齢360年の赤松。
荘厳寺には樹齢350年の如意笠の松
と、樹齢200年のもみじ。充国寺
には樹齢350年のやしおかえでと
いう具合に、この寺域一帯には、古樹
が数多く残っている。
古樹の存在は、空襲で焼けていない
地域である事の証になる。1945
(昭和20)年7月10日午前0時
03分。グアム島の第58爆撃隊の
B29124機は、仙台湾南東海上
から仙台市街地に侵入。高度4千~
6千メートル上空から、油脂焼夷弾
による空襲を開始した。午前2時
30分頃まで、5編隊による波状
攻撃を行い、市街地は火炎地獄に
なり、1066名が死亡した。
死因の大半は焼死か窒息死で、
213体が身元不明遺体だった。
このうち108体が大願寺に、
76体が子平町の寿徳寺に、29体
が新寺小路の松音寺に葬られた。
大願寺界隈に現れる幽霊は、どう
やらこの無縁仏と関係があるらしい。
火炎地獄の恐怖と無念さに、改めて
合掌。
そもそもB29による無差別焼夷
弾爆撃を発案したのは、第二十航空団
司令官で、「爆撃屋」と呼ばれた
カーティス・ルメイ少将である。彼は
日本本土に十分な夜間戦闘機が無く、
高射砲もレーダー管制でない事から、
夜間、低空による焼夷弾空襲という
戦法を編み出したのだった。焼夷弾
とは、火災を発生させて住民を焼き
殺す事を目的にした爆弾の事である。
無差別都市空襲は、1944(昭和
19)年11月1日から、翌年8月
15日未明まで、延べ1万7500機
のB29で、16万トンの焼夷弾を
投下。死者35万人、221万戸
の家屋が焼失した(原爆被害を除く)。
東京、横浜、大阪、神戸などの大都市
はもちろんの事、中小都市までまん
べんなく、丹念に空襲していった。
このカーティス・ルメイ少将。戦後、
日本の航空自衛隊を育成した功績に
より、政府から勲一等旭日大綬章を
授与されている。戦争の理不尽さを
象徴するエピソードである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。
○国見八景・第8景
「芹沢美術館」
私の家の向かい側に、東北
福祉大学のレンガ色の校舎が、
城の天守閣のようにそびえて
いる。子供の頃、この敷地
への出入りは自由であり、
格好の遊び場だった。この
場所からは、仙台市街地は
もちろんの事、太平洋の
水平線や沖を航行する船まで
もを望むことが出来る。
この東北福祉大学校舎内
に、芹沢銈介美術館が開館
したのは、1989(平成
元)年6月23日の事だった。
型絵染という技法の染物で、
1956(昭和31)年重要
無形文化財保持者(人間国宝)
になった芹沢銈介の長男・
長介が、東北福祉大学名誉
教授だった事が縁となっての
開館だった。
芹沢は1895(明治28)
年に、静岡市本通り一丁目の
呉服卸小売商・大石角次郎の
次男として生まれた。幼い頃
から織物の絵柄に興味があり、
美術では梅原龍三郎、安井
曾太郎、岸田劉生、中川一政、
陶芸の冨本憲吉、バーナード・
リーチを好み、「白樺」を
愛読していた。
1927(昭和2)年、芹沢
は朝鮮を旅して、朝鮮民族
美術館や慶州の仏国寺を
訪れた。この旅の途上、彼は
柳宗悦の
論文「工芸の道」を読み、
深く心を動かされた。以来
柳宗悦は、芹沢生涯の師に
なるのである。
柳宗悦は芹沢より6歳年上
で、1889(明治22)年
3月21日、東京市麻布区
市兵衛町2―13に、海軍
少将・柳楢悦の
三男として生まれた。父の
楢悦は、幕末の頃、勝海舟
や榎本武揚らと共に、長崎
の海軍伝習所で造船・測量・
航海術やオランダ語を学んだ
人物だった。関流和算を学ぶ
一方、博物学や民俗学にも
熱心だった。
麻布台の屋敷は、現在六本木
一丁目・アークヒルズ(地下鉄
南北線・六本木駅)近くにあった。
広い庭には、桃・栗・梨・葡萄・
銀杏・蜜柑・無花果・梅・椿・
茶・桑などの樹木が植えられ、
苺畑や温室、蓮池があったと
いう。趣味の料理の為の栽培
だった。また楢悦は、庭の一角
に「晩香亭」という庵を設け、
茶や書画を営むという、なか
なかの粋人でもあった。
だが宗悦誕生の年、火災の為
蔵書や収蔵品を焼失。後の宗悦
を思うと、なんとも惜しい。
さらに3年後の1891(明治
24)年1月24日、楢悦は肺炎
の為あっけなく死んでしまう。
宗悦は父の事をほとんど憶えて
いなかった。
柳邸の近所、麻布区三河台町
27に志賀直哉が住んでいた。
宗悦は学習院中等科の頃、6歳
年長の志賀と出会い親友となる。
さらに高等科で武者小路実篤や
里見とん弴らと出会い、「白樺」
創刊の同人になる。白樺派と
称される文学潮流は、小説の有島
武夫、長与善郎、戯曲の倉田百三、
詩の高村光太郎などが加わる。
柳は1925(大正14)年に、
陶芸家の浜田庄司、河井寛次郎の
3人で、木喰仏を
調査する旅に出た。木喰僧は多く
いるが、この場合、甲斐国(山梨
県)生まれの真言宗の僧・明満五行
(1718~1810)が彫った
木彫仏を指す。その旅の途上、
柳は「民衆の民と、工芸の芸で、
民芸という言葉はどうだろうか」
と、浜田と河井に言った。二人の
賛同を得たこの時から、民芸運動
が始まる。
民芸とは、労働から生まれ、
日常で使われているからこそ美しい
「用の美」であり、名も無き民衆
の無心から生まれる美であるという
思想を核としている。そうした
思想を集約したのが、芹沢を突き
動かした「工芸の道」という論文
であったのだ。
1926(大正15)年4月1日。
柳は「日本民芸美術館設立趣意書」
という小冊子を発刊する。京都市
吉田神楽岡3の柳宗悦、大和国
生駒郡安堵村の冨本憲吉、京都市
下京区五条坂の河井寛次郎、栃木県
益子町の浜田庄司が名を連ね、
事務として東京市麻布区一ノ橋の
青山二郎が加わっている。
民芸運動の機関紙「工芸」は、
1931(昭和6)年1月に500部
で創刊され、やがて1000部に
増刷。100号までは月刊で、
120号まで続いた。
同じ頃、浜田庄司の陶器に惚れ
こんだ男がいた。岡山県倉敷市に
大原美術館を設立した、倉敷紡績
(現クラレ)社長・大原孫三郎で
ある。彼は倉敷商工会議所で
開かれた浜田作陶展の民芸座談会
で、柳や浜田と会見し、民芸運動
に共鳴した。これを契機として、
倉敷で河井寛次郎展や、新進染色家・
芹沢銈介展などが次々に実現して
ゆくのである。
1935(昭和10)年5月。
孫三郎は東京・高島屋で開催されて
いた、バーナ―ド・リーチ展に足を
運んだ。リーチは香港生まれの
イギリス人作陶家で、冨本憲吉から
侘び茶の心や日本美の本質を学んだ、
民芸の同人である。リーチ展の後、
孫三郎は千葉県我孫子に柳宗悦を
訪ね、日本民芸館設立資金10万円
の提供を確約した。柳が狂喜した
のは言うまでもない。
その年の暮れ、東京市目黒区駒場
861番地の敷地に日本民芸館建設
が開始され、翌年10月に開館の
運びとなった。その後、倉敷にも
民芸館がつくられ、大原美術館別館
には、河井寛次郎と彼を師と仰ぐ
棟方志功、浜田庄司、バーナード・
リーチ、芹沢銈介、冨本憲吉などの
作品が収蔵された。
柳宗悦は1961(昭和36)年
4月29日、日本民芸館の茶の間で
脳出血の為倒れ、5月3日午前4時
02分、飯田警察病院で息を引き
取った。72歳だった。芹沢銈介は
彼の死後20年余を生き、創作を
続けた。民芸運動の精神は、芹沢を
師と仰ぐ染織家の志村ふくみや、
作家の白洲正子らによって受け
継がれ、日本美の華を咲かせ続け
ている。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o
○相馬黒光
寒い季節になると、セブン
イレブンの店内に「新宿
中村屋の中華まんじゅう」
のショーケースが現れる。
私は特に「あんまん」に
思い入れが深い。絹の
ようになめらかな舌触りで、
独特の風味やこくがある
「あん」は、他社製品の
追随を赦さないと、ひそか
に思っている。
人は誰しも、「世の中に
これほど美味しい食べ物が
あったのか」という品目
を、1つや2つ持っている
だろうが、私の場合その
1つが「中村屋のあんまん」
なのである。子供の頃の味覚
は、後々まで影響するもの
らしい。
その新宿中村屋の創業者は、
星 良という女性
である。後に長野県穂高町
出身の相馬愛蔵と結婚し、
筆名に黒光を用いた事から、
相馬黒光として知られる事
になる。
黒光は1875(明治7)年
9月11日、仙台県第一区
定禅寺櫓丁通(じょうぜんじ
やぐらちょうどおり)本材木
町西裏末無という所に生ま
れた。現在の仙台市青葉区
立町あたりである。西公園
から立町一帯には、仙台藩
重役の屋敷が建ち並んでいた。
明治8年という年は、
御一新(明治維新)の7年後、
廃藩置県の4年後であり、
仙台城下の人口は5万人程
であった。城下には維新政府
の薩長兵が駐屯し、旧仙台藩
家臣の切腹だの斬首だのと
いう血なまぐさい事件が、
いまだに続いていた。
黒光の祖父・星雄記は、
勘定奉行などの要職を歴任
した人物だったが、若き日
に長崎の蘭学者を訪ねた事
もある開明派であり、処罰
は受けず屋敷の隠居所で
四書五経を講じていた。父
の喜四郎は多田家からの
婿養子で、旧幕府軍の
江川太郎左衛門から砲術を
学んだ人物だった。黒光は
武家の娘として躾られた。
明治という時代は、数々
の制度改革と共に、堰き止め
られていた欧米文化が熱っ
ぽく押し寄せ、暖流と寒流
のぶつかり合う「潮目」の
ようになっていた。欧米文化
は「ハイカラ」であり、ある
種の崇拝をもって日本人に
迎えられた。
黒光は13歳で洗礼を受けた。
当時キリスト教(耶蘇教)は
「邪宗門」と言われていたが、
彼女は宮城女学校から横浜の
フェリス和英女学校、東京・
麹町の明治女学校と、キリ
スト教系の学校へと進学する。
黒光22歳の明治30年、
5歳年上の相馬愛蔵と結婚し、
3年後に長男誕生。東京帝国
大学正門前に、パン屋「中村屋」
を開業するのは、その翌年の
1901(明治34)年12月
30日の事である。
1904(明治37)年2月
8日と言えば、日露戦争開戦
の日である。日本国民の関心は、
当然の事ながら大国ロシアとの
戦争の行方に向けられていた。
同じ頃黒光は、次女を出産した。
夫の愛蔵が築地で「シュー
クリーム」という西洋菓子を
買ってきたのも、そんな時だった。
「世の中にこんな旨いものが
あったのか!!!」
と、愛蔵も黒光も驚いた。
「このクリームを、パンの中
に入れたなら・・・」
黒光の小さな閃きが、
「クリームパン」と「クリーム
入りワッフル」誕生につながって
ゆく。私はこのエピソードが
好きである。日露戦争は凡愚
の大将・乃木希典を英雄にし、
10万余の戦死者を出した。
日本海海戦で大勝利し、
「君死にたもうことなかれ」
という与謝野晶子の名詩が
生まれたが、総じて不毛な
ものである。ところが戦争
などに関係なく、食い物の
旨さに感動すると、次世代
へ受け継がれるクリームパン
のような名品が生まれるので
ある。
木村屋の餡パンに続き、
中村屋のクリームパンは
ヒットした。そんな中、
税金問題から店の転居を
迫られる事態が発生した。
黒光は千駄ヶ谷から市電の
終点方面に狙いを定め、
支店の場所を探しまわった。
豊多摩郡内藤新宿は、当時
場末の荒野だった。安手の
遊女屋が建ち並び、甲州街道
の荷車屋と一膳飯屋などが
あった。新宿駅東口は裏玄関
で、栗やみかんを戸板に並べて
売っている小さな果物屋が
あった。現在の「高野
フルーツパーラー」である。
1907(明治40)年12月
15日、中村屋新宿支店が
オープンした。隣には屑屋・
豆腐屋・銭湯が並んでいた。
紀伊国屋という炭屋もあった。
この店の「もっちゃん」が
炭屋を本屋に変えたのは、
1927(昭和2)年の事だった。
中村屋の相馬黒光についての
エピソードは数多い。彫刻家・
荻原守衛(碌山)の名作「女」
のモデルは黒光である。中村屋
サロンには、彫刻家・高村
光太郎、盲目の詩人・エロシェ
ンコ、岩波書店の岩波茂雄、
書家の会津八一など、多彩な
文化人が顔をそろえていた。
また、インド独立運動の指導者、
ラス・ビハリ・ボースから、直伝
の「カリーライス」を伝授された
のも黒光である。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o
○カリーライス
1838(天保9)年2月
16日は、大隈重信の誕生日
だそうだ。佐賀藩出身で、
伊藤博文や黒田清隆内閣の
外相。1914(大正3)年
には第二次大隈内閣を組織
し、第一次世界大戦へ参戦
した。
その大隈が首相在任中の
1915(大正4)年12月
初め。「萬朝報(よろず
ちょうほう)」という新聞に、
「追放印度人の失踪 一日夜
頭山邸から消える」という記事
が載った。頭山とは、国家主義
団体「玄洋社」の最高指導者・
頭山満であり、
追放印度人とは、16歳の時
インドの英国人総督に爆弾を
投げて負傷させ、首に16万
ルピーの懸賞金を懸けられた
お尋ね者、ラス・ビハリ・
ボース29歳だった。
大隈と玄洋社の間には、ただ
ならぬ因縁がある。1889
(明治22)年、51歳の大隈は、
伊藤内閣の外相として不平等
条約改正にあたっていた。だが
その条約改正が国辱的であると
して、玄洋社社員・杉山茂丸に
爆弾を投げつけられ、右脚を
失うのである。杉山とは、作家・
夢野久作の父だった。
頭山の玄洋社には、苦々しい
思いのある大隈だが、身は日本国
首相であり、日印協会会頭も兼ね
ていた。
「ボースの隠れ家は、大隈総理
の邸内か?」
という噂までささやかれていた。
話は前後するが、11月28日
にイギリス大使が外務省を訪れ、
ボースら3人の印度人の身柄を
引き渡すよう要請してきた。彼ら
は敵国ドイツの援助を受けて、
インド独立運動を画策している
というのが理由だった。日本政府
としては、日英同盟の立場上3人
に国外退去命令を出さざるを
得なかった。
ボースを匿っていた頭山とて、
国の決定に表立って逆らう事は
出来ない。さりとて欧州航路に
乗せれば、上海か香港あたりで
捕まってしまう可能性が高かった。
捕まれば殺される。義に生きる
頭山に、そんな事は出来なかった。
困った。どこかに隠れ家はない
ものか。
そんな時、「そう言えば店の
裏のアトリエが空いている」と、
頭山に言った男がいる。新宿
中村屋の主人・相馬愛蔵である。
ボースら国際指名手配犯の身柄
をあずかり、事露見の暁には
その身は切腹、お家は断絶と
いう事態にもなりかねない。
「一商人といえど、相馬愛蔵・
男でござる」
と、仮名手本忠臣蔵十段目の
天河屋義平の如き
セリフを言ったかどうか。
ともかくも愛蔵は、危険覚悟で、
ボースとグプタを匿う事にした。
頭山邸から新宿中村屋まで彼ら
を乗せた車を運転したのは、
大隈外相を襲った杉山茂丸。
日印爆弾男の奇縁だった。
中村屋裏のアトリエは、荻原
守衛(碌山)が設計し、つい先頃
まで画家の中村彜が住んで
いた。それゆえ炊事場やトイレ
もあった。そこで2人の印度人
を迎え入れたのは、愛蔵の妻・
良(筆名・黒光)40歳だった。
新宿中村屋を実質的につくり
育ててきた女主人・黒光は、
愛蔵以上に「任侠の人」だった。
いざとなったら、私が罪を一身
に被ろうと胆を決め、2人の
印度人の世話をやいた。英語は
女学校時代から得意だったので、
何とかなった。加えて中村屋は
パン屋である。朝食のパンには
事欠かない。
しかし、印度人の食事の好み
がわからない。黒光が困って
いる所に、ボースからメモが
届いた。
「カレー粉・骨付きチキン・
野菜・スパイス類・ヨーグルト」
ボースが「カリーライス」と
呼ぶものの材料だった。
カレーは1872(明治5)年、
西洋料理指南なる本で初めて
紹介され、20年を経てよう
やく庶民に普及する。このカレー
ライスは、イギリスから取り
入れた洋食で、インド料理では
なかった。
ボースは黒光に、ベンガル風
カリーライスの作り方を伝授した。
これがカリーパンと共に今も続く、
中村屋看板商品誕生の物語である。
4ヶ月半に及ぶアトリエ滞在
の間に、ボースは相馬夫妻を
「父母」と呼んで慕った。
「義によってこういう命がけの
経験をいたしました間柄という
ものは、肉親の親子以上の親しみ
と敬慕の念を感じ、私は名残
惜しさに流れる涙を抑え抑えして、
窓にすがって離れてゆく自動車
のあとを見送りました。(黙移)」
と、黒光は自著の中でボースとの
別れの時を語っている。
頭山は「天洋丸事件」による
対英外交の弱腰を非難し、日本
政府にボース残留を認めさせる
のだが、英国大使館は私立探偵
を雇って、ボース探索を続け
た。この為ボースは、水戸・
静岡から再び東京へと、転々と
居を移さざるを得なかった。
「ボース1人では心許ない。
昼夜身辺に寄り添う婦人が要る。
俊子さんなら、英語も出来るし
申し分ない」と、頭山が無茶を
言い出した。
俊子とは相馬夫妻の長女で、
この年20歳。中村彝が俊子に
求婚し、黒光との仲が険悪な
ものになった事もある。だが
今度は、俊子も黒光も同意した。
ボースは後藤新平と犬養毅が
保証人となり、5月に頭山邸で
挙式の運びとなった。相馬夫妻
とボースは、文字通り親子に
なったのである。中村屋の
カリーライスは、何やら人間
世界の深くて不可思議な絆の
味がする。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○中村屋サロン
新宿・中村屋の創業者、
相馬愛蔵・黒光夫妻の周囲
には、明治・大正・昭和
を代表する文化人が集まる、
何とも不思議な磁場があった。
まず相馬黒光である。彼女
は本名を星 良と
言い、1875(明治8)年
仙台に生まれた。良の叔母に
星 艶という女性が
いた。嘉永6年というから、
黒船来航の頃の生まれである。
艶は星家の三女として自由に
育てられ、娘時代には男装
して馬を乗り回していたと
いう。艶は18歳で上京し、
女子高等師範学校などで英語
を学ぶ一方、江戸から明治へ
と大変革を遂げる時代、政治
に興味を持って自ら政談演説
も行なった。
艶は開業医の佐々城本支
(ささきほんし)と結婚し、名も
豊寿と改めた。
佐々城豊寿は日本基督教婦人
矯風会の事務局長となる。
「火付・盗賊・人殺・異宗門
禁制」という高札が町の辻々
から撤廃され、新教(プロテス
タント)諸派の布教活動が許さ
れたのは、1873(明治6)年、
豊寿20歳の時である。しかも
キリスト教を邪教として異端視
する傾向は根強かった。豊寿の
内面の激しさが察せられる。
この矯風会初代会長・矢島
楫子の甥が、評論家の
徳富蘇峰と、作家の徳富蘆花
だった事から、豊寿は彼らと
親しく交遊する。一方豊寿は
信子という娘を産む。彼女は
作家の国木田独歩を捨てた女
として、有島武郎の代表作
「或る女」のモデルになった
佐々城信子である。
黒光は叔母・豊寿を頼って
上京し、フェリス女学校に入学
するのだが、佐々城家によく
出入りし、独歩を紹介され、
ワーズワースやツルゲーネフ
などの文学を教えられたという。
独歩の友人には、同じ作家の
田山花袋もいた。
黒光はフェリス女学校を中退
し、明治女学校へと学校を移る。
ここで英語教師をしていたのが、
若き日の島崎藤村24歳だった。
黒光によると藤村の授業は
「ちっともおもしろくなかった」
という。彼は全体として精彩に
欠け、女学生の間では「石炭がら」
とあだ名されていた。とはいっ
ても黒光は、結婚後信州・小諸
(長野県小諸市)の藤村宅を訪ねて
いるので、仲が悪かったという
事ではないらしい。
豊寿が最も親しく交際していた
人物に、8歳年下の内村鑑三が
いる。内村は1861(文久元)年
に高崎藩(群馬県高崎市)の武家に
生まれ、武士道と儒教的道義を
厳しくたたき込まれた。キリスト教
に入信するのは、札幌農学校に入学
する10代後半の頃で、渡米して
確固たる信仰に至る。第一高等
中学講師をしていた1891(明治
24)年に、教育勅語に敬礼しな
かった、いわゆる「不敬事件」で
教壇を追われる事になる。自他に
厳しい不屈の人だった。足尾銅山
鉱毒事件では財閥を攻撃し、日露
戦争では非戦を論じた。
相馬愛蔵もキリスト教を通じて、
古くから内村と交流を持っていた。
愛蔵の郷里は信濃国安曇郡
白金村(長野県穂高町白金)だった。
彼はこの村で養蚕事業を行なう傍ら、
東穂高禁酒会を組織して会長を務め、
あるいは孤児院救援活動を行なう
などの、キリスト教的社会活動を
展開してゆくのである。
だが愛蔵は、内村ほど厳格では
なかった。禁酒を主張していた
はずの彼が、中村屋を立ち上げた
頃、利益率の良さから洋酒を
扱おうとした事がある。内村
は激怒した。
「悪魔の使者とも言う
べき酒を売るとは言語
道断。もし売るなら絶交
です。」
内村にこうまで言われ
ては、愛蔵もあきらめ
ざるをえなかった。
愛蔵と同郷で、禁酒会
などの活動に参加して
いた後輩に、彫刻家の
荻原守衛(碌山)(ろく
ざん)がいる。1879
(明治12)年生まれだ
から、愛蔵の9歳下、
黒光の4歳下という事
になる。20歳の時
上京して、油絵を小山
正太郎の「不同社」で
学び、2年後に渡米。
さらにその2年後に渡仏
してアカデミー・
ジュリアンに学んだ。
碌山という雅号は、
夏目漱石の小説「二百
十日」の登場人物「碌
さん」に由来するという。
守衛がしきりに「碌さん
は面白い」と友人たちに
話すので、いつしか彼は
碌さんと呼ばれるように
なった。彼はロダンの
「考える人」や、ミケ
ランジェロの「奴隷」
などの作品に接して作風
に開眼。留学8年で帰国
する。
帰国後は、新宿・中村屋
近くの角筈新町(西新宿)に
アトリエを構え、「文覚
(もんがく)」「デスペア
(絶望)」「女」などの傑作
を産み出してゆく。そも
そも守衛は、黒光によって
芸術の世界へ導かれ、黒光
への愛慕と煩悶を作品に
結晶させていったのだった。
守衛にとって黒光は、魂の
友でありミューズの女神
だった。
1910(明治43)年
4月21日、守衛は中村屋
の茶の間で喀血し、翌日
あっけなく死んでしまう。
31歳だった。守衛を
慕って、画家の中村彝
(つね)や彫刻家の中原
悌二郎、高村光太郎など
が集まり、やがて「中村屋
サロン」という磁場が形成
されてゆく。
守衛の死と同じ頃、武者
小路実篤、有島武郎、柳宗悦
(やなぎむねよし)らが雑誌
「白樺」を創刊。中村屋
サロンと連動しながら、
白樺派や民芸運動という、
大正・昭和という時代の、
新しい文化の潮流を形成して
ゆく事になるのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○ユネスコ外伝
「思い起こせ。あの時きみは
一人だった」という言葉がある。
いつもそうだった。新しく
何かが始まる時、そこには
たった一人の、やむにやまれぬ
熱い想いがあった。そして少数
の理解者。いつもそこから動き
出す。
47歳のマザー・テレサが、
単身カルカッタのスラム街に
入った時、持っていたのは
カバン一つと5ルピー(150円)
だけだった。この時世界は、
彼女が何者なのかを知らなかった。
アンリ・デュナンが「赤十字」
の構想を説いた時、人々は
「夢物語」だとして相手にしな
かった。
「たった一人の熱い想い」が
数多く積み重なってゆく時、
新しい時代が生き生きと動き出す。
全国で「よさこい」が踊られ、
地雷が無くなってゆく。ただし
「熱い想い」を支えるキーワード
が二つある。それは、いつの時代
においても変わることのない
普遍的価値、「愛」と「自由」
である。
ヒトラー、スターリン、ポル・
ポト、東条英機などの政治
指導者は、いずれも何らかの
片寄った主義主張に凝り固まって
いた。彼らが政治・軍事的行動
以外で共通しているのは、まるで
申し合わせたように「文化」に
対して制限を加えるか、弾圧を
行っているという事実である。
彼らは自らの枠の中で作り
上げた、一元的価値観でしか
判断する能力を持たなかった。
「あれか、これか」と「選択」
し、異質なものは「排除」した。
多様で異質な価値観を取り込んで
成長してゆく余裕など、まるで
なかったのである。彼らは
時代を陰鬱な色に染め上げ、
人々は笑いを失い沈黙した。
「
権力や暴力という「力」を
手に入れた者たちは、その力を
行使して、民衆を自らの偏狭な
価値観に従わせようと、あら
ゆる努力を試みた。よけいな
お世話というものである。
本質的に愚鈍な彼らは、歴史
から学ぶという能力を持って
いない。いまだかつてただの
一度も、暴力を行使した権力が
長続きした事などない。民衆が
求めているのは、自由で豊かな
生活なのだ。自由の敵である
彼らを、民衆は地獄の底深く
に叩き落す。
近年では、宗教的独裁者に
なりそこねた麻原彰晃(本名・
松本智津夫)という男がいる。
彼もまた愚鈍だった。ピラミッド
型のヒエラルキーを作り、頂点
に君臨することを望む。そして
「私は偉い。私は正しい。私は
絶対だ」とほざく。「私は
正しいのだから、私に反対する
者は間違っている。ゆえに
消滅してもかまわない」と
いう論理を展開する。
ヒトラーや麻原に代表
される独裁者集団は、決まって
人々の自由意志を奪い、「力」
で物事を解決しようとする。
愛と自由は息をひそめる。
こうした環境では、ロクな
文化は生まれない。第二次
世界大戦中のドイツや
日本から、文化の名に値する
ものを見つけ出すのは困難な
作業だ。幼稚な歴史認識で
ヒトラーを尊敬した「オウム」
という集団は、汚物と毒物
だらけの「王国文化」しか
生み出せなかった。
だが自由な風が吹き始める
と、「文化」は身についた
汚物や泥をはらいのけ、生き
生きと成長してゆく。人は愛
を歌い、生命を踊る。わいわい
と、うるさいくらいに。こう
した混沌の中から、洗練された
美も生まれてくるというもの
である。
1945(昭和20)年8月
15日。日本が無条件降伏し、
戦争が終わった。全国どこへ
行っても、アメリカ軍の空襲
によって一面の焼け野原だった。
誰もが食糧不足に悩まされ、
空きっ腹をかかえ、その日を
生きる事で精一杯だった。
一方、アジア全域から日本
本土へ引き揚げて来る「復員」
も始まった。中国大陸だけでも、
約400万人の日本人がいた。
上田康一は上海の日本大使館で
終戦を迎えた。翌1946
(昭和21)年4月、日本本土へ。
外務省職員だった彼は、終戦
連絡事務局連絡官として仙台市
に赴任してきた。仙台も大空襲
によって、焼け焦げた建物が
残る荒れ果てた町になっていた。
文化班のメンバーとしてGHQ
との交渉にあたっていた上田
は、11月25日の朝日新聞
の囲み記事を、食い入るように
読んだ。
「これだっ。」
焼け野原の中で暮らし、精神
まで腐りかけていた上田は、
新聞記事に一筋の光明を見
出した。
「ユネスコ・・・」
記事は、フランスのパリ・
ソルボンヌ大学で19日から
開催されている、第一回
ユネスコ総会にまつわる外電
だった。パリは今「ユネスコ
の月」と呼ばれ、絵画展や
映画祭、音楽祭や科学講演
などが毎日開催されている、
と紹介されていた。
ユネスコ(国連教育科学
文化機関)は、1945年
11月に、アメリカやイギ
リスの文化人や政治家が
ロンドンに集まって会議を
開いた際、戦後の国際社会
の為に設立を決めた、国際
連合の付属機関である。
「文化の交流と相互理解を
通して、コツコツと地道な
平和の地固めの仕事をする」
のが目的だった。第一回
総会には、後の文化大臣・
アンドレ・マルローや、
哲学者のポール・サルトル
らが出席した。
記事を読んだ上田は、
日本にもユネスコを作ろう
と考えた。
「文化を踏み潰して、軍国
主義の教育で突っ走って
きた結果がこれだよ。文化
の復興と国際交流による
相互理解、それに新しい
教育が必要なんだよ。」
上田はまず、文化班の
同僚にユネスコを紹介し、
その必要性を説いた。もと
満州国外交部に勤務して
いたしんば榛葉英治が、
敏感に反応した。彼は戦後、
妻の実家がある仙台に来て
いた。上田も榛葉も、まだ
20代の血気盛んな年頃
だった。
「俺たちだけだと、世間的
な重みに欠ける。何せ国連
だからな。」
榛葉が組織作りにかけ
まわった。同じ文化班の
村岡勇が、恩師の土居光知
東北大学教授を紹介した。
上田と榛葉は、土居を
「仙台ユネスコ協力設立
準備委員会」の委員長に
担ぎ上げる事に成功した。
準備委員には、桑原武夫
東北大学助教授など、仙台
の文化人が名を連ねた。
上田は発足趣意書を起草
した。1947(昭和22)
年7月19日、東北大学
講堂に市民600人を集め
て、「第一回民間ユネスコ
運動世界大会」が開催された。
「仙台ユネスコ協力会・発足
にあたっての声明・・武力を
棄て去った日本人は、世界
平和を望み、平和促進の文化
運動に参加して、何らかの
貢献をしたいと切実に願う
ようになった。 日本人は
過去の態度を改め、真理愛好
の精神と、世界文化に対する
将来の希望を抱いて、新しい
国の歩みを始めている。
─戦争は人々の心の中で
始まるから、平和の守りも
人々の心の中で打ち立てられ
なければならない─とのユネ
スコの主旨は、今次の大戦の
経験によって、日本人が最も
痛切に感ずるところのもので
ある。
そして特に、この戦争を
拒否し、平和を盛りたてる
運動が、国家の指導者と
少数の代表者に任せて置か
れるべきでなく、全国民の
各々の心の中において、
いま即時に始まらなければ
ならないと思う。これ、
日本が公式にユネスコに
参加出来るに先立ち、この
心の準備として、また
おのずからなる要求として、
ここにユネスコ協力会が
つくられた理由がある。
われわれはかかる運動が、
やがて日本全体のものに
なることを期待している。
さらにまた、われわれの
この努力に対して、平和を
愛する世界の人々の同情と
支援を期待してやまない
ものである。
1947(昭和22)年
7月19日・仙台ユネスコ
協力会 」
物資不足で「紙」がなかった。
上田は発足趣意書を障子紙に
墨で書いた。もう一通を英文
に翻訳し、やはり障子紙で
作った封筒に入れ、パリの
ユネスコ本部宛に発送した。
全てはここから始まった。
同年11月、メキシコ市で
開催された第二回ユネスコ
総会において、上田の起草
したメッセージが、イギリス
の生物学者にして事務局長
のジュリアン・ハックスレー
卿によって読み上げられた。
日本の地方都市・仙台に誕生
した世界初の民間ユネスコ
運動組織は、このような経緯
によって世界から公認された。
日本が国としてユネスコに
加盟するのは、これから
4年後の1951(昭和26)
年の事である。
今ユネスコと言えば、
「世界遺産条約」の機関と
して知られている。この条約
は、1972(昭和47)年の
ユネスコ総会で採択された
ものである。ピラミッドや
万里の長城など、人類の
文化遺産や、人類の責任に
おいて大自然を守ろうと
いう主旨の条約である。
2001年5月現在、世界
162カ国が条約に加盟し、
文化遺産529、自然遺産
138、文化自然(複合)
遺産23が登録されている。
日本では、聖徳太子ゆかり
の「法隆寺地域の仏教建造物」
原爆投下の第一目標だった
「古都京都の文化財」、条約
指定によって無意味な県道
づくりの難からのがれた
「青森・秋田・白神山地の
ブナ原生林」、環境文化村
づくりで自然と人間の新しい
関係性を目指す「屋久島・
縄文杉」、ポーランドの
アウシュビッツ強制収容所と
共に、人類最大の負の遺産
とも言うべき「原爆ドーム」。
他に「古都・奈良の文化財」
「栃木県・日光の社寺」「岐阜・
富山・白川郷五箇山の合掌造り
集落」「兵庫・姫路城」「広島・
厳島神社」「沖縄・琉球王国
のグスクと関連遺産群」など
がある。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○八甲田山
冬は寒い。北国は雪に埋まり、
息をひそめる。今から100年
前の1902(明治35)年1月
25日、青森歩兵第五連隊210
名中199名が、青森県八甲田
山中で凍死するという事件が
起こった。新田次郎の小説
「八甲田山」で有名になった、
「死の雪中行軍」である。ロシア
との戦争を想定した、耐寒演習
だった。
1月20日、福島大尉率いる
弘前連隊第一大隊第二中隊の
38名が、雪の降る弘前を出発。
3日後、山口少佐率いる青森
連隊第二大隊210名が、雪の
青森を出発した。
弘前連隊の福島大尉は、大吹雪
に迷い込んだならば凍死か窒息死
が当然とされる白魔の八甲田山を
行軍するにあたり、微に入り細に
わたり、徹底した用意周到さで
事にのぞんでいる。
一・軍靴は堅牢にして寛裕なるを
用うべし。決して水の漏入する
物を用うべからず。(3日目
からわら靴・かんじきを使用)
二・足はよく洗い、爪を切り、清潔
にし、油脂を塗るを可とす。
かねて凍傷の恐れある者は、
凍傷膏を医官に請求してこれを
塗るべし。
三・靴下はなるべく新品を用い、
常に乾燥させるを可とす。毛製
の靴下なればなおよろしい。
(実際には靴下を重ねてはき、
唐辛子をまぶし、油紙で足もと
を包んだ)
四・手足が冷えて知覚を失ったときは、
布でよく摩擦したのち、徐々に
暖めること。決して急速に暖めて
はならない。
五・河川を渡るときは裸足で渡り、
渡り終えてから水分をよく拭き
取り、靴下をはくこと。濡れた
足のまま靴をはいてはならない。
小便は風に向かってする事は
さけ、最後の一滴まで十分しぼる
事として、「股こすり」「チン
振り」と名づけた。
六・シャツが濡れたときは、予備の
ものに着替えること。腹巻は必ず
着用すべし。
七・水筒には一度沸騰させ温湯を
容れるように心掛けること。汗
をかいて喉がかわいた時でも、
急に多量の水を飲んではいけない。
(水筒の水を七分目にして、少量の
ブランデーを加えて凍るのを防いだ)
八・空腹のため疲労したときは、
小隊長の許可を受けたうえで、
予備の餅を食べること。行軍中は
飲酒を厳禁する。凍って寒さの
厳しいおり、雪中で睡眠すると
凍死のおそれがある。それで
小休止のおりの睡眠を禁止する。
(握り飯や餅は油紙にくるみ、腹巻
に巻きつけて凍るのを防いだ)
九・日光が雪に反射するとき、眼病に
かかることがある。予防のため
眼簾、または有色眼鏡を使用する
こと。
十・多量の雪を食べたり、氷を
噛んで胃を冷やしてはならない。
十一・危険や困難に直面したおりは、
沈着のうえにも沈着に行動する
こと。行軍中に疲労した者ある
ときは、互いに助け合うこと。
一方、青森連隊の山口隊は、薪
60貫(220㎏)・木炭15貫
(54kg)・缶詰肉35貫(130㎏)・
精米13斗・漬物6貫(22㎏)・釜・
炊事用具・スコップなどを積んだ
15台のそりを、60名の兵卒が
曳いての行軍だった。だが、上り坂
や吹雪の為、前進が困難になって
そりを放棄。荷は兵卒が背負った。
そりを曳いてふんばった時、わら靴
や手袋がびしょ濡れとなり、手足の
凍傷者が続出した。
この時日本列島を包んでいた
強烈な寒気団は、北海道上川で
零下41度を記録するほどの強力
なもので、青森は大雪。八甲田
山中は青森湾からの海風と、
竜飛岬を通過する北西風が山腹
で互いに衝突して、猛吹雪に
なっていた。気温は風速1メートル
につき1度下がると言われている
ので、少なくとも零下20度が
現地の気温だっただろう。
かくして山口隊は、ホワイト
アウトの状態に陥り、力尽きて
凍死者続出となったのである。
6月になって発見された死体の
大半は、つまご(わら靴)や手袋
をつけておらず、無帽だった。
手足から凍傷にかかった為、
ズボンのボタンをはずせず、
ズボンの中に放尿したため、
凍傷が激化したのだった。
山口隊の生存救出者は17名。
山口少佐ら5名は青森の病院で
凍傷の為死亡。神田大尉は責任
をとり。現地の雪中で拳銃自殺。
五体満足なのは、伊藤中尉・
倉石大尉・長谷川特務曹長の
3名だけであった。
だが彼ら3名も、1905
(明治38)年3月4日、日露
戦争の乃木第三攻撃隊として
出陣し、二零山の夜戦に
おいて全員戦死した。また、
38名無事生還を果たした
弘前連隊の福島中尉も、
黒溝台の会戦において戦死
した。命の重さ・尊さを誰
よりもよく知っているはずの
彼らも、戦場では二束三文
のその他大勢にすぎなかった。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○ジパング伝説
イタリア・ヴェニスの旅行家
で、17年間元に仕えたマルコ・
ポーロ(1254~1324)は、
著書「東方見聞録」の中で、
中国東方の島国について、次の
ように記している。
「大陸から1500マイルの
大洋にある大きな島の住民は、
色白で礼儀正しい優雅な偶像
教徒である。国民はみな莫大
な量の黄金を所有し、国王は
すべて純金で覆われた、非常
に大きな宮殿を持っている。
屋根・床・広間・窓すべて
純金である。国の名はチパ
ング。」
マルコ・ポーロの存命中、
京都・北山の金閣寺を建立
した足利義満は、まだ生ま
れてもいない。となると
日本国内で、黄金に彩ら
れた建築物といえば、奥州
平泉(岩手県平泉町)の中尊寺
金色堂以外には考えられない。
金色堂は1124(天治元)
年に、奥州藤原の初代・清衡
(1055~1128)に
よって竣工した。大工棟梁
は京都の物部清国。漆工や
金工の名は不明だが、当代
随一の工人たちだっただろう。
金色堂は別名・阿弥陀堂
と呼ばれる。5.79m四方
の比較的小さな建物である。
材は総檜造り。扉・板壁・
天井・床・木瓦など、
すべて黒漆金箔仕上げ。
四隅の柱は七宝荘厳の巻柱。
夜玖貝(やくがいを切り出し
た螺鈿や金銀蒔絵、金銅
透彫の精巧さは、宝石箱と
評される。
1962(昭和37)年に
行われた金色堂の解体修理
の時、使用された金箔は
約3万枚(15kg)。漆
200kg。沖縄産の夜玖貝
約3万個が使用されている。
これを基に計算すると、
創建時に使用された金は
150kg、銀70kg、
漆2000kg、夜玖貝
10万個以上が用いられた
事になるという。
さらに漆には白檀(びゃく
だん)・沈香と
いう香木が多く混入され、
須弥壇にはアフリカ象の
象牙、数万個のガラス玉や
宝石類が用いられていて、
何とも国際色豊かである。
そもそもの中尊寺は、
850(嘉祥3)年に慈覚
大師が弘台寺院として開山
した事に始まる。清衡50歳
の1105(長治2)年2月、
最初院を造立し、続いて
大長寿院(二階大塔)、金堂
を建立。20余年の間に
寺塔40余、禅坊300余
宇の大寺院に成長した。
清衡は中尊寺建立の為に、
全国各地から名工・高僧を
集めると共に、宋国から
10万5千両(約1.3トン・
40億円相当)という膨大な
砂金を費やして、宋版一切
経という経典を入手して
いる。この経典は原則と
して国外への持ち出しが
禁止されていたので、宋
王朝の貴族や僧に対して、
買収を含む相当の根回し
を行える外交関係を確立
していたのだろう。そして
この砂金が「黄金のジー
ペン・グオ(日本国)」の噂
の種になっていったと思わ
れる。
清衡は中尊寺建立に至る
までの前半生に、2つの
奥州大乱を経験している。
7歳の時、前九年の役に
敗れた父・経清は斬首され、
母方の安倍氏は一族離散。
後三年の役では妻子眷属を
皆殺しにされた。ただ一人
生き残った清衡は、数奇な
運命の導きによって、陸奥・
出羽・越後の支配者となる。
清衡は敵味方の別なく、
奥州大乱で虚しく散った
怨霊を鎮め、戦さ無き「仏心
立国」を悲願とした。中尊寺
供養願文の中で清衡は、
「出羽・陸奥の土俗、風に
したがう草の如く、粛慎
(しゅくしん)・ゆう婁
の海蛮もひまわり向日葵に
類す」と述べている。
粛慎・ゆう婁とは、沿海州
黒龍江流域に群居する大集団
の宋名で、その一部の女真族
は「金」を建国し、宋を北方
から圧迫していた。清衡は縄文
の昔から交易によって結び
ついていた渡島(北海道)や
樺太を含む北方全域を念頭に
入れて、国というものを構想
していた。そして清衡は、
平泉を北方地域の仏教の都
として太陽の如く輝かせ、仏
の慈悲の光であまねく照ら
そうと念じた。それゆえの
中尊寺であり、金色堂であり、
宋版一切経であった。
壮大な夢だった。そして
その夢の国造りを支えて
いたのは、勧進聖(かんじん
ひじり)と呼ばれる貿易の
実務を行う中尊寺の僧たち
であっただろう。情報収集、
人材確保、操船・航海術の
習得・伝授、翻訳・通訳、
商取引、倉庫管理など、
仕事はいくらでもあった。
清衡は彼ら勧進聖と応答
しながら、世界認識を広めて
いったと考えられる。たと
えば象牙に関してである。
宋・南越、天竺
(インド)、胡
などのさらに西に、黒い肌
の者たちが住む広大な国が
あり、象という大型の獣がいる。
これはその獣の牙である、
という具合にである。
実際に宋の交易船は、
インド洋を渡り、東アフリカ・
モザンビーク海峡へ向けて
航海している。船はザン
ベジ川を遡り、ジンバブエ
を目指した。この地は古代
から金の産出地として知られ、
フェニキア、ペルシャ、
インドネシアなどと活発に
交易を行っていた。金・銀・
銅・象牙・犀角・真珠・香料
などを輸出し、宋の陶磁器
や綿布を輸入していた。
金色堂須弥壇の象牙も、
おそらくは当地の輸出品
だっただろう。
清衡の夢は100年続いた。
平泉はやがて、毛越寺、無量
光院、観自在王院が建立された。
春には束稲山
に1万本の山桜が咲き、人々
は猫間ヶ淵に船を浮かべ、
管弦散楽の宴を催して春の桜
を愛でた。戦さ無き世を望んだ
清衡の夢は、源頼朝軍18万の
奥州侵略によって、無残に
踏み破られる事になるので
ある。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..
○小説と史実の間
吉川英治は1950(昭和
25)年に、新平家物語の
執筆に着手。7年の歳月を
費やし、1957(昭和32)
年3月に完成させた。作品
は歴史小説の金字塔として、
今も広く読み継がれている。
この長大な物語には、
原本が存在する。鎌倉時代
前期、信濃前司行長らに
よって書かれた「平家物語」
南北朝時代の作とされる
平家物語の異本「源平盛衰記」
室町時代中期の作とされる
「義経記」などである。
新平家物語の骨格は、おお
むねこれらの路線を踏襲
しているわけだが、史実
とは思われない部分も多く
含まれている。
新平家物語では少年時代
の平清盛を、ひどく貧しい
悪童として描いている。
設定としては、そこを振り
出しにして栄華の絶頂を
極めたほうが面白いのだが、
おそらく清盛は、巨大貿易
商社の跡取りだったに違い
ない。
清盛の父・忠盛は、鳥羽
上皇の荘園である、肥前国
神埼荘(佐賀県神埼町)を
管理していた。忠盛は
有明海に面したこの地を
拠点にして日宋私貿易を行い、
巨万の富を築いてゆくので
ある。
忠盛は北九州から瀬戸内海
にかけての海上物流ルート
を整備し、そこで得た金銀
珠玉に綾錦の類を鳥羽院や
貴族らに贈り、平家躍進の
足場を固めていった。清盛は
その後継者として、安芸守
(広島県)・播磨守(兵庫県)・
大宰大弐(北九州・大宰府
長官)と、ほぼ望み通りの
地域の地位と利権を得る事
が出来たのも、忠盛時代の
伏線があったればこそと
いうわけである。
一方、源義経や背後に
控える奥州藤原氏に関しても、
多分に誤解や理解不足がつき
まとう。奥州藤原氏は、現在
の東北地方全域から新潟県
あたりまでを勢力圏とし、
日本の半分と言われていた
大国である。その国の情報
活動と国際貿易活動の一切を、
金売りの吉次という一商人
に象徴させる事には、かなり
無理がある。
実際の情報機関としては
「平泉第」
という、奥州の京都大使館
が初代・清衡の頃から存在
した。場所は「首途
八幡宮(京都市上京区智恵
光院通今出川上ル桜井町
102)」にあった。長官と
して、検非違使左衛門尉・
藤原秀清・公澄兄弟の名が
ある。
平泉第では、中央貴族や
寺社の情勢を探り、必要と
あれば買収による政治工作
も行った。また仏師や絵師・
高僧などの人材を求め、平泉
に送る役目もあった。後に
鎌倉の頼朝が後白河法皇に
対し、奥州追討の院宣を
求めた時、院が頑として
拒否した背景にも、平泉第
の影響力があったと思われる。
平泉は3代秀衡の頃、京
を凌ぐ人口15~20万人
だったと思われる。そこには、
禅房300余の中尊寺、禅房
500余の毛越寺、観自在
王院や無量光院などの寺が
ある。僧だけでもかなりの
数なのだが、彼らこそ実質的
な情報・貿易活動の担い手
だったのだろう。
彼らを「勧進聖(かんじん
ひじり)」と言う。寺は貿易
実務や通訳養成、航海術など
を教える学校の機能も有して
いた。舞や芸能も行ったし、
薬売りやアメ売りに変じて
諸国を遊行したのも彼らで
ある。また、中尊寺は天台宗
だが、比叡山延暦寺を中心に
した天台僧の情報ネットワーク
を活用していたという事もある。
元暦元(1184)年2月
22日というから、木曾義仲
が源義経軍に敗れて戦死した
翌月。藤原秀衡は上村彦三郎
ら12人を、美濃国石徹白
(いとしろ)(岐阜県郡上郡白鳥
町)の地に派遣した。ここは
長良川上流の山深い高地で、
福井県境も近い。白山参りの
東海口として、白山開基僧・
泰澄が開いた白山中居神社が
ある。
日吉・白山神社は、平泉の
東方鎮守である。秀衡は
ここに虚空蔵菩薩を奉献
する為に、上村12人衆を
遣わしたのである。が、
それは表向きの事。彼らの
目的は、木曾義仲亡き後の、
信越北陸方面の情勢を探る
事にあった。事実彼らは
石徹白に社殿を建て、奥美濃
に留まっている。
歌舞伎十八番の「勧進帳」
と言えば、義経・弁慶主従が
鎌倉方の追っ手を逃れ、加賀国
安宅関において富樫左衛門尉と
弁慶が丁々発止の問答を繰り
広げる物語である。しかし
石川郡の豪族が富樫を名乗る
のは、南北朝以後の事である。
感動的な名場面ながら、
フィクションの可能性の方
が高い。
義経一行が比叡山や吉野・
高野山に潜伏した後、奥州に
下るルートには諸説ある。
近畿の三関(愛発・不破・
鈴鹿)は、鎌倉方が厳重に
固めている。東海道は
陸路も海路も危ない。しかも
安宅関を通らずに、越中・
越後方面に抜けられそう
なルートが、かろうじて
1本だけある。それが
長良川から石徹白を経て、
白山参りの修験の道を行き、
庄川を下るルート。ここに
秀衡直属の家臣団がいると
いうのは、とても偶然とは
思えない。
白山神社は平泉の東方
鎮守と書いたが、他にも
南方の祇園社と王子社、
西方の北野天神と吉野修験
の金峰山寺、北方の熊野社
と稲荷社が鎮守として祀ら
れている。これが意味する
事は、1つは義経の逃走
ルートと重なる事。もう
1つは修験は金銀銅鉄や
水銀など、山に産する鉱物
を司るという事。奥州藤原
の生命線である。これら
天台と修験の裏ネットワーク
に自在に活用していたのが、
奥州藤原「日高見国」という
わけである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。
○校歌
♪春高楼の花の宴♪と、
漢詩調の格調高い名曲
「荒城の月」の作詞者・
土井晩翠は、1871
(明治4)年10月23日、
陸前国宮城郡仙台北鍛冶町
902番屋敷(現・仙台市
青葉区木町通2丁目)に
生まれた。
1896(明治29)年、
東京帝国大学英文科入学。
同期に上田敏、先輩に夏目
漱石がいる。4年後に仙台
の旧制二高(現・東北大学)
に英語教授の職を得て赴任。
噂によると土井の英語には、
ズーズー弁のなまりが
あったという。
土井は詩集「天地有情」
が有名だが、全国各地の
校歌の作詞を数多く手がけて
いる。なかなか渋い仕事だが、
校歌とは世代を超えて歌い
継がれてゆく、隠れたロング
セラーと言える。あなたの、
あるいはあなたの知り合い
の出身校はありますか?
(市町村名は平成の大合併
以前の名前を使用・・・
これも歴史です)
○北海道標津郡標津町「薫別
小学校」伊達市「伊達小学校」
紋別郡遠軽町「遠軽高校」
岩見沢市「岩見沢東高校」
札幌市豊平区「北海高校」
中央区「札幌西高校」室蘭市
「室蘭商業高校」函館市
「函館中部高校」「旧制函館
中学(北大水産学部)」
○青森県黒石市「中郷小学校」
三戸郡名川町「名久井小学校」
八戸市「鮫小学校」「鮫中学校」
「柏崎小学校」青森市「青森
商業高校」南津軽郡平賀町
「柏木農業高校」弘前市
「青森県師範学校(弘前大学
教育学部)」
○岩手県盛岡市「岩手県女子
師範付属国民学校」宮古市
「宮古小学校」釜石市「小佐野
小学校」「釜石商業高校」
東磐井郡藤沢町「黄海小学校」
久慈市「久慈農林高校」盛岡市
「岩手高校」「盛岡工業高校」
「岩手医科大学」「岩大工学部」
花巻市「花巻農業高校」北上市
「黒沢尻北高校」胆沢郡胆沢町
「水沢農業高校」陸前高田市
「広田水産高校」一関市
「一関第二高校」「一関農業
高校」「一関工業高校」
○宮城県登米郡東和町「錦織
小学校」「米川小学校」
登米郡中田町「上沼中央小学校」
「浅水小学校」登米郡迫町
「北方小学校」登米郡登米町
「登米小学校」登米郡南方町
「南方小学校」登米郡豊里町
「豊里小学校」本吉郡津山町
「柳津小学校」加美郡宮崎町
「宮崎小学校」玉造郡岩出山町
「岩出山小学校」黒川郡大郷町
「明星中学校」古川市「古川
第一小学校」「古川商業高校」
加美郡中新田町「鳴瀬小学校」
遠田郡小牛田町「中埣小学校」
志田郡松山町「松山小学校」
牡鹿郡牡鹿町「鮎川小学校」
黒川郡大和町「吉岡小学校」
塩釜市「塩釜市立第二小学校」
仙台市「福岡小学校」「片平丁
小学校」「木町通小学校」
「立町小学校」「北五番町小
学校(仙台二中)」「東六番町
小学校」「北六番町小学校」
「秋保小学校」「宮城学院
(小中高)」「尚絅女学院
(中高短大)」「宮城教育大学」
「旧制二高(東北大学)」
「東北薬科大学」「仙台
商業高校」「仙台高等工業・
土木科」「常盤木学園高校」
「県立農業高校」名取市
「高館中学校」「下増田小学校」
岩沼市「玉浦中学校」柴田郡
柴田町「船岡小学校」白石市
「斎川小学校」栗原郡若柳町
「若柳高校」栗原郡栗駒町
「岩ケ崎高校」遠田郡南郷町
「南郷農業高校」古川市
「古川女子高校」気仙沼市
「気仙沼町民歌」「気仙沼
大島漁業組合歌」登米郡佐沼町
「佐沼町々歌」・「キリンビール
仙台工場歌」「東北特殊鋼(株)
社歌」
○秋田県大館市「大館鳳鳴
高校」秋田市「秋田高校」
横手市「横手高校」
○山形県鶴岡市「朝賜第一
小学校」「鶴岡工業高校」
天童市「天童市立第二小
学校」西村山郡朝日町
「大谷小学校」上山市
「中川小学校」「西郷第一・
第二小学校」「上山農業高校」
酒田市「酒田商業高校」
「酒田東高校」東田川郡
余目町「余目高校」
東田川郡藤島町「庄内農業
高校」鶴岡市「鶴岡工業高校」
村山市「村山農業高校」
山形市「山形東高校」「山形
工業高校」寒河江市「寒河江
高校」米沢市「米沢工業高校」
○福島県大沼郡会津高田町
「高田小学校」郡山市
「熱海小学校」「高川小学校」
「郡山商業高校」「郡山商業
高校」南会津郡伊南村「伊南
小学校」「伊南中学校」いわき市
「平工業高校」「勿来第二小学校」
「平第一中学校」「磐木女子
高校」 福島市「福島高校」
二本松市「安達高校」喜多方市
「喜多方商業高校」河沼郡会津
坂下町「会津農林高校」「会津
坂下第一中学校」双葉郡双葉町
「双葉中学校」岩瀬郡鏡石町
「岩瀬農業高校」白河市「白河
第一小学校」
○茨城県常陸太田市「太田第一
高校」結城市「結城第一高校」
筑波郡谷田部町「谷田部高校」
行方郡潮来町「潮来高校」
○埼玉県北葛飾郡吉川町
「三輪野江小学校」浦和市
「浦和市立高校」
○千葉県千葉市「千葉県女子
師範学校(千葉大教育学部)」
木更津市「木更津高校」
○東京都杉並区「桃井第四小学校」
目黒区「岩倉高校」「都立大学」
「東京工業大学」文京区「郁文館
中・高校」
○神奈川県横浜市神奈川区
「横浜専門学校(神奈川大学)」
○新潟県燕市「小中川小学校」
南魚沼郡塩沢町「塩沢小学校」
「加茂農林高校」
北蒲原郡水原町「水原高校」
○富山県富山市「富山工業高校」
○福井県遠敷郡「遠敷農林高校」
小浜市「若狭高校」
○長野県上田市「上田東高校」
松本市「松本高校(信州大学)」
岡谷市「岡谷工業高校」
○静岡県清水市「清水東高校」
浜松市「浜松高等工業高校(静岡
大学工学部)」島田市「島田
商業高校」
○愛知県半田市「半田高校」
名古屋市瑞穂区「瑞陵高校」
新城市「新城高校」
○滋賀県近江八幡市「八幡
商業高校」彦根市「彦根
工業高校」
○京都府宮津市「宮津高校」
京都市「立命館大学学生歌」
○大阪市淀川区「北野高校」
豊中市「大阪大学」
○兵庫県神戸市「神戸商船大学」
姫路市「神戸大学」
○島根県太田市「太田高校」
○山口県吉敷郡小郡町「旧制
小郡中学」
○愛媛県宇和島市「宇和島
東高校」
○福岡県北九州市門司区
「豊国学園高校」筑後市
「八女工業高校」
○長崎県大村市「大村高校」
○大分県大分市「大分高等
商業高校(大分大学経済学部)」
○韓国原川市「原川公立農学校」
○満州国・関東軍独立守備隊の歌
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..
○水の味
明治の初め、名品「木村屋
の酒種あんぱん」が誕生した。
以来140年あまり、その味
と品質の高さを守り抜いて
きたというから驚く。あん
ぱんは、木村屋の創業者・
木村安兵衛が、饅頭をヒント
にしてつくり上げた日本独自
の食品である。
安兵衛はパン生地を膨らま
せる「パン種」に、酒種酵母
を用いた。酒種とは米糀の事
で、糖分を用いても発酵力が
旺盛で、生地が冷えても柔ら
かさを保つからだ。この酒種
づくりに欠かせないのが、
良質の硬水だという。
水の質に、軟水と硬水の
違いがあることは知っている。
軟水はカルシウムイオンや
マグネシウムイオンをあまり
含んでおらず、飲料や洗濯、
染色などに適するのだそうだ。
硬水はこの逆である。だがなぜ
酒種づくりに硬水が良いのか、
素人にはさっぱりわからない。
ともかく木村屋の酒種づくり
には、筑波山麓・茨城県新治
(にいはり)郡やさと八郷町辻
にある「宮部家の井戸水」を
使用する。この水で酒米を研ぎ、
固めに炊いた米と水を切った
だけの米に分ける。炊いた米は
皿に平らに盛り、水を切って
ざるに入れた米を持って筑波
山中腹まで登るのだそうだ。
2時間あまりかけて、筑波山
中腹の大気から酒種を採取し、
炊いた米を小さな卵大に握り、
土瓶に入れて水を切った米で
覆う。ここに「宮部家の井戸水」
を入れ、約30℃の温度にして
2~3日寝かせる。さらに状態
を見ながら飯と米と糀を入れ、
数日後にやっと「酒種」づくり
が完成するという。
酒種づくりは、ハイテク時代
の現在でもこの方法で行われて
いる。酒種は、筑波山の澄んだ
空気の「菌」だった。そして
「水」に対するこだわり。名品
は自然と人の技が一体となった
ところから生まれたのである。
ユダヤ教の過越の祭りでは、
種なしパン、マツァを食べた。
パン種は発酵や腐敗を促進する
ので、塩とちがって神前に供え
られないのだそうだ。発酵食品
には、ヨーグルトや納豆・キムチ
など、体に良いものが多い。
発酵が堕落の象徴なのかは置いて
おくとして、イスラム教で禁止
されている「酒」については
意見が分かれる。英国のパブ
には、「酒は敵なり」という
ポスターが貼ってあったという。
そして隣にもう一枚。「汝の敵
を愛せ」と。
ビールは明治5(1872)年、
横浜に「天沼の湧き水」を利用
して醸造所がつくられた。キリン
ビールの始まりである。ホップ
を種にしてパンも焼かれた。
だが国産ウイスキーはもう少し
遅かった。大正14(1925)年
に蒸留され、4年間寝かされた後、
寿屋の「白札ウイスキー」として
発売された。後の「サントリー・
ホワイト」である。
このウイスキー草創期において、
一人の男の名がクローズアップ
される。竹鶴政孝。ニッカウイ
スキーの創業者である。竹鶴は
1893(明治26)年、広島県
竹原町に生まれ、大阪高等工業
醸造科を経て、大阪住吉の摂津
酒造に入社。1918(大正7)
年に同社の派遣留学生として、
英国スコットランドのグラス
ゴー大学応用化学科に入学した。
竹鶴は大学で醸造学を学ぶ一方、
ハイランド地方の「グレンリ
ヴェット蒸留所」で、麦芽づくり、
蒸留、樽詰め作業などの工程を
徹底的に学んだ。時に竹鶴26歳。
日本に本格的ウイスキーづくりを
導入すべく猛勉強の日々が続いた。
帰国後、第一次世界大戦の恐慌
によって攝津酒造のウイスキー
づくり計画が中止となり、竹鶴は
退社。1年後の1923(大正12)
年6月、竹鶴は鳥井信治郎に招かれ
て寿屋に入社。初仕事はウイスキー
工場の選定だった。竹鶴はスコット
ランドの気候風土に似た北海道を
推したが、東京・大阪の消費地から
遠すぎるという理由から、京都の
山崎が選ばれた。
竹鶴は寿屋に10余年在って、
理想のウイスキーづくり計画を
熟成させていた。1934(昭和9)
年3月に寿屋を辞し、7月に
北海道積丹半島の余市に(株)大日本
果汁を設立。ニッカ林檎汁という
ジュースを発売した。この余市
工場に一基の単式蒸留器機が届け
られたのは、この年の暮れの事
だった。
そもそもウイスキーとはスコット
ランドの地酒で、ゲール語(スコット
ランド古語)の「ウスケボ」に由来
する。生命の水という意味である。
余市はスコットランドに似た過ごし
やすい寒冷地であり、澄んだ空気と
豊かな水、ピート(草炭)と石炭が
入手しやすく、余市川河口から発生
する靄が樽貯蔵に良いなど、ウイス
キーづくりに好条件の地であった。
余市蒸留所からは、ゴールデン
メロン種二条大麦を原料にして、
ハイランドタイプの力強い男性的
なモルトが生み出された。竹鶴は
次に、余市とは別個性のモルトを
つくるべく、その適地を捜し求めた。
そしてたどり着いたのが、仙台市
を流れる広瀬川の上流部「新川
(にっかわ)」だった。宮城峡は
深い緑に囲まれ、新川の伏流水は
硬度が低く、あくまでも澄んでいた。
仙台蒸留所からは、ローランド
タイプの女性的で柔らかなモルト
が生み出された。
なぜ気候風土がモルトの個性を
作り出してゆくのかは、神のみぞ
知るの観がある。ともあれ余市と
仙台のモルトが出会い、マリッジ
(再貯蔵)されて、より深い味わい
になってゆく。自然と人智が
マリッジする妙味である。
「ウイスキーづくりは、単なる
技術ではない。つくる側も飲む
方も、それにふさわしい舌を
もたなければならない。嗅覚を
磨かなければならない。それが
人生を愉しみ、幸せにする方法
である」と、竹鶴政孝が語る。
水も人も、技で磨けば奥深く、
味わい深い。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○北畠顕家
1333(元弘3)年5月
22日午前3時。新田義貞軍
が稲村ガ崎から鎌倉府内に
突入し、諸方に火を放った。
幕府執権・北条高時ら283人
が、東勝寺において切腹。
870余人が焼死して鎌倉
幕府が滅び、後醍醐天皇に
よる親政が始まった。
10月、正四位参議右近衛
中将北畠顕家は陸奥守に任じ
られ、6歳ののりよし義良親王
を奉じて奥州に下向する事に
なった。時に顕家16歳。若い
ながら聡明な、弓の名手で
あった。
11月末、陸奥国府の多賀城
(宮城県多賀城市)着。国政の
中核である式評定衆は、親族の
冷泉源少将家房、学者の藤原
式部少輔英房、内蔵権頭入道
元覚という、京から顕家に
従ってきた者の他、奥州の
豪族、結城上野入道宗広・親朝
親子と、伊達左近蔵人行朝、
旧鎌倉幕府で民政に通じた
二階堂行朝などで固められた。
1335(建武2)年7月、
北条高時の遺児・時行が、
信州の諏訪頼重の助力を
得て鎌倉に侵攻。時行軍は
小笠原貞宗を破り、足利直義
を追放して鎌倉を奪還したが、
尊氏軍の反撃により20日
あまりで逃走する事となった。
反乱の余波は奥州・津軽や
白河方面の北条勢力へも波及。
顕家は南部師行や伊達行朝の
軍を派遣して、乱の鎮圧に
あたらせた。
乱後足利尊氏は、斯波郡
(岩手県)を本貫とする斯波
家長と石搭義房を奥州管領
に任じて、顕家と対峙させた。
尊氏自身は征夷大将軍を自称
し、後醍醐親政との対決姿勢
を鮮明にしていった。11月、
帝は新田義貞に尊氏追討を
命令。勅命の綸旨は
顕家にも下された。
12月22日、北畠顕家は
義良親王を奉じ、伊達行朝、
結城宗広・親朝、南部師行、
相馬胤平、葛西宗清・清貞ら
奥州の猛兵を率いて多賀城
より出陣した。しかし亘理郡
の武石胤顕、信夫郡の佐藤一族、
岩城郡の伊賀光貞らが足利方の
斯波家長軍へ参加。相馬氏は
一族内で分裂し、追討軍は
朝廷方と足利方の2つに
割れた。要は鎌倉幕府無き今、
自らの所領を安堵してくれる
のは朝廷なのか、源氏の頭領
たる足利尊氏なのかという点
にあった。
新田義貞軍は尊良親王を奉じて、
足利直義軍を三河国やはぎ矢作
(愛知県岡崎市)の戦いで撃破。
箱根竹下(静岡県駿東郡小山町)
で尊氏軍と対峙した。12月
11~12日の戦いで、大友
左近将監ただとし貞戴や佐々木
塩治判官高貞らが尊氏方に寝返り、
新田軍は敗走に転じた。しかし
その尊氏軍も、顕家率いる奥州軍
に押されて京都方面に敗走。
1336(延元元)年正月13日、
顕家軍は近江(滋賀県)園城寺で
新田軍と合流。尊氏は播磨(兵庫県)
から船で九州まで逃走するに至る。
顕家は戦功により従二位鎮守府
大将軍に、義良親王は陸奥太守に
任じられ、3月末に多賀城へ帰任
した。この間にも奥州では、相馬
光胤対朝廷方の中村広重・広橋経泰・
標葉一族との合戦が続け
られていた。
そして戦局は再び大反転する。
九州の足利方が軍勢を立て直し、
大挙して攻め上って来たのである。
5月25日には楠木正成軍を摂津
湊川(神戸市)で撃ち破り入京。
光厳天皇の弟・光明天皇を践祚
(せんそ)して北朝を成立させた。
後醍醐天皇は足利方に幽閉された
ような形で、一旦は和睦に応ずる
が、12月に吉野へ脱出。南朝
が成立して、世に言う南北朝時代
へ突入するのである。
顕家軍の動きも活発だった。
4月に斯波家長軍を相模国(神奈川県)
片瀬川で破り、鎌倉を制圧。5月
24日には相馬郡で、相馬氏の
本拠・小高城を陥落させた。しかし
もう一方の奥州管領・石搭義房軍に
多賀城を占拠され、顕家は伊達
行宗領である霊山城(福島県伊達郡
霊山町)に移って、ここを新国府と
した。
1336(延元元)年12月、吉野
の後醍醐天皇は江戸重忠を勅使と
して霊山の顕家のもとへ下向させ、
北朝追討の綸旨を下した。時に顕家
20歳、義良親王は11歳だった。
翌年の8月11日、伊達行朝、
結城宗広、懸田定隆、葛西清貞、
南部師行、武石高広、津軽の工藤
一族、岩手の下山一族などの精兵
3万は霊山を発した。白河の関を
越す頃には、その数は10万に達し
ていた。
顕家軍は宇都宮の結城宗広領で
装備を整え、小山の桃井貞直軍と
13昼夜にわたって激闘を繰り
広げ、城将・小山朝郷を捕縛。
しかしその後の進撃は利根川
に阻まれた。顕家に鎌倉を追わ
れた守将の斯波家長軍が鉄壁の
布陣を敷き、渡河する奥州兵に
向けて雨あられと矢を浴びせ
かけた。
対陣ひと月半の後、ようやく
堅陣を突破した顕家軍は、鎌倉
街道を一気に南下して鎌倉府内
に突入。斯波家長は杉本城で切腹。
足利義詮と上杉憲顕・
高重茂・細川和氏
らは三浦半島方面に敗走した。
1338(延元3)年正月3日鎌倉
を発した顕家軍は、28日青野原
(岐阜県垂井町・関が原)で、高師冬・
吉川常久、佐々木道誉・秀綱、土岐
頼遠、細川頼春らの北朝軍と対峙
した。この時顕家軍の背後には、
上杉憲顕率いる関東軍が迫って
いた。
顕家軍は前面の土岐頼遠、桃井
直常勢をさんざんに打ち負かした
後、兵を南下させて挟撃を交わし、
伊勢から伊賀山中に入り、奈良を
目指した。途上には、後醍醐天皇
が反北条の火蓋を切った笠置山も
あった。
2月28日からは奈良市中の
東大寺付近、法華寺付近、般若坂
などで、高師直軍と市街戦を展開。
3月8日には細川顕氏軍を天王寺
付近で撃破し、顕家の弟・顕信は
男山八幡宮まで進出した。
高師直・師冬
軍は、武田・島津・吉川・田口・
岡本諸隊を率いて天王寺口へ集結。
顕家軍と一進一退の激烈な戦闘を
続ける。顕家が戦死したのは、
天王寺の南・阿倍野辺りと言われ
ている。修羅の中を駆け抜けた
21年の短い生涯だった。南部師行・
武石高広ら奥州の将も個々討ち死に
していった。
吉野朝はこの後、顕家の弟・顕信
を陸奥鎮守府将軍に補し、結城宗広
を後見として奥州へ向かわせた。
1339(延元4)年3月、義良親王
は後村上天皇として13歳で即位。
8月16日深夜、後醍醐天皇崩御。
しかし南北朝の混沌とした戦乱は、
この後も止む事なく続くのである。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○北畠顕信
1338(暦応3)年7月。
5年前に鎌倉幕府を倒した
南朝方の主将・新田義貞が、
越前国藤島の灯明寺畷
(福井市)という泥田の中で、
流れ矢に射抜かれて戦死した。
同じ頃、男山八幡(京都市
八幡市・岩清水八幡)の山岳
要塞に立て篭もり、戦上手と
言われた北朝方の高師直軍と
対峙する事数ヶ月。ついに
食料尽きて河内に撤退した
のは、2ヶ月前に戦死した
北畠顕家の弟・顕信だった。
吉野の後醍醐天皇は、京都
奪還の策を捨て、東国を固め
て再起をはかる事にした。
北畠顕信は兄の後任として、
従三位近衛中将陸奥介鎮守府
将軍に任ぜられ、老臣・結城
宗広が脇を固めた。この時
顕信は、20歳前後だった。
吉野朝の主力は、北畠氏の
本拠地・伊勢国田丸城(三重県
玉城町)を経て、伊勢大湊から
船団を組み、9月に東国を
目指して出航した。だが
遠州灘で暴風雨に遭い、船団
は散りじりになった。
顕家・顕信兄弟の父にして
吉野朝の重臣・北畠親房と
伊達行朝船は、無事常陸国
(茨城県)Iたどり着き、霞ヶ浦
南岸にある小田治久の神宮寺城
に入った。宗良親王の船は
駿河湾に漂着し、遠州の井伊城
に入った。
義良親王と顕信・結城宗広の
船は、知多半島沖の篠島に押し
戻された。いったん引き返した
伊勢の田丸城で、義良親王から
「結城のじい」と慕われていた
70歳の老臣・結城宗広が病没
した。翌年3月吉野に戻った
義良親王は、後村上天皇として
13歳で即位した。それを見
届けた後醍醐天皇は、8月
16日深夜に崩御。「魂魄は
常にほっけつ北闕の天を望まん」
と、死して後も北朝と戦い
続けるとの綸旨を残し、波乱に
満ちた52年の生涯を終えたの
である。
この頃関東では、北畠親房を
迎え入れた常陸の小田・関氏が、
北朝方の佐竹氏や下総の結城・
上総(千葉県)の千葉氏と。下野
(栃木県)の小山・上野(群馬県)
の新田氏は、北朝方の宇都宮氏
と戦い続けていた。親房の
神宮寺城は、佐竹に攻められて
落城。阿波崎城(東村)から小田城
(つくば市)へと居場所を変えて
いた。
福島方面の南朝方、伊達・田村・
石川氏は、相馬・伊賀(いわき市)・
葦名氏(会津)と。山形方面は
村上郡の大江・田川郡の武藤・
最上郡の山家・鶴岡の葉室
(はむろ)氏が、置賜郡(米沢)の長井・
村上郡の中条氏と。青森・岩手方面
は、南部・葛西氏が津軽の曾我・
安東・浅利氏や岩手の和賀氏と戦い、
一族内で南朝方と北朝方に分裂して
戦う事も珍しくはなかった。
こうした蜂の巣を突付いたような
混乱の中、北畠顕信は側近の五辻
清顕らと共に1340(興国元)年
夏、再度東国へ下向した。この時
親房は小田城に在って、高師冬軍
に囲まれ苦戦していた。顕信は
「奥州を平定して関東を攻める
べし」という葛西清貞の策を入れ、
海路牡鹿郡の葛西城(宮城県石巻市
日和山)に入った。
顕信の意を受けた南部政長は、
興国2年3月、稗貫郡と和賀郡
(岩手県)の北朝方を討ちつつ南下。
葛西軍と合流して、9月に奥州管領・
石塔義房軍と栗原郡三迫(宮城県
栗原市)との戦闘が開始された。
栗原の戦線は南朝方有利の情勢
だったが、関東では小田治久が
北朝に寝返り、親房は関宗祐の関城
(茨城県筑西市)に逃走。結城宗広の
子・親朝は出兵に消極的で、南朝に
とってかなり不利な状況となって
いた。
1342(興国3)年9月、顕信
は再度栗原三迫に出兵し、石塔軍
と対した。激闘7日を経て石塔
義房は栗駒鳥矢崎の里屋城を陥落
させた。さらに激闘9日後、八幡
城を落して南朝方最後の拠点・
津久毛橋城(栗原市)
へと迫った。10月28日、北朝
の和賀軍が顕信軍の背後を衝き、
2ヶ月余の激闘の末、南朝敗北で
決着がついた。顕信は河村六郎の
居城・岩手郡の滴石城で再起の時
を待った。
だが翌年6月、結城親朝が北朝
へ降り、葛西清貞が死ぬと一族は
北朝に降った。11月には関城が
陥落して関宗祐が戦死。親房は
下妻氏の大宝城(茨城県筑西市)を
頼るが、ここも落城。親房は5年
に及ぶ関東転戦の末、吉野に帰ら
ざるをえなかったのである。
1346(正平元・貞和2)年
正月、足利尊氏は奥州管領・石塔
義房の後任として、吉良貞家と
畠山高国を任命した。両者は翌年
7月、南朝最大の拠点である伊達
の霊山城(福島県伊達郡霊山町)と、
田村の宇津峯城(福島県須賀川市)
に総攻撃をかけ、8月末に霊山城
が落城した。
1348(正平3・貞和4)年
5月9日、北畠顕家と共に戦い
続けた伊達宮内大輔行朝(行宗)が
58歳で死去。2年後には八戸城
(青森県八戸市)で南部政長も死去
し、南朝方圧倒的不利の状況下で、
顕信は出羽に潜伏していた。
南北朝動乱がややこしいのは、
北朝と南朝の対立に、室町幕府の
足利尊氏派と、弟の直義
派の内部抗争が加わる事にある。
吉良・畠山両奥州探題も2派に
割れた。尊氏派の畠山高国は、
留守・余目・宮城氏
などの地元豪族を味方にして、
留守氏の本拠・岩切城(仙台市岩切)
に立て篭もった。一方直義派の吉良
貞家は、宮城郡千代城の国分氏と
共に岩切城に迫った。
1351(正平6・観応2)年
2月12日、吉良軍は対陣ひと月
の後、和賀基義・白河顕朝らの
参着を得て総攻撃を開始した。
難攻不落と言われた標高825m
の霊山城でさえ陥落させた吉良軍
である。標高106m程の山城
では吉良軍の猛攻を防ぐ事は出来
なかった。畠山高国・国氏親子は
切腹、一族郎党100余名はこと
ごとく討ち死にして戦いが終わった。
尊氏と直義の内紛に乗じて息を
吹き返した南朝方は攻勢に転じた。
1352(正平7・観応3)年10月、
伊達行朝の子・飛騨前司宗遠は、
後醍醐天皇の孫・守永王(宇津峯宮)
を奉じて、多賀城奪還を目指して
進軍を開始。吉良貞家は相馬親胤・
岡田胤家らを先陣として出兵させた。
両軍は10月22日に刈田郡倉
本川(宮城県・白石川)において激突
した。吉良軍は大敗し、本営を
多賀城から名取郡高舘(宮城県名取市)
に移した。
11月22日、両軍は再度広瀬川
(仙台市)で激突。宮城郡山村(泉区
根白石)の大河戸一族が吉良軍の
背後を衝き、南朝方が大勝。吉良
貞家は菊田庄(福島県いわき市)まで
逃れた。15年ぶりに多賀城の
国府を奪還して、出羽から顕信を
迎えるに至るのである。
翌年閏2月、顕信は上野・越後・
信州方面から鎌倉奪還を目指した
新田軍に呼応して多賀城を発した。
途中の白河で吉良貞家・白河顕朝
軍に敗れ、宇津峯城に退いた。
吉良軍は3月に多賀城を奪還し、
大河戸氏の市名坂城(泉区市名坂)
などを落して宮城郡を平定した。
1353(正平8・文和2)年
5月4日、吉良貞家は顕信の
立て篭もる宇津峯城(宇津峯山・
676m)を総攻撃し、激闘
20日の後に陥落させた。顕信
は再び出羽へ逃れた。この後の
顕信の動静はわからないが、
奥州南北朝はここに終結したの
である。
だが1人だけ例外がある。伊達
宗遠である。彼は1380(天授6・
康暦2)年に出羽国置賜郡(山形県
米沢市)に侵入して、北朝方の
長井道広を追いこの地を領有。
翌年亘理郡(宮城県)の武石行胤や
大崎氏と戦い、亘理・刈田・柴田・
伊具(宮城県)と信夫郡(福島市)を
領有するのである。中央で南北朝
が統一されるのは、さらにこの後
11年後の1392(元中9・
明徳3)年の事である。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○青葉城
仙台の歴史散歩と題して
サイクリングに出かけた。
起点は太白区の愛宕山で
ある。向山4丁目の登り口
から、降りて歩くのが賢明
と思われる急坂が100m
程続く。頂上には、江戸
初期創建の愛宕神社がある。
北側眼下に広瀬川が流れ、
足もとは80~100mの
断崖になっている。
仙台の大雑把な地形は、
この愛宕山から西は丘陵地帯。
東は肥沃な仙台平野である。
陸奥国府・多賀城から利府・
岩切・余目・福室・苦竹・
木ノ下・北目・郡山・日辺・
今泉などの水田開発は、
少なくとも奈良時代までは
遡る事が出来る。
1189(文治5)年9月、
源頼朝が平泉の奥州藤原氏を
滅ぼした後、仙台平野の支配者
は留守氏と国分氏であった。
伊沢家景は陸奥国留守職に
任ぜられて多賀城へ。以後留守
を姓として、岩切を本拠にして
勢力を拡大させた。しかし南北朝
の頃、奥州探題として下向した
吉良貞家と畠山高国が対立し、
畠山に味方した留守氏は岩切
合戦に敗れて没落。吉良に味方
した国分氏が勢力を拡大した。
戦国期、両者は宿敵として戦い
続けた。
国分氏とは、奥州遠征軍海道
方面(常磐道)総大将・千葉介常胤
の5男・胤通が、宮城郡国分荘
(仙台市)を賜り、郷六に居を
構えた事に始まる。郷六とは
愛宕山から西に直線で約7km。
青葉山西山麓の低地で、現在は
近くに宮城インターチェンジが
ある。
郷六には仙台藩四代藩主・
伊達綱村の別荘があり、青葉城
二の丸からの間道が通じていた
という。仙台藩では愛宕山・
大年寺山を東端とし、向山丘陵・
八木山・青葉山の山塊群を天然
の城塞に見立てて、郷六辺りを
西端とする城郭構想を持って
いたらしい。
胤通はその後、青葉山の
「千代城」に移り、国分氏の祖
となった。千代城は伊達政宗入府
までの400年間、国分氏の本拠
であった。国分一族には、郷六・
森田・八乙目・北目・南目・朴沢・
鶴谷・松森・粟野・古内・坂本・
白石・堀江各氏の名がある。現在
の地名にも名を残す通り、支配
地域は七北田川上流域と、広瀬川
下流域を軸にした仙台市全域に
及んでいたと思われる。1587
(天正15)年以降は伊達家臣団
に組み込まれ、「国分衆」として
仙台開府に際し重要な役割を
担う事になる。
伊達政宗の叔父・国分彦九郎盛重
は、宮城郡国分小泉村に要害を築い
たとある。愛宕山の東2kmにある、
若林区古城(現・宮城刑務所)辺りで
ある。この周囲が政宗入府以前の
町場(国分)だった。政宗は晩年、
ここに若林城を建てて住まう事に
なる。
さらに古城から広瀬川を渡った
名取郡北目には、粟野大膳の居城・
北目城があった。1591(天正
19)年9月、伊達家は国替えで
米沢から岩出山に移ったわけだが、
この時北目城には屋代景頼が城主
として入った。
1600(慶長5)年5月、徳川
家康は会津の上杉景勝討伐を命じた。
6月14日に大阪を発した伊達政宗
は、中山道から常陸・相馬を経て
7月12日に北目城に入った。
そして軍勢を整えるとすぐさま
上杉領となっていた刈田郡の
白石城を攻撃。25日に落城
させた。
この時政宗は家康に対し、戦闘
報告と共に新城の築城許可を願い
出ている。その候補地は4つあった
とされる。第一に石巻・日和山の
葛西城跡。後に川村孫兵衛の北上川
付け替えという大土木事業により、
南部藩の盛岡から大崎平野の大穀倉
地帯を経て河口の石巻までの水運
が開けるわけだが、そうした交易
の利便性を考慮した、秀吉好みの
商都になっていただろう。
残る3つは仙台平野を視野に
入れている。源頼朝が奥州藤原氏
を討つべく大軍を発した時、藤原
泰衡が本陣にした鞭楯
(宮城野区榴ヶ岡公園)。小高い丘
からは宮城野を一望出来る。政宗
はこの地を最も望んでいたと言わ
れる。もしこの地に平城を築いて
いれば、江戸のような運河を張り
巡らせた水の都になっていたかも
しれない。
あと2つは大年寺山(野手口)の
茂ヶ崎城跡と、青葉山の千代城跡
である。家康は9月15日に関が原
の合戦に勝利した後、国分氏の
千代城再興を許可した。12月
24日、甲牛の吉日を卜して
縄張り始めを行い、政宗は北目城
から青葉山の高台64mにある
千代城に入った。
国分氏が城の名を「千代」とした
のは、青葉山に千躰物を祀るお堂
があった為と言われている。政宗は
「入りそめし 国ゆたかなる
みきりとや/千代と限らじ
せんたいの松」
と歌を詠み、お気に入りの唐詩選から
「仙台初めて見る五城楼」の詩を引用
して、城と街の名を「仙台」と改めた。
1601(慶長6)年1月11日、
後藤孫兵衛信康と川島豊前宗泰を
総奉行として普請開始。石垣衆は
茂庭石見延元を奉行として、棟梁
に鹿野清左衛門、黒田八兵衛、能島
与右衛門。使用された石は郷六の北・
大石ヶ原や国見峠から採石された
安山岩質玄武岩1万2000個あまり。
また城下の測量や絵図の作成も
同時に行われ、翌年の2月から5月
にかけて、岩出山城下から家臣や
町人の引越しが行われ、名実共に
仙台開府となったのである。
おっと、すっかり愛宕山に長居
してしまった。仙台の語源となった
千躰物のお堂も拝んだ事だし、
これから向山と八木山を登って、
青葉山本丸(天守台)を目指すとしま
すか。あの有名な伊達政宗騎馬像を
見て、名物の「ずんだシェイク」
でも飲もうではないか。
○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。
○多賀城
日本書紀・景行天皇27年2月の
条というから、紀元100年前後の頃。
「あずま東のひな夷の中に日高見国
(ひだかみのくに)有り。そ其の国の
人、男女並みに椎
をわ結け、身を文けて、
為人勇み悍し。
是を総べて蝦夷と曰ふ。また
亦土地壌えて広し。撃ちて
取りつべし」と書いてある。
日高見国とは縄文時代、日本列島
全域を指す美称だった。それが弥生
時代になると、近畿から東を指す
言葉に変わり、景行天皇紀の頃には
関東北部から東北地方を指す言葉と
なっていた。
景行天皇には息子が80人もいた
と言われるが、中で最も有名なのが
倭建命(日本武尊・ヤマトタケル)で
ある。冒頭の文は景行天皇がヤマト
タケルに対して、日高見国を撃ちて
取るべし、すなわち攻め込んで土地
を奪えと命じているのである。
タケルとは軍事集団「建部(たけ
るべ)」を統率する将軍の役職名で、
九州には熊襲建が、山陰には出雲建
がいた。ヤマトタケルは彼らを撃って
西日本を大和朝廷の支配下に置き、
関東・東北遠征に向かうのである。
蝦夷とは東北地方住民の
呼称で、海老のように腰の曲がった
醜い野蛮人を「蝦」と言い、
大和朝廷の政治に容易に服従しない
者を「夷」と称した。平安時代の
延喜式に「陸奥蝦夷語」とある事から、
訳語人を介さなければ話が
出来ない程、言語的違いがあったの
だろう。
東北地方は広大な土地に野蛮人が
住む、遠い異国であった。ヤマト
タケルがどこまで遠征したのかは
不明だが、古墳の分布などから
推測して、5世紀頃までに現在の
宮城県北部の鳴瀬川、山形県の
最上川流域が、大和朝廷とアイヌ
文化圏の国境線になっていたもの
と思われる。
日高見国や蝦夷に代わって、
「陸奥・みちのく」という言葉が
登場するのは、659(斎明天皇5)
年3月の「道奥国」
である。陸奥の初見は日本書紀676
(天武天皇5)年1月25日。出羽国
の成立は712(和銅5)年9月23日
である。
大和朝廷が支配する「国」とは、郡
や里という行政区画を設け、戸籍を
作成して住民と土地を登録し、班田を
分け与える代わりに租庸調などの税を
納めるシステムの事である。
水田や田畑を食の基本とする場合、
なかなか機能的なシステムなのだが、
海山川に食が溢れ、古来より狩猟を
生業としている者にとってはなか
なか馴染めないシステムだった。
住民を野蛮人と見下し、武力で威嚇
して税を収奪する横暴な集団と思われ
てもおかしくはない。そうした
「まつろわぬ(服従しない)民」を
「俘囚(帰降夷俘)」と
称した。
かのヤマトタケルが日高見国へ遠征
した際、数百人の俘囚を連行してきた
と言う。彼らは最初、伊勢神宮に奴隷
として奉納されたが、神域の木を
ことごとく伐り倒したり、暴れたりと
神官の手におえず、ついには四国方面
に追放されたという話も伝わっている。
国に反抗的な土地柄だから、当然反乱
が起きる。709(和銅2)年3月5日、
陸奥・越後2国の蝦夷、野心馴れ難く、
しばしば良民を害した為、陸奥鎮東将軍・
征越後蝦夷将軍を派遣した、とある。
越後軍は佐伯宿禰石湯が越前・越中など
の兵を率い、陸奥軍は巨勢麻呂(こせの
まろ)が遠江・駿河や信州・甲斐の兵を
率いて出陣した。
この時陸奥軍に従軍した一人に、大野
東人がいる。彼は672年
の壬申の乱において敗れた近江朝側の
将軍・大野果安の子で、
恵まれない環境で育ち、官位も正七位上
と低かった。おそらくは、横柄に権力を
振りかざす者や、彼らによって虐げられ
た者、恵まれない者、不当に差別されて
いる者を見聞きし、体験した苦労人で
あった事がポイントとなる。
乱の終息と共に巨勢麻呂は帰還したが、
東人はそのまま陸奥に残り、屯田兵たち
と共に水田の開墾に従事する。根拠地は
宮城県大崎市古川の「名生館(みょうう
だて)(後の丹取柵」や、
仙台市郡山の官衙であった
だろう。東人は10年後の719(養老
3)年に、従五位下にまで昇進している。
陸奥における民政の功績と人望の高さ
が評されての事と思われる。
巨勢麻呂軍派遣の際、仙台市郡山
の北東13キロの地点に、「陸奥鎮所」
と呼ばれた防柵が築かれた。これが
陸奥国府および鎮守府・多賀城の前身
となる。多賀城碑文(壷の碑(つぼの
いしぶみ)によれば、創建は724
(神亀元)年。5年後の729(天平元)
年に大野東人が従四位上陸奥鎮守将軍
として、初代長官に就任した。
多賀城碑(壷の碑)は762(天平
宝字6)年に、藤原仲麻呂の三男・
参議藤原朝狩によって建立
された。仲麻呂が反乱によって一族
もろとも滅亡する2年前の事である。
「むつのくの おくゆかしくそ
おもほゆる つほのいしふみ
そとのはまかせ」と、平安時代末期に
碑の前に立った歌人・西行が詠んだ。
1689(元禄2)年5月8日、西行
を慕って奥の細道の旅に出た松尾芭蕉
が碑の前に立った。その芭蕉を慕って、
1893(明治26)年8月、正岡子規
が碑の前に立った。古碑は1200年
の時を刻み、詩人たちの魂を引きつける
磁力を放ちながら、今もひっそりと
祠の中で息づいている。