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「彼女が重い」と親友に相談したら、俺の話を聞くほど味方してくれなくなった

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/28

 美緒の名前を、昨夜から何度も画面の上で押していた。


 丸いアイコンの中で、美緒は海を背景に笑っている。撮ったのは俺だった。去年の夏、日焼けを気にして帽子を脱ぎたがらなかったのを、せっかくだからと説得した。


 まだその写真を使っている。


 だから、今朝のメッセージも本気ではないと思った。


「彼女がさ、最近ちょっと重くて」


 向かいに座った拓真が、メニューから顔を上げた。


「美緒さん?」

「そう。他にいないだろ」

「いや、何かあったのかと思って」


 いわゆるメンヘラというやつなのだろうか。付き合い始めた頃は、そんなふうに思ったこともなかった。


 土曜日のファミレスは家族連れで混んでいた。隣の席では、小さな子供がフライドポテトを一本ずつ並べている。


 長谷川拓真とは大学からの付き合いだ。二十九歳にもなって恋愛相談で呼び出すのは格好が悪かったが、こいつなら美緒とも面識がある。俺一人で抱えるより、間に入ってもらったほうが早い。


「昨日、うちの玄関で泣かれてさ」

「喧嘩?」

「別れるとか何とか。ちゃんと話そうって言ってるのに、泣くだけで。隣の部屋にも聞こえるだろ。ほんと勘弁してほしい」


 拓真はメニューを閉じた。


「何で別れるって?」

「疲れたんだと」

「何に」

「俺に、じゃない? 仕事も忙しいみたいだし、余裕がないんだろ」


 美緒は小さなメーカーで営業事務をしている。繁忙期には残業もある。俺だって住宅設備の営業で客先を回っているのだから、忙しいのはお互いさまだった。


「俺も別に、毎日会えって言ってるわけじゃないんだよ。なのに、急に全部嫌になったみたいな言い方するから」


 注文用の端末を拓真に渡し、スマホの画面を開いた。


「見て、これ。今朝」


 画面を向ける。


『今後、電話やメッセージは送らないでください。鍵のことは先ほど送ったとおりにお願いします』


 拓真はすぐには何も言わなかった。


「極端だろ。昨日まで普通に話してたのに」

「昨日は泣いてたんじゃないのか」

「いや、その前。それまでは普通だったってこと」


 拓真の指が、画面に触れない距離で止まった。


「この上、昨日も伝えましたが、ってあるけど」

「何回も同じこと言うんだよ。だから困ってる」


 俺はスマホを引き取った。


 昨夜から送ったメッセージには、途中まで既読がついている。今朝の返事の後に送ったものには、まだ何もつかなかった。


『一回落ち着いてから話そう』

『そんな言い方しなくてもよくない?』

『心配してるだけなんだけど』


 俺なりに、言葉は選んだつもりだった。


「前からこういう感じだったか?」


 拓真に聞かれ、俺は首を振った。


「最初は全然。むしろ、すごく素直だった」



 美緒と知り合ったのは、共通の知人が開いた食事会だった。


 六人で入ったイタリアンの店で、彼女はピザを取り分けようとして、伸びるチーズをなかなか切れずにいた。俺が皿を近づけると、ようやく切れて、その勢いで小さく笑った。


「すみません、欲張りました」


 肩の力の抜けた笑い方だった。


 その場にいた誰かが、仕事の愚痴を延々と話していた。美緒は相づちを打ちながらも、ほとんど手をつけられていない料理に気づいて、さりげなく皿を回した。


 感じのいい子だと思った。


 二人で初めて会った日は、美緒が行きたがっていた水族館に行った。クラゲの水槽の前に長く立っていたので、そんなに好きなのかと聞いた。


「好き。でも、祐樹さん退屈だったら次行こう」

「いいよ。ゆっくり見なよ」


 そう言うと、美緒は嬉しそうに水槽へ向き直った。


 付き合い始めて二か月ほど経った夜、雨がひどく降った。


 残業を終えた美緒から、駅に着いたと連絡が来た。俺はまだ起きていたし、車なら十五分だったので迎えに行った。


 助手席に乗った彼女は、濡れた傘を足元に置き、何度も礼を言った。


「ごめんね、急に」

「俺が行くって言ったんだから、謝らなくていいって」


 暖房を上げてやると、美緒が手を吹き出し口へかざした。


「会えると思ってなかったから、嬉しい」


 その言葉は、よく覚えている。


 コンビニで温かいお茶を買って、美緒のアパートの前でしばらく話した。窓が曇るくらい、どうでもいい話をした。


 俺はああいう時間が好きだった。


 それから、仕事が終わる時刻を聞くようになった。近くにいる日なら迎えに行けるし、疲れている日には飯くらい一緒に食える。


 ただ、美緒はそういうことを遠慮する。


『今日は同じ課の人たちとご飯に行くことになった』


 ある日、終業時刻を過ぎてからそんな連絡が来た。


『もう車出したんだけど』


 そう返した。


 実際には、まだ部屋にいた。だが、着替えは済んでいたし、車の鍵も持っていた。出る直前だったのだから、大して違わない。


 少しして、美緒から電話が来た。


『迎え、頼んでないよね?』

『うん。でも今日六時までって言ってたじゃん』

『それは、仕事が何時までか聞かれたから』


 言い方が冷たく聞こえた。


『分かった。じゃあ戻るわ』

『祐樹、まだ近くだったりする?』

『何で』

『ご飯、断るから』


 その晩、美緒は助手席で少し黙っていた。


 同僚に悪いことをしたと思っているのだろうと、俺は気を遣って明るく話した。美緒が好きなハンバーグの店に連れていき、食後にはデザートも頼んだ。


 帰り際には笑っていた。


 だから、それで済んだ話だった。



「迎えに行ったのに断られたとか、そういうのもあってさ」


 俺は水のグラスを置いた。


「迎えを頼まれてたのか?」

「頼まれてなくても、喜ぶかなと思うだろ」

「うん。で、断られたら?」

「別に怒ってないよ。ちょっと残念ってだけ」


 拓真は、届いた料理を店員から受け取った。俺の前にはチーズハンバーグ、こいつの前には生姜焼きが置かれた。


 話しているうちに腹が減っていた。


「付き合って二年以上だぞ。仕事が終わったかどうかくらい、連絡くれてもよくない? 昼に送ったものが夕方まで返ってこないとか、最近そういうのも多くて」

「仕事中だろ」

「でも休憩あるじゃん」


 ハンバーグを切ると、中からチーズが流れ出た。美緒は熱いものを食べるのが遅い。俺が食べ終えてからも、いつも小さく切り分けていた。


「昼休み終わるちょっと前に送っただけなのに、ずっと未読なんだよ」

「何時に送った?」

「一時前」

「夕方って?」

「三時くらい」


 拓真の箸が止まった。


「二時間?」

「二時間あったら一回くらい見られるだろ」


 何がおかしいのか分からず、俺はスマホを開いた。口で言うより早い。


 木曜日のやり取りまで戻す。


『土曜どうする?』


 最初は、それだけだった。


『この前の映画、まだやってるって』

『美緒?』

『忙しい?』


 その下に、応答のなかった通話の履歴が並んでいる。


「ほら、土曜の予定を決めようとしてただけ」


 拓真は、俺が指で隠していた下の部分を見た。


「これ、何件送ったんだ?」

「数えてない」

「一回電話して、出なかったら待たないか」

「何かあったかもしれないだろ」

「会社にいるって分かってるのに?」


 俺は画面を自分のほうに向けた。


 メッセージは二十件を超えていた。途中で、通話も四回かけている。


 だが、それは結果だ。


「一言、忙しいって返せば終わる話なんだよ」


 仕事から戻ってパソコンを開くときも、取引先からのメールが溜まっていれば面倒になる。一件ずつすぐに返せば、そんなことにはならない。


 美緒だって、俺の連絡に気づいた時点で答えればいい。


「土曜の映画なら、仕事が終わるまで待てないか?」


 俺はフォークを置いた。


「何だよ。俺が細かいって言いたいの?」

「何でそんなに送ったのか聞いてる」

「返さないからだって」


 拓真は何も言わず、味噌汁を一口飲んだ。


 大学の頃から、こいつはたまにこういう顔をする。大事な話でも、すぐには頷かない。こっちが説明を続けなければならなくなる。


「しかも、その日の夜には返せるんだぞ。仕事中は全然なのに」

「仕事が終わったからだろ」

「そういうことじゃなくてさ」


 木曜日の夜、美緒から来たのは、土曜日の映画の返事ではなかった。


『土曜は会いません。先週伝えたことは変わりません。明日の夜、置いてある荷物を取りに行きます』


 映画が嫌なら、別の場所でもよかったのに。


 俺はスマホを伏せた。



「でもさ、あっちだって連絡しつこいときあるんだぞ」


 冷めかけたハンバーグを、もう一口食べる。


「何回も電話してきたり。俺がちょっと黙ってるだけで、怒ってる、怒ってるって」

「怒ってたのか?」

「毎回じゃない」


 拓真が箸を置いたので、俺は付け足した。


「機嫌悪いときくらいあるだろ、誰だって。そういうときに、しつこく聞いてくるんだよ。放っておけばいいのに」

「何で機嫌悪くなった?」

「いろいろだよ」


 先月、美緒が会社の飲み会へ行った。


 金曜日で、俺は翌日も仕事だった。美緒に予定を聞いたのは水曜日の夜だ。その時点では、まだ飲み会の人数も決まっていなかったらしい。


『男性もいるの?』

『同じ部署の人たちだから、いるよ』


 それを聞いて、俺はできれば行ってほしくないと伝えた。


 美緒は困った声を出した。


『送別会なんだよ。お世話になった人の』

『別に、絶対行くなとは言ってないじゃん』

『うん。でも、行ったら怒るよね』

『怒らないよ。美緒が決めれば』


 ちゃんと、任せた。


 それでも美緒は何度も、本当に大丈夫かと聞いた。


「で、行ったのか?」


 拓真に聞かれ、俺は頷いた。


「二次会には行かないって言ってたのに、店を出た後も、なかなか帰ったって連絡なくて」

「どのくらい?」

「三十分くらい。駅でみんなと話してたって」


 駅で話すくらいなら、一次会の店で済ませればいい。俺は翌朝が早かったのに、眠れずに待っていた。


「帰ったって連絡は来た?」

「来たよ。その後、俺が返さなかったら電話」

「お前は、その前に何か送ったか?」


 俺は記憶を辿った。


 あの夜は、布団に入っても眠れなかった。美緒が帰るまでは起きていようと思っていた。時刻を見るたび、腹が立った。


『楽しそうでよかったね』


 確か、そう送った。


 その前には何と書いたか。


『男の人とそんなに話したいんだ』


 その前にもあった。


『もう俺のことどうでもいいんだな』


 拓真に話すと、こいつは顔をしかめた。


「それ送ってから、電話を無視したのか」

「無視っていうか、話す気にならなくて」

「彼女がお前をどうでもいいと思ってるって、どこでそうなるんだ?」

「嫌だって伝えてたんだぞ。それでも行ったんだから、そう思うだろ」


 美緒は、送別会の途中で料理の写真を送ってきた。俺が誰といるか分からないと言ったから、参加者の集合写真も送ってくれた。


 それで安心すればよかったのだろうか。


 写真の端には、美緒と同じくらいの年の男がいた。仕事の話で頼りになると、前に名前を聞いたことがある。その男の隣には一人分の空席があった。


 美緒が写真を撮るために立った場所だと思った。


「席のこととかさ、嫌な気分になることもあって」

「席?」

「いや、それはもういいけど」


 俺はドリンクバーへ立った。拓真の返事を待たず、空いたグラスを二つ持っていく。


 氷の落ちる音がやけに大きかった。


 俺は、飲み会そのものを禁止したわけではない。せめて心配をかけないようにしてほしかっただけだ。


 美緒は結局、家に着いてからも何度か電話をかけてきた。俺が翌朝まで返信しなかったら、長い謝罪が届いた。


『心配させてごめん。ちゃんと帰ってるよ。明日の仕事、気をつけてね』


 自分でも悪かったと思ったのだ。


 その日からしばらく、美緒は帰宅すると必ず連絡をくれた。俺はそれで十分だった。気をつければできることなのだから、ずっとそうしてくれればよかった。



 席に戻ると、拓真はスマホを見ていた。


「何?」

「先月、俺と飲んだ日って、お前、美緒さんに連絡してたか」


 俺は笑った。


「何でそれと一緒にするんだよ。お前と二人だったじゃん」

「途中で隣の席の人たちと話したろ。女の人もいた」

「たまたまだろ。あれは」


 スポーツ中継を流している店で、隣のグループと好きなチームが同じだった。それだけだ。連絡先を交換したわけでもない。


「美緒さんは知ってる?」

「言う必要ある? 何もなかったんだから」

「俺たち、結構遅くまで飲んだよな」

「久しぶりだったし」

「帰りの電車で、美緒さんに帰宅の連絡を頼まれたって言ってたろ」


 テーブルへ置こうとしたグラスの底が、少し強く当たった。


「俺は浮気とかしないから」

「美緒さんはするのか?」

「してないと思うよ。でも、絶対なんて分からないだろ」


 拓真は、差し出したグラスをすぐには受け取らなかった。


「飲んでる間、美緒さんとは何てやり取りした?」

「男二人で飲んでるんだから大丈夫だよって」

「それで、美緒さんは何て?」

「楽しんできて、って」


 思い出すと、少し寂しくなった。


 美緒はあの夜、俺を責めなかった。帰ったら教えてねと一度送ってきただけだった。返事は後でいいと思い、帰宅した頃にはもう寝ているだろうと、結局返さなかった。


 翌朝、寝落ちしたと送ったら、美緒はスタンプを一つ返した。


 いつも使っていた、眠そうな猫のスタンプだった。


「美緒さん、お前と同じことしてないじゃん」


 拓真が言った。


 俺は椅子の背にもたれた。


「あっちは、俺に心配かけられてないからだろ」


 拓真は困ったように眉を寄せた。


「帰ったって返さなかったんだろ?」


 そんな小さなことまで、今ここで責められなければならないのか。



 皿が下げられて、テーブルの真ん中が空いた。


 隣の家族連れもいなくなっていた。ポテトを並べていた子供の席に、清掃用の布巾が走る。


 拓真は俺のスマホを指さした。


「さっきの、鍵って何だ?」

「美緒の部屋の合鍵」

「返せって?」

「そう。郵送でいいからって。冷たくない?」


 合鍵をもらったのは、去年の冬だった。


 美緒が熱を出したとき、頼まれた飲み物や食べ物を買って届けた。玄関まで出てくるのもつらそうだったので、その後、何かあったら使ってと渡された。


 俺の部屋の鍵は渡していない。美緒は予告なしに来ることがないし、必要になったこともなかった。


「何かあったときのためだったんだけどな。もう要らないって言われてるみたいでさ」

「荷物は全部片づいたのか?」

「昨日、あいつの分は持って帰った」

「昨日って、泣いた日?」


 俺は頷いた。


「服とか、洗面所のものとか。あっという間に袋に入れてさ。こういうときだけ手際がいいんだよ」

「待って。昨日、荷物を取りに来たのか」

「そう言ってたけど」

「お前は、別れる話をいつされた?」


 俺は、テーブルの隅に置いた伝票を裏返した。


「先週の土曜」


 拓真が、息を吐いた。


「一週間前?」

「そのときも言ったんだよ。いったん落ち着こうって」


 美緒は、先週も俺の部屋へ来た。


 いつものように泊まると思っていたので、俺は夕飯の材料を買っておいた。作るのは美緒でも、買い物くらいはしている。


 けれど美緒は、上着を脱がなかった。


『別れたい』


 玄関から入ってすぐ、そう言った。


 俺は笑ってしまった。笑う話ではないと分かったが、仕事で疲れているのだと思った。最近あまり会えなかったことも、関係しているのだろう。


『今日、何かあった?』

『今日だけのことじゃないよ』


 美緒は、鞄の持ち手を両手で握っていた。


『返事ができないだけで、怒ってないか考えるのに疲れた。誰と何をしたか、どこまで説明したら安心してもらえるかって、ずっと考えてる』

『それ、普通に連絡くれればいい話じゃん』

『連絡しても、写真を送っても、足りないでしょう』


 俺は冷蔵庫を開けた。話しながらでも、食事の準備はできる。


『今日、鍋でいい?』

『祐樹、聞いて』

『聞いてるよ。だから、ちゃんと飯食ってから話そうって』


 豆腐を取り出したところで、美緒が泣きそうな顔になった。


 どうして、そこまで思い詰めるのか分からなかった。


 俺は、美緒が忙しいときには迎えにも行くし、熱を出せば買い物もする。外で食べるときは少し多めに払う。誕生日も記念日も、忘れたことはない。


 そう伝えると、美緒は、全部嬉しかったと答えた。


『じゃあ、何で?』

『嬉しかったことがなくなるわけじゃない。でも、もう付き合えない』


 美緒は何も食べずに帰った。


 俺は一人分だけ鍋を作り、残った材料を翌日も食べた。こんなことになっても生活は続くのだと、あのときは自分が少し大人になった気がした。


 月曜日には、おはようと送った。


 美緒から返事がなかったので、夜にも送った。


『土曜のことだけど、まだ怒ってる?』


 返ってきたのは、怒っていない、別れると伝えたとおりだ、という短い文章だった。


「じゃあ、昨日が初めてじゃないんだな」


 拓真の声で、顔を上げた。


「だから、先週もそういう話になったって言っただろ」

「別れるって言われたんだろ」

「俺は納得してないよ」


 拓真の唇が、一度閉じた。


 注文用の端末が、季節のデザートを勧めていた。美緒が食べたがっていた栗のパフェだった。


 先週、一緒に食べに来ようと思っていた。



「昨日、玄関で泣いたっていうのは、どういう状況だった?」


 拓真は、まだ聞いてきた。


「帰るって言うから、もう少し話そうって」

「何時頃?」

「九時過ぎ」


 美緒は八時半に来た。紙袋を二つ持っていた。


 洗面台の歯ブラシ、棚に入れた化粧水、引き出しの下着。順番に袋へ入れるのを、俺はソファから見ていた。


 戸棚を開けると、美緒は少しだけ手を止めた。


 白いマグカップが二つ並んでいる。持ち手の形が微妙に違って、重ねられないやつだった。


 旅行先の雑貨屋で、美緒が見つけた。


『これ、かわいいね』


 俺には普通のカップに見えたが、二つ買った。美緒は使うたび、飲み口がちょうどいいと言っていた。


『それ、どうする?』


 俺が聞くと、美緒は戸棚を閉めた。


『置いていく。処分してくれていいから』


 腹が立った。


 自分が欲しがったものなのに、要らなくなれば捨てていいらしい。


『思い出とか、何もないんだな』


 美緒は答えなかった。


 袋を持ち、玄関で靴を履いた。俺も立ち上がった。


『祐樹、そこ、通して』

『待てよ。何でそんなに急ぐんだよ』

『姉が下で待ってるから』


 姉まで呼んでいると聞いて、俺は余計に落ち着かなくなった。


 姉には二度会ったことがある。美緒と顔は似ていたが、物の言い方ははっきりしていた。俺が美緒はすぐ謝ると笑ったときも、何があったのかと聞いてきた。


 美緒はきっと、姉にも自分の言い分だけ話している。


『二年も付き合ったのに、それで終わり?』

『先週も話したよ』

『俺の話、全然聞いてないじゃん』


 俺は玄関のドアに背を向けていた。美緒は上がり框のところで、紙袋を持ち直した。


『明日の夜でもいいから、ちゃんと時間取って』

『もう会わない』

『何でそうなるんだよ』


 美緒の目から涙が落ちた。


 俺はため息をついた。


『また泣く。泣かれたら、何も言えなくなるだろ』


 彼女は声を上げて泣いていたわけではなかった。唇を強く結んで、何度も息を吸っていた。


 俺も言いすぎたかと思い、落ち着くように言った。中へ戻って、水でも飲めばいい。


 けれど美緒は、帰らせて、と繰り返した。


「どのくらい、そこに立ってたんだ?」


 拓真が聞いた。


「十分とか、それくらい」

「通してって言われたんだろ」

「別に、つかんだりしてないぞ」


 そこは、はっきりさせておきたかった。


「鍵も開いてたし。帰ろうと思えば帰れたよ」

「お前がドアの前にいたんだろ?」

「だから、話してたんだって」


 拓真は眉間を指で押さえた。


「帰りたいって言ってる人に、まだ話せって?」

「二年三か月だぞ。十分で終わらせられるかよ」

「荷物を取りに来る前にも話したんだろ」


 そうだが、俺の言ったことは何も伝わっていない。


 別れたいという結論を変えないのだから、話は終わっていなかった。


「それで、どうやって帰ったんだ?」

「姉から電話が来て。それで俺がどいたから」


 美緒は通話に出ると、ほとんど言葉にならない声で、今行く、と答えた。


 俺が横へ寄ると、ドアを開けた。紙袋がドアの端に擦れて、がさりと音を立てた。


 もう片方を持ってやろうとしたら、美緒は袋を胸のほうへ引いた。


『大丈夫』


 その声だけは、はっきりしていた。



「昨日だって、美緒は俺のことが嫌いになったわけじゃないって言ったんだよ」


 拓真が黙ったままなので、俺は続けた。


「楽しかったこともあるって。水族館とか、旅行とかさ。じゃあ、やり直せるだろ」

「その後は?」

「何が」

「その後に、何て言われた?」


 思い出すまでもなかった。


『でも、もう付き合えない』


 先週も昨日も、似たような言い方をした。


「今は無理ってことだろ」

「今はって、美緒さんが言ったのか?」


 俺は答えなかった。


 拓真がグラスを持ち上げた。氷はほとんど溶けていた。


「祐樹。今日、俺に何を頼みたいんだ?」


 ようやく、その話になった。


「美緒に連絡してくれない?」


 拓真は、グラスを置いた。


「今朝から既読つかなくてさ。ブロックされたっぽいんだよね。お前から、ちょっと落ち着いてって言ってくれれば」

「それはできない」


 即答だった。


「一回ちゃんと話すように言ってくれるだけでいいから」

「話したって聞いたぞ」


 俺は椅子の上で座り直した。


「お前まで何なの。あいつの味方?」

「連絡するなって言われてるのに、俺から送ったら同じだろ」

「俺から送れないから頼んでるんだよ」


 拓真が俺を見た。


 怒っているというより、何か言おうとして、言い方を選んでいる顔だった。


「美緒さんは、お前に連絡されたくないんだと思う」

「今はな」

「今はって、お前がつけてるだけじゃん」


 少し大きな声が出そうになって、俺は抑えた。ここは店だ。周りには、他の客もいる。


「美緒って、俺がいないと駄目なところあるんだよ。何かあるとすぐ泣くし、すぐ謝るし。こういうの、分かんないだろ」

「お前がいないところでも、仕事して暮らしてるだろ」

「そういう意味じゃない」


 美緒が駅まで迎えに来てくれた日もある。俺が仕事で失敗した夜、遅くまで話を聞いてくれた。俺の両親への手土産を選ぶのは、いつも彼女だった。


 俺がいないと駄目というのは、そういうことを忘れているわけではない。


 美緒は、俺にどう思われるかを気にしていた。俺の顔色を見て、予定を変えた。俺から電話が来れば、出てくれた。


 それを全部やめて、平気でいられるとは思えなかった。


「こういう子ってさ、突き放したら余計ひどくなるっていうか」

「突き放されたの、お前のほうじゃないのか」


 言葉が出なかった。


 拓真は、俺のスマホに目を落とした。


「最初、彼女が重いって言ったよな」

「実際そうだろ。連絡返さないと怒ってるか聞いてくるし」

「別れたのに連絡してるのは、お前だろ」


 隣の席で、店員が椅子を戻した。


 床を擦る音が長く聞こえた。


「だから、俺はまだ――」

「納得してないってのは聞いた。でも、美緒さんは別れるって言ったんだろ」


 拓真は続けようとして、一度口を閉じた。


 それから、少し声を落とした。


「俺も、先月の飲み会で、お前が彼女の帰り遅いのが嫌だって話したとき、そういうのあるよなって言った。けど、写真を送らせたり、返事が来るまで何回も電話したりしてるとは思わなかった」

「心配だったんだって」

「うん。それは分かった。でも、俺から連絡はしない」


 譲る気がないらしかった。


 俺は画面を開き、美緒とのやり取りを見た。


 最後に美緒が送ってきたのは、午前九時十二分。


 俺がそれに返したのは九時十三分だった。


 十三分、十五分、十九分、二十一分。


 スクロールすると、似たような時刻が続いていた。


 返事は、一つも来ていなかった。



「鍵だけは返さないといけないんだよ」


 俺は言った。


「それは返せよ」

「会わないと返せないだろ」

「郵送してって言われたんじゃなかったか」


 確かに、そう書いてある。


 俺は今朝のメッセージを、上から読み直した。


『昨日も伝えましたが、別れます。これ以上会って話すつもりはありません』


 その下に、鍵の返送方法がある。


 受け取りに署名の要る方法で、小箱などに入れて郵送してほしい。宛先は、俺も知っている美緒の実家だった。


 今は姉の家にいるが、返送先は実家にしてほしいと書かれている。


 そこまでして、俺を部屋に近づけたくないのかと思った。


 発送したら、追跡番号だけメールしてほしい。アドレスは、以前から美緒が使っているものだ。通販の予約確認を転送してくれたことがある。


『今後、電話やメッセージは送らないでください。鍵のことは先ほど送ったとおりにお願いします』


 俺は、その最後の部分だけを拓真に見せていた。


「メールはできるんだ」


 拓真が俺の顔を見た。


「発送したら、番号を送るためだろ」

「分かってるよ」


 メールを開く。


 件名は、鍵について、とした。


『鍵は直接返す。最後くらい会って話そう』


 そこまで打ってから、少し考えた。


 謝罪も入れたほうがいい。


『俺も心配しすぎたところはあると思ってる。拓真にも相談してるし、落ち着いて話せるから』


 送信する。


「何、送った?」


 拓真に聞かれ、画面を向けた。


「謝ったよ。これならいいだろ」


 拓真は文面を読み、目を閉じた。


「俺も相談に乗ってるって、そういう使い方するなよ」

「名前出しただけじゃん」

「俺がお前と一緒に、会って話せって言ってるみたいになるだろ」


 そんなつもりはなかった。


 だが、友達にも相談していると分かれば、美緒も少しは安心すると思ったのだ。俺が一人で暴走しているわけではないと。


 拓真は自分のスマホを伏せたまま、俺の画面を見ていた。


「それ、訂正してくれ。俺は会うように言ってないって」

「そこまでする?」

「する。名前を使われたから」


 俺は息を吐き、もう一通送った。


『拓真が会うように言っているわけではありません。そこは俺の考えです』


 急に他人行儀な文面になった。


 こんなやり取りを美緒に見せたかったわけではなかった。



 メールの返事は、拓真が追加で頼んだコーヒーを飲んでいる間に来た。


 俺は通知が出た瞬間に開いた。


『直接は会いません。鍵は郵送してください。別れることについて、これ以上話し合うつもりはありません。発送の連絡以外には返信しません』


 画面を眺めていると、拓真が聞いた。


「何だって?」


 黙って見せた。


 読み終えた拓真がスマホを返す。


「言われたとおりにしよう」

「二年付き合った相手に、これだけ?」


 俺は画面を指で叩いた。


「俺、謝ってるんだけど。だったら、向こうも少しはさ」

「何を言ってほしいんだ」

「せめて、分かったとか。私もごめんとか」


 美緒はいつも、最後にはそう言った。


 俺が怒りすぎたと認めれば、自分も悪かったと謝った。そんなことないよ、と言ってくれたこともある。そこでようやく、俺も悪かったなと素直に思えた。


 今のメールには、それがなかった。


「もう一回、ちゃんと説明してくれればいいのに」


 拓真は、コーヒーカップを受け皿へ戻した。


「これ以上、何を説明してもらうんだよ」


 低い声だった。


 俺は返信欄を開いた。


『だから、その態度が』


 そこまで打つと、拓真が言った。


「それ、発送の連絡か?」


 指が止まる。


 見られている前で送れば、また何か言われる。俺は書きかけの文章を消し、スマホをポケットへしまった。


「分かったよ。返す」


 拓真は頷いたが、よかったなとも、大変だったなとも言わなかった。


 会計は別々だった。


 店の外へ出ると、思っていたよりも日が傾いていた。


「悪かったな、休みの日に」

「うん」


 拓真は車の鍵を取り出しかけて、俺を見た。


「鍵は、返したらそれで終わりにしろよ。俺の名前出して、また何か送ったりするなよ」

「分かったって」


 俺は少し笑った。真面目な顔のまま言われると、こっちまで悪いことをしたみたいになる。


 だが拓真は、笑わなかった。



 帰りに、郵便を送るための小さな箱と緩衝材を買った。


 美緒の鍵は、普段使うキーケースの中にある。


 外そうとすると、小さな金属の輪が硬かった。爪を差し込んで、少しずつ回す。こんなものをどうして美緒は簡単に付けられたのだろう。


 渡された日、彼女は俺のキーケースを借り、その場で付けてくれた。


『なくさないでね』


 笑っていた。


 ようやく外れた鍵を、手のひらに置いた。


 これを持って美緒のアパートへ行けば、会えるのだろうか。


 今は姉の家にいると書いてあった。部屋に入って待っていたら、帰ってくるかもしれない。


 そこまで考えて、俺はスマホを見た。


 拓真に言ったら、どういう顔をするかは分かった。


 鍵を緩衝材で包み、小箱へ入れた。


 手紙を一緒に入れようとして、便箋がないことに気づく。買いに戻るほどではなかった。


 代わりに、白い紙を一枚取り出した。


『落ち着いたら連絡ください』


 書いてから、紙を裏返した。


 美緒はこの一週間、同じ話ばかりしていた。先週の土曜日も、月曜日も、木曜日も、昨日も、今日も。


 俺はそのたびに、落ち着いたら、と言っていた。


 紙を二つ折りにした。


 入れても入れなくても、今は返事が来ない気がした。


 そのままゴミ箱へ落とした。



 日曜日の午前中、休日も窓口が開いている郵便局へ行って発送した。


 小箱を窓口へ出すと、中身を確認され、鍵ですと答えた。係の人は事務的に頷いた。


 受領証の番号をメールへ打ち込む。


『鍵を送りました』


 その下に番号を書いた。


 ほかにも何か付けようと思ったが、窓口の脇で長く立ち止まっているのも変だったので、そのまま送った。


 返事は来なかった。


 月曜日の夜、追跡画面が配達済みに変わっていた。


 それから少しして、美緒からメールが届いた。


『鍵を受け取りました。返送ありがとうございました』


 俺は文面を何度か読んだ。


 もう一行くらいあってもいいと思った。


 今までありがとう、とか。


 二年三か月を終わらせる言葉が、返送ありがとうございました、だけなのはおかしい。


 返信を押しかけて、やめた。


 今までありがとうは、最初に別れを告げられた日、美緒が帰る前に言っていた。


 俺は、その後にも話を続けた。



 火曜日の夜は、洗濯機を回した。


 待っている間にコンビニへ行くと、美緒が好きだったプリンが売られていた。二つ買おうとして、一つだけにした。


 部屋へ戻ると、洗濯はとっくに終わっていた。


 干してからソファに座り、スマホを開く。


 美緒のアイコンは変わっていなかった。


 俺が撮った海辺の写真を、まだ使っている。


 なら、と一瞬思った。


 けれど、拓真に言ったら、写真一枚で何が分かるんだと返される気がした。


 スマホを置く。


 十分ほどして、また持った。


 誰とも喋っていないと、夜はこんなに長いのか。


 美緒はいつも何時に帰っていたのだろう。俺の連絡がない夜に、何をしていたのだろう。


 テレビをつけたが、何も頭に入らなかった。


 拓真に何か送ろうと思って、やめた。別の友達なら、もう少し分かってくれるかもしれない。


 連絡先を開き、大学時代の友達の名前を探す。


『ちょっと彼女のことで相談したいんだけど』


 そこまで打ってから、「彼女」の二文字を消した。


 打ち直す言葉がなかなか決まらず、俺は画面を閉じた。



     *



 三週間後の金曜日、美緒は会社の近くの店にいた。


 テーブルには三人分の小皿と、大きなサラダの皿が載っている。同じ課の女性二人が、来月から始まる社内システムの切り替えについて話していた。


「説明会、分かった?」

「最初の五分だけ」

「私も。あの資料、百枚あるんだって」


 美緒が笑うと、向かいの同僚も笑った。


 この店に来るのは半年ぶりだった。


 以前は自分から誘ったこともあったが、いつの間にか、帰りの時刻を先に考えるようになった。誘われても、今日は用事があるから、と断っていた。


 用事の中身を聞かれたことはない。


 だから今日、久しぶりにご飯に行かないかと言ったときも、二人は空いていると答えただけだった。


 美緒は鞄の中のスマホに手を伸ばした。


 画面をつける。八時四十分。


 姉から、日曜日に貸した上着を取りに行ってもいいかと連絡が来ていた。


『大丈夫。洗っておいたよ』


 返すと、すぐに、ありがとう、と届いた。


 美緒は少し待った。


 その後には何も来なかった。


 姉の家に泊めてもらっていたのは、四日間だった。管理会社を通して玄関の鍵を交換し、それから自分の部屋へ戻った。


 祐樹からの鍵は、実家で母が受け取った。


 返送の礼を送った後、そのメールのやり取りも終わらせた。新しい連絡は来ていない。


 好きになった人が、何もかも嘘だったとは思わない。


 雨の夜、迎えに来てくれたのは嬉しかった。助手席の温かさも、コンビニのお茶も覚えている。


 その後、迎えを断ることが難しくなったとき、あの夜のことを何度も思い出した。


 あんなに優しくしてくれたのに、自分は薄情なのではないか。


 何か嫌だと思うたびに、先にその考えが浮かんだ。


 最後に部屋へ行った日も、姉に下で待っていてほしいと頼むことを迷った。大げさだと思われそうだったし、祐樹が知ったら傷つくだろうと思った。


 姉は、じゃあ近くでお茶を飲んでいると言った。


『九時までには出られると思う』

『分かった。九時十五分になっても出てこなかったら電話するね』


 電話が鳴ったとき、ようやく帰れると思った。


 荷物を持ってエレベーターを降りると、姉が入口にいた。


 泣いている美緒を見ても、何があったかと急かさなかった。紙袋を一つ受け取り、車へ歩いた。


 乗ってから、美緒は謝った。


『待たせてごめん』


 姉はシートベルトを締めながら、言った。


『お腹すいた?』


 その言葉で、昼から何も食べていないことに気づいた。


 美緒が頷くと、姉は帰り道のうどん屋へ寄った。


 何を話したかは、あまり覚えていない。ただ、うどんが熱くて、少しずつしか食べられなかった。


 姉は先に食べ終えたけれど、スマホを見ながら待っていてくれた。



「美緒、冷めちゃうよ」


 呼ばれて、顔を上げる。


 同僚が、取り皿に揚げたての春巻きを載せてくれた。


「ありがとう」


 スマホを鞄へしまった。


 春巻きの端を箸で割ると、湯気が上がった。美緒は少し待ってから、小さく一口食べた。


 向かいの同僚はもう食べ終えて、メニューを見ている。


「追加どうする? まだ食べられる?」


 美緒は壁の時計を見た。


 九時には、まだ少しあった。明日は休みだ。


 誰に何を送るか考えかけて、そのまま目を戻した。


「うん。私も、もう少し食べたい」


 差し出されたメニューを受け取る。


 料理の写真が、端から端まで並んでいた。


~完~

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