「彼女が重い」と親友に相談したら、俺の話を聞くほど味方してくれなくなった
美緒の名前を、昨夜から何度も画面の上で押していた。
丸いアイコンの中で、美緒は海を背景に笑っている。撮ったのは俺だった。去年の夏、日焼けを気にして帽子を脱ぎたがらなかったのを、せっかくだからと説得した。
まだその写真を使っている。
だから、今朝のメッセージも本気ではないと思った。
「彼女がさ、最近ちょっと重くて」
向かいに座った拓真が、メニューから顔を上げた。
「美緒さん?」
「そう。他にいないだろ」
「いや、何かあったのかと思って」
いわゆるメンヘラというやつなのだろうか。付き合い始めた頃は、そんなふうに思ったこともなかった。
土曜日のファミレスは家族連れで混んでいた。隣の席では、小さな子供がフライドポテトを一本ずつ並べている。
長谷川拓真とは大学からの付き合いだ。二十九歳にもなって恋愛相談で呼び出すのは格好が悪かったが、こいつなら美緒とも面識がある。俺一人で抱えるより、間に入ってもらったほうが早い。
「昨日、うちの玄関で泣かれてさ」
「喧嘩?」
「別れるとか何とか。ちゃんと話そうって言ってるのに、泣くだけで。隣の部屋にも聞こえるだろ。ほんと勘弁してほしい」
拓真はメニューを閉じた。
「何で別れるって?」
「疲れたんだと」
「何に」
「俺に、じゃない? 仕事も忙しいみたいだし、余裕がないんだろ」
美緒は小さなメーカーで営業事務をしている。繁忙期には残業もある。俺だって住宅設備の営業で客先を回っているのだから、忙しいのはお互いさまだった。
「俺も別に、毎日会えって言ってるわけじゃないんだよ。なのに、急に全部嫌になったみたいな言い方するから」
注文用の端末を拓真に渡し、スマホの画面を開いた。
「見て、これ。今朝」
画面を向ける。
『今後、電話やメッセージは送らないでください。鍵のことは先ほど送ったとおりにお願いします』
拓真はすぐには何も言わなかった。
「極端だろ。昨日まで普通に話してたのに」
「昨日は泣いてたんじゃないのか」
「いや、その前。それまでは普通だったってこと」
拓真の指が、画面に触れない距離で止まった。
「この上、昨日も伝えましたが、ってあるけど」
「何回も同じこと言うんだよ。だから困ってる」
俺はスマホを引き取った。
昨夜から送ったメッセージには、途中まで既読がついている。今朝の返事の後に送ったものには、まだ何もつかなかった。
『一回落ち着いてから話そう』
『そんな言い方しなくてもよくない?』
『心配してるだけなんだけど』
俺なりに、言葉は選んだつもりだった。
「前からこういう感じだったか?」
拓真に聞かれ、俺は首を振った。
「最初は全然。むしろ、すごく素直だった」
美緒と知り合ったのは、共通の知人が開いた食事会だった。
六人で入ったイタリアンの店で、彼女はピザを取り分けようとして、伸びるチーズをなかなか切れずにいた。俺が皿を近づけると、ようやく切れて、その勢いで小さく笑った。
「すみません、欲張りました」
肩の力の抜けた笑い方だった。
その場にいた誰かが、仕事の愚痴を延々と話していた。美緒は相づちを打ちながらも、ほとんど手をつけられていない料理に気づいて、さりげなく皿を回した。
感じのいい子だと思った。
二人で初めて会った日は、美緒が行きたがっていた水族館に行った。クラゲの水槽の前に長く立っていたので、そんなに好きなのかと聞いた。
「好き。でも、祐樹さん退屈だったら次行こう」
「いいよ。ゆっくり見なよ」
そう言うと、美緒は嬉しそうに水槽へ向き直った。
付き合い始めて二か月ほど経った夜、雨がひどく降った。
残業を終えた美緒から、駅に着いたと連絡が来た。俺はまだ起きていたし、車なら十五分だったので迎えに行った。
助手席に乗った彼女は、濡れた傘を足元に置き、何度も礼を言った。
「ごめんね、急に」
「俺が行くって言ったんだから、謝らなくていいって」
暖房を上げてやると、美緒が手を吹き出し口へかざした。
「会えると思ってなかったから、嬉しい」
その言葉は、よく覚えている。
コンビニで温かいお茶を買って、美緒のアパートの前でしばらく話した。窓が曇るくらい、どうでもいい話をした。
俺はああいう時間が好きだった。
それから、仕事が終わる時刻を聞くようになった。近くにいる日なら迎えに行けるし、疲れている日には飯くらい一緒に食える。
ただ、美緒はそういうことを遠慮する。
『今日は同じ課の人たちとご飯に行くことになった』
ある日、終業時刻を過ぎてからそんな連絡が来た。
『もう車出したんだけど』
そう返した。
実際には、まだ部屋にいた。だが、着替えは済んでいたし、車の鍵も持っていた。出る直前だったのだから、大して違わない。
少しして、美緒から電話が来た。
『迎え、頼んでないよね?』
『うん。でも今日六時までって言ってたじゃん』
『それは、仕事が何時までか聞かれたから』
言い方が冷たく聞こえた。
『分かった。じゃあ戻るわ』
『祐樹、まだ近くだったりする?』
『何で』
『ご飯、断るから』
その晩、美緒は助手席で少し黙っていた。
同僚に悪いことをしたと思っているのだろうと、俺は気を遣って明るく話した。美緒が好きなハンバーグの店に連れていき、食後にはデザートも頼んだ。
帰り際には笑っていた。
だから、それで済んだ話だった。
「迎えに行ったのに断られたとか、そういうのもあってさ」
俺は水のグラスを置いた。
「迎えを頼まれてたのか?」
「頼まれてなくても、喜ぶかなと思うだろ」
「うん。で、断られたら?」
「別に怒ってないよ。ちょっと残念ってだけ」
拓真は、届いた料理を店員から受け取った。俺の前にはチーズハンバーグ、こいつの前には生姜焼きが置かれた。
話しているうちに腹が減っていた。
「付き合って二年以上だぞ。仕事が終わったかどうかくらい、連絡くれてもよくない? 昼に送ったものが夕方まで返ってこないとか、最近そういうのも多くて」
「仕事中だろ」
「でも休憩あるじゃん」
ハンバーグを切ると、中からチーズが流れ出た。美緒は熱いものを食べるのが遅い。俺が食べ終えてからも、いつも小さく切り分けていた。
「昼休み終わるちょっと前に送っただけなのに、ずっと未読なんだよ」
「何時に送った?」
「一時前」
「夕方って?」
「三時くらい」
拓真の箸が止まった。
「二時間?」
「二時間あったら一回くらい見られるだろ」
何がおかしいのか分からず、俺はスマホを開いた。口で言うより早い。
木曜日のやり取りまで戻す。
『土曜どうする?』
最初は、それだけだった。
『この前の映画、まだやってるって』
『美緒?』
『忙しい?』
その下に、応答のなかった通話の履歴が並んでいる。
「ほら、土曜の予定を決めようとしてただけ」
拓真は、俺が指で隠していた下の部分を見た。
「これ、何件送ったんだ?」
「数えてない」
「一回電話して、出なかったら待たないか」
「何かあったかもしれないだろ」
「会社にいるって分かってるのに?」
俺は画面を自分のほうに向けた。
メッセージは二十件を超えていた。途中で、通話も四回かけている。
だが、それは結果だ。
「一言、忙しいって返せば終わる話なんだよ」
仕事から戻ってパソコンを開くときも、取引先からのメールが溜まっていれば面倒になる。一件ずつすぐに返せば、そんなことにはならない。
美緒だって、俺の連絡に気づいた時点で答えればいい。
「土曜の映画なら、仕事が終わるまで待てないか?」
俺はフォークを置いた。
「何だよ。俺が細かいって言いたいの?」
「何でそんなに送ったのか聞いてる」
「返さないからだって」
拓真は何も言わず、味噌汁を一口飲んだ。
大学の頃から、こいつはたまにこういう顔をする。大事な話でも、すぐには頷かない。こっちが説明を続けなければならなくなる。
「しかも、その日の夜には返せるんだぞ。仕事中は全然なのに」
「仕事が終わったからだろ」
「そういうことじゃなくてさ」
木曜日の夜、美緒から来たのは、土曜日の映画の返事ではなかった。
『土曜は会いません。先週伝えたことは変わりません。明日の夜、置いてある荷物を取りに行きます』
映画が嫌なら、別の場所でもよかったのに。
俺はスマホを伏せた。
「でもさ、あっちだって連絡しつこいときあるんだぞ」
冷めかけたハンバーグを、もう一口食べる。
「何回も電話してきたり。俺がちょっと黙ってるだけで、怒ってる、怒ってるって」
「怒ってたのか?」
「毎回じゃない」
拓真が箸を置いたので、俺は付け足した。
「機嫌悪いときくらいあるだろ、誰だって。そういうときに、しつこく聞いてくるんだよ。放っておけばいいのに」
「何で機嫌悪くなった?」
「いろいろだよ」
先月、美緒が会社の飲み会へ行った。
金曜日で、俺は翌日も仕事だった。美緒に予定を聞いたのは水曜日の夜だ。その時点では、まだ飲み会の人数も決まっていなかったらしい。
『男性もいるの?』
『同じ部署の人たちだから、いるよ』
それを聞いて、俺はできれば行ってほしくないと伝えた。
美緒は困った声を出した。
『送別会なんだよ。お世話になった人の』
『別に、絶対行くなとは言ってないじゃん』
『うん。でも、行ったら怒るよね』
『怒らないよ。美緒が決めれば』
ちゃんと、任せた。
それでも美緒は何度も、本当に大丈夫かと聞いた。
「で、行ったのか?」
拓真に聞かれ、俺は頷いた。
「二次会には行かないって言ってたのに、店を出た後も、なかなか帰ったって連絡なくて」
「どのくらい?」
「三十分くらい。駅でみんなと話してたって」
駅で話すくらいなら、一次会の店で済ませればいい。俺は翌朝が早かったのに、眠れずに待っていた。
「帰ったって連絡は来た?」
「来たよ。その後、俺が返さなかったら電話」
「お前は、その前に何か送ったか?」
俺は記憶を辿った。
あの夜は、布団に入っても眠れなかった。美緒が帰るまでは起きていようと思っていた。時刻を見るたび、腹が立った。
『楽しそうでよかったね』
確か、そう送った。
その前には何と書いたか。
『男の人とそんなに話したいんだ』
その前にもあった。
『もう俺のことどうでもいいんだな』
拓真に話すと、こいつは顔をしかめた。
「それ送ってから、電話を無視したのか」
「無視っていうか、話す気にならなくて」
「彼女がお前をどうでもいいと思ってるって、どこでそうなるんだ?」
「嫌だって伝えてたんだぞ。それでも行ったんだから、そう思うだろ」
美緒は、送別会の途中で料理の写真を送ってきた。俺が誰といるか分からないと言ったから、参加者の集合写真も送ってくれた。
それで安心すればよかったのだろうか。
写真の端には、美緒と同じくらいの年の男がいた。仕事の話で頼りになると、前に名前を聞いたことがある。その男の隣には一人分の空席があった。
美緒が写真を撮るために立った場所だと思った。
「席のこととかさ、嫌な気分になることもあって」
「席?」
「いや、それはもういいけど」
俺はドリンクバーへ立った。拓真の返事を待たず、空いたグラスを二つ持っていく。
氷の落ちる音がやけに大きかった。
俺は、飲み会そのものを禁止したわけではない。せめて心配をかけないようにしてほしかっただけだ。
美緒は結局、家に着いてからも何度か電話をかけてきた。俺が翌朝まで返信しなかったら、長い謝罪が届いた。
『心配させてごめん。ちゃんと帰ってるよ。明日の仕事、気をつけてね』
自分でも悪かったと思ったのだ。
その日からしばらく、美緒は帰宅すると必ず連絡をくれた。俺はそれで十分だった。気をつければできることなのだから、ずっとそうしてくれればよかった。
席に戻ると、拓真はスマホを見ていた。
「何?」
「先月、俺と飲んだ日って、お前、美緒さんに連絡してたか」
俺は笑った。
「何でそれと一緒にするんだよ。お前と二人だったじゃん」
「途中で隣の席の人たちと話したろ。女の人もいた」
「たまたまだろ。あれは」
スポーツ中継を流している店で、隣のグループと好きなチームが同じだった。それだけだ。連絡先を交換したわけでもない。
「美緒さんは知ってる?」
「言う必要ある? 何もなかったんだから」
「俺たち、結構遅くまで飲んだよな」
「久しぶりだったし」
「帰りの電車で、美緒さんに帰宅の連絡を頼まれたって言ってたろ」
テーブルへ置こうとしたグラスの底が、少し強く当たった。
「俺は浮気とかしないから」
「美緒さんはするのか?」
「してないと思うよ。でも、絶対なんて分からないだろ」
拓真は、差し出したグラスをすぐには受け取らなかった。
「飲んでる間、美緒さんとは何てやり取りした?」
「男二人で飲んでるんだから大丈夫だよって」
「それで、美緒さんは何て?」
「楽しんできて、って」
思い出すと、少し寂しくなった。
美緒はあの夜、俺を責めなかった。帰ったら教えてねと一度送ってきただけだった。返事は後でいいと思い、帰宅した頃にはもう寝ているだろうと、結局返さなかった。
翌朝、寝落ちしたと送ったら、美緒はスタンプを一つ返した。
いつも使っていた、眠そうな猫のスタンプだった。
「美緒さん、お前と同じことしてないじゃん」
拓真が言った。
俺は椅子の背にもたれた。
「あっちは、俺に心配かけられてないからだろ」
拓真は困ったように眉を寄せた。
「帰ったって返さなかったんだろ?」
そんな小さなことまで、今ここで責められなければならないのか。
皿が下げられて、テーブルの真ん中が空いた。
隣の家族連れもいなくなっていた。ポテトを並べていた子供の席に、清掃用の布巾が走る。
拓真は俺のスマホを指さした。
「さっきの、鍵って何だ?」
「美緒の部屋の合鍵」
「返せって?」
「そう。郵送でいいからって。冷たくない?」
合鍵をもらったのは、去年の冬だった。
美緒が熱を出したとき、頼まれた飲み物や食べ物を買って届けた。玄関まで出てくるのもつらそうだったので、その後、何かあったら使ってと渡された。
俺の部屋の鍵は渡していない。美緒は予告なしに来ることがないし、必要になったこともなかった。
「何かあったときのためだったんだけどな。もう要らないって言われてるみたいでさ」
「荷物は全部片づいたのか?」
「昨日、あいつの分は持って帰った」
「昨日って、泣いた日?」
俺は頷いた。
「服とか、洗面所のものとか。あっという間に袋に入れてさ。こういうときだけ手際がいいんだよ」
「待って。昨日、荷物を取りに来たのか」
「そう言ってたけど」
「お前は、別れる話をいつされた?」
俺は、テーブルの隅に置いた伝票を裏返した。
「先週の土曜」
拓真が、息を吐いた。
「一週間前?」
「そのときも言ったんだよ。いったん落ち着こうって」
美緒は、先週も俺の部屋へ来た。
いつものように泊まると思っていたので、俺は夕飯の材料を買っておいた。作るのは美緒でも、買い物くらいはしている。
けれど美緒は、上着を脱がなかった。
『別れたい』
玄関から入ってすぐ、そう言った。
俺は笑ってしまった。笑う話ではないと分かったが、仕事で疲れているのだと思った。最近あまり会えなかったことも、関係しているのだろう。
『今日、何かあった?』
『今日だけのことじゃないよ』
美緒は、鞄の持ち手を両手で握っていた。
『返事ができないだけで、怒ってないか考えるのに疲れた。誰と何をしたか、どこまで説明したら安心してもらえるかって、ずっと考えてる』
『それ、普通に連絡くれればいい話じゃん』
『連絡しても、写真を送っても、足りないでしょう』
俺は冷蔵庫を開けた。話しながらでも、食事の準備はできる。
『今日、鍋でいい?』
『祐樹、聞いて』
『聞いてるよ。だから、ちゃんと飯食ってから話そうって』
豆腐を取り出したところで、美緒が泣きそうな顔になった。
どうして、そこまで思い詰めるのか分からなかった。
俺は、美緒が忙しいときには迎えにも行くし、熱を出せば買い物もする。外で食べるときは少し多めに払う。誕生日も記念日も、忘れたことはない。
そう伝えると、美緒は、全部嬉しかったと答えた。
『じゃあ、何で?』
『嬉しかったことがなくなるわけじゃない。でも、もう付き合えない』
美緒は何も食べずに帰った。
俺は一人分だけ鍋を作り、残った材料を翌日も食べた。こんなことになっても生活は続くのだと、あのときは自分が少し大人になった気がした。
月曜日には、おはようと送った。
美緒から返事がなかったので、夜にも送った。
『土曜のことだけど、まだ怒ってる?』
返ってきたのは、怒っていない、別れると伝えたとおりだ、という短い文章だった。
「じゃあ、昨日が初めてじゃないんだな」
拓真の声で、顔を上げた。
「だから、先週もそういう話になったって言っただろ」
「別れるって言われたんだろ」
「俺は納得してないよ」
拓真の唇が、一度閉じた。
注文用の端末が、季節のデザートを勧めていた。美緒が食べたがっていた栗のパフェだった。
先週、一緒に食べに来ようと思っていた。
「昨日、玄関で泣いたっていうのは、どういう状況だった?」
拓真は、まだ聞いてきた。
「帰るって言うから、もう少し話そうって」
「何時頃?」
「九時過ぎ」
美緒は八時半に来た。紙袋を二つ持っていた。
洗面台の歯ブラシ、棚に入れた化粧水、引き出しの下着。順番に袋へ入れるのを、俺はソファから見ていた。
戸棚を開けると、美緒は少しだけ手を止めた。
白いマグカップが二つ並んでいる。持ち手の形が微妙に違って、重ねられないやつだった。
旅行先の雑貨屋で、美緒が見つけた。
『これ、かわいいね』
俺には普通のカップに見えたが、二つ買った。美緒は使うたび、飲み口がちょうどいいと言っていた。
『それ、どうする?』
俺が聞くと、美緒は戸棚を閉めた。
『置いていく。処分してくれていいから』
腹が立った。
自分が欲しがったものなのに、要らなくなれば捨てていいらしい。
『思い出とか、何もないんだな』
美緒は答えなかった。
袋を持ち、玄関で靴を履いた。俺も立ち上がった。
『祐樹、そこ、通して』
『待てよ。何でそんなに急ぐんだよ』
『姉が下で待ってるから』
姉まで呼んでいると聞いて、俺は余計に落ち着かなくなった。
姉には二度会ったことがある。美緒と顔は似ていたが、物の言い方ははっきりしていた。俺が美緒はすぐ謝ると笑ったときも、何があったのかと聞いてきた。
美緒はきっと、姉にも自分の言い分だけ話している。
『二年も付き合ったのに、それで終わり?』
『先週も話したよ』
『俺の話、全然聞いてないじゃん』
俺は玄関のドアに背を向けていた。美緒は上がり框のところで、紙袋を持ち直した。
『明日の夜でもいいから、ちゃんと時間取って』
『もう会わない』
『何でそうなるんだよ』
美緒の目から涙が落ちた。
俺はため息をついた。
『また泣く。泣かれたら、何も言えなくなるだろ』
彼女は声を上げて泣いていたわけではなかった。唇を強く結んで、何度も息を吸っていた。
俺も言いすぎたかと思い、落ち着くように言った。中へ戻って、水でも飲めばいい。
けれど美緒は、帰らせて、と繰り返した。
「どのくらい、そこに立ってたんだ?」
拓真が聞いた。
「十分とか、それくらい」
「通してって言われたんだろ」
「別に、つかんだりしてないぞ」
そこは、はっきりさせておきたかった。
「鍵も開いてたし。帰ろうと思えば帰れたよ」
「お前がドアの前にいたんだろ?」
「だから、話してたんだって」
拓真は眉間を指で押さえた。
「帰りたいって言ってる人に、まだ話せって?」
「二年三か月だぞ。十分で終わらせられるかよ」
「荷物を取りに来る前にも話したんだろ」
そうだが、俺の言ったことは何も伝わっていない。
別れたいという結論を変えないのだから、話は終わっていなかった。
「それで、どうやって帰ったんだ?」
「姉から電話が来て。それで俺がどいたから」
美緒は通話に出ると、ほとんど言葉にならない声で、今行く、と答えた。
俺が横へ寄ると、ドアを開けた。紙袋がドアの端に擦れて、がさりと音を立てた。
もう片方を持ってやろうとしたら、美緒は袋を胸のほうへ引いた。
『大丈夫』
その声だけは、はっきりしていた。
「昨日だって、美緒は俺のことが嫌いになったわけじゃないって言ったんだよ」
拓真が黙ったままなので、俺は続けた。
「楽しかったこともあるって。水族館とか、旅行とかさ。じゃあ、やり直せるだろ」
「その後は?」
「何が」
「その後に、何て言われた?」
思い出すまでもなかった。
『でも、もう付き合えない』
先週も昨日も、似たような言い方をした。
「今は無理ってことだろ」
「今はって、美緒さんが言ったのか?」
俺は答えなかった。
拓真がグラスを持ち上げた。氷はほとんど溶けていた。
「祐樹。今日、俺に何を頼みたいんだ?」
ようやく、その話になった。
「美緒に連絡してくれない?」
拓真は、グラスを置いた。
「今朝から既読つかなくてさ。ブロックされたっぽいんだよね。お前から、ちょっと落ち着いてって言ってくれれば」
「それはできない」
即答だった。
「一回ちゃんと話すように言ってくれるだけでいいから」
「話したって聞いたぞ」
俺は椅子の上で座り直した。
「お前まで何なの。あいつの味方?」
「連絡するなって言われてるのに、俺から送ったら同じだろ」
「俺から送れないから頼んでるんだよ」
拓真が俺を見た。
怒っているというより、何か言おうとして、言い方を選んでいる顔だった。
「美緒さんは、お前に連絡されたくないんだと思う」
「今はな」
「今はって、お前がつけてるだけじゃん」
少し大きな声が出そうになって、俺は抑えた。ここは店だ。周りには、他の客もいる。
「美緒って、俺がいないと駄目なところあるんだよ。何かあるとすぐ泣くし、すぐ謝るし。こういうの、分かんないだろ」
「お前がいないところでも、仕事して暮らしてるだろ」
「そういう意味じゃない」
美緒が駅まで迎えに来てくれた日もある。俺が仕事で失敗した夜、遅くまで話を聞いてくれた。俺の両親への手土産を選ぶのは、いつも彼女だった。
俺がいないと駄目というのは、そういうことを忘れているわけではない。
美緒は、俺にどう思われるかを気にしていた。俺の顔色を見て、予定を変えた。俺から電話が来れば、出てくれた。
それを全部やめて、平気でいられるとは思えなかった。
「こういう子ってさ、突き放したら余計ひどくなるっていうか」
「突き放されたの、お前のほうじゃないのか」
言葉が出なかった。
拓真は、俺のスマホに目を落とした。
「最初、彼女が重いって言ったよな」
「実際そうだろ。連絡返さないと怒ってるか聞いてくるし」
「別れたのに連絡してるのは、お前だろ」
隣の席で、店員が椅子を戻した。
床を擦る音が長く聞こえた。
「だから、俺はまだ――」
「納得してないってのは聞いた。でも、美緒さんは別れるって言ったんだろ」
拓真は続けようとして、一度口を閉じた。
それから、少し声を落とした。
「俺も、先月の飲み会で、お前が彼女の帰り遅いのが嫌だって話したとき、そういうのあるよなって言った。けど、写真を送らせたり、返事が来るまで何回も電話したりしてるとは思わなかった」
「心配だったんだって」
「うん。それは分かった。でも、俺から連絡はしない」
譲る気がないらしかった。
俺は画面を開き、美緒とのやり取りを見た。
最後に美緒が送ってきたのは、午前九時十二分。
俺がそれに返したのは九時十三分だった。
十三分、十五分、十九分、二十一分。
スクロールすると、似たような時刻が続いていた。
返事は、一つも来ていなかった。
「鍵だけは返さないといけないんだよ」
俺は言った。
「それは返せよ」
「会わないと返せないだろ」
「郵送してって言われたんじゃなかったか」
確かに、そう書いてある。
俺は今朝のメッセージを、上から読み直した。
『昨日も伝えましたが、別れます。これ以上会って話すつもりはありません』
その下に、鍵の返送方法がある。
受け取りに署名の要る方法で、小箱などに入れて郵送してほしい。宛先は、俺も知っている美緒の実家だった。
今は姉の家にいるが、返送先は実家にしてほしいと書かれている。
そこまでして、俺を部屋に近づけたくないのかと思った。
発送したら、追跡番号だけメールしてほしい。アドレスは、以前から美緒が使っているものだ。通販の予約確認を転送してくれたことがある。
『今後、電話やメッセージは送らないでください。鍵のことは先ほど送ったとおりにお願いします』
俺は、その最後の部分だけを拓真に見せていた。
「メールはできるんだ」
拓真が俺の顔を見た。
「発送したら、番号を送るためだろ」
「分かってるよ」
メールを開く。
件名は、鍵について、とした。
『鍵は直接返す。最後くらい会って話そう』
そこまで打ってから、少し考えた。
謝罪も入れたほうがいい。
『俺も心配しすぎたところはあると思ってる。拓真にも相談してるし、落ち着いて話せるから』
送信する。
「何、送った?」
拓真に聞かれ、画面を向けた。
「謝ったよ。これならいいだろ」
拓真は文面を読み、目を閉じた。
「俺も相談に乗ってるって、そういう使い方するなよ」
「名前出しただけじゃん」
「俺がお前と一緒に、会って話せって言ってるみたいになるだろ」
そんなつもりはなかった。
だが、友達にも相談していると分かれば、美緒も少しは安心すると思ったのだ。俺が一人で暴走しているわけではないと。
拓真は自分のスマホを伏せたまま、俺の画面を見ていた。
「それ、訂正してくれ。俺は会うように言ってないって」
「そこまでする?」
「する。名前を使われたから」
俺は息を吐き、もう一通送った。
『拓真が会うように言っているわけではありません。そこは俺の考えです』
急に他人行儀な文面になった。
こんなやり取りを美緒に見せたかったわけではなかった。
メールの返事は、拓真が追加で頼んだコーヒーを飲んでいる間に来た。
俺は通知が出た瞬間に開いた。
『直接は会いません。鍵は郵送してください。別れることについて、これ以上話し合うつもりはありません。発送の連絡以外には返信しません』
画面を眺めていると、拓真が聞いた。
「何だって?」
黙って見せた。
読み終えた拓真がスマホを返す。
「言われたとおりにしよう」
「二年付き合った相手に、これだけ?」
俺は画面を指で叩いた。
「俺、謝ってるんだけど。だったら、向こうも少しはさ」
「何を言ってほしいんだ」
「せめて、分かったとか。私もごめんとか」
美緒はいつも、最後にはそう言った。
俺が怒りすぎたと認めれば、自分も悪かったと謝った。そんなことないよ、と言ってくれたこともある。そこでようやく、俺も悪かったなと素直に思えた。
今のメールには、それがなかった。
「もう一回、ちゃんと説明してくれればいいのに」
拓真は、コーヒーカップを受け皿へ戻した。
「これ以上、何を説明してもらうんだよ」
低い声だった。
俺は返信欄を開いた。
『だから、その態度が』
そこまで打つと、拓真が言った。
「それ、発送の連絡か?」
指が止まる。
見られている前で送れば、また何か言われる。俺は書きかけの文章を消し、スマホをポケットへしまった。
「分かったよ。返す」
拓真は頷いたが、よかったなとも、大変だったなとも言わなかった。
会計は別々だった。
店の外へ出ると、思っていたよりも日が傾いていた。
「悪かったな、休みの日に」
「うん」
拓真は車の鍵を取り出しかけて、俺を見た。
「鍵は、返したらそれで終わりにしろよ。俺の名前出して、また何か送ったりするなよ」
「分かったって」
俺は少し笑った。真面目な顔のまま言われると、こっちまで悪いことをしたみたいになる。
だが拓真は、笑わなかった。
帰りに、郵便を送るための小さな箱と緩衝材を買った。
美緒の鍵は、普段使うキーケースの中にある。
外そうとすると、小さな金属の輪が硬かった。爪を差し込んで、少しずつ回す。こんなものをどうして美緒は簡単に付けられたのだろう。
渡された日、彼女は俺のキーケースを借り、その場で付けてくれた。
『なくさないでね』
笑っていた。
ようやく外れた鍵を、手のひらに置いた。
これを持って美緒のアパートへ行けば、会えるのだろうか。
今は姉の家にいると書いてあった。部屋に入って待っていたら、帰ってくるかもしれない。
そこまで考えて、俺はスマホを見た。
拓真に言ったら、どういう顔をするかは分かった。
鍵を緩衝材で包み、小箱へ入れた。
手紙を一緒に入れようとして、便箋がないことに気づく。買いに戻るほどではなかった。
代わりに、白い紙を一枚取り出した。
『落ち着いたら連絡ください』
書いてから、紙を裏返した。
美緒はこの一週間、同じ話ばかりしていた。先週の土曜日も、月曜日も、木曜日も、昨日も、今日も。
俺はそのたびに、落ち着いたら、と言っていた。
紙を二つ折りにした。
入れても入れなくても、今は返事が来ない気がした。
そのままゴミ箱へ落とした。
日曜日の午前中、休日も窓口が開いている郵便局へ行って発送した。
小箱を窓口へ出すと、中身を確認され、鍵ですと答えた。係の人は事務的に頷いた。
受領証の番号をメールへ打ち込む。
『鍵を送りました』
その下に番号を書いた。
ほかにも何か付けようと思ったが、窓口の脇で長く立ち止まっているのも変だったので、そのまま送った。
返事は来なかった。
月曜日の夜、追跡画面が配達済みに変わっていた。
それから少しして、美緒からメールが届いた。
『鍵を受け取りました。返送ありがとうございました』
俺は文面を何度か読んだ。
もう一行くらいあってもいいと思った。
今までありがとう、とか。
二年三か月を終わらせる言葉が、返送ありがとうございました、だけなのはおかしい。
返信を押しかけて、やめた。
今までありがとうは、最初に別れを告げられた日、美緒が帰る前に言っていた。
俺は、その後にも話を続けた。
火曜日の夜は、洗濯機を回した。
待っている間にコンビニへ行くと、美緒が好きだったプリンが売られていた。二つ買おうとして、一つだけにした。
部屋へ戻ると、洗濯はとっくに終わっていた。
干してからソファに座り、スマホを開く。
美緒のアイコンは変わっていなかった。
俺が撮った海辺の写真を、まだ使っている。
なら、と一瞬思った。
けれど、拓真に言ったら、写真一枚で何が分かるんだと返される気がした。
スマホを置く。
十分ほどして、また持った。
誰とも喋っていないと、夜はこんなに長いのか。
美緒はいつも何時に帰っていたのだろう。俺の連絡がない夜に、何をしていたのだろう。
テレビをつけたが、何も頭に入らなかった。
拓真に何か送ろうと思って、やめた。別の友達なら、もう少し分かってくれるかもしれない。
連絡先を開き、大学時代の友達の名前を探す。
『ちょっと彼女のことで相談したいんだけど』
そこまで打ってから、「彼女」の二文字を消した。
打ち直す言葉がなかなか決まらず、俺は画面を閉じた。
*
三週間後の金曜日、美緒は会社の近くの店にいた。
テーブルには三人分の小皿と、大きなサラダの皿が載っている。同じ課の女性二人が、来月から始まる社内システムの切り替えについて話していた。
「説明会、分かった?」
「最初の五分だけ」
「私も。あの資料、百枚あるんだって」
美緒が笑うと、向かいの同僚も笑った。
この店に来るのは半年ぶりだった。
以前は自分から誘ったこともあったが、いつの間にか、帰りの時刻を先に考えるようになった。誘われても、今日は用事があるから、と断っていた。
用事の中身を聞かれたことはない。
だから今日、久しぶりにご飯に行かないかと言ったときも、二人は空いていると答えただけだった。
美緒は鞄の中のスマホに手を伸ばした。
画面をつける。八時四十分。
姉から、日曜日に貸した上着を取りに行ってもいいかと連絡が来ていた。
『大丈夫。洗っておいたよ』
返すと、すぐに、ありがとう、と届いた。
美緒は少し待った。
その後には何も来なかった。
姉の家に泊めてもらっていたのは、四日間だった。管理会社を通して玄関の鍵を交換し、それから自分の部屋へ戻った。
祐樹からの鍵は、実家で母が受け取った。
返送の礼を送った後、そのメールのやり取りも終わらせた。新しい連絡は来ていない。
好きになった人が、何もかも嘘だったとは思わない。
雨の夜、迎えに来てくれたのは嬉しかった。助手席の温かさも、コンビニのお茶も覚えている。
その後、迎えを断ることが難しくなったとき、あの夜のことを何度も思い出した。
あんなに優しくしてくれたのに、自分は薄情なのではないか。
何か嫌だと思うたびに、先にその考えが浮かんだ。
最後に部屋へ行った日も、姉に下で待っていてほしいと頼むことを迷った。大げさだと思われそうだったし、祐樹が知ったら傷つくだろうと思った。
姉は、じゃあ近くでお茶を飲んでいると言った。
『九時までには出られると思う』
『分かった。九時十五分になっても出てこなかったら電話するね』
電話が鳴ったとき、ようやく帰れると思った。
荷物を持ってエレベーターを降りると、姉が入口にいた。
泣いている美緒を見ても、何があったかと急かさなかった。紙袋を一つ受け取り、車へ歩いた。
乗ってから、美緒は謝った。
『待たせてごめん』
姉はシートベルトを締めながら、言った。
『お腹すいた?』
その言葉で、昼から何も食べていないことに気づいた。
美緒が頷くと、姉は帰り道のうどん屋へ寄った。
何を話したかは、あまり覚えていない。ただ、うどんが熱くて、少しずつしか食べられなかった。
姉は先に食べ終えたけれど、スマホを見ながら待っていてくれた。
「美緒、冷めちゃうよ」
呼ばれて、顔を上げる。
同僚が、取り皿に揚げたての春巻きを載せてくれた。
「ありがとう」
スマホを鞄へしまった。
春巻きの端を箸で割ると、湯気が上がった。美緒は少し待ってから、小さく一口食べた。
向かいの同僚はもう食べ終えて、メニューを見ている。
「追加どうする? まだ食べられる?」
美緒は壁の時計を見た。
九時には、まだ少しあった。明日は休みだ。
誰に何を送るか考えかけて、そのまま目を戻した。
「うん。私も、もう少し食べたい」
差し出されたメニューを受け取る。
料理の写真が、端から端まで並んでいた。
~完~




