鏡の向こうは出勤日
欠勤の連絡を入れたのは、夜の十時だった。
「明日、体調不良で休みます」
送信。
それだけで、少し楽になった。
明日は会社に行かなくていい。
湯気で曇った鏡。
ぼんやりと、自分の顔が映っている。
——ぬるり。
鏡の中で、何かが動いた。
見間違いじゃない。
鏡が、水みたいに揺れている。
そこから、手が出てきた。
白い手。
血の気がない。
まるで死体みたいな色。
その手が、俺の手首を掴んだ。
冷たい。
ありえないくらい冷たい。
振り払えない。
びくともしない。
引きずり込まれる。
鏡の中へ。
声はない。
でも、分かる。
「出勤しろ」
「……行く、行くから……!」
そう言った瞬間、手は離れた。
鏡は元に戻る。
その場に座り込む。
震えが止まらない。
理解した。
この会社は、休めない。
次の日。
普通に出社した。
ひとり、いなかった。
田中。
無断欠勤らしい。
誰も話題にしない。
上司も何も言わない。
ただ。
全員、少しだけ顔色が悪い。
数日後。
田中は「最初からいなかった」ことになった。
名簿にも、データにも残っていない。
俺は何も言えなかった。
あの手の感触が、まだ残っていたからだ。
やがて会社は倒産した。
理由は分からない。
ある日、突然終わった。
それ以来。
鏡から手は出てこない。
掴まれることもない。
命令もない。
——終わった。
そう思った。
その日の夜。
久しぶりに、ゆっくり風呂に入る。
鏡を拭く。
……何も映らない。
もう一度、拭く。
それでも。
映らない。
壁だけが見える。
俺だけが、どこにもいない。
理解した。
あのとき。
鏡に引き込まれかけた、あの瞬間。
——もう、終わっていた。
俺は、鏡に手を当てる。
次の瞬間。
鏡の奥から、手が出てきた。
白い手。
それは。
俺と同じ形をしていた。
……明日も、出勤日だ。




