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鏡の向こうは出勤日

作者: 長谷川誠
掲載日:2026/03/20

 欠勤の連絡を入れたのは、夜の十時だった。

 「明日、体調不良で休みます」

 送信。

 それだけで、少し楽になった。

 明日は会社に行かなくていい。

 

 湯気で曇った鏡。

 ぼんやりと、自分の顔が映っている。

 ——ぬるり。

 鏡の中で、何かが動いた。

 見間違いじゃない。

 鏡が、水みたいに揺れている。

 そこから、手が出てきた。

 白い手。

 血の気がない。

 まるで死体みたいな色。

 その手が、俺の手首を掴んだ。

 冷たい。

 ありえないくらい冷たい。

 振り払えない。

 びくともしない。

 引きずり込まれる。

 鏡の中へ。

 声はない。

 でも、分かる。

 「出勤しろ」

 「……行く、行くから……!」

 そう言った瞬間、手は離れた。

 鏡は元に戻る。

 その場に座り込む。

 震えが止まらない。

 理解した。

 この会社は、休めない。

 次の日。

 普通に出社した。

 ひとり、いなかった。

 田中。

 無断欠勤らしい。

 誰も話題にしない。

 上司も何も言わない。

 ただ。

 全員、少しだけ顔色が悪い。

 数日後。

 田中は「最初からいなかった」ことになった。

 名簿にも、データにも残っていない。

 俺は何も言えなかった。

 あの手の感触が、まだ残っていたからだ。

 やがて会社は倒産した。

 理由は分からない。

 ある日、突然終わった。

 それ以来。

 鏡から手は出てこない。

 掴まれることもない。

 命令もない。

 ——終わった。

 そう思った。

 その日の夜。

 久しぶりに、ゆっくり風呂に入る。

 鏡を拭く。

 ……何も映らない。

 もう一度、拭く。

 それでも。

 映らない。

 壁だけが見える。

 俺だけが、どこにもいない。

 理解した。

 あのとき。

 鏡に引き込まれかけた、あの瞬間。

 ——もう、終わっていた。

 俺は、鏡に手を当てる。

 次の瞬間。

 鏡の奥から、手が出てきた。

 白い手。

 それは。

 俺と同じ形をしていた。

 ……明日も、出勤日だ。

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