第9話 システムの逆襲
7週目 残り38日
覚醒者が増えてから、私は変わった.。
朝、廊下に人影はほとんどなかった。
セレナが校長室に呼び出された日の朝は、いつもより空気が重い。100回の経験則でそれが分かる。今日は何かが起きる。
廊下の角を曲がったところで、セレナは足を止めた。
レオンが窓際に立っていた。外を見ている。振り返らない。朝の光の中でその横顔はひどく静かで、まるで本人だけが別の時間軸にいるみたいだった。
「レオン様。……少しよろしいですか」
振り返らないまま声をかけてくるのは珍しい。セレナは立ち止まったまま、
「……なんでしょう」
と答えた。短く。余計なことは言わない。
レオンはそれでもしばらく窓の外を見ていた。それから、少しだけ首を傾けた。
「最近、君を見ると妙な感じがする」
セレナは息を吐かなかった。吐いたら何かが崩れる気がした。
「知っているのに、知らない、みたいな。……分からないな。上手く言えない」
(システムの干渉が来ない。来ない——レオン様の抵抗値が、また上がっている。)
100回分の蓄積が、今も無意識の底で彼の輪郭を変え続けている。断片的な映像。消えきれなかった記憶。それがレオンの言葉になって滲み出てくる。
セレナは静かに、しかし確実に心拍が速くなるのを感じた。
「……それはどういう意味ですか」
「私が聞きたい」
レオンがようやく振り返った。目が合う。100回死んできた相手の目だ。なのに今日はどこか違う。何かを探している目だ。
(危ない。でもこれは——これは偶然じゃない。)
言ってしまいたかった。全部。100回分の死を、100回分の彼の顔を、全部ここで話してしまいたかった。
でも今朝は呼び出しがある。ルークはまだ証拠の整理が終わっていない。エリオットの結界がまだ安定していない。順番がある。
「……いつか話せる日が来ると思います。今日はちょっと、急いでいて」
レオンは短く息をついた。
「そうか」
それだけだった。また窓の外に目を戻す。会話が終わった。
セレナは背中に視線を感じながら、廊下を歩き続けた。
(「いつか」——私はそれを必ず果たさなければならない。今日じゃないだけで、もう決まっている。)
校長室には父親がいた。
アルヴェイン公爵。セレナの父親。いつもより表情が固い。それがすでに答えだ。
校長が書類を広げる。セレナは椅子に座りながら、背筋だけは真っ直ぐ保った。
「セレナ・アルヴェイン嬢。複数の報告が我々のもとに届いています」
読み上げられた内容を、セレナは1語1語、静かに聞いた。
6週間かけて積み上げた善意の記録が、そこでは全て反転していた。
リリア・アーベントへの過剰な親切は裏に意図がある。庶民の令嬢に近づくのは彼女の評判を利用するためだ。「悪女」が「優しい令嬢」を演じているのは、断罪の日に向けた巧妙な罠だ——。
(……来た。これがシステムの次の手か。)
消すのではなく、反転させる。証拠を53点積んだところで、その意味ごと塗り替える。削除より、ずっと巧妙だ。ずっと残酷だ。
「リリア・アーベントとの接触を禁じます。これは強制です」
父が初めて口を開いた。
「セレナ。私は何も言いたくはない。ただ……お前が余計なことをして、立場を悪くするのが怖い」
その言葉は本物だった。心配している。本当に心配している。それが分かるから、セレナは怒れなかった。
「……分かりました」
承諾した。今は承諾するしかない。
廊下に出ると、ルークが壁に寄りかかって待っていた。
「聞こえていたか」
「大体は」
短い沈黙。
「証拠を反転させた。53点、全部」
「分かっている。……想定より早かったな」
ルークの声は低かったが、震えていなかった。セレナはそれに少し救われた。
「削除ではなく意味の書き換えだ。証拠を持っていても、意味が変わっていたら全て『悪意の証拠』になる。僕たちが積み上げたものが、全部逆方向に働く」
「……最悪の形で正解だったわね」
角を曲がったところで、エリオットが合流してきた。
「聞いていました。一つ確認していいですか」
「何」
「リリアさんとの接触禁止令——システムはセレナさんとリリアさんの関係を分断したかった。ということは今、システムの監視の目はその2人の間に集中しているはずです」
セレナとルークの視線が交わる。
「レオン様への監視が薄くなっている、ということか」
「可能性は高いと思います。今がよい機会かもしれません」
(今が機会。……朝の廊下。あの目。「いつか話せる日が来る」——その「いつか」が、今日なのかもしれない。)
昼休み、中庭でリリアが駆け寄ってきた。
「セレナ様、私——私が証言します。学院長先生のところへ行って、全部話す。セレナ様が親切にしてくださったのは本当のことで」
セレナはリリアの両手をそっと握って、止めた。
「駄目よ」
「でも」
「あなたが証言したら、『2人で結託している』と言われる。今は動かないで」
リリアの目が揺れた。
「……セレナ様のこと、私だけ守られてるみたいで、嫌です」
(あなたは十分戦っている。覚醒して、記憶を保持して、それだけでどれほど消耗するか——あなたには分かっていない。)
でもそれは言えない。今は。
「リリアさん。あなたにやってほしいことがある」
「……なんですか」
「今夜、旧校舎には来ないで。どんな音がしても、来ないで」
リリアの目が大きくなった。
「……何かするんですか」
「少し、動く」
それだけ言って、セレナは中庭を後にした。
訓練場の脇を通りかかったのは、偶然だった。
レオンが木剣の素振りをしている。午後の光の中で、1人で黙々と。その背中を一瞬だけ見て、セレナは足を止めた。
エリオットが横から現れた。書類を抱えて、訓練場を横切るところだった。
「エリオット。……君、最近セレナ・アルヴェインと一緒にいることが多いな」
レオンが木剣を止めずに言った。エリオットは足を緩めて振り返る。眼鏡の奥の目が一瞬細くなった。
「……そうですね」
「何かあるのか」
「レオン様は、何かあると思われますか」
問い返された。レオンは木剣を下ろし、少し考えた。
「……分からない。でもあいつ、何かを抱えている気がする。1人で、ずっと前から」
エリオットは一拍置いた。何かを言いかけて、やめた。
「そうかもしれません」
それだけ言い、また歩き出す。
(私が見ていたより、レオン様の感度は高い。今夜、判断が必要になるかもしれない。)
セレナは柱の陰からその様子を見ていた。2人の背中を交互に確認して、小さく息をつく。
(エリオットは気づいている。レオン様も——気づき始めている。あとは、順番だ。)
夜、母からの手紙が届いた。
封を開ける。几帳面な筆跡。アルヴェイン公爵夫人の文字だ。
セレナへ。
お父様から今日のことを聞きました。何があったか、お母様には分かりません。でも、あなたが大きな何かと戦っていることは分かります。諦めていないことも。
あなたが正しいことをしようとしているなら、お母様はあなたの味方です。たとえ理由が分からなくても。
愛を込めて。
セレナは手紙を畳み、しばらく膝の上に置いたまま動かなかった。
(100回分の母の顔が、重なる。処刑の朝も、この人は泣いていた。泣きながら、でも最後まで品を失わなかった。)
泣かなかった。泣く余裕があるなら、それを別のことに使う。でも胸の奥が少しだけ、静かになった。
机の上にルークの手帳がある。開くと最終ページに「レオン・ヴァレンティア」と書かれていて、横に小さく注記がある——「最重要。覚醒=ゲームチェンジャー」。
セレナはその下に一行書き加えた。
接触開始。明日から。
ペンを置いて、窓の外を見た。旧校舎の方角に、今夜も来客がある。
夜10時過ぎ。
レオンは窓から旧校舎の方を見ていた。灯りが見える。この時間、使用が許可されているはずのない場所に。
朝のセレナの言葉が反響する。
「いつか話せる日が来ると思います。今日はちょっと急いでいて」
(急いでいた。今日の夜だから、急いでいたんじゃないか。)
立ち上がり、剣帯を手に取った。
廊下に出た瞬間、向こうから足音が来た。エリオット・セレスティアだった。旧校舎の方向に向かって、速足で歩いていた。
「エリオット」
エリオットが振り返る。一瞬だけ——本当に一瞬だけ——何かを測るような顔をした。
「……レオン様。なぜここに」
「旧校舎に灯りが見えた。どこへ行かれる」
沈黙。
「……関係のないことです」
「セレナがいるか」
今度の沈黙は長かった。エリオットの眼鏡の奥で、何かが計算されていた。やがて、
「……もしレオン様が来られるとしたら。武器をお持ちください」
それだけ言って、エリオットは歩き出した。
レオンは手の中の剣帯を見下ろした。素早く腰に回す。廊下を歩き出す。
(朝、「いつか」と言った。今夜がその「いつか」なら——私が行かない理由がない。)
旧校舎に着いたとき、最初に分かったのは音だった。
ぶつかる音。叫ぶ声。何かが砕ける音。
エリオットが扉を押し開けた瞬間、中から白い靄のようなものが溢れ出した。人の形をしている。少なくとも3体。いや、5体。
レオンの目が一瞬で状況を把握した。
ルークが壁際で崩れている。動いていない。
リリアが——来てはいけないと言われていたはずのリリアが——両手に光を集めながら、しかしその光が揺れている。
ノアが3体に囲まれて後退している。
そしてセレナが、壁とエージェント1体の間に挟まれながら、まだ正面を向いていた。
(生きている。戦っている——一人で。)
レオンは考えるより先に踏み込んでいた。
剣がエージェントに当たった。
物理的な衝撃が伝わる。剣は通る。白い靄が散って、形が崩れる。消えた。
「物理が効く」という情報がレオンの中で確定した瞬間、2体目には既に踏み込んでいた。
横薙ぎ。エージェントの輪郭が揺らぐ。完全には消えない。もう1撃。散った。
3体目がノアの背後から迫るのを見て、レオンは剣を投げるように振った。エージェントが怯む。
その隙に、ノアが最後の魔石を砕いた。光が炸裂する。3体目が散った。
残った2体がセレナに向かっていた。
レオンが動こうとした瞬間——扉の外から、エリオットの拘束の術式が走った。
白い糸のような光がエージェントの足を縛る。同時に、リリアの光が収束して直撃した。
最後のエージェントが、散った。
沈黙。
床に木の破片が散らばっている。エージェントの残滓が霧みたいに揺れて、それも消えた。
レオンは剣を下ろし、ゆっくりと室内を見回した。
ルークが壁際で気を失っている。額に血が滲んでいる。
ノアが膝をついている。
リリアが肩で息をしている。
エリオットが扉の外に立ったまま、腕を下ろした。
そしてセレナが——エージェントがいた場所に立ちながら、レオンを見ていた。
「……誰か、説明してもらえないか」
誰も笑わなかった。笑える状況ではなかった。
「あれは何だった。なぜ君たちが狙われていた。どうして剣が効いた。そして——」
レオンの視線がセレナに定まった。長い、長い沈黙。
「セレナ。……君はずっと、これを1人で抱えていたのか」
セレナは答えなかった。答えられなかった。
100回分の彼の顔が脳裏に重なる。断罪の台詞を読み上げる顔。処刑を命じる顔。笑う顔。目を逸らす顔。
でも今夜の彼の顔は、そのどれとも違った。
(「1人で」——レオン様は今、そう言った。1人で戦っているのが、見えたの。)
「……話します。全部」
レオンは頷いた。
剣を鞘に収めながら、意識のないルークの傍に膝をついて、額の傷を確認する。
その動きが——なぜかセレナには、100回分の記憶の中で1度も見たことのない動きに思えた。
誰かの傍に、膝をついて。
「聞く。私が聞く番だ」
7週目の夜が、そうやって明けようとしていた。




