第6話 聖女は夢の中で覚醒する
5週目・Day1〜2 残り42〜41日
翌朝、目が覚めた瞬間から、セレナはそれを感じ取った。
いつもと違う、何かが変わる日の予感。100回のループで磨き抜かれた感覚は、もはや本能に近い。
寝台の端に座り、首に触れる。指先に記憶だけが残る痛みを確かめるように。今日も、泣く。それが終わったら、立ち上がる。
涙が頬を伝うのを感じながら、セレナは静かに歯を食いしばった。
――大丈夫。今日も、私は完璧なお嬢様でいられる。
マリアが運んでくれた湯で顔を洗い、鏡を覗く。
銀髪はきれいに整えられ、紫の瞳に感情の痕跡はない。
何年かけて身につけたのかも、もうよくわからない仮面。でも今は、この仮面がセレナの武器だった。
机の上に、昨日届いた母の手紙が置いてある。折り目のついた便箋を、もう一度広げる必要もなかった。文字はもう、瞼の裏に焼きついていた。
――セレナへ。あなたが学院でどれほど頑張っているか、母には分かります。何があっても、私はあなたの味方です。あなたを信じています。
読むたびに、胸の奥で何かが小さく燃える。消えない火のように、その言葉はセレナを今日も立たせていた。
学院の中庭に差し込む朝の光は、いつも残酷なほど美しい。
「セレナ様、今日も素敵ですわ」
「昨日の授業でご指摘いただいた件、とても参考になりました」
周囲の貴族令嬢たちが次々と声をかけてくる。5週間前まで、その同じ口が断罪の場で何を叫んでいたかをセレナは知っている。けれど彼女たちは知らない。だから今、セレナは微笑む。丁寧に、温かく。
証拠は47件。目標の200件まで、まだ遠い。
中庭の南側の柱の影から、ルークがわずかに顎を動かすのが見えた。「リリアの動きがある」という昨夜の情報を思い出す。セレナは視線だけで応えた。了解、と。
昼食の時間が近づいた頃、事は起きた。
セレナが廊下を歩いていると、前方からリリア・アーベントが一人でやってくるのが見えた。いつもは取り巻きの貴族令嬢たちが周囲にいるのに、今日は一人だった。それ自体がすでに、ゲームのシナリオから外れた行動だとセレナには分かった。
リリアの歩みは、どこかおかしかった。うつろな目で前を向き、足を動かしながら、どこかで立ち止まろうとしているように見える。まるで、何かに抗っているかのように。
セレナは立ち止まった。
――来た。ノアの言った「臨界点」が。
「リリアさん」
声をかけると、リリアの体がぴくりと震えた。栗色の髪が揺れ、大きな緑の瞳がゆっくりとセレナに向く。その目は、今にも泣き出しそうなほど怯えていた。
「セ、セレナ様……あの、私」
「どうかした? 顔色が悪いわよ」
「私……どうして、ここにいるんでしょう」
セレナは表情を変えなかった。内心では全力で集中しながら、穏やかな顔を保つ。
「どういう意味?」
リリアは両手で自分の腕を抱き、視線を床に落とした。小声で、それでも確かな言葉を紡ぐように、ゆっくりと話し始めた。
「朝、目が覚めた時から……何かが変でした。今日、誰かに会いに行こうとしていたんです。でも誰に?どうして?分からないのに、足が動いて。こっちに来るつもりじゃなかったのに、気づいたらここにいて」
一拍の間があった。
「私、自分で動いているんでしょうか。今日だけじゃなくて、ずっと前から……ずっと、誰かに動かされている気がして」
セレナの胸の中で何かが動いた。怒りでも、哀れみでもない。もっと静かな、でも確かな感情。それはたぶん、連帯、というものだった。
100回の断罪。そのたびに、リリアはその場にいた。泣きながら、怒りながら、あるいは何も感じていない表情で。あの子もずっと、見えない糸で縛られていたのだ。
「少し、来てくれる?」
人目につかない中庭の隅、大きな常緑樹の陰。セレナはリリアを連れてきた。
「座りましょう。話を聞かせて」
ベンチに腰を下ろしたリリアは、膝の上で手を組み合わせ、何度か深呼吸をした。
「おかしいと思われますよね。こんなこと言っても」
「おかしくないわ」
迷わず言い切ると、リリアが驚いたように顔を上げた。
「どうして……」
「リリアさんが感じていること、私にも分かるから」
嘘ではなかった。セレナは指先を膝の上に揃えながら、どこまで話すか、どうやって話すかを素早く考えた。
ノアは言っていた。「もう少し待って」と。でも今、リリアは一人でここまで来た。臨界点を、自分の力で越えてきた。ならばもう、待つ理由はない。
「リリアさん。もし私が、あなたはゲームの中の主人公として作られたキャラクターで、すべての行動があらかじめ決まっていると言ったら、どう思う?」
静寂が落ちた。
リリアは長い間、セレナの顔を見つめていた。怒るかと思った。混乱するかと思った。でもリリアは、その両方をせず、ただ静かに目を閉じた。
「……やっぱり、そうなんですね」
「え?」
「夢の中で、見ていたんです。ずっと前から」
リリアは目を開けた。その瞳には、今まで見たことのない光が宿っていた。怯えではなく、泣きたさでもなく、もっと強い何か。
「夢の中で、私は別の場所にいるんです。透明な部屋で、壁には全部数字と文字が並んでいて。そこで誰かの声が聞こえる。これがあなたのシナリオですって。毎晩、同じ夢を見るんです。今日のセリフ、今日の行動、今日の感情。全部、前の夜に見ていた通りになる」
セレナは息を飲んだ。
夢の中で、ですって?
「それが……いつから?」
「学院に入ってから、だと思います。でも最近は特にひどくて。昨夜は夢の中でこう言われました。明日の昼、中庭でセレナ・アルヴェインに出会い、あなたは笑顔で挨拶するって。だから今日、私は笑顔で挨拶するはずだったんです」
「でも、しなかった」
「……できなかったんです。何かが、抵抗したから。夢で決められた通りに動こうとしたのに、足が止まって、声が出なくて、代わりにこんなことを話してしまって」
リリアは自分の両手をじっと見下ろした。
「私、変ですよね。本当に変ですよね」
「変じゃない」
セレナは身を乗り出し、リリアの手を静かに包んだ。冷たくなっていた指先が、少し驚いたように動いた。
「あなたが感じたのは全部、本物の感覚よ。夢の中の指令に抵抗した、その力が本物。あなたは今、あなた自身の意思で動いている」
「でも、どうして私は……なんで、こんなことに」
「長い話になるわ。でも話す。全部話すから、聞いてくれる?」
セレナはゆっくりと、できる限り丁寧に、話した。
乙女ゲームのこと。シナリオ強制力のこと。キャラクターとして生まれながらも人間として存在していること。リリアが「主人公」として設定されている意味。そしてセレナ自身が100回のループを経てきたこと。
言葉を選びながら、確かめながら。リリアが混乱したら立ち止まり、怖がったら手を握り、涙が溢れたら待った。
「100回……」
リリアが小さくつぶやいた。
「セレナ様が、100回も死んで……」
「覚えているから、怖い。でも覚えているから、戦える。それだけよ」
リリアの目からぽろりと涙が落ちた。次から次へと、止めどなく。
「私、気づかなかった。セレナ様がそんなことを……ずっと……私のせいで」
「あなたのせいじゃない。誰のせいでもない。強いて言えばシステムのせいよ。あなただって、動かされていたんだから」
「でも!」
リリアが顔を上げ、セレナをまっすぐに見た。こんなにまっすぐな目をする子だったのか、と、セレナは少し驚いた。
100回のループの中で、リリアの目をちゃんと見た記憶がなかった。
「それでも、私の中に残っているものがあるんです。怒りとか、悲しみとか。夢の中で今日のあなたはこう感じますって決められていても、ちゃんとその通りに感じられないことがある。笑うはずなのに笑えない日とか、泣くはずなのに泣けない日とか。それは、私の気持ちでしょう?それだけは、本物でしょう?」
「そう。それが、あなたよ」
セレナは確かに言った。
「システムに削りきれなかった、リリア・アーベントそのものよ」
その言葉が届いた瞬間、何かが変わった。
リリアの体がわずかに震え、大きな緑の瞳が見開かれた。
同時に、セレナには見えた。現実の輪郭が、ほんの一瞬だけ薄くなる現象を。
コードが、数字が、文字列が、リリアの周囲にぼんやりと滲んで現れ、それから弾け飛ぶように消えた。
まるで、鎖が1本、切れた音がしたようだった。
「……見えました」
リリアが囁く。
「今、何かが壊れる感じがした。ずっと頭の中で鳴っていた音が、止まった」
「それが覚醒よ」
セレナはそっと、リリアの手を離した。今は彼女が自分の足で立つ時間だから。
「あなたは今、あなた自身になったの」
しばらく、二人は黙って並んで座っていた。
常緑樹の葉が風に揺れ、日差しが木漏れ日を作る。こんなに穏やかな午後に、世界の根幹を揺るがす出来事が静かに起きたのだった。
「セレナ様は……怖くないんですか?」
リリアが、少し落ち着いた声で聞いた。
「怖いわよ」
「でも、戦っている」
「他にやることがないもの」
セレナは笑った。作り物でない笑みが、自然とこぼれた。
「逃げても終わらない。諦めても終わらない。100回、証明済みよ。なら戦うしかないでしょう」
「私も……戦えますか?」
「あなたには主人公補正がある。それは今まではシステムに利用されていたけれど、あなたが覚醒した今、武器になり得る。リリアさんが自分の意思で行動するほど、システムへの負荷は大きくなる」
リリアは、すっと息を吸った。
「……教えてください。私に、何ができるか」
その夜。
セレナの部屋に、静かなノックの音がした。
入ってきたのはノアだった。フードを被り、いつものように気配を消して現れる。でも今夜は、その表情がわずかに緩んでいた。
「知ってる。今日のこと」
「見ていたの?」
「君が話し終えた直後に、システムのログに変化があった。リリア・アーベントのシナリオ遵守率が急落した。覚醒が確認された」
セレナは息を吐いた。緊張がほどけるような、でも気を抜けない、複雑な感覚。
「今のところ、エージェントは?」
「出ていない。リリアへの覚醒介入は今夜か明朝、だと思う。まだ時間がある」
「彼女を守れる?」
「それが、今夜話したかったことだ」
ノアが部屋の中心に立ち、セレナを見た。いつもと少し違う、真剣な目をしていた。
「セレナ。リリアの覚醒は、想定より早かった。それはいいことだけど、同時にシステムへの警戒信号も早く出た。これからは、エージェントの出現頻度が上がると思う」
「分かっていた」
「問題は、リリアは今まで一度も実体のあるエージェントと対峙したことがない。君やルークとは違う。彼女が怖がって本能的にシナリオに戻ろうとした瞬間、システムは彼女を取り戻せる」
「だから、支えが必要」
「うん。君とルークで、彼女を守る必要がある。物理的にも、精神的にも」
セレナは窓の外を見た。夜の学院は静かで、月明かりが中庭の石畳を白く照らしていた。
「ノア」
「何?」
「あなたの言う僕たちは、どこにいるの?」
沈黙があった。それはいつもの沈黙よりも、少し長かった。
「……まだ、話せない」
「いつか、話してくれる?」
「君が受け止められる時に」
「私はもう100回死んでいるのよ。大抵のことは受け止められるわよ」
するとノアは、かすかに微笑んだ。月明かりの中で、その表情はとても若く、そして少し悲しそうに見えた。
「それでも、まだ時間が必要な話もある」
それ以上は追わなかった。セレナにはわかる。誰でも、話せない時があることくらい、100回の経験が教えてくれていた。
ノアが去った後、扉を軽く叩く音がした。
こんな夜中に。セレナは眉を寄せながら扉を開けると、ルークが立っていた。珍しく、きっちり整えた黒髪が少し乱れている。
「今、ノアと話していたのか?」
「声が聞こえた?」
「廊下を通ったら光が見えた。話があって来たんだが」
「入って」
ルークが入り、部屋の椅子に腰を下ろす。いつものように指で机の縁を軽く叩き、それから顔を上げた。
「リリアのことを聞いた。ノアから連絡が来た、彼なりの方法で」
「早いのね」
「君が話している間、僕は証拠の整理をしていた。それと」
ルークは懐から薄い革表紙の帳面を取り出した。
「エリオット・セレスティアについて、新しい情報がある」
セレナは椅子を引き寄せ、向かいに座った。
「聞かせて」
「今日の午後、彼が図書館で魔術理論書を調べていた。テーマが現実の上書きと意識の固定。偶然にしては、核心に近すぎる領域だ」
「……彼はすでに何かに気づいているの?」
「分からない。でも抵抗値は上がっている。次の一手を打つ価値がある」
セレナは考えた。
エリオット・セレスティア。ゲームの中では謎めいた立ち位置の人物。宮廷魔術師の息子で、魔術学の研究生として現実の構造を誰よりも深く研究している。
もし彼が覚醒すれば、システムの構造を理論面から解析できるかもしれない。
「分かった。明日、声をかけてみる」
「無理はするな」
ルークの声が、わずかに低くなった。
「今日は相当、消耗しただろう」
「……なんで分かるの」
「リリアに全部話したということは、君自身の話もしたということだ。100回の話を。それは、毎回消耗する」
セレナは返事をしなかった。窓の外を見たまま、少しだけ指先に力を込めた。
ルークが覚醒してから1週間。彼は時々こういうことを言う。直接的ではなく、でも確かに届く言葉を。
「ありがとう」
短く言うと、ルークは軽く肩をすくめた。
「僕は共犯者だ。君の消耗を管理するのも仕事のうちだ」
皮肉げな口調の裏に、本気が透けていた。セレナは小さく笑った。
「今日、リリアがこう言ったの。私の気持ちは本物でしょうって」
「ああ」
「そう思ったら、胸が痛かった。彼女もずっと、見えない檻の中にいたんだと思って」
「僕もいたぞ、同じ檻の中に」
ルークが静かに言った。指が机の縁から離れ、膝の上に置かれた。
「覚醒する前、僕はなんとなく、世界が整然としすぎていると思っていた。論理的な矛盾が少なすぎる、摩擦がない、誰もが自分の役割に収まりすぎている。でもそれを変だと指摘できなかった。変だと思うこと自体が、どこかで抑えられていたんだと思う」
「怒らなかった?覚醒した時」
「怒った。今でも怒っている」
はっきりと、ルークは言った。
「でも、怒っているほうが頭が動く。だから怒りは武器にする」
セレナは深く頷いた。彼らしい、と思った。感情を合理性の中に組み込む人。
「明日も戦いましょう」
「ああ」
「証拠、増やさないといけないわね。まだ47件よ」
「今夜の時点で、僕の帳面には53件ある」
セレナは目を瞬いた。
「いつの間に」
「今日、リリアに優しくしている君を目撃した者が6人いた。うち3人が貴族、2人が教師、1人が使用人。全員、名前と状況を記録した。信頼できる証人かどうかの評価もつけた」
「……完璧ね」
「そのくらいしかできないからな」
ルークが立ち上がった。帳面を懐に戻し、扉に向かう。
「休め。リリアの覚醒は今夜から明朝にかけてが山場だとノアは言った。君が疲弊していては動けない」
「分かった。おやすみなさい、ルーク」
「おやすみ」
扉が閉まった。静かな部屋に、セレナは一人残された。
夜明けのすこし前。
セレナはまどろみの中で夢を見た。
透明な部屋。四方の壁に数字と文字列が流れている。そこにリリアが立っていた。
栗色の髪、緑の瞳。でも今日のリリアは怯えていなかった。
壁に向かって手を伸ばし、流れるコードに触れようとしている。
「見てください、セレナ様」
リリアが言った。夢の中で、不思議なほど声がはっきりと聞こえた。
「ここに書いてある。私のシナリオが全部」
「怖くない?」
「怖いです。でも、見なかったら怖いままですから」
リリアの指がコードに触れた瞬間、壁の一か所にひびが入った。ほんの小さなひびだったけれど、そこから光が差し込んできた。
「壊れた」
セレナは呟いた。
「壊れるんですね、こういうものも」
「壊れる。必ず壊れる。じゃなければ私は今ここにいないから」
夢の中で二人は、ひびから差し込む光をただ黙って見ていた。
コードが揺らぎ、数字が乱れ、また静まる。完全に壊れてはいない。でも、確かにひびは入った。
目が覚めた。
窓の外は白み始めていた。夜明けだった。セレナは静かに起き上がり、首に手を当てる。
今朝は、なぜか。いつもより少しだけ、震えが小さかった。
学院の廊下を歩いていると、リリアが小走りで近づいてきた。今日の彼女は昨日と違う目をしていた。恐怖ではなく、決意。
「セレナ様」
「おはよう。眠れた?」
「少し。でも、夢を見ました」
セレナの鼓動が一瞬速くなった。
「透明な部屋の夢?」
リリアが目を丸くした。
「……セレナ様も?」
「似たようなものを」
二人は目を合わせ、どちらからともなく小さく笑った。言葉にならない何かを、共有した気がした。
「今日から、私を一人にしないでください」
リリアが言った。甘えではなく、切実な声で。
「エージェントというものが来るかもしれないんですよね。私、まだ怖いです。でも逃げたくない。だから、隣にいてほしい」
「もちろん」
セレナは答えた。
100回のループで、リリアに向けた言葉の中で、これが一番短くて、一番確かだと思った。
「隣にいる。それだけは、約束できる」
廊下の先に、ルークが立っていた。帳面を手に持ち、セレナたちを見て目を細める。皮肉げな笑みの奥に、安堵に近い何かがある。
「4人目の覚醒者か」
リリアがルークを見て、少し緊張した顔をした。
「ルーク・アシュフォード様……あなたも?」
「1週間前にな。よろしく、リリア・アーベント」
「……よろしくお願いします」
三人が並んだ。覚醒者が、また一人増えた。
システムはどこかで今この瞬間を記録しているはずだった。イレギュラーの増加を。計算外の変数が積み重なっていくことを。
セレナは静かに前を見た。
断罪イベントまで、残り約2ヶ月。証拠は今朝の時点で53件。
エリオットへのアプローチはこれから。レオンはまだ眠っている。
やることは、まだ山ほどある。
でも今日は、昨日より少しだけ、仲間が増えた。
それで十分だった。
少なくとも今は。




