第5話 聖女の揺らぎ
4週目 残り49〜43日
ルークが覚醒してから、1週間が経った。
この1週間で、「優しいセレナ」作戦は着実に形になってきた。
朝、リリアが困っていれば必ず声をかける。
クラリスが嫌がらせを提案してきたら穏やかに諌める。
授業でリリアが詰まっていれば、放課後に時間を取って教える。
そのすべてを、ルークが記録する。
彼の記録は徹底していた。
日時、場所、目撃者の名前、会話の内容。
それを几帳面に書き留め、時には第三者へ証言を求める。
エリオットが図書館で私とリリアの会話を耳にした時、ルークは後日エリオットに「あの時のセレナ様の様子はどうでしたか」と確認した。
エリオットは少し戸惑いながらも「とても親切でしたね」と答えた。
その証言もまた、ルークのノートに加えられた。
証拠は、着実に積み上がっていた。でも同時に、私は気づいていた。リリアの様子が、少しずつ変わってきていることに。
その日の昼休み。中庭のベンチで、私はリリアと並んで座っていた。
彼女は最近、よく私に話しかけてくる。最初の頃の緊張した様子はもうなく、自然な笑顔で言葉をくれる。
「セレナ様、今日の魔法学の授業、すごく難しかったですね」
リリアは教科書を見ながら言う。大きな緑の瞳に、困惑の色が浮かんでいた。
「そうね。でも、リリアさんは基礎がしっかりしているから、大丈夫よ」
「本当ですか?私、平民出身だから、みんなより遅れているんじゃないかって……」
「そんなことないわ。あなたの魔力は、学院でも上位よ」
私が微笑むと、リリアも嬉しそうに笑った。でもその笑顔が、ふと固まる。
「セレナ様……」
「何?」
リリアは少し迷うように視線を泳がせた後、意を決したように言った。
「私、最近変な感じがするんです」
心臓が跳ねる。
「どんな?」
「えっと、うまく言えないんですけど……」
リリアは、自分の手を見つめる。
「朝起きた時に、今日何をするか、もう決まっている気がするんです」
息が、止まりそうになった。
「例えば今日の朝も。起きた瞬間、今日は中庭でセレナ様とお昼を食べるって分かっていたんです。でも、セレナ様を誘った記憶がなくて……気づいたら私、ここにいて。まるで、誰かに動かされているみたいで」
リリアは自分の言葉に怯えているようだった。それは無理もない。システムの存在に、無意識に気づき始めているのだから。
何と言えばいい?今、真実を話すべき?でもノアは言った。「焦るな。覚醒には時間がかかる」と。
「きっと、疲れているのよ」
私は、できるだけ優しく言う。
「学院生活、慣れないことも多いでしょう?だから、そういう感覚になることもあるわ」
「そう、ですよね……」
リリアは少し安心したように笑う。でも、その目の奥にはまだ不安の色が残っていた。
「もし辛かったら、いつでも私に話してね」
「ありがとうございます、セレナ様」
リリアは、本当に嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私は思う。この子を、守りたい。この子も、システムから解放したい。
その日の夕方。私はルークと、学院の人気のない小さな談話室で作戦会議を開いていた。
「リリアが、気づき始めている」
私が報告すると、ルークは考え込むように指で机を叩いた。
「予想より早いな。でも、それは良いことかもしれない」
「良いこと?」
「ああ。リリアが覚醒すれば、彼女自身がセレナは優しいと証言できる。覚醒者の記憶はシステムが改変できない。最も信頼できる証人になる」
なるほど。でも同時に、危険も増す。
「ノアは何て言ってる?」
「今夜、来てくれるはずよ。その時に報告する」
ルークは頷き、ノートを開く。
「現在の証拠数は47件。目撃者は延べ82人。このペースなら、1ヶ月後には100件を超える」
「100件……十分かしら」
「正直、分からない」
ルークは率直に言う。
「でも、やるしかない。僕たちにできることは、証拠を積み上げ続けることだけだ」
その真剣な表情を見て、私は改めて思う。本当に、この人を巻き込んで良かったのだろうか。
「ルーク、後悔してない?」
「何を?」
「真実を知ったこと。戦うことを選んだこと」
ルークは少し驚いた顔をした後、穏やかに笑った。
「後悔?するわけないだろう」
彼は窓の外を見る。
「確かに、危険だ。エージェントにまた襲われるかもしれない。最悪、消されるかもしれない」
胸が痛む。
「でも、それでも後悔しない。なぜなら、僕は今、自分だから」
ルークは私を見た。
「真実を知る前の僕は、何かに操られている感覚があった。自分が自分じゃないような。でも今は違う。自分の意思で考え、自分の意思で動いている。それだけで、十分価値がある」
涙が出そうになる。
「ありがとう、ルーク」
「礼を言うのは、僕の方だ。君が真実を教えてくれたから、僕は自由になれた」
ルークは微笑む。
「だから、一緒に戦おう。最後まで」
「ええ、最後まで」
その時、談話室の扉が静かに開いた。ノアだった。気配を消したままの登場は、もうすっかり見慣れた。
「やあ、2人とも。順調そうだね」
ノアはいつものように窓辺に腰を下ろした。
「ノア、リリアが気づき始めているの」
私が報告すると、ノアはわずかに目を見開いた。
「もう?予想より早いな」
「やはり、早いのか」
ルークがノアを見る。
「ああ。通常、覚醒には少なくとも2〜3週間かかる。リリアはまだ1週間だ」
ノアは顎に手を当てた。
「もしかしたら、リリアが主人公だからかもしれない。この世界の中心人物だ。すべてのイベントが彼女を軸に回る。だから、彼女の自我は他のキャラクターより強い可能性がある」
「ゲームの主人公だからこそ、気づきやすい、ということ?」
「おそらく。でも、今はまだ様子を見よう」
ノアは慎重に続ける。
「リリアに真実を話すのは、彼女がもっと明確に違和感を感じてからだ。今話しても、混乱させるだけだろう」
「分かった」
「それより、証拠収集の方は?」
ルークがノートを示す。
「47件。このペースなら、1ヶ月で100件を超える」
「良いペースだ。でも、まだ足りない」
ノアは真剣な顔になった。
「システムを完全に混乱させるには、少なくとも200件は必要だろう」
「200件……」
私は息を吐く。断罪イベントまで、あと2ヶ月半。
「間に合わせるしかない。だが、証拠だけじゃない。他にも準備することがある」
「他に?」
「断罪イベントの証人だ」
ノアは指を立てた。
「シナリオでは、クラリスやエリオットがセレナがリリアを虐めたと証言する。そこを逆用する。彼らに、セレナは優しかったと証言させるんだ」
「でも、システムが彼らの記憶を改変したら……」
「だから、今から彼らの抵抗値を上げる必要がある。少しずつでいい。違和感を植え付けることで、システムの改変が効きにくくなる」
ルークと同じように、少しずつ覚醒へ近づける。
「分かった。やってみる」
「頼んだよ」
ノアは立ち上がり、静かに扉へ向かう。
「じゃあ、僕はこれで。また明日」
ノアが去った後、ルークが言った。
「やることが、どんどん増えていくな」
「ええ。でも、やるしかない」
私は拳を握る。
「今度こそ、勝つために」
翌日。私は廊下でクラリスに声をかけた。
「クラリス、少しいいかしら」
「あら、セレナ様。どうなさいました?」
クラリスは華やかな笑顔で振り向く。でもその笑顔は、どこか作り物めいて見える。
「あなた、最近どう?楽しく過ごしてる?」
「え?ええ、もちろんですわ」
クラリスは少し戸惑いながら答える。
「学院生活、とても楽しいですわ。セレナ様と一緒にいられますし」
言葉に嘘はないように見える。でも、どこか空虚だ。
「クラリス、あなたは自分の意思で行動していると思う?」
「え?当然ですわ。私は自分の意思で……」
クラリスの言葉が途切れた。一瞬だけ、その目に困惑が浮かぶ。
「……あれ?私、何を……」
その瞬間、クラリスの動きが止まった。システムの介入だ。
「クラリス?」
数秒後、彼女の動きが戻る。さっきの記憶は、消されている。
「あら、セレナ様、何のお話でしたかしら?」
やはり、システムは介入する。でも一瞬だけ、クラリスは疑問を持った。それで十分だ。種は植えた。
「いいえ、何でもないわ。また後でね」
「はい、ではまた」
クラリスが去った後、私は静かに息を吐く。これを、何度も繰り返す。地道だけれど、それしか方法がない。
夜、自室の机に向かっていると、マリアが封書を持って来た。
「セレナ様、奥様からのお手紙が届いております」
「ありがとう、マリア」
封蝋を割ると、母エリザベートの几帳面な字が並んでいた。
——セレナへ。最近、また夜泣いているのではないかと心配しています。母の勘というものは、なかなか外れないものです。学院での暮らしに、何か辛いことがあるのではないですか。セレナ、あなたはいつも1人で抱え込みすぎる。誰かに頼ることは、弱さではありません。もし何か悪いことをしたと誰かが言っても、私はあなたを信じます。何があっても、私はあなたの母です。——エリザベートより。
涙が落ちた。便箋の上に、丸い染みができた。
この人も、3ヶ月後にはシステムに操られて、私を見捨てる。
でも、今この瞬間の母は、本当に私を心配している。本当は、私を愛している。
「お母様……」
絶対に、この人も救う。
便箋を丁寧に畳んで引き出しにしまい、目元を拭った時、扉が静かにノックされた。
「セレナ、俺だ。ルークだ。少しいいか」
「どうぞ」
扉が開き、ルークが入ってくる。廊下を歩いてきたにしては、少し急いだ様子だった。
「ノアから連絡があった。明日、リリアに動きがあるかもしれないって」
「動き?」
「ああ。彼女の違和感が、臨界点に達するらしい。明日、リリアが君に何かを打ち明けてくるかもしれない。その時は、慎重に答えてくれ」
「分かった」
ルークは私の顔を見て、少し眉を寄せた。
「目が赤いな」
「手紙が来たの。母から」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。ルークらしい。
「明日は一緒にいてくれる?」
「もちろん。僕は君の共犯者だからね」
ルークは、皮肉げな笑みの奥に何か温かいものを滲ませながら言った。その笑顔に、少し救われる。
「ありがとう、ルーク」
「どういたしまして」
ルークが部屋を出た後、私はベッドに横になった。
明日、リリアに何が起こるのだろう。そして、私はどう答えればいいのだろう。
不安と期待が入り混じる。でも、逃げない。前に進む。
101回目の1ヶ月が、もうすぐ終わろうとしていた。




