第3話 違和感の芽生え
1週目・Day4〜2週目末 残り67〜57日
101回目の朝から、3日が経った。
私は毎朝、目覚めるたびに首を触る。傷がないことを確かめる。生きていることを確かめる。
そして、泣く。声を殺して、枕に顔を埋めて、泣く。100回分の恐怖が、毎朝蘇ってくる。
でもノアが言った。「泣いてもいい」「それは弱さじゃない」と。
だから、泣く。
泣き終わったら、顔を洗って、笑顔を作って、「完璧なお嬢様」を演じる。この3日間、私はずっとそうしてきた。
4日目の朝。授業が終わり、中庭のベンチに腰を下ろした時、隣に誰かが座った。
「やあ、セレナ」
ルーク・アシュフォード。黒髪に灰色の瞳。いつも口元に皮肉げな笑みを乗せている男。
「ルーク様……」
私は自然に身構える。100回のループで、彼は何度も私を陥れた。証拠を捏造し、証言を集め、断罪へと私を追い立てた。でも、ノアは言った。
「彼は気づきやすいタイプだ」と。
「君、最近様子がおかしいね」
ルークは本を開いたまま、さりげなく言う。視線は活字の上にあるのに、口だけが動いている。
「そうですか?」
「ああ。3日前、廊下で僕とすれ違った時、君は一瞬だけ——本当に一瞬だけ——僕を見て震えた」
心臓が跳ねる。見られていた。
「昨日、レオンと話している時も、君の手はずっと微かに震えていた。今日の授業中、クラリスが話しかけた瞬間も、息が詰まるような顔をした」
全部、見ていたの。
「ルーク様、それは……」
「弁解は別にいい」
ルークは本を静かに閉じ、初めてこちらへ顔を向けた。灰色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。
「僕が言いたいのは、別のことだ」
「何ですか?」
「君を見ていると、妙な感覚がするんだ」
ルークは指で膝を叩き始めた。深く考えている時の癖。
「既視感、とでも言うのかな。君だけじゃなく、レオンと話す時も、リリアを見る時も、同じ感覚がある。まるで、前にも同じやり取りをしたような——」
息が、止まりそうになる。
「おかしな話だと思うだろう?でも、この感覚が消えなくて」
「ルーク様……」
「もっとおかしなことがある」
ルークは声を落とした。
「僕は時々、自分の意思とは違う行動を取る。正確には——行動しようとすると、頭が痛くなる」
彼の額に、うっすらと汗が滲んでいた。
「今もそうだ。こうして君に話しているのに、どこかで『これは話すべきじゃない』という感覚がある。その感覚に逆らうと——頭が、痛くなる」
システムの干渉だ。
ルークは気づき始めている。でも、まだ完全ではない。システムが彼の覚醒を抑え込もうとしている。
「ルーク様、無理しないで」
私は言った。
「もし辛ければ、考えるのをやめていいんです」
「いや、大丈夫だ」
ルークは目を開ける。
「むしろ逆だ。この違和感を無視する方が、よほど気持ち悪い」
彼は私を見た。
「セレナ、君は何か知っているんじゃないか?この世界の……『おかしさ』を」
私は迷う。
今、全部話すべきか?でも、ノアは「数週間は必要」と言った。焦らせてはいけない。システムの介入が強まる。
「私にも分かりません。でも——」
私は彼の目を見る。
「もし、この世界に何かおかしなことがあるとしたら、それに気づくことは悪いことじゃないと思います。違和感を無視しないで。ただ、焦らずに」
ルークはしばらく黙っていた。そして、小さく笑った。
「君、変わったね」
「え?」
「前の君なら、こんな話をしても『気のせいでは?』で終わらせていた気がする」
彼は立ち上がる。
「でも今の君は、違う。まるで、何かを知っているみたいだ」
ルークは私の顔を覗き込もうとした。
その瞬間、彼の動きが止まった。
一瞬だけ。まるで、誰かが時間を押し止めたように。
システムの介入。
でもすぐに戻る。今回は軽い。
「……なんだ、今の?」
ルークは眉を寄せ、首を振る。
「頭痛とも違う。一瞬、思考が止まったような……」
彼は困惑した顔で私を見た。
「セレナ、やっぱり君は——」
「ルーク様」
私は穏やかに遮った。
「今は、まだ時間じゃありません。でも、いずれ必ずお話しします」
「いずれ?」
「ええ。その時が来たら、必ず」
ルークは、私をじっと見つめた。諦めたのか納得したのか、やがて静かにため息をついた。
「分かった。待つよ。ただし——」
背を向けながら、彼は続けた。
「約束してくれ。その『いずれ』が来たら、必ず教えると」
「約束します」
去っていく背中を見送りながら、私は胸の中で繰り返した。
彼は、確実に気づき始めている。でも、まだ早い。もう少し、時間が要る。
その日の夕方。授業が終わって廊下を歩いていると、後ろから明るい声が飛んできた。
「セレナ様!」
リリア・アーベントが、小走りで追いついてくる。栗色の髪が弾み、大きな緑の瞳が笑っている。
「今日の魔法学、難しかったですね」
「そうね。でも、リリアさんは上手だったわ」
「本当ですか!嬉しい!」
リリアは笑う。無邪気で、眩しいほどの笑顔。
この子も、気づいていないだけで、システムに動かされている。その事実が、胸の奥にちくりと刺さる。
「セレナ様」
リリアが少し真剣な顔になった。
「私、最初はセレナ様のこと、怖かったんです」
「怖かった?」
「はい。すごく美しくて、高貴で、近寄りがたくて」
リリアは照れたように目を伏せた。
「でも、違いました。セレナ様は、とても優しいんですね」
その言葉に、胸が痛む。
100回のループで、私はこの子を怖いと思っていた。憎くて、悔しくて、ただ避けてきた。優しくしようなどと、考えたこともなかった。
でも今は、この子を守りたいと思っている。
「リリアさん」
「はい?」
「あなたは、自分の意思で行動していると思いますか?」
リリアは、きょとんとした顔をした。
「自分の意思……ですか?」
「ええ。今日の行動——朝起きて、授業に出て、私に話しかけた。それは全部、あなた自身が決めたことですか?」
リリアは少し考えてから、笑う。
「当たり前じゃないですか。私が決めました」
でも、その目が——一瞬だけ、揺れた。
まるで、自分の答えに確信が持てないような、かすかな揺らぎ。
「もし、誰かに操られているって言われたら、どうしますか?」
「操られている?」
リリアは不思議そうに首を傾けた。
「そんなこと、あるんですか?」
「さあ。ただの、仮定の話です」
私は微笑む。
「気にしないでください」
「は、はい……」
戸惑いながらも、リリアは笑顔で去っていく。
私はその背中を見送った。
一瞬だけ揺れた、あの目。種は蒔かれた。芽吹くかどうかは、まだ分からない。
夜、自室に戻ると、扉の下から一通の封書が差し込まれていた。
アルヴェイン公爵家の封蝋。母エリザベートの字だった。
便箋を広げると、几帳面な筆跡が並んでいる。
——セレナへ。学院での生活には慣れましたか。あなたのことを思うと、母は毎日心配しています。なぜかは分かりません。ただ、胸騒ぎが止まないのです。もしかして、夜に泣いていたりしていませんか。声を殺して泣く癖は、昔から変わっていないから。何か辛いことがあるなら、手紙に書いて送りなさい。何があっても、私はあなたの味方です。あなたを信じています。——エリザベートより。
涙が出た。
にじんで、便箋の上に丸い染みを作った。
100回のループで、母は私を見捨てた。断罪の場で、「我が家の恥だ」という父の言葉に背を向けた。
でも、それはシステムが強いた行動だ。
本当の母は——今この手紙を書いた母は——娘のことを心配している。
「お母様……」
この人も、システムの被害者だ。本当は私を愛しているのに、肝心な時に操られてしまう。
母を救いたい。父を救いたい。みんなをシステムから解放したい。
――絶対に、勝つ。
私は便箋を丁寧に畳み、引き出しの奥にしまった。
翌日。図書館の窓際の席で、私は一人で考えていた。
ルークは気づき始めている。リリアも、わずかに揺れを見せた。
レオンは——まだ、難しい。でも、少しずつ。少しずつ、何かが変わっている。
「セレナ」
顔を上げると、ノアが向かいの椅子に座っていた。
気配なく現れるのは、いつものことだ。
「順調みたいだね」
「そう見える?」
「ああ。ルークはいい感じで違和感を育てている。リリアも、少しだけ揺れた」
ノアは微笑む。
「ただ、焦らないで。特にルークはあと2週間、様子を見た方がいい」
「2週間……」
「今の彼は『違和感』の段階だ。そこから『疑問』に変わり、やがて『確信』になる。そのプロセスを無理に急かすと、システムの介入が強まる」
「分かった」
「君は正しい道を進んでいる。その調子で」
ノアが立ち上がりかけた時、私は呼び止めた。
「ノア、1つ聞いていい?」
「何?」
「もしルークが覚醒したら——彼は、どうなるの?」
ノアは少し考えてから、答えた。
「力になる。彼は策略家だ。システムと戦う方法を、君より早く見つけるかもしれない」
「でも、リスクもある?」
ノアの目が、わずかに真剣になった。
「覚醒者が増えれば、システムの反応も強くなる。君1人なら、まだ様子見をしている。でも2人になれば——」
「本気で排除しに来る」
「そう。だから、慎重に」
ノアは窓の外を見た。夕暮れの空が、橙色に染まっている。
「でも、君1人では勝てない。リスクを取らなければ、先へは進めない」
「分かってる」
私は頷く。
「リスクを取らないと、勝てない」
「その通り」
ノアは微笑んで、立ち上がった。
「じゃあ、また」
気配が消える。
私は窓の外を見た。橙色の空が、少しずつ暗くなっていく。
ルークの覚醒まで、あと2週間。それまでに、準備を整えなければ。証拠を集め、味方を増やし、断罪イベントを破壊する方法を見つける。
少しずつ——でも、確実に。
私は立ち上がった。
101回目の戦いは、まだ始まったばかりだ。でも、確かに前に進んでいる。
今回は、1人じゃないから。




