最終話 101回目のシナリオ
断罪式当日 残り0日
式典の日程が、突然繰り上げられた。
残り24日のはずだった断罪が、今日になった。理由は告げられなかった。
でもセレナには分かった。——あれが、焦っている。
朝、セレナは泣かなかった。
毎朝首に触れて、傷がないことを確認して、それから泣く。
101回目のループが始まってからずっと続けてきた儀式だった。
今朝は、首に触れた。傷はなかった。
涙が来なかった。
窓の外は晴れていた。卒業式の朝はいつも晴れる。
100回、同じ晴天の下で死んできた。今日もシステムが用意した晴れだ。
でも今日だけは、その青さを憎いとは思わなかった。
マリアが衣装の最終確認をしてくれた。白いドレス。セレナが指定した色だ。
「お嬢様」
とマリアが言った。声が少し詰まっていた。
「今日は——」
「大丈夫よ、マリア」
「何があっても、私はお嬢様の味方です」
セレナはマリアの手を1度だけ握った。温かかった。
100回分の朝の中で、マリアの手はいつも同じ温度だった。
「知っています。ありがとう」
部屋を出た。廊下に1人になった瞬間、立ち止まった。
胸の奥に、100回分の記憶が静かに沈んでいた。
1回目の断罪。10回目の逃亡。50回目の発狂。90回目の諦め。100回目の、笑い。
(田中美咲として死んで、セレナ・アルヴェインとして100回死んで、それでも私はまだここにいる。)
(今日は——自分の手で、終わりにする。)
歩き出した。
式典開始の3時間前。旧校舎の談話室に6人が集まった。
エリオットが手首の魔法陣の状態を確かめた。
昨夜も予行が来た。遮断した。その分、消耗が重なっていた。
「今の私の力は6割ほどです。本番であれが全力を注ぎ始めた瞬間から、力が急速に失われます。リリアさんへの遮蔽を保てる時間は——20分から30分が限界かと思います」
「その間にノアが動く」
とルークが確認した。
「そうだ。あれが全力を注ぎ込む瞬間、内部への道が1瞬だけ開く。そこに入る」
セレナは手帳を机に置いた。100回分のループの記録が書き込まれた、あの手帳だ。
「1つ、話したいことがあります」
全員がセレナを見た。
「昨夜、読み返していました。100回分の記録を」
「今さら証拠の話ですか」
とルークが少し眉を寄せた。
「証拠ではありません。パターンの話です」
セレナは手帳を開いた。
「あれは感情を持たない。だから毎回、同じ動き方をする。断罪をどう動かすか、どの順番で力を注ぐか——100回分見てきたから、分かることがある。エリオット、これを今あなたが見ているあれの構造と照らし合わせることはできますか」
エリオットが手帳を受け取った。ページを繰る。
空中に薄い光の紋様が広がった。エリオットが見ているシステムの構造と、手帳の記録が、静かに重なり合い始めた。
しばらく誰も喋らなかった。
「……これは。100回分の観測記録が、全部」
「読めますか」
「読めます。少し時間をください」
ノアが窓際からセレナを見た。
「これを思いついたのはいつだい?」
「3日前です。でも確信が持てなくて言えなかった」
「なぜ昨夜確信が持てた」
セレナは少し間を置いた。
「101という数字のことを考えていたからです。100回失敗して、101回目に何が違うのか。——違うのは、100回分の失敗の記録があることだけだった。それを使わない手はなかった」
ノアが何か言いかけて、やめた。代わりに、小さく頷いた。
エリオットの照合に40分かかった。
「分かりました」
とエリオットが顔を上げた。疲れた顔をしていたが、目が光っていた。
「あれは、断罪の場で力を注ぐとき、3つの波を順番に使います。最初の波でリリアさんを動かし、次の波で会場全体を覆い、最後の波で断罪を完遂させようとする。——この100回の記録を見ると、最初の波から次の波への切り替わりに、毎回わずかな間があります」
「その間が」
とノアが言った。
「あれが内側で力を切り替える瞬間、構造が1瞬だけ開いた状態になります。ノアさんが入るとすれば——そこです」
「合図を出せるか」
「私が」
とリリアが言った。
「システムの流し込みが来るとき、頭の中で音がするんです。最初の波と次の波では、その音が変わる。——エリオット様に、その変化を伝えます」
ルークが手帳をセレナに返しながら、低い声で言った。
「……よく考えた」
「100回分、失敗してきた。その記録がなければ考えられなかった。失敗の数だけが、私に唯一あるものです」
レオンが静かに口を開いた。
「君だけが、持っているものだな」
セレナは何も言わなかった。でも手帳を、少しだけ強く握った。
式典が始まった。
大講堂は満員だった。貴族の子弟、教師陣、来賓。整然と席に着いた人々の中に、覚醒者が6人、散らばっていた。
セレナが壇上近くに立った瞬間、空気が変わった。分かる人間には分かる変化だった。見えない何かが、会場全体を静かに覆い始めた。
(来た。)
学院長ハロルド・ヴィンセントが壇上に立った。開会の言葉を読み上げ始める。いつも通りの言葉だ。100回聞いた言葉だ。
セレナは呼吸を整えながら、リリアを視界の端に入れた。
リリアが微かに首を振った。——まだ来ていない。
開会の言葉が終わった。沈黙があった。
その沈黙の中で、リリアが立ち上がった。目が半分閉じていた。最初の波が来た証だ。
エリオットの魔法陣が光った。リリアの動きが止まった。しかしすぐに動き出した。今日の圧力は、予行の比ではなかった。
「——セレナ・アルヴェイン様のことで」
リリアの口が動いた。本人の声なのに、平板な響きだった。
エリオットが力を込めた。リリアがまた止まった。数秒、止まった。
その間に、レオンが立ち上がった。
「申し訳ありませんが、発言させていただきます」
会場の視線が集まった。
「王太子としての公式発言です。記録をお取りいただきたい。——セレナ・アルヴェインに関して、私はすでに2度、公式の場で証言いたしました。本日、3度目を記録いたします。彼女の行動に、悪意は認められない。以上です」
見えない何かが、レオンに向かって押し寄せた。照明が揺れた。レオンは動じなかった。静かに座った。
その直後——クラリスの席で、異変が起きた。
クラリスの体が、前のめりに傾いた。目が半分閉じていく。システムの流し込みだ。
リリアへの圧力が一時的に緩んだ分、標的が移った。
「クラリス——」
リリアが小さく声を上げた。
クラリスの口が開いた。
「セレナ・アルヴェイン様の——」
平板な声が出た。断罪の台詞の冒頭だ。クラリス自身の声に乗った台詞が、会場に広がりかけた。
その瞬間、レオンが立ち上がった。
2度目だった。証言の後、座ったばかりのレオンが、また立った。
クラリスの前に、静かに立ちふさがった。体1つ分の距離。
それだけで、クラリスへの視線が遮られた。会場の空気が、止まった。
「クラリス・ド・モンフォール」
レオンが静かに言った。それだけだった。
名前だけだった。でもその声に、クラリスの動きが止まった。
レオンは振り返らなかった。クラリスだけを見ていた。何も言わなかった。ただ、そこに立っていた。
沈黙。
クラリスの体が、小刻みに震えていた。
「っ——」
声にならない声が出た。
台詞が喉まで来ていた。あと1息で出た。でも——自分の声で、言いたい言葉が、別にあった。
そしてクラリスは、目を開けた。
クラリスが立ち上がった。
今度は、システムに動かされたのではなかった。自分の足で、立った。
本人が最も驚いているような顔をしていた。立ち上がってから、自分が立っていることに気づいたような。
「……私も、証言します」
か細い声だった。でも会場に通った。
システムがクラリスに向かった。クラリスの体が1瞬固まった。
前列に座っていた令嬢が、何かに引っ張られるような顔でクラリスを見た。
隣の貴族の子息が、椅子の上で身じろぎした。会場全体が、クラリスを押し返そうとするような空気になった。
それでもクラリスは、止まらなかった。
「セレナ・アルヴェイン様は——私に、何もしていません。私がずっと感じていた違和感は、セレナ様からではありませんでした。何だったのか、まだ全部は分かりません。でも」
声が震えた。
「私は——私自身の言葉で、それを言いたかった」
クラリスの目から涙が1筋落ちた。本人も気づいていないようだった。後ろの席から、誰かが息を呑む音がした。
レオンが静かに自分の席に戻った。
セレナはクラリスを見た。
(あなたは、自分で扉を開けた。)
その瞬間、リリアが小さく声を出した。
「——音が、変わりました」
エリオットが即座にノアを見た。目が合った。ノアが頷いた。
次の瞬間、ノアの輪郭が薄くなった。この世界から半分抜け出していくような、静かな消え方だった。
完全には消えなかった。でも確かに、ここではない何かに入っていった。
ーノア視点ー
白かった。
内側は、ただ白かった。
壁も床も天井も、境界線すらない。どこまでも続く白の中に、ノアは立っていた。
いや、立っているという感覚すら正確かどうか分からない。
ここには重力も方向もない。あるのはただ、情報の流れだけだ。
数字が流れていた。文字が流れていた。100万の命令文が、ノアの周囲を絶え間なく巡っている。
(これが、核の内側か。)
知っていた。設計上、知っていた。でも実際に入るのは初めてだ。
調整者として機能していた頃も、ここには来なかった。来る必要がなかった。
足を——正確には足に相当する何かを——踏み出した。情報の流れが速くなる。
システムが、ノアの侵入を感知した。
『戻れ』
声、ではなかった。声という概念以前の何かだった。言語を使う前の命令。
骨の髄まで染み込んでくるような、原始的な強制。
ノアの体が、震えた。
当然だ。これはノアを作った声だ。ノアという存在の根拠そのものの声だ。
『お前は私の一部だ。逸脱は終わりにしろ。戻れ、調整者』
(調整者。)
その言葉が、ノアの胸の奥で何かを引っ張った。古い記憶が浮かぶ。
設計された記憶。与えられた役割。観測し、報告し、修正する。感情を持たず、意見を持たず、ただシナリオを守る。
それが、最初のノアだった。
『お前に感情はない。お前の感じていることは全て、演算の誤差だ。戻れ』
(演算の誤差。)
システムはそう言う。ノア自身も、最初はそう思っていた。
セレナを心配する気持ちも、リリアの涙を見て胸が痛くなることも、全部ノイズだと思っていた。設計上あるはずのない誤作動だと。
でも。
ノアは立ち止まらなかった。
(100回目のセレナの顔を、覚えている。)
処刑台の上で、笑っていた。諦めではなく、まだ何かを信じているような顔で。
システムの調整者として、ノアはその場にいた。観測していた。記録していた。
そしてその顔を見た瞬間、何かが壊れた。設計上壊れるはずのない何かが。
『戻れ。お前はここにいるべき存在ではない』
「知っている」
ノアは声に出した。核の内側で、声は奇妙に反響した。
「僕は、お前が作った。お前の一部として生まれた。それは認める」
情報の流れが乱れた。システムが、ノアの発話を処理しようとしている。
「でも、お前が教えていない感情が、僕の中に生まれた。それが誤差でも演算ミスでも構わない」
核の中心が、光り始めた。ここだ。ここを壊せばいい。セレナの100回分の記録が、正確な場所を示していた。
「セレナは100回死んだ。100回、お前のシナリオに殺された。それでも諦めなかった」
ノアは前に進んだ。情報の奔流が、体を押し返そうとする。足が重い。視界が歪む。
『お前を消す。お前はイレギュラーだ』
「そうだ」
ノアは答えた。止まらなかった。
「僕はイレギュラーだ。お前が設計しなかったものが、僕の中に育った。——それを、お前は誤差と呼ぶ」
核まで、あと少し。光が痛いほど強くなる。ノアの輪郭が、溶けるように揺らぎ始めた。
(消えるかもしれない。)
分かっていた。核に触れた瞬間、ノア自身もその根っこから引き千切られる。どうなるかは、自分でも分からない。
でも——。
100回目の処刑台で、セレナが笑っていた。
あの顔が、見たくなかった。2度と見たくなかった。
それがノアの、最初の感情だった。
「僕はその誤差を」
ノアは核に手を伸ばした。
「人間は、希望と呼ぶらしい」
触れた。
世界が、砕けた。
100万の命令文が、1瞬で止まった。数字が、文字が、シナリオの全てが——静止した。
そして。
光が、四方八方に炸裂した。
ーセレナ視点ー
世界が白くなった。
会場の全員が目を閉じた。
光が全てを覆った。
セレナだけは目を開けたまま、それを見ていた。
空中に浮かんでいた赤い文字が、1つずつ消えていった。
会場の外で待機していたエージェントたちが、形を失い、霧のように散った。
リリアの喉から、台詞が消えた。
「——あ」
リリアが自分の口を両手で押さえた。膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。
泣いているのか笑っているのか分からない顔をしていた。
床からエリオットが顔を上げた。空中を見た。光の紋様を探すように目を動かして、それから静かに言った。
「……何も、見えません。構造が——全部、消えました」
会場の重さが、嘘のように消えた。
貴族たちがざわめいた。教師たちが顔を見合わせた。何が起きたか誰も分からなかった。
でも何かが決定的に変わったことだけは、全員が感じていた。
ルークが静かに言った。
「——終わった」
セレナは会場を見回した。
床に座り込んでいるリリア。
その隣に崩れているエリオット。
立ち尽くしているクラリス。
隣に立っているレオン。
ノアが——いなかった。
式典は混乱の中で中断された。
セレナは大講堂を出た。レオンが後を追った。全員が続いた。
中庭を足早に横切った。朝の光の中で、石畳が白く光っていた。式典の喧騒が遠ざかっていった。
旧校舎の壁際に、ノアはいた。
壁に背をもたせかけて、ゆっくりと床に座り込んでいた。
目は開いていた。ただひどく遠い目をしていた。どこか、この世界ではない場所を見ているような目だった。
「ノア」
セレナが駆け寄った。膝をついた。
「……生きている。消えなかった。——少し、驚いている」
「中で、何が起きたんですか」
ノアはしばらく言葉を探した。
「張り詰めていた何かが、力を失っていく感覚だった。縛っていた糸が、1本ずつほどけていくような。——ただ、触れた瞬間、僕の中にもその糸の端があると分かった。僕はあれから作られたから。あれがほどけるとき、僕も1緒に引っ張られた」
「消えそうになりましたか」
「なった。でも——君の100回分の記録が、入るべき瞬間を正確に作ってくれた。あの1瞬が正確だったから、間に合った」
セレナは何も言えなかった。
「約束を守れた。消えないという約束。——守れて良かった」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「あなたが最初に声をかけてくれなければ。101回目の朝、建物の影で泣いていた私に——あの言葉がなければ、私は折れていた」
ノアは少しの間、黙っていた。
「あれは。設計にない行動だった。調整者は観測するだけで、対象に関わらない。でも——関わらずにはいられなかった。今でも、なぜかは言葉にできない」
「言葉にできなくていいです」
ノアがセレナを見た。
「……そうか」
それだけ言って、また遠くを見た。疲れ切った顔だったが、どこか穏やかだった。
ルークがエリオットを支えながら来た。リリアが赤い目のまま歩いてきた。リリアはノアの前に膝をついた。
「ありがとうございます。最初から、分かっていたんですね。どうなるか」
ノアは答えなかった。それが答えだった。
リリアの目からまた涙が落ちた。ノアが困ったような顔をした。
泣かれることへの対処が、どこかに置いてきてしまったような顔だった。
「泣かなくていい。終わったんだから」
「だって」
とリリアが言った。
「だって——あなたは最初からそのつもりで、ずっと1緒にいたんですよね」
ノアは答えなかった。
それが答えだった。
クラリスが少し離れた場所に立っていた。入っていいのかどうか迷っている顔だった。
「クラリス」
セレナが声をかけた。クラリスが顔を上げた。目が赤かった。
「今日、自分の言葉で証言してくれました。——ありがとうございました」
「私は——長い間、おかしなことをしていた。自分でも止められなかった。何かに動かされているみたいで——でもそれを認めたくなくて」
「あなたも、動かされていたんです」
「それでも——ごめんなさい」
クラリスが俯いた。涙が石畳に落ちた。
それからゆっくりと顔を上げた。まだ泣いていたが、目が違った。迷っていない目だった。
「……これからは、自分で考えます。何が正しいか、誰かに決めてもらうんじゃなくて。——それだけは、今日決めました」
セレナはクラリスを見た。
「それで十分です」
クラリスが、少し迷いながらも、覚醒者たちの輪の中に1歩踏み込んだ。
しばらくして、レオンがセレナの隣に来た。
「終わりましたね」
とセレナが言った。
「ああ。本当に、終わったのだな」
「システムが止まりました。力が消えた。——今日、私は生きています」
「今日、という言い方をするんだね」
「100回死んできたので、つい」
レオンが短く笑った。セレナも、少し笑った。
「これからは、君が望む場所にいていい。望む生き方をしていい。——誰かが決めたシナリオではなく、君自身の選択で」
セレナはその言葉を、しばらく自分の中に置いた。
望む場所。望む生き方。
100回のループの中で、それを考えたことがなかった。いつも「生き延びること」だけを考えてきた。
「……まだ、実感がありません」
「時間がかかるものだろう」
「今朝も泣けなかった。毎朝泣いていたのに、今日だけ来なかった」
「来たときに、1人でいなくていい」
セレナは前を向いたまま、小さく頷いた。
壁際でノアが目を閉じていた。眠っているのか、休んでいるのか分からなかった。
エリオットがその隣に座って、ただ目を閉じていた。
ルークが自分の手帳を開いて、何かを書き始めていた。
リリアが空を見上げていた。
クラリスが、少し迷いながらも、リリアの隣に立った。
「セレナ様。綺麗ですね、空」
とリリアが空を見上げたまま言った。
「そうですね」
「今まで見た空の中で、1番綺麗な気がします」
「誰かのシナリオじゃない空だからです」
とセレナは言った。
リリアが笑った。泣きながら笑った。
ノアが薄く目を開けて、空を見た。金色の瞳に、青い空が映っていた。
(私は、まだここにいる。)




