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第10話 記憶の洪水

7週目・Day1〜3 残り36日


旧校舎の談話室は、夜が深いほど静かになる。


ルークを床に寝かせてエリオットが傷の手当てをする間、セレナはレオンと向き合って座った。ノアは窓際に立って外を見ている。


リリアは——来るなと言ったのに来てしまったリリアは——膝を抱えてルークの傍に座っている。


誰も急かさなかった。


レオンも急かさなかった。ただ真っ直ぐにセレナを見ていた。


(どこから話す。何から話す。)


100回分の経験があるのに、この瞬間だけはいつも分からない。


いや、この瞬間は1度もなかった。レオンに全てを話したことは、100回のどこにも存在しない。


「……長い話になります」


「聞こう」


「信じられないことが多いと思います」


「それでも聞かせてくれ」


迷いがなかった。セレナは1度だけ深く息を吸って、話し始めた。



最初に「乙女ゲーム」という概念を説明するのに、思ったより時間がかかった。


前世の記憶。田中美咲という名前。画面の中で恋愛をするゲーム。プレイヤーが選ぶ物語。悪役令嬢という役割。


レオンは1言も遮らなかった。眉がわずかに動いた。それだけだ。


「このゲームの中で、私は断罪される運命にあります。卒業式の日、学園の中庭で。あなたが——」


1瞬、止まった。


「あなたが、罪状を読み上げる」


レオンの表情が変わった。変わったが、何も言わなかった。


「100回、それが起きました。100回、私は処刑されました。100回目に、記憶を持ったまま最初のループに戻ってくることができた。これが、今の私です」


沈黙。炎が揺れる音だけが聞こえた。


「……100回」


レオンがようやく口を開いた。


「100回、私が」


「あなたは悪くない。シナリオがそうさせていた。システムという——世界を動かす何かが、全員をその結末に向けて誘導していた。あなたも、リリアさんも、私も、全員が駒だった」


「それでも」


レオンの声が低くなった。


「私の声で、罪状を読み上げたんだろう」


セレナは答えなかった。


答えは「はい」だ。100回とも、レオン・ヴァレンティアの声だった。



その夜、レオンは眠れなかった。


談話室を出て、自室に戻って、ベッドに横になって、目を閉じた。


そこから先が、おかしかった。


目を閉じるたびに映像が来た。


最初は断片的だった。見覚えのない中庭。白いドレスを着た少女の後ろ姿。群衆の声。自分の声。


(なんだ、これは)


次の映像が来た。


同じ中庭。同じドレス。でも少女の顔が違う角度から見えた。目を開けていた。何かを諦めた目だった。


また映像が来た。


今度は雨だった。雨の中で同じ場面が繰り返されていた。少女が何か言った。声は聞こえない。口の動きだけが見えた。


レオンは起き上がった。額に汗が滲んでいた。


(夢、じゃない。これは夢じゃない。)


また横になった。また目を閉じた。


また映像が来た。


今度は少女の顔が正面から見えた。セレナだった。笑っていた。笑いながら、何かを言っていた。群衆が笑っていた。貴族たちが笑っていた。


そして自分が——剣を持って、立っていた。


レオンは跳ね起きた。


心臓が速かった。手が震えていた。


窓の外はまだ暗かった。夜明けまで時間がある。


(私は何を見た。あれは記憶か。夢か。それとも——)


セレナの声が蘇った。「100回、それが起きました」。


レオンはしばらく暗闇の中で動かなかった。



翌朝、レオンはセレナを探した。


中庭にいた。1人で石造りのベンチに座って、何かの書類を読んでいた。セレナは近づいてくる足音に気づいて顔を上げた。


1瞬だけ、表情が変わった。それからすぐに戻った。


「……眠れなかったのですか?」


「分かるか」


「目の下に出ています」


レオンはベンチの端に座った。少し間を置いてから、


「夢を見た」


と言った。


「どんな」


「中庭だった。雨の日も、晴れの日も。君が——白いドレスで、立っていた」


セレナの手が、書類の上で止まった。


「声は聞こえなかった。でも表情は見えた。何回も、同じ場面が来た。少しずつ角度が違って、少しずつ——」


レオンが言葉を止めた。続きを言うのが難しそうだった。


「少しずつ、君の顔がはっきりしていった」


沈黙。


「それは」


とセレナが静かに言った。


「夢ではないと思います」


「私の中に、残っているのか」


「システムは記憶を消せる。でも——100回分の蓄積は、完全には消えなかった。あなたの無意識の底に、欠片が残り続けていた。それが今、浮き上がってきている」


レオンはしばらく中庭の石畳を見ていた。


「37回目のループで」


とセレナが言った。


「何」


「37回目に——あなたは執行の最中に、1度だけ目を逸らした」


レオンが顔を上げた。


「私はそれを覚えています。100回分の記憶の中で、あの瞬間だけは何度も思い出した。あなたは人間だった。シナリオの中でも、あの1瞬だけ、あなた自身だった」


レオンは何も言わなかった。


長い沈黙の後、


「……1番怖かったのは、どのループの私だ」


と聞いた。


セレナは少し考えた。


「3回目です。あのときのあなたは、全く迷わなかった。私が何を言っても、顔色1つ変えなかった。——今から思えば、システムの制御が1番強かったループだったと思う。でも当時の私には、ただ怖かった」


「そうか」


「でも101回目のあなたは」


「101回目の私は」


「昨夜、意識のないルークの傍に膝をついた。100回分の記憶の中で、あなたがそうするのを見たのは初めてだった」


レオンは答えなかった。


ただ、中庭の向こうを見ていた。



その日の午後、レオンに2度目の波が来た。


授業の最中だった。教師の声を聞きながら、突然、映像が押し寄せた。


今度は断片ではなかった。


連続していた。流れていた。雨の中庭が、晴れの中庭に繋がって、夕暮れの中庭に繋がって、また雨に戻って——同じ場所で、同じ少女が、何度も何度も、立って、倒れて、また立っていた。


声が聞こえ始めた。


自分の声だった。


「——セレナ・アルヴェインの罪状を読み上げる」


レオンは立ち上がった。教師が驚いた顔をした。「殿下、どうなさいましたか」


「……失礼する」


廊下に出た。壁に手をついた。


映像が続いていた。止まらなかった。


1回目の処刑。2回目の処刑。顔のないセレナが、顔のあるセレナに変わって、また違うセレナに変わって——全部が自分の手によって、自分の声によって、終わっていった。


「殿下」


エリオットの声だった。いつの間にか傍に立っていた。


「……なぜここに」


「気になって授業を抜けてきました。——今、映像が来ていますか」


レオンは答える代わりに、壁から手を離した。立てた。足が震えていた。


「これは」


「覚醒の過程です。記憶の統合が始まっています。辛いとは思いますが——今のところ、止める方法がありません」


「全部、私の中に入っているのか。100回分」


「そういうことになります」


レオンはしばらく廊下の壁を見ていた。


「セレナは」


「講義室にいます」


「……呼ばないでくれ。今は」


「分かりました」


「君も行ってくれ」


エリオットは1瞬だけ迷ったが、頷いて廊下を戻っていった。


レオンは1人で壁に背をもたせかけた。


目を閉じた。映像が来た。受け入れた。


100回分のセレナが、順番に、レオンの中を通り過ぎていった。



夜、レオンがセレナの部屋の扉を叩いた。


セレナが扉を開けた瞬間、レオンの顔を見て、1歩だけ後退した。


顔色が悪かった。目が赤かった。それでも立っていた。


「……入ってもいいか」


「どうぞ」


部屋の中に入って、椅子に座った。セレナは向かいに座った。ランプの灯りが2人の間にあった。


しばらく、何も言わなかった。


「午後から、ずっと来ていた」


「映像が」


「ああ。……全部は分からない。でも何十回分かは、見た」


「無理に見なくても……」


「いや」


レオンが首を振った。


「私が見なければならない。君が全部経験したなら、私もせめて——」


「あなたに贖罪をさせたいわけじゃない」


セレナの声は静かだった。


「私があなたに話したのは、一緒に戦うためです。あなたが罪悪感で動けなくなることを望んでいない」


「……分かっている。でも」


レオンが言葉を止めた。


長い沈黙の後、


「君を見るたびに、私の手が見える」


と言った。


「……それでも、見ていてくれますか」


セレナが言った。


レオンが顔を上げた。


「逃げないでいてくれるなら、それで十分です。罪悪感は——あなたが生きている間に、少しずつ返してもらえばいい」


レオンはしばらくセレナを見ていた。


それから、ゆっくりと、


「……ああ」


と言った。


「逃げない。101回目は、私が選んで隣にいる」


ランプが揺れた。外で風が吹いた。


セレナはその言葉を、100回分の記憶の底に、そっと仕舞った。



3日目の朝、レオンの覚醒が完成した。


旧校舎の談話室。エリオットが張った監視遮断の魔法陣の中で、6人が集まっていた。


「全部、分かった。……正確には、全部ではない。でも自分が何十回もセレナを——処刑したことは、分かった。システムというものが何なのかも、おおよそは分かった」


「よく、正気でいられますね」


とリリアが言った。素直な驚きだった。


「正気かどうかは分からない。ただ、やることが見えている」


レオンがセレナを見た。


「残り36日。私は何をすればいい」


セレナはルークを見た。ルークが頷いた。


「1つだけ、あなたにしかできないことがあります」


「言ってくれ」


「王太子として、公式証言を残してほしい。システムは私とリリアさんの間に積み上げた証拠を、全て反転させた。悪意の証拠として塗り替えた。でも——王太子の公式発言は、貴族議会の記録に即時転写される。エリオットが事前に記録を守れば、システムが書き換えられない証拠になる」


「……消えない証拠を作る」


「はい。1つでいい。消えないものが1つあれば、流れが変わる」


レオンはしばらく考えた。


「いつやる」


「準備が整い次第。エリオット、記録を守るのにどれくらいかかりますか」


「2日あれば」


「なら、5日以内に」


レオンが頷いた。


「分かった。やる」


それから少し間を置いて、


「1つ確認していいか」


「何ですか」


「君は——セレナは、今、怖いか」


唐突な問いだった。ノアが窓際で少し顔を動かした。


セレナは正直に答えた。


「怖いです。36日、足りるかどうか分からない。システムがまだ何を持っているか分からない。——でも、101回目でこれだけの人が集まった。それはどのループにもなかったことです」


「そうか」


レオンが頷いた。


「なら、私も怖い。でも行く」


談話室に朝の光が差し込んできた。


残り36日。


6人の覚醒者が、初めて同じ方向を向いた朝だった。 でも今は——少しだけ、眠れる気がした。

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