取材
その病院の噂を聞いたのは、最初の死のあとだった。
死体安置所で、人が死んだ。
死因は心不全。
事件性はなく、警察も入っていない。
話としては、それだけだ。
ただ、顔が少し、おかしかったらしい。
私はそういう噂を集める仕事をしている。
幽霊だとか、祟りだとか、そういうものの周辺にある話だ。
科学的な裏付けはない。
当事者の記憶も曖昧だ。
だからこそ、残る。
その病院の話も、最初は弱かった。
怪談としては成立しない。
人が死ぬ場所で、人が死んだだけだ。
噂を教えてくれたのは、古い知り合いだった。
「顔がね」
電話の向こうで、彼はそう言った。
「怖かったんだって」
怖かった、というのがどういう意味なのか、彼自身も説明できていなかった。
叫んでいたように見えた、とも言った。
何かを見ていたみたいだった、とも言った。
ただ、死因は心不全で、記録はきれいに揃っている。
「それ、よくあるよ」
私はそう返した。
苦しさで表情が歪むことはある。
恐怖とは限らない。
彼は納得しなかった。
納得しないまま、別の話を足してきた。
「夜だったらしいよ」
「誰もいない時間」
「冷蔵庫の音が、止まったとか」
死体安置所にある冷蔵庫は、止まらない。
止まったなら、それは故障だ。
だが、その言い方は、機械の話ではなかった。
その時点では、まだ幽霊という言葉は出ていない。
ただ、説明が足りない感じだけがあった。
病院に直接行ったのは、その数日後だ。
取材というより、様子見だった。
怪談になるかどうか、それを確かめる程度の気持ちだった。
病院は、よくある総合病院だった。
新しくもなく、古すぎもしない。
人の出入りは多く、昼間は明るい。
広報は淡々としていた。
質問に答え、答えられないことははっきりそう言った。
「心不全です」
「勤務中の急変でした」
「事故性はありません」
それ以上の話はなかった。
死体安置所について聞くと、少し間があった。
拒否ではない。
ただ、選ぶ言葉を探している感じだった。
「業務上、立ち入れる人間は限られています」
「点検も記録も、規定通りです」
規定通り。
それは、この手の話でよく出てくる言葉だ。
病院の中で、噂は表立っていなかった。
誰も大声で話さない。
ただ、言葉を選ぶ人が多かった。
看護師の一人は、こう言った。
「亡くなった方は、真面目な人でした」
「夜勤も慣れていて」
「無理をするタイプじゃなかった」
だから不思議だ、という言い方ではなかった。
ただ、事実を並べただけだった。
別の人は、こう言った。
「顔のことですか?」
「見てないです」
「記録では、穏やかだったって」
穏やか、という言葉が、少し浮いて聞こえた。
噂は、病院の外の方がよく育っていた。
近所の人、患者の家族、関係の薄い人たち。
「夜に声がするらしい」
「前から、あそこは変だった」
「関わると、よくないことが起きる」
誰も、はっきりとは言わない。
幽霊だ、と言い切る人もいない。
ただ、死体安置所という場所だけが、少しずつ色を帯びていった。
私は、記事にはしなかった。
怪談としては弱い。
説明がつく話ばかりだった。
それでも、メモは残した。
名前。
日時。
場所。
最後に書いたのは、こんな一文だった。
――心不全。
――表情に違和感あり。
――以降、噂が増える。
その時は、まだそれ以上の意味を考えていなかった。
噂は、そうやって始まるものだから。




