第二十七話 実物
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
廃屋のような古いビルだった。
外壁のコンクリートは煤け、窓のいくつかは目隠しのように板で塞がれている。
人の出入りがある痕跡は残っているが、
ここを訪れる理由を積極的に探す者はいない。
軋む音を立てながら、二人は階段を上っていた。
先を行くのは母親。
その一段後ろを、井出耕造が続く。
井出耕造の腕には、板状の荷物。
厚い段ボールの緩衝材に包まれ、角だけが硬さを主張している。
大きさは、およそ八十センチ×百二十センチ。
この階段には、明らかに過剰だ。
井出耕造は、壁に当てないよう荷を斜めに保っている。
左に寄せれば手すりに触れ、
右に傾ければ、剥がれかけた壁紙に擦れる。
一段。
また一段。
途中で、井出耕造は立ち止まった。
息を吸い、吐く。
もう一度、吸う。
母親が振り返る。
「大丈夫?」
井出耕造は短く頷いた。
声は出さない。
再び、階段を上る。
三階。
突き当たり。
プレートの外れた、質素なドア。
装飾も、色気もない。
その脇に、小さな看板が掛けられている。
——古物診断所。
それだけだ。
用途を示しているようで、何も説明していない。
井出耕造の呼吸は荒い。
緩衝材越しに、腕の震えが伝わる。
母親がドアをノックした。
二回。
間を置いて、もう一回。
中で、音がした。
木製のカウンターテーブル。
その向こう側に座っていたミナトが、静かに立ち上がる。
白いブラウス、黒のタイトスカート、黒髪を後ろに束ねている。
黒のハイヒール、足音はない。
椅子の擦れる音もない。
ーー三日前。
井出耕造から、ミナトの端末に届いたメールは短かった。
イメージデータでは足りません
実物をお見せします
定型文ではない。
感情も、理屈も、過不足なく削ぎ落とされている。
ミナトは画面を閉じた。
不要だ。
工程は、データで完結する。
そう判断し、返信を打つ。
持ち込みは不可
データで共有してください
送信。
数分後、返ってきた。
私の美しい女はコピーでは伝わりません
あなたはこの実物を見る必要がある
ミナトは椅子の背にもたれた。
——あなたは、この実物を見る必要がある。
("実物"?生身の女でも見せようというの?)
例え、生身の人間を《Look&Feel》のベースにしたところで、最終的にはデジタルコピーに落ちるのだ。
間髪入れず、次のメールが来る。
これだけは譲れません
交渉ではない。
懇願でもない。
要求だ。
かつて、卑しい視線で自分の脚を盗み見た男が、
今は「必要」を突きつけてくる。
通常クライアントは、転写の対象となる人物の健康な頃の状態をそのま《Look&Feel》で再現する事を望む。
彼らは、その人物の若い頃の写真データ、歌声などの音声データなどを送ってくる。
だが、井出耕造の場合はこれまでのケースとは全く異なる。
"美しい女"の姿で自分のデュプリカントを作ろうというのだ。
つまり、再現の為の《Look&Feel》ではないのだろう。
この世には実在しない何か...いや、実在はするが生きてはいない...
(アニメのキャラクターのフィギュア...)
「……フッ」
ミナトの表情筋が、わずかに動く。
ミナトは、淡々と打ち返した。
契約事項に反する特例扱いは今回限りです
以降の契約違反は、契約放棄と見なします
その場合、弊社に契約金の返金義務は発生しません
返事は、すぐに来た。
三日後に実物を持って、母と一緒に伺います
——そして今。
ノックの音。
ドアの向こう側に、
コピーでは伝わらない「実物」がいる。
ミナトは、カウンターテーブルの脇に立っている。
ドアが、ゆっくりと開いた。




