第十八話 誘餌
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
北九州郊外。
研究都市と呼ばれる一帯は、海からの風を遮るものがない。
低い丘陵を削り、均された土地に、研究棟や実験施設が静かに並んでいる。
どれも似た高さ、似た色調。
ここでは、目立たないことが秩序だった。
フリーランチャー株式会社の研究所も、その一角にある。
RC造、地上三階。
外壁に掲げられた社名は小さく、意図的に主張を抑えた配置だった。
地下に三層掘り下げられていることを示すものは、外からは何も見えない。
正面エントランスの前に、小さな広場がある。
舗装されたコンクリートの中央に、黒い御影石の慰霊碑が立っていた。
《ここに記す
一年前の事故により命を落とした研究員の名を
我々は決して忘れない
彼らの犠牲が無駄となることのないよう
我々はバイオAIテクノロジーの研鑽に努め
人類の平和と繁栄に貢献することを
ここに誓う》
名前は二つ。
肩書きも、所属部署も刻まれていない。
理念だけが、丁寧に磨かれている。
社内では、今も「事故」という言葉が使われている。
そう記録され、そう説明され、そう扱われている。
だがそれが事件であったことは、
すでに立証されている。
外部の調査と、Friendsによる解析によって、
爆破は意図的なものであり、
偶発的な災害ではなかったことが明らかになっている。
それでも、この碑の文言は変わらない。
昼休みの社員たちは、その前を無意識に避けて通る。
立ち止まる者はいない。
だが、視線を向けずに通り過ぎる者もいない。
ここでは、
知っていることと、語られることは一致しない。
研究所の内部は清潔で、静かだった。
白い床。
ガラス張りの会議室。
廊下の壁面には大型モニターが並び、神経信号を模した波形や、情動応答モデルのログが淡々と流れている。
研究員たちは普通の顔をしている。
コーヒーを片手に雑談を交わし、キーボードを叩く。
ここは、合法なバイオAI企業だ。
少なくとも、表向きは。
三階の奥、外部から隔てられた区画に、村上の研究室がある。
厚い扉は遮音性を優先した実験室仕様で、軽くは開かない。
室内は簡素だった。
広いデスク。
大型モニター。
壁際に積まれた資料箱。
パーティションで仕切られた応接ブース。
装飾はない。
村上はデスクに腰を下ろし、モニターを見つめている。
金髪のオールバック。
口髭。
耳のピアス。
切れ長の目。
映っているのは研究進捗ではなく、案件管理の一覧だった。
その中に、ひとつだけ、正式名称を持たない行がある。
――非公開業務
――高負荷人格同期実験
村上は視線を外し、窓のない壁を見る。
一年前。
この研究所の建設現場で起きた爆破。
炎と爆風の中、倉庫から命懸けで運び出された"機器"。
そして、命を落とした研究員。
碑に刻まれた二つの名前を、彼は順番に思い出せる。
忘れないようにしているわけではない。
忘れられないだけだ。
村上は知っていた。
あれはテロだ。
この落とし前は必ず付ける。
そして、"それ"はもう動き出しているのだ。
村上はモニターに視線を戻す。
その瞬間、フワッとチャットツールのスプラッシュ画面、次にターミナルウインドウが現れた。
村上はターミナルウインドウにコマンドを打ち込んだ。
>eM Kcuf
次の瞬間、ビデオウインドウに、髪の長い無精髭の男の姿が現れた。
「こんにちは、九条さん」
「ベータを一人頼みたい。カルテを見てくれ」
村上はターミナルウインドウにコマンドを打ち込む。
>HctibafoNos
モードレスウィンドウが立ち上がり、井出耕造のカルテが表情された。
村上の切れ長の目の奥の瞳が、素早くカルテをなぞるように移動する。
「ほう、これは...」
「どうだ、面白いだろう。ミナトのランクは"極上玉"だ」
「承知いたしました」
「コイツは、例の武装倫理団体にとっても絶好の機会になるはずだ」
「はい、承知しています」
「この間話した、“ある筋”の用心棒の斡旋を覚えているだろう」
「はい」
「試してみたい」
「ほう」
「転写のマスタースケジュールと請求額の見積もりを送ってくれ」
「はい、直ぐに」
チャットツールがフワッとフェードアウトしていく。
村上は、アドレスリストを開き、田村メイコに業務コードを送った。
>69




