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第6話 無名の護り手

三人は高台から慎重に下り、夕焼けの尾根道へと身を細くして消えていく。背を押す谷風はさっきより柔らかく、フェルンホルムの森は、ほんの少し近かった。


三人が進んだ森の先、祠の奥、岩棚に沿って半円に並ぶ青銅の群像があった。

中央はマントを翻した先頭の剣士。左右に盾持ち、弓手、槍兵、衛生兵……いずれも名は記されず、足元には小さな紋や傷跡だけが刻まれている。台座にはただ一語——《無名》。

風鈴の糸のように細い谷風が、像の間を渡っていった。


「これです。名もなき群像です。戦後、師匠が毎年、磨きに通って……」

テオは誇らしげに胸を張る。


先頭の青銅は、若き騎士の姿をとどめていた。翻るマント。欠けた鼻。肩の緑青。

ルカは見上げ、はっと息を呑む。


「これ、中央……爺ちゃん?」


クレインは何も答えず、群像へ歩み寄った。指先で一体の顔の汚れを払う。ふと、その目元が和らいだように見える。


「“無名の護り手”って、群像のことだったのか……」

ルカは小声でこぼす。


テオが修復道具を広げる横で、クレインはそっと手甲を外し、手拭いを取り出した。

「剣と同じじゃ。像に触れる前に、息を合わせい。“いち”で入れて、“に”“さん”で拭く」


彼は自分の像には手を伸ばさない。隣の盾持ちへ向き直り、古い友に触れるように布を当てる。


「ラガルド……また盾の縁で、ワシの脛を打つなよ」


次に弓手の頬を軽く磨く。

「ベルナ。あの丘の逆風、よう射抜いた。……顎をひけ。視界が広がる」


槍兵の手元——指のささくれを撫でるみたいに。

「ヨズ。槍は“押す”でなく“通す”ぞ。……そう、その拍じゃ」


衛生兵の小瓶には薄く蝋をのせる。

「ハンネス。おぬしの罵声は薬より効いたわ。よう怒鳴ってくれた」


偵察の娘の髪飾り。欠けを確かめ、そっと息を吹き掛ける。

「ミラ。歌は小さく、と言うても聞かなんだのう……」


ルカは見入った。テオはいつしかタガネを置き、自然と頭を垂れている。

クレインは一体ごとに拍を刻み、間を置いてから次へ移った。教場での型と寸分違わぬ間合いだった。


(“古い剣術”は、力じゃない……記憶を通すための設計だ)

ルカは胸の内で静かに言葉を組み立てる。


名を刻まれぬ名が、布の下で息を吹き返す。

最後に中央——若き日のクレイン像の前へ。だが手は伸ばさない。剣拭いを畳み、胸に当てる。


「真ん中は、磨かないんですか?」

思わず問うテオに、クレインは穏やかに笑った。


「風雨に任せる。ワシは、まだ道の途中じゃからな」


群像へ向き直り、声を低く落とす。

「待たせたな。もう少しでそっちに行く。その前に、ワシ——やっと冒険に出るんじゃ。……土産話を、もう少し溜めてからのう」



麓の小屋に戻るころには、山の影がすっかり谷底へ落ちきっていた。戸口の前で靴底の泥を払うと、土間の焚き火がぱちりと迎える。薬缶が低くうなり、外では水車のきしむ音がときおり風に乗った。


戸がきしみ、オルソが入ってくる。肩に麻袋、指先に金属の匂い。

「テオ、遅くなった。材料の追加を——」


目の端でクレインを捉えると、ふっと目礼。呼吸を一拍おいて、何も知らぬ体で踏み込んだ。

「遠路ご苦労様です。……茶でも」


湯呑が配られる。焚き火の光が梁に揺れ、湯気が三筋、静かに立つ。


クレインは一口すすって、視線を窓の外へ流した。

「……この辺りも、立派に復興したのう」


「ええ。橋も畑も戻りました」

オルソは火の高さを指で測りながら言う。

「戦の爪痕は、土と人で埋めるもんです」


ルカが湯呑を両手で包み、遠慮がちに口を開く。

「像の“無名”って、どういう——」


オルソは炎を見つめた。

「戦は表向き“和平”で終わったが、実のところは……ほとんど降伏だった。敵国は“英雄”を嫌う。火種になるからな。

だが撤退戦の先頭に立った剣士がいた。兵を置いて逃げず、最後尾で道を開いた男だ」


一拍。オルソはまっすぐクレインを見る。焚き火が小さく爆ぜた。


「——英雄に命を救われた兵士が、職人になって銅を打つ。名を刻めぬなら、山に立てばいい。見上げた者だけが知ればいい」


ルカは湯面の波を見つめ、短く息を吐く。

「……じいちゃん。撤退戦の話、ほんとうだったんだね。疑って、ごめん」


クレインは穏やかに笑った。

「気にするな。話は半分で聞くくらいが丁度よい。ただ、自分の目で確かめたら、その半分を埋めればええ」


膝の上で剣拭いをそっと撫でる。

「……長いあいだ、あやつらを磨いてくれておるな。名の代わりに“拍”を銅に刻み続けてくれて、礼を言うぞ、オルソ」


オルソはかすかに笑い、湯呑の縁を指で一度、ことりと叩いた——一拍。

「こちらこそ、隊長殿。あの夜、殿に立ってくれなきゃ、俺は土の下でした。生かされた身でやるべき仕事が、これです。……ありがとうございます」


「腕は鈍っておらんようじゃの、オルソ」

「師の“拍”は、手が、魂が覚えてます」


テオは意味を測りかねて目を瞬かせ、ルカは息をのみ、黙って湯呑を持ち直した。

外の風は山から里の匂いに変わり、水車の軋みが遠のいていく。真剣なほど可笑しい静けさの中、三つの湯気はゆっくり混じり、麓の夜はやわらかく沈んでいった。




翌朝。麓の小屋の戸がきしみ、冷えた土間に朝の匂いが流れ込んだ。

外では水車が湿った風に一度だけ軋み、オルソが簡素な握り飯を包んで差し出す。テオは荷の紐を締め直し、会釈した。


「王都に戻った後は、隊長殿?」

「グレイマーチ高原に向かおうと思う」

「そうですか……戦友たちに私の分もよろしくとお伝えください」

「任せい。——行くぞ、ルカ」


街道に出る。露の粒が麦の切り株に並び、三百歩ごとに光り方が変わる。

その三百歩目で、クレインは路傍の石に腰を下ろし、木剣を膝へ渡した。ルカは手帳を閉じて、筆を耳に挟み直す。


「ねぇ、じいちゃん」

「なんじゃ」

「なんで徒歩なの? 馬車の方が早いし、じいちゃんは三百メートルしか歩けないのに」


クレインは笑って顎で道端を示した。

「歩くとの。景色が三百歩ごとに一枚ずつ、手に入るんじゃ。……ほれ、見い。この春告草、美しいと思わんか」


白い小花がひと束、石の割れ目から顔を出している。薄い花弁が朝の光を透かした。


「それ、春になったらどこにでも生えるよ」

ルカは肩をすくめる。「図鑑だと“繁茂注意”の雑草マーク」


「図鑑は季節で書く。儂は今日で覚える」

クレインはそっと花茎の向きを風に合わせる。

「……次の春が来れば——じゃな」


ルカの手が、手帳の上で止まった。

「……じいちゃん?」


答えの代わりに、風に一度だけうなずく。

クレインは木剣を立て、膝に軽く力を集めた。


「さて、もう一枚、取りに行くか」

「うん。じゃ、三百歩の一枚ね」


二人は歩き出す。

ルカは耳の筆を外して、手帳の片隅にさらさらと書きつける。


——三番は、歯に砂、靴底に泥。

 それでも歩け、拍を刻め。


「何を書いた」

「行軍歌の“非公式三番”。今日の色で、ね」


「ほう」

膝がぱきん、と小さく鳴る。ルカが片眉を上げる。


「膝で返事しないでよ」

「老骨の仕様じゃ」


二人の笑いが柳の葉擦れに溶けた。

三百歩の拍を数え終えるごとに、道はわずかずつ前へ伸びる。歩みは遅い。けれど確かに——一枚ずつ、重なっていった。



「——残寿:9ヶ月・往復2ヶ月の冒険」


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