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第5話 一分の防人


麦畑の縁を、風が右から左へ撫でていく。小川の石橋を渡れば、道は緩やかに起伏しながらフェルンホルムの森へ続いていた。クレインとルカは肩を並べ、同じ影を道に落として歩く。


ルカは立ち止まらずに地図を畳み、帯の間に挟んだ。

「……あと三キロ。十回休憩しても、昼には着くね」


前を向いたまま、クレインが鼻歌を洩らす。

「帰るは西風道は土——」


「今の歌、なに?」

ルカが首だけで訊く。


「昔の行軍歌じゃ。三番がようできとる」


ルカは手帳を開き、記憶の棚を捲る。

「“王立史叢”に載ってないよ。戦後の標準歌集だと、二番まで」


クレインは肩をすくめた。

「三番は、土の味がするからの」


ちょうどそのとき、荷車が彼らを追い抜いた。御者のおばさんが歌を二番だけを辿り、三番の手前で途切れる。車輪のガタガタが歌を押し流していった。


ルカが小さく笑う。

「ね。やっぱり二番まで」


「本に載らんから、無かったことにはならん。魂は覚えとる」


「でも歴史は記録が第一だよ」ルカは半笑いのまま言う。「じいちゃんの“撤退戦の英雄譚”、教科書にはない。つまり、じいちゃんの話は……」


クレインは足を止めない。

「脚色かもしれんし、そうでもないかもしれん。退く話は、書きにくい」


道端で、倒れた樽に若い農夫が取りついていた。額の汗を拭う暇もなく、力任せに持ち上げようとしている。クレインは言葉もなく石を一つ蹴り寄せ、梃子の支点を据え直す。木の棒を差し込み、体重を乗せると、樽はため息のようにころりと返った。


「助かりました!」

農夫が頭を下げる。


クレインは口の端を上げた。

「剣も樽も、力より“理合い”よ」


ふと、路傍の道標に目が止まる。銘板の一角が丁寧に削られていて、そこだけ石肌が新しい。

ルカは指先でその平面をなぞった。

「……前の文字、消してある?」


クレインは空を見上げた。

「風が強かったんじゃろうて」


ルカはため息をひとつ落とす。

「風で消えるなら、僕は書き留めたい。……でも“英雄”は載ってない」


クレインは軽く咳払いをして、照れを紛らわせるように帽子もない頭を撫でた。

「載っとらん“良いこと”もある。誰かが楽に眠れる」


小さな間が置かれ、ルカは自然と歩幅を合わせた。


「じゃあ僕は、“歩いた跡”だけ拾ってく」


「拾うなら、つま先で。踵から踏むと、音でばれる」


言い終えたとたん、クレインの膝がぱきん、と小気味よく鳴った。


ルカが眉を上げる。

「音でバレた」


クレインは苦笑し、両手を広げて見せる。

「老骨の仕様じゃ」


二人の笑いが、麦の穂のざわめきに溶けた。やがて道はゆるやかに盛り上がり、峠の向こうにフェルンホルムの森が濃さを増す。青みを帯びた緑の塊は、日差しの角度で時折きらりと光り、そこへ向かう影を静かに飲み込んでいった。



村の外れ、麦が尽きて荒れた土が見え始める場所に、荷馬と道具箱が待っていた。荒い鼻息が鐙金を曇らせ、木の箱にはのみや槌、石灰袋がぎっしり詰まっている。

若い男が手拭いで額をこすり、こちらへ頭を下げた。


「王都ギルドの方?自分、テオっていいます。師匠の代わりで……その、山の銅像、剥落がひどくて」


ルカが道具箱に目をやりながら、手帳を開く。

「像は誰の?功績とか年号とか、銘は?」


テオは肩をすくめ、申し訳なさそうに笑った。

「“無名の護り手”ってだけです。昔の戦の人らしいっす。詳しくは……師匠も多くは語らないんで」


クレインは小さく鼻を鳴らした。

「無名、か。……行くかのう」


短い合図で、荷の紐が締め直される。テオは手際よく道具箱を馬の背へ移し、ルカは地図を胸元に収める。クレインは剣を肩に担ぎ、足首を一度だけ回した。


山道の入口は、雑木の影が濃く沈み、ひんやりとした気配を吐き出している。鳥の声が遠くで跳ね、小川の流れが細く応える。


崩れかけた細道に、谷風が斜めから吹き上がる。


「ここ、たまにグレイウルフが出るって……」

テオの声は風に削られ、頼りない。


谷風が岩を擦れて鳴った。

その上を、遠く薄く——狼のような遠吠えがひとすじ走る。耳にかからぬほどの細さだが、二度、三度と反復し、山肌のどこかで反響が返った。


クレインの足が半歩だけ速くなる。

「……急ぐぞ」

声は低いが、命令の拍がある。


「い、今の、聞こえました?」とテオ。喉が自分の声に驚いている。

ルカは地図を握り直し、紙の端をギュッと折る。「気のせい、だといいけど……」


風が向きを変え、草いきれの奥から生き物の匂いが混ざった。

石橋を渡り切る瞬間、足裏にかすかな振動。草海の一角が、波のように反対方向へ凹む。


「来るぞ」

クレインの声が、今度は短い。歩幅を合わせる余裕は切り捨て、細道の勾配を稼ぐ。


しかし道は崩れかけ、片側は切れ谷、片側は岩壁。逃げ場は風だけにある。

低い唸りが増え、灰色の影が草を割った。ひとつ、またひとつ。形は細く、目だけがよく光る。


「グ、グレイウルフ……!」テオの声がひっくり返る。

ルカは喉を鳴らし、詠唱の第一語が舌に貼りついて出てこない。


影は扇のように広がり、細道の前後を塞いだ。

扇の正面に四、左の藪に三、右の影に二。計九。

岩と谷に背を押しつけられる形で、三人は一歩も退けない。

風が抜け、草が同じ方向へ倒れる。その中心で、灰色の群れが低く姿勢を落とした——囲まれた。


「来る……!どうしよう、魔法!?詠唱をはやく!?」

ルカの言葉は半ば悲鳴だった。


「ルカ!」クレインの声が風を断つ。「深呼吸して周りを見るんじゃ。——上の岩場へ。あの高みだ、正面一列!」


三人は斜面を小走りに移動し、幅二間ほどの平らに陣取った。背には岩、前は狭い下り。風が正面から抜ける。

クレインは短く指示を畳む。

「ルカ、詠唱を始めい。風と音の衝波じゃ。六十秒、ワシが守り切る」


ルカは頷き、低い連声で言葉を紡ぐ。

「……風位を束ね、空気を撓め、我が声に応えし蒼穹の精霊よ──」



クレインは足元から扁平な石を選り、手の中で重みを測った。

グレイウルフの群れが扇状に広がり、岩場の下で低く唸る。


一投。石は岩肌に当たって跳ね、鼻先にち、と弾いた。

二投。谷側の石へ角度をつけ、尻にこつん。

三投。斜めの面を渡り歩くように弾み、耳の後ろをかすめる。


痛みと驚きが群れを崩す。前列は出られず、後列が詰まる。狭所で獣の呼吸が渋滞した。

「“いち”で投げ、“に”で跳ね、“さん”で届く。——ほれ、詰まった」

クレインの声は低く、一定だ。


「残り三十秒……!」

ルカの詠唱陣が拍ごとに光点を刻む。その明滅が残り秒を教えた。


一頭が焦れて跳んだ。クレインは石を真下へ弾ませ、返りで顎下をち、と撃つ。獣は着地を外し、手前で伏せた。


右の二頭、目が据わった。クレインがマント広げ身体を大きく見せ威嚇する。


「……空気、束ね、震わせ、音を刃に——残り二十秒!」

ルカの声が速く、滑らかになる。


群れの背後で一頭が回り込みを試みた。

クレインは投石で間を止め、抜かずの鞘で鼻先を払う。混乱はさらに深まり、獣は舵を乱していく。


「良い子じゃ。——そのまま踊れ」


獣たちの混乱が頂点に達した時、ルカの詠唱が最終段に入った。


「風脈、結界、鼓膜を震わす——震盪波ソニック・サージ!」


「今じゃ、正面三歩!放て!」

クレインの合図と同時に、ルカは両掌を突き出す。

見えない衝波が轟音を背負って扇状に走り、群れの耳を打った。獣は耳を伏せ、体勢を崩す。足場の悪い坂が牙を剥き、灰色の影は雪崩のように後退する。


最後尾へ、クレインが一投。石は岩で二度跳ね、逃げ足の尻を軽く叩く。獣はさらに速度を上げ、森影に溶けた。


静寂。風だけが草を渡った。


「……一分、長かった」

ルカは肩で息をする。


クレインは剣で地をカツ、と叩いた。

「長く“感じた”だけじゃ。拍を刻めば、一分は守れる」


テオが胸を撫で下ろす。

「みんな無事だ……」


クレインは短く頷いた。

「上出来じゃ。——ルカ、進軍するときは周りをよく見て進め。地形、風向き、遮蔽物、すべて味方にできるようにな」


「うん……」

ルカは取り乱した自分を噛みしめるように頷き、祖父の声を胸に収めた。


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