第4話 闘気の利息
宿の一室。窓を閉めた室内に、燻るランプの匂いと湿ったタオルの冷気が混じっている。寝台にはクレイン。脇に水盆、卓上には粉薬の小包。看病するのはルカとバルガスだ。
「闘気は魔法と違う」
バルガスが脈を診ながら低く言う。
「外からマナを借りる魔法に対して、闘気は体内の生命エネルギーを練り出すからな。……旅の疲れが、まとめて来たんだろう」
「そう、ですか。よかった、無事で……」
ルカの肩がわずかに落ちる。
枕元でまぶたがぴくりと動いた。クレインは薄く目を開ける。バルガスはそれに気づいたが、ルカには告げなかった。
「ルカ、氷が切れた。魔法で少し作ってきてくれ」
「わかりました」
ルカが出ていく。扉が閉まる音を待ってから、バルガスは小声を落とした。
「師匠、人払いしました。もう大丈夫です」
「さすが我が一番弟子。気が利くわい」
上体を支え起こしながら、バルガスは表情を引き締める。
「闘気の消耗だけでは、ないですね。お身体の調子……よくないので?」
短い沈黙。クレインは視線を逸らさず、淡々と告げた。
「……医者が言うには、あと一年ということじゃ」
バルガスは歯を食いしばった。
「そうでしたか。急に冒険者になられたいと……何かあるのではと思っていました」
「気に病むな。この歳じゃ大往生よ。かっかっか」
笑いは軽いが、息は浅い。
「私に、できることは」
クレインは指を折る。
「フェルンホルム村、グレイマーチ高原、セラフィエル。……このあたりに行きたいんじゃ」
「なるほど師匠の冒険。——つまり、巡礼の旅ですね」
バルガスはうなずく。
「承知しました。こちらから見合った依頼を手配します」
「うむ。すまんの」
しばし、ランプの芯がちり、と鳴る音だけになる。
クレインが思い出したように続けた。
「それとな。孫のルカ、大学で色々やっとる。じゃが独りよがりがすぎる。人を頼るのを“弱さ”と思う癖があってな。……何かあれば、支えてやってくれ」
バルガスは口の端を上げた。
「承知しました。武の世界とは、”信用”と”縁”で出来ていますから」
そこへ、氷の入ったタライを抱えてルカが戻る。
「じいちゃん!目、覚めたの!?よかった!」
クレインは喉を鳴らし、いつもの顔を取り戻す。
「どうじゃ、ワシの剣の切れ味。戦場で磨いた実戦仕様といったじゃろ?」
ルカは照れを隠すように氷嚢を額に載せた。
「……まあ、すごかったよ」
「さすが師匠でした」
バルガスが素直に頭を垂れる。「勉強になりました」
大げさでない笑いが三つ。窓の外では夜更けの喧噪が遠のき、部屋には氷の解ける音と、老剣士の呼吸だけが静かに流れた。
翌朝。ギルドの石段に、昨夜“囲め!”と叫んだ銀級の若者が立っていた。額には新しい包帯、手には折り畳まれた羊皮紙。
彼は剣を、刃を伏せて胸に当て、深く礼を取る。
「昨夜の無礼を詫びる。……クレインさん、あんたの太刀筋、まったく見えなかった。
フェルンホルム村へ行くんだろ? 通過印付きの巡回路略図だ。近道と検問の回避ルートが載ってる」
クレインは受け取り、鼻を鳴らした。
「気が利くのう」
若者は姿勢を正し、言葉を継ぐ。
「俺、基本からやり直したいです。一言、指南を」
「お前さんそう悪くはない。腰が少し浮いとる。それと——顎をひけ。視界が広くなる。間合いが一尺、前へ伸びる」
クレインは剣の石突きを落とし、一拍だけ身を沈めて見せた。若者の芯がすっと落ちる。
「“いち”で腰、 “に”で肩の力を抜く。 “さん”で踵を止めて、目線は眉の下……」
ルカは昨夜まで鼻で笑っていた“古い剣術”が、目の前で変わっていくのを自分でも感じていた。
意味がないと思っていたのは、間違いだった。これは力の芸じゃない。“間”を設計する技術だ——。
若者は指示通りに立ち直る。肩の力が抜け、視界がわずかに開いた。
「……見える。正面が広い」
クレインは短くうなずく。
「それでよい。剣は切る前に、通すための“間”を読む。 ワシは身で覚えた。おぬしは足で覚えい」
若者はもう一度、刃を伏せて礼を取った。
「帰ってきたら、続きを。俺のパーティに、この“拍の取り方”をクレイン殿の名で伝える。……良い風を」
クレインは石突をもう一度タンと鳴らし、マントを払った。
「行くぞ、ルカ」
「うん。……じいちゃん、その剣術——ごめん。古いなんて、取り消す。
……じいちゃんの剣、もっと知りたい」
石段を降りる二人の背に、銀級の若者の声が追いかけてきた。
「フェルンホルムまで、南東だ! 峠筋で道が分かれたら、左に曲がれ!」
振り返らずに、クレインは右手をひらりと上げた。
道は、もう少しだけ広くなっていた。
「——残寿:11ヶ月・闘気使用により大幅減」
 




