表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/22

第21話 セラフィエル四合目、白狼王


四合目。目的地まで、あとわずか。

空気が変わった。鼻腔の奥がきしみ、肌に細い刃のようなヒリつきが走る。雪面の上、白い影が音もなく形を結ぶ——白狼王フェンリル。伝説と呼ばれる、ここの主だ。


「こんな時に!」

クレインが低く吐く。

「じいちゃん、引き返そう!」

「無理じゃ。この坂道で四本足の王は振り切れん!」

「じゃあ!?」

「戦うしかないわい。行動目標は“撃退”、殺す必要はない!」


「指示を!」

「火炎系の“どでかい”魔法を頼む!六十拍、ワシが持たせる!」

「じいちゃん、闘気はダメ!命を削る!」

「それができりゃ苦労はせん!」



白狼王が、雪を爆ぜさせて来た。雄叫びが谷を割り、銀の牙が弧を描く。クレインは半身で迎え、刃ではなく“面”で受け、顎の力を流す。爪が閃くたび、足と呼吸の拍だけで線を外し、肩でいなし、腰で抜く。

「瀕死のじじいに、きつい仕事じゃ」

冗談めいた言葉と裏腹に、目は笑わない。


噛みつき、引き剥がし、横薙ぎ——白い影が拍ごとに形を変えるたび、クレインは刃ではなく“面”で受け、力の向きを半尺だけずらして雪へ落とす。牙は鍔元で受けて手首で回し、爪は籠手の外側で滑らせ、肩の捻りで空に放る。右足はためて、左足は撫でて置く。踏み替えの「いち」で間合いを奪い、「に」で腰を落とし、「さん」で流す。雪面はきしみ、白狼王の肢が刻んだ轍が、いなされた軌跡として残っていく。


連続、継続。攻めは途切れず、受けも切れない。

白い霜が火花の代わりに散り、狼の息と人の息が氷の匂いで混じる。

その合間に、クレインの足裏は雪の薄皮だけをそぎ落とし、刃の縁は一度も“斬らず”に、攻撃の線だけを外へ導く。すべてが一拍ごとに噛み合い、次の一拍のためにほどけていく——老剣士はただ、流し続けた。


だが、凌いだのは“たった十拍”。残り五十、クレインが支えねばならない時間は、山の斜面よりも途方もなく思えた。


「白狼王相手に、出し惜しみはできんか!」

深呼吸一つ。覚悟が、声の濁りを消す。

「ワシの命——ここで全部、置いていく」

「ダメだ、じいちゃん!」

抗う声を背に、老剣士は拍を解いた。


「闘気解放・初段《身体強化》」


熱が皮膚の内でふくらみ、筋が一本ずつ順番に目を覚ます。腱がきしみ、血が指先まで押し出され、聴覚だけが研ぎ澄まされていく。

踏み込み——雪がぐっと圧縮されて鳴り、刃の代わりに足裏が地を切る。白狼王の肩が沈む気配と同時に、クレインの体は拍に先んじて前へ滑り、牙へ到達する速度が一段、跳ね上がった。

鍔元で受け、手首で半寸ねじる。

火花の代わりに白い霜が円を描いて散り、ふたつの影は同じ拍でぶつかり、同じ拍で離れる。呼気が白く絡み合い、毛並みが逆立つ気配まで指に伝わる。

老骨は悲鳴を上げるが、心は静かだ。次の拍、また次の拍——互角に届く距離だけを保ち続ける。


「……くっ。これで互角、いや、やや劣るか」

息は荒いが、目の焦点は切れない。ルカの詠唱は続く。

残り四十拍。

クレインは顎をわずかに下げ、ため足で雪面を撫で、次の牙に“いち”を合わせた。風が鳴り、拍が刻む。撃退のための六十拍が、山の呼吸と重なり始める。



クレインは白い巨影の動きを、目ではなく“拍”で掴みはじめた。牙が弧を描くたび、前脚の肩がわずかに沈む。爪の散弾が舞う一瞬前、瞳孔が針のように収縮する。

「……お主の手、いち、に、いち、に、に、じゃ」

数える声は雪に吸われるほど小さい。だがその拍こそが、暴風のような連打をほどく鍵だった。


爪と牙が降り注ぐ合間に、細い“素通しの道”が一条だけ立ち上がる。

「今じゃ!」

クレインは爪の返しに生じる、ほんのわずかな揺らぎを指で手繰り寄せるように踏み込み、そこでしか通らない角度で刃をすべり込ませた。

鋼は骨を求めず、ただ線を通す。白い鼻梁に、細い切れ目が走る。

「ぐわぁああ」

白狼王が跳ね、雪煙が円を描いた。


——ルカの詠唱、残り三十拍。


「ぐぉおおおおおおお!!」

大地が鳴った。獣の雄叫びは、獲物を示す音から、敵を指名する音に変わる。クレインとルカは、いまや“食われるもの”ではなく“退けるべき相手”になった。


「まだ退いてくれんのかのう」

クレインは半歩退き、白狼王の進路とルカの身体の間に斜線を引く。噛み込みは鍔元で受けて回し、爪のはらいは籠手で滑らせ、体当たりは斜面の傾きへ逃がす。後退しながらも、ルカへの直進だけは一度も許さない。


「命、いくつ差し出せば、退いてくれるのか?」

自嘲とも覚悟ともつかぬ呟きのあと、老剣士は息を深く吸い込んだ。

「闘気解放・弐段——《剛力》」


雪が低く鳴り、地面の下まで固くなる。白狼王の爪が正面から振り下ろされる。クレインは逃げず、真正面で受けた。鍔と爪が噛みあい、霜が火花のように四方へ散る。

「白狼王と鍔迫り合いできるなんて——長生きはするもんじゃなぁあああ!!」

喉から血が跳ね、唇が紅く染まる。それでも足は“ため”を失わず、腕は弓のようにしなり続ける。押し込みと押し返しの拍が合い、互いの体幹が雪に深く彫り込まれていく。


——ルカの詠唱、残り二十拍。


クレインは顎をわずかに下げ、肩と腰の回転をもう一度合わせた。次の牙に、“いち”を乗せるために。白い息と白い霜が交わり、拍だけが、確かに刻まれていく。




 白狼王は、力比べでは埒が明かぬと悟ったのだろう。踏み込みの拍が変わり、攻めが縦に切れ、横にほどける。単調だった連撃が織物のように密度を変え、牙と爪が交互に光を引いた。


 「獣とは思えぬ、いい頭のキレよ……ならば——」


 クレインは雪を一度だけ強く踏み、肺の底の火を引き上げる。

 「闘気解放・弐段《飛脚》」


 足裏が雪の薄皮をそぎ、拍ごとに影が二重になる。白狼王の連打は、来るより先に抜けられた。爪が空を切り、牙が遅れて霜を散らす。速度だけで追い越すという、単純で無謀で、老体には酷い芸当。


「じいちゃん、もうやめて!」

背で、ルカの声が裂ける。けれど詠唱は止まらない。——残り十拍。


白狼王の打ち手に、さらに変化が生まれた。均一だったリズムに濃淡が混じり、虚と実が編み込まれる。空を噛ませる一撃の直後に、本命の牙が“半拍”だけ遅れて落ちる。クレインはそれを見て、口角だけで笑った。そこには捕食者の傲りはなく、好敵手への澄んだ敬意があった。


「光栄じゃ。狼の王——ならば、ワシの“全部”、持ってけぇえええ!」


「闘気解放・参段《剛力・飛脚》同時」

血が目頭から滲み、口端を赤く染める。視界の縁が震えるのに、世界はむしろ遅く見えた。(——見える。起こり。肩の沈み。次の拍)

牙が来る“いち”を、腰の捻りで空へ捨て、“に”で脛の外へ押し出し、“さん”で線を通す。爪の返しの揺らぎを指先で手繰るように潜り、喉元の皮膚がわずかに張るその瞬間へ、刃先だけを置いた。


白い毛並みが震え、短い傷が首元に走る。


「今じゃ、ルカ!」

「——《フレイム・ボルケーノ》!」


大気が一瞬、吸い込まれて落ち、次いで噴き上がる。火柱が雪面を割り、炎の舌が白狼王を包む。毛が焼ける匂いと、爆ぜる音。

「うぉおおおおおお!」

獣の咆哮が谷を揺らした。


クレインは膝を折り、剣先を雪へ突いて息を繋ぐ。ルカも肩で荒く息をして、両膝に手をつく。炎の向こう、白狼王はなおも立っていた。焦げた毛の間から白い眼が二つ、静かにこちらを見ている。


「……届かんかったか」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ