第2話 老剣士・大逆転の計 ― 特例第十五条
薄霧が残る翌朝、台所の火口がまだ赤く息づく頃だった。
老剣士クレインは卓を両手で叩き、居間にいる全員へ高らかに宣言した。
「——ゆえに、ワシは冒険者になるのじゃ! まず戦友たちの慰問から始める」
梁がびりと鳴った。返事は湯呑の触れ合う音だけ。
「はいはい、お散歩ね」エリシアは赤子を揺らし、眠たい羊を諭す声で言う。
「散歩ではない。“冒険”じゃ!」
「冒険?つまり遠出の旅行ってことね」
エリシアは軽やかに手を叩き、すぐさま隣室に声を掛ける。
「ルカ、おじいちゃんが旅行に行きたいんだって。付き添いお願い」
「なんで僕が!?」
大学の課題を抱えた孫のルカが、論文の束を胸に押しつけて現れる。
「学会の締め切りが迫ってるんだけど!」
***
結局、半ば押し切られる形で連れ立った二人は、村外れの一本道に立っていた。麦畑を抜ける微風が、クレインの古びたマントをばさりと揺らす。
「で、じいちゃん。散歩——どこまで行く気?」
「王都じゃ。冒険者登録しに行く」
「王都!?三十キロはあるんだよ?本当に歩けるの?」
「馬鹿にするでない!ワシが軍を率いた折には日に何十キロも行軍——」
「また出た、昔武勇伝。どうせ誇張でしょ」
ルカが肩をすくめると、クレインは杖代わりの剣を地面に突き立て、鼻を鳴らした。
「それに“冒険者”ったって、じいちゃんの剣術は古臭いだけじゃない?どうする気?」
「古臭いとは何事じゃ!ワシの剣は戦場で鍛えた超実践——」「わかったわかった、すごいんでしょ」
「話は最後まで聞かんか!」
老剣士が言い募るあいだにも、足取りは目に見えて鈍っていく。
やがて畔の石に腰を下ろし、額の汗を袖で拭った。
「……さて、そろそろ休憩じゃ」
「えっ、もう?」
ルカが振り返れば、歩いた距離は村の門から三百メートルほど。草むらに残る足跡が、ほとんど消えかけるくらい浅い。
「じいちゃん……まだ三百メートルぐらいだよ」
行軍数十キロの豪語はいまや往年の武勇とともに風化し、老脚は膝上で震えていた。
村を背にわずか三百メートル——畦道の脇に腰を下ろしたクレインは、湯を沸かし、陶の茶碗を両手で包み込んでいた。
孫のルカは資料束を脇に置き、深々とため息を洩らした。
「三十分で三百メートル……王都までは一週間だね」
「それは大事じゃ。途中で命火が尽きるやもしれぬ……」
ルカは堪え切れず噴き出した。
「悪質な冗談は却下だよ」
クレインは茶碗の底を覗き、目尻だけで笑った。“まだ終わっておらん”という火が、そこに在った。
「それより、その脚じゃ銅級冒険者の体力検定すら通らないよ。どうするつもり?」
ルカの問いに、老剣士は茶碗をそっと置き、声を潜めて答えた。
「——冒険者登録には“作戦”がある。名付けて《老剣士・大逆転の計》じゃ!」
「作戦ねぇ……まあいいや。王都には論文を書きながら行けばいいし」
ルカは手元の書類に目を通しながら呟いた。
「ふむ……」
クレインは剣に手を添えてうなずく。息を整えながら、空になった茶碗の底を覗き込むその眼差しには、疲労の陰に小さく灯る火──“まだ終わっていない”という静かな確信が、ほんのりと揺らめいていた。
8日後、王都グラティア。白い城壁が朝日を返し、石畳にはパン屋の湯気と馬の汗の匂いが混じっていた。
「……冒険者登録の締切まで本当に滑り込みかな?」
ルカが城壁を見上げぼそりと言う。主因は、昨日、腰を押さえて動けなくなった老剣士である。
「や、休むこともまた戦場では必要なんじゃ……!」
クレインはバツの悪さを咳払いで誤魔化し、甲冑の胸板を叩いた。
「で、ほんとに行くの?冒険者ギルド」
「無論じゃ。ここからが“ワシの冒険譚”の序章よ。血が湧くわい」
ルカは視線を足元に落とし、小声で付け加えた。
「滾るどころか、膝ガクガクだけど……」
***
王都随一の冒険者ギルドは、広いホールに長卓が並び、壁には槍と依頼票が林立している。大理石のカウンターでは受付嬢が羽根ペンを走らせ、帰還した冒険者たちが杯を鳴らしていた。
「じいちゃん、ここ王都一だよ。もう少し小さいギルドで、薬草摘みとかから——」
「わかっとらんの。ワシの策では、ここが一番よい」
クレインは迷いなくカウンターへ進み、受付嬢の前で背筋を伸ばした。
「ご、ご登録ですね?お名前とご年齢をお願いします」
「クレイン・ヴァルドナ。七十九歳」
「……七十九、でいらっしゃいますか。失礼ですが、その、年齢制限が——」
「かっかっか、無用の心配よ!ワシの剣は戦場で磨かれた実戦仕様じゃ。ヴァルドナ流創始者、ここまで言えば分かるじゃろう!」
受付嬢の笑みが引きつる。
「えっと、創始者…….ですか?規定では特に……」
「だから無理だって言ったでしょ!」
ルカが割って入る。クレインはゆっくり振り返り、勝ち誇った横顔を作った。
「無理、か。ならば——《老剣士・大逆転の計》を発動じゃ」
言うが早いか、カウンターに身を乗り出す。
「おい、“バル坊”を出せ。クレインが来たと伝えい」
「バ、バル坊……?そのような方は——」
「よいから出すのじゃ!」
ルカは額を押さえた。
「……嫌な予感しかしない」
受付嬢が奥へ駆け、ほどなく重い扉が開いた。低い足音、巨大な影。
「誰だ。登録で騒いでいるのは」
現れたのは肩に金糸のマントを掛け、胸にギルド紋章を付けた屈強な男。ホールがざわめく。
「うわ……ギルド長」
とルカの喉仏が上下する。
クレインは目を細めた。
「バルガスか!でかくなったのう」
男の瞳が見開かれ、次の瞬間、床板が鳴る勢いで近づいてきた。
「し、師匠ォォォォッ!」
跪きかけた彼に、ホールのざわめきが一段と上がる。
——師匠?誰だ、あの爺さん……。
クレインは腕を組み、顎で合図した。
「かっかっか、立派になりおって」
「師匠のおかげです!」
バルガスの声は腹の底から響く。
「あの日々の鍛錬が血肉となり、この身は戦いを生き抜けました!」
ルカは小声でつぶやく。
「……どういうこと、うちのじいちゃん、ただの後期高齢者だよ」
受付嬢は固まったまま羽根ペンを宙で止め、冒険者たちは口々に囁く。クレインはわずかに胸を張った。誰よりも真顔で、誰よりも可笑しみを誘う顔つきで。ここに、老剣士の“策”は見事に的を射たのであった。
金色の印章が、羊皮紙の端で小さく鳴った。蝋の光沢に王都ギルドの紋章がくっきり刻まれる。
受付嬢は恐る恐るギルド長を見上げた。
「……本当に、よろしいのですか、ギルド長?」
バルガスは迷いの欠片もない声で言い切った。
「当たり前だ。クレイン師匠を“銅級”だと?笑わせるな。俺の名にかけて——金級からだ、本当なら金剛級でも良いくらいだぞ」
ホールの空気が弾けた。
「はあああああ!?」
銀級の連中が一斉に椅子を引き、ざわめきは一段上がる。
「ふん!見たことか!これがクレイン・ヴァルドナの実力じゃ」
ルカは頭を抱え、祖父の袖を引いた。
「いやいやいや、やめて!じいちゃん、まだ試験すら受けてないから!」
クレインは胸をそらし、実に晴れやかな顔で頷く。
「ルカ、武の世界とは“信用”と“縁”で出来ておる」
「それ、ただのコネって言うんだよ!」
不満を抱えた若い冒険者たちが、自然と輪を作って集まってくる。
「なあ、納得いくか?」
「俺ら何年銀級で待たされたと思ってんだ」
ギルド職員が慌ててバルガスに視線を送った。
「ギルド長、流石にいきなり金級は他の冒険者の方々も納得できません!」
バルガスが低い声で呟いた。
「なら特例第十五条・公開試技を適用する。まずは仮金級で推薦登録、試技をもって本登録を決裁だ」
職員が食い下がる。「しかし、安全が——」
「審査官と治癒師を呼べ。記録官、ルールはこうだ——」
受付嬢が読み上げる。
「試技名:特例公開試技(仮金級審査)。挑戦側、被挑戦側は任意の武器。殺傷行為のみ禁止。審査は“致命点”で判定——即死に至る隙が生じた瞬間を一として記録します。相手は銀級三名、連続。降参・武装剥奪・戦闘不能で敗北とする」
ホールがざわめいた。銀級の若者たちが前へ出る。
「上等だ。じいさんを試験なしで金級? なら俺ら三人で納得させてもらう」
「文句ねえな、ルールは厳しめだ」
ルカは蒼ざめ、バルガスの袖をつつく。
「ちょっと、やばいですよ。高齢者相手に、現役の冒険者が3人がかりで」
バルガスは口角だけで笑った。
「これは師匠が自分の手で取り戻す“信用”だ。俺が守れば、それこそコネになる」
「勝てば即日で金級本登録。引き分けは銀上位へ保留。負ければ推薦取り下げ、費用は俺が被る。」
彼はルカを横目で見やり、ふと首をかしげる。
「坊主、名は……」
「ルカです!」
「ルカ、師匠が“本気”で戦うの、見たことは?」
「道場で教えてるところだけなら……」
「なら良い機会だ。目を凝らして見ておけ」




