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第19話 天国は信じるか

城門をくぐるころには、王都の噂はもう二人の先を歩いていた。

冒険者ギルドの広間は、昼の光と鈴の音でざわめいている。


「おい聞いたか、ヒュドラ殺しの老剣士」

「クレインとかいう名だろ?なんかの流派の師範だってさ」

「孫は魔法大学のエリートだとよ」

「いや、その孫も剣の達人らしいぜ」

「どっちだよ」

「両方だろ、多分」

「倍盛りか」

「倍盛りだ」


声は勝手に増幅し、話は勝手に脚色される。掲示板の前でルカが肩をすくめ、クレインは聞こえないふりで顎を撫でた——真顔が真剣すぎるぶん、どこか滑稽でもあった。


***


場面は王都病院へ。白壁、磨かれた床、薬瓶のガラスが灯を淡く返す。

クレインの姿はない。診察室には医師とルカだけが向き合っていた。


「正直、奇跡です」

医師は淡々とカルテをめくる。

「本人は、歩くのも辛かったはずです」


ルカは唇を噛む。言葉は出ない。


「結論から申し上げます。今の医学では、どうしようもありません」

紙のめくれる音だけが、短く続く。


「そんな……ここは王都です。世界最高峰の研究が——」

ルカの声は途中で細く切れた。


医師は静かに首を振る。

「ええ、最高の研究者と施設、莫大な予算。すべてが揃っています。それでも、命を自由に操れるほどに——我々は傲慢には、なれないのですよ」


「嘘だ……」

ルカの握った拳に、爪の白い輪が浮く。


「できることは、苦しまないようにすることです。薬で痛みは和らぐはずです」

医師の視線は逃げない。

「ただし、これ以上の冒険、とくに闘気を使った戦闘は絶対に禁止です。——一日でも長く過ごすには」


窓の外を、消毒液の匂いを割って馬車の車輪の音が通り過ぎた。ルカはゆっくり頷く。頷き方だけが、年齢より少し大人びていた。



病室は白く静かだった。クレインは上体を少し起こし、薄味の粥を匙で運んでいる。表情は真剣、内容は粥だ。


戸口が開き、ルカが入る。

「じいちゃん、薬もらってきたよ」


「ルカか!」クレインは眉を吊り上げる。「ここの飯は塩が足りん。戦場でももう少し塩はあった!早う退院して次の冒険に向かうぞ!」


ルカは悟られまいと笑みをつくる。口角だけが働いて、目は働かない。

「先に病気、治さないと。……ほら、薬」


クレインは一度だけ小さく息を吐いた。

「気休めじゃろ。自分の身体は一番わかっとる」


ルカは俯き、声を小さく落とす。

「……歩くことも、辛いんでしょ?」


「この歳じゃ、痛くないところなんてないわい」

クレインは笑ってみせる。笑いは軽いが、喉の奥は少し重い。


ルカは顔を上げた。まっすぐに、まっすぐな言葉で。

「怖くないの?死ぬことが」


窓の外、秋の空。クレインはそこへ視線を置いてから、静かに言う。

「ルカ、天国は信じとるか?」


「……どういう意味?」


「ワシは信じておる」クレインは声を整え、最後に孫の目を見る。

「そして、死して弔われずに、まだそこへ行けん仲間がおる。——ルカ、お前は仲間をほって、先に天国へ行けるか?」


言葉はそこで止まり、時計の針だけが先へ進む。


「頼む」クレインは枕元で指を軽く折る仕草をした。拍を数えるように。

「最後の命、どう使うか——ワシに決めさせてくれんか」


ルカは唇を噛み、息を一度だけ整えた。

「……薬、ご飯食べたら飲むんだよ」


それだけ言って、薬袋を枕元に置く。踵が床を離れ、戸口へ向かう。俯いた横顔に、まだ作り笑いの名残が少し。


扉が閉まる。一拍の静けさ。

クレインは粥をもう一口すすり、薄い塩味に小さく頷いた。真剣であればあるほど、どこか可笑しいまま、シーンは途切れる。


***


灯りの低い酒場。磨かれた樽と木の香り。氷の鳴る音が、ときどき会話の隙間に落ちる。


ルカは葡萄酒の深い紅を覗き込みながら言った。

「じいちゃんの最後の目的地、セラフィエルってどんなところですか?」


カウンターの向こうで、バルガスはグラスを指で回す。視線はどこか遠い。

「旧国境の山脈だ。今はあちら側の領地だが、慰霊碑が立っている——“敵側”のな」


ルカは顔を上げる。

「国境を越えるだけなら、金級の冒険者ライセンスで行けますよね?」


「国境を越えるだけなら、な……」

氷が小さくきしんだ。

「もうすぐ雪で閉山する。普通なら“来年にしろ”と言うところだが」


「でも、じいちゃんには時間がない」

ルカの声は静かなまま、角だけ固い。


バルガスは頷き、グラスを置いた。

「旅立つなら今夜だ。今回ばかりは三百歩の歩みじゃ間に合わん。馬車をこっちで用意しよう」


「ありがとうございます……」

礼を言ってから、ルカは間を置く。

「バルガスさん、天国って信じてますか?」


ギルド長は口の端で笑った。

「俺は剣を信じる。天国は、信じたい奴が信じればいい」


ルカは少しだけ笑い、葡萄酒を傾ける。

「バルガスさんらしいですね。……僕は、少しだけ信じたくなってきました」


氷がまた一度だけ鳴って、夜は深くなる準備を整えた。


月が病棟の白壁を薄く洗っている。クレインは枕を半ば起こし、窓辺の光に手を差し出した。

「ワシの冒険もここまでか……」

幾千幾万の素振りで刻まれた硬い胼胝は、岩肌のように節くれだっている。指先がふるりと震え、すぐ治まらずに小刻みに揺れた。老いとは、こうして静かに形を変えては寄せてくるものだ——その無常を、彼は真正面から見つめた。


やがて瞼がすっと上がる。口角が、いたずらを思いついた子どものようにわずかに吊り上がった。

「……とまぁここで、おとなしく死期を待つとでも思ったか!!ばか者どもめが!!」

さきほど当直の巡回が過ぎたのを、耳が覚えている。「半刻は戻らん」と彼は独りごち、静かに身を起こした。


廊下は消毒薬の匂いが薄く漂い、靴音のない時間帯だ。クレインは影の濃い側を選んで滑り、備品倉庫の前で立ち止まる。木箱の蓋には蝋印が押されていた——《ギルド搬送》。

「バル坊め、気が利く」

紐を解くと、やはり、という顔で剣と鎧が現れる。金具の音を殺しながら胸当てを締め、籠手をはめ、鞘を腰に落とす。背に回した赤布が、月光を一度だけひらりと受けた。


「待っとれよ、オルフェン、ベリス、シェルダン……ええと、あと誰がおったかのう」

途中から記憶の歯車が空回り気味になるが、最後の締めは強い。

「ともかく、今から行くぞ」


病院の庭を抜けると、月夜が冷たく広がっていた。影法師は余命いくばくとは思えぬ足取りで延びる。老人の精神の芯が磨かれ、古樫の年輪の中心だけが残ったような固さで、前へ、さらに前へ。


丘の途中で、彼は銀のペンダントの蓋を開いた。中の小さな肖像が、月明かりを抱く。

「エリサ。これで最後じゃ。土産話には十分じゃろ。待っとってくれ」

息は荒い。肺の奥でヒュウと細い音が鳴る。彼は自分の息を宥めるように腰を下ろし、枯枝を集めて火を起こした。火は控えめに揺れ、茶の香りが夜気にほどける。小高い丘、星と月が近い。旅立つ者の背を、まるで祝福するように、風が一度だけ頬を撫でた。


遠くで車輪の音がした。小さなため息が風に乗る。

「見つけたぁ」

馬車が近づき、火影のそばに止まる。御者台から飛び降りたルカが、肩で息をする祖父を見つけて眉を上げた。


「なっ、ルカ!?なぜここがわかった!」

「療院から半径三百歩をぐるり、だよ」

クレインの一度に歩ける距離は三百歩——その事実は、家族の間では地図の等高線のようなものになっている。


「ルカ!ワシは戻らんぞ、療院には!」

「わかったよ」ルカは肩を落とし、しかし目だけは強いまま言った。「行くんでしょ、セラフィエル」

「だから戻ら……えっ?いいのか?」

「止めても脱走でしょ。それに——」

「それに?」

「天国があるか、確かめたくなった」

言ってから、少しだけ照れたように視線を外す。


クレインは短く飲み込み、頷いた。

「そうか……」

「最後の冒険になるね」

ルカの声が一段、深く落ちる。

「そうじゃの」

「行こう」


荷台に剣と鎧が積み直され、火は砂で静かに消えた。手綱が鳴り、馬車は月の道へ滑り出す。二人を乗せた影は、やがて街道の白に溶け、音だけがしばらく、夜の底を転がっていった。


「——残寿:3ヶ月 入院生活のため」


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