第18話 勝つことより“生き残ること”
「じいちゃん!!」
血まみれの祖父に駆け寄ろうとしたルカの足が、一拍遅れて止まる。クレインの身体が跳ね上がったからだ。老体の筋が、拍に合わせて一瞬だけ若返る。
「——かかりよったな!」
クレインは半歩踏み込み、折れた木剣を逆手に握る。刃でも峰でもない、“木”そのものの重さを、拍に乗せて落とす。
バチン、と乾いた音。折れ口の角が、アシュレイのこめかみの上を正確に打つ。
視界が白く弾け、膝が抜ける。アシュレイは悶え、空を掴むように手を伸ばした。闘気の奔流は、拍一つで不意に断たれる。
老剣士は浅い呼吸を整えながら、血に濡れた木片を下ろした。ルカがようやく辿り着き、肩を支える。丘の上に、風だけが戻ってくる。
「……講義、続けるかの」
冗談とも本気ともつかぬ声に、ルカは目を白黒させ、アシュレイは歯を食いしばってうめいた。拍はまだ、どちらの胸にも残っている。
アシュレイは額を押さえ、膝をついたままうめいた。
「なぜだ……!?完全に決まったはずだ!!」
クレインは脇を押さえて外套の内側から、切り裂かれた皮袋を引き抜いた。口を緩めると、赤い液がぽたりと草へ落ちる。
「お主、人を斬ったこと、ないじゃろ?」
老人は真顔で続ける。
「さっき飛んだのは“血飛沫”やのうて、赤く染めたポーションじゃ」
「……!?」
アシュレイの目が揺れた。
「袋を何重にも仕込み、斬撃はそこで和らぐ。間に合わなんだ傷は、ポーションが内から塞ぐ。——これがヴァルドナ流“秘伝の戦準備”よ」
クレインは別の破れ袋も外し、拍を一つ置いて息を整える。袋の縁からは、薬液とほんの少しの血が混じってにじんでいた。
アシュレイは思考が空回りするのを自覚しながら、かろうじて問いを紡いだ。
「……脇に“隙”があったのは?」
「無論、この仕掛けに誘うため。わざと作った」
「……あと、何手先まで読んでいた?」
「十三手。展開次第では、その先も」
アシュレイは脱力して尻もちをついた。胸の奥で、悔しさは不思議と疼かない。ただ、感嘆と——底の抜けた器に水が満ちていくような感覚だけがある。
横でルカが顔をしかめる。
「ずるいし、せこい……」
「そうじゃろ?」
クレインはあっけらかんとしている。
「結果、わしは生きておる」
夕日は完全に山の端へ沈み、空の高みに一番星が灯った。風が草を撫で、丘には三人分の呼吸だけが残る。剣は納まり、拍だけが、まだ胸のどこかで微かに鳴っていた。
丘に一番星が張りついたまま、三人は立ち尽くしていた。やがてアシュレイが剣を納め、深く頭を垂れる。
「クレイン・ヴァルドナ殿……私を弟子にしていただけませんか」
クレインは少しだけ空を見てから、ゆっくり首を振った。
「うむ……すまんのう。わしには、もう“時間”がないんじゃ」
「時間……ですか?」
問い返す声は、風より静かだった。
「代わりに紹介しよう。ヴァルドナ流・免許皆伝。盗賊狩りを専門にしとる冒険者がおる。わしの弟子じゃ。そこで修行せい」
アシュレイは姿勢を正す。
「はっ。ありがとうございます」
クレインは外套の内から小さな封筒を取り出す。蝋で封じられ、拍を一つ刻む指先でアシュレイへ渡された。表には「紹介状」とだけ。
「盗賊には気をつけい。あやつらは“勝つこと”より“生き残ること”を優先して動く。――そこを学べ」
「勝つことより……肝に銘じます」
「うむ。励むように」
言葉は短いが、背に乗る重さは長い。アシュレイは封筒を両手で受け取り、深く礼をした。胸の伽藍堂に、また小石がひとつ、音を立てて落ちる。
遠くで鐘が三つ。“いち、に、さん”。丘を撫でる風が、夜のはじまりを告げた。
***
翌朝。露の匂いがまだ残る街道で、ルカが背嚢の紐をきゅっと締めた。
「さて、王都に向かって出発だね。早く療院に入って、病気治そうね」
「うむ」
歩き出してすぐ、ルカが横目で祖父を見る。
「うーん、でも、じいちゃん、よかったの?アシュレイさんを門下生にするチャンスだったのに」
「はっ!しまった!」クレインは一拍、本気で額を押さえ、それから喉の奥で笑った。「……ま、まぁええ。実戦――それが、あやつのいちばん良い道じゃろ」
「そっか、でも結局、布教活動は失敗だね」
三百歩。二人は足を止め、茶をひと口。湯気が朝の光に薄くほどける。さらに三百歩。鼻歌と拍が道に小さく刻まれていく。
道の脇、丘の上では子どもたちが棒切れを木剣に見立てて走り回っていた。
「いてっ!それ狡いぞ!」
「いいんだよ、これがヴァルドナ流・超実践剣術だぜ!」
「ヴァルドナ流?」
「うん、こないだ祭りで見たんだ!すごいんだぜ!」
クレインは聞こえぬふりで歩幅を合わせ、ルカは小さく笑って肩をすくめた。名は要らない。拍だけでいい。
道は王都へ、朝の光は背へ。祖父と孫は、今日も三百歩ごとに茶をすする。
「——残寿4ヶ月・王都への復路による寿命消費」




