第17話 一回、死んだぞ
「——さあ、始めよう」
言い終わるのと同時に、クレインの踵が土を強く抉った。乾いた表土がぱんと弾け、粒が閃いてアシュレイの頬と睫毛に散る。刹那の瞬膜。そこへ木剣が滑り込む。
「舐めるな!」
アシュレイは刃を半寸ひねり、肩で受けをずらす。木と鉄が触れ、軽い音だけ残して角度が外れた。
「躱すか。さすがじゃ!」
クレインは間髪入れず切り返し、剣戟の往復が始まる。受け、流し、潜り、また受け。アシュレイの剣は真っ当で整っている。だからこそ、クレインの放つ予想外の“玩具箱”が楽しい。足下から、胸の伽藍堂に、少しずつ音が満ちる。
木剣の拍が、ふっと揺れた。不規則。鍔が「こと」、踵が「り」。アシュレイの踏み込みに半拍の狂いが出る。虚に続く実が、遅れる。実に見せた虚が、早まる。
「またこれか!やりにくい!!」
次の瞬間、拍が切り替わった。軍隊の行進のような正確さ。「いち、に、さん」が等間隔に丘へ刻まれる。アシュレイの耳が、その整い過ぎた規則正しさにごくわずか反応し、意識が“一拍先”を読む側へ滑る。
「んっ!?」
「——ここじゃな」
クレインの突きが、まっすぐにこめかみへ伸びた。間合い、完璧。タイミング、ど真ん中。拍はぴたりと、一点に収束する。入った——そう見えた刹那、アシュレイの背が弓なりにしなった。踵はその場、腰だけが落とされ、頭が紙一枚ぶんだけ後へ逃げる。木先は髪を数本さらい、空を刺した。
「見事!」
クレインの賞賛と同時に、二人の息が重なる。拍はふたたび揺れに戻り、丘の上には剣の音だけが、規則と不規則のあいだで跳ねた。
「今度はこちらから行くぞ」
アシュレイの構えが沈む。踵に“ため”を溜め、背は猫の弓。次の瞬間、雷のような加速で地面を蹴った。前へ——一直線の突撃。刃先は揺れず、風だけが後ろへ千切れる。
迎え撃つクレインは、ひと拍だけ遅れて膝を高く上げた。
大きく、しかし無駄のない円。落とすのは刃ではない——踵だ。
「——ほい」
踵がアシュレイの剣の“元”を叩く。重心が刃の背へ移り、そのまま地面へ押し込まれる。鋼が土を裂き、ガツ、と鍔元まで埋まった。
反動でアシュレイの肩が半寸浮き、呼吸が一瞬止まる。
気づけば、アシュレイの喉元に木剣の“面”。
音が消えた。風まで黙る。
固まった耳に、静かな声が落ちる。
「——これでお主、一回、死んだぞ」
丘の端で見ていたルカが、思わず息を漏らした。
「すごい……」
アシュレイは唇を結び、ゆっくりと息を吐いた。屈辱はこない。代わりに、胸の空洞に水が注がれる感覚がある。
試合では禁じられる足捌き、蹴り、拍の揺らぎ——栄誉も称賛も投げ捨てて、生き残るためだけに研ぎ澄まされた剣。
美しい、と誰もが言ってくれる自分の刃は、いま、目の前の“異物”に触れて初めて、音を得た気がした。
もっと触れたい。もっと近くで見たい。
連ね打ちの途中で変わる呼吸、踏み替えの一音、鍔が刻む不規則な拍、そのすべてを骨に写したい
——そんな衝動が、喉の奥を熱くする。負けたくない、ではない。負けてもいいから、もう一度重ねたい。胸の伽藍堂が、いまだけ満ちる。だからこそ、もっと。
アシュレイは地面に刺さった剣を引き抜き、礼をとった。瞳は静かだが、奥で微かな炎が跳ねる。
「——もう一本、願いたい。全部で行く。異議は?」
アシュレイは一礼だけ置き、声を低く刻んだ。
「闘気解放・初段《身体強化》」
「闘気解放・弐段《飛脚》」
「なっ、闘気は禁止って——」
「構わん!」クレインが遮る。「あやつの剣、受け切ってこそ“講義”よ」
構えがさらに沈む。背は弓、踵にため。次の瞬間、地面が爆ぜた。土が破れ、空気が鳴る。弾丸のような踏み出しで、アシュレイの刃が一直線に走る。
刃先がクレインの脇腹へ吸い込まれ——老剣士は即座に木剣を差し入れた。
ブシャと鈍い音。鮮血が草に朱を散らす。クレインの木剣ごと、半ば貫かれた。
「……はぁ、はぁ……やった……」
アシュレイの肩が上下する。胸の内で空洞が震え、初めて満ちた手応えに指先が熱い。




