第16話 秘伝の戦準備
宿の食堂。肉の煮込みと黒パン、薄い酒。卓の上で湯気が揺れる。
「王都への帰りは平坦な道にしよう。迂回してでも」
「何を言っとる。山道をまっすぐで構わん!昔は山三つを一日で行軍したものよ」
「今は三百歩で休憩してるからね!」
そこへ、恰幅のいい亭主がにょきりと現れる。
「話の途中で悪いね。じいさんに手紙だよ」
「誰からじゃ?」
ルカが封を確かめ、目を丸くする。
「差出人は……アシュレイ・ロウ!?」
文は簡潔だった。〈明日夕刻、町外れの丘にて“決闘”を乞う〉
「じいちゃん、ダメだよ!決闘なんて——」
「ふむ、安心せい。闘気は使わん」クレインは杯を置き、指で鍔の拍をコツリと刻む。「これは“決闘”じゃのうて“講義”みたいなものじゃ」
「へ?」
「まあ見とれ。わしが“絶対に勝ってしまう”からのう」
ルカは額を押さえ、半分は呆れ、半分は胸の奥で音を鳴るのを聞いた。
明日の丘で、何が起きる?拍を三つ、心の中でゆっくり数える。
酒の薄さが、少しだけ濃くなった気がした。
翌朝の宿の一室。薄い陽が格子から差し、卓の上には買い込んだ瓶と小袋がずらり——回復薬、止血薬、香油、絵の具、チョーク、皮袋。旅支度というより、理科実験の台だ。
「じいちゃん、朝から回復やら色々買ってきたけど、何に使うの?」
「ヴァルドナ流“秘伝の戦準備”じゃ」
クレインは真顔で答え、羊皮の袋を三重、四重と入れ子にしていく。
チョークの粉と絵の具を落とし、回復薬が鈍い赤へ沈む。「……良し」ことり、と拍。
口は蝋で封じ、麻紐で結び、指で“ことり”と拍を確かめる。ひと袋ごとに光へ透かし、角度を変え、「……良し」。また一拍、「良し」。
「それ、何入れるの?」
「“秘伝”じゃ」
即答。説明になっていない。何やら準備する動作は滑稽なほど厳粛だ。
ルカは額を押さえた。
「……嫌な予感しかしないよ」
「心配いらん。使うのは“講義”の終盤じゃ」
「講義(=決闘)だよね?」
「そうじゃ」
老剣士は最後の一つを握り、掌で重さを量ると、満足げに頷いた。袋はただの袋、に見える。だがその中には、水でも薬でもない、ヴァルドナ流の“秘伝”が、静かに詰められていた。
夕焼けが町はずれの丘をゆっくり舐めていた。赤く磨かれた草刈りの跡、風が一度通れば色が少しだけ薄くなる。
アシュレイはそこで待っていた。肩をすくめる身震いは寒さのせいでも気後れでもない。
あの不可思議な剣——不可思議な老剣士の流れ——を、もう一度この身で確かめたい。その渇きだけが、薄暗む丘を暖めていた。
「待っていたぞ」
背後からの足音は三つ。リズムが揃っている。クレインは夕焼けを背負って現れ、余計な挨拶もなく顎をわずかに引いた。
「うむ。さっさと始めるかのう。わしらのような人種は、剣を重ねた方が分かることが多い」
アシュレイは静かに剣を抜く。刃が赤を吸って細い線になる。対してクレインは鞘に手をやらず、腰の袋の具合を一つ確かめると、手に取ったのは木剣だった。軽く鍔を鳴らし、拍を一つ。
「……っ。馬鹿にしているのか?私の剣は、それほど弱いのか」
声に棘はあるが、足は崩れない。クレインは首を横に振った。
「いいや。速度——まったく敵わん。体力——これも敵わん。技術——これは同等か、ちとお主が上」
そこで一拍、わずかに口角が上がる。
「じゃが“決闘”と言ったかの?この実践の舞台なら、わしが勝ってしまうんじゃ」
夕風が草の穂先を逆立てる。アシュレイの瞳孔が細くなり、やがて元へ戻る。
「……くっ。わかった。飲む」
クレインは満足げに頷き、木剣を腰の高さに置く。鞘の刀は静かに眠ったまま、視線だけが相手の肩と踵を往復する。
「じゃが、闘気はなしで頼む。あれは老骨にはこたえるでのう」
「承知した」
短い取り決め。形式ばった儀礼はない。アシュレイは半身、刃先は揺れずに一点。クレインはため足で土を撫で、木剣の面をわずかに開いて風の通り道を作る。
「——さあ、始めよう」




