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第12話 鉛の靄、三首の守り手


高原は薄い鉛色の靄に沈み、地平線の輪郭すら溶けていた。鼻の奥に金気の匂いが貼りつき、舌先に鉄の粉が乗る。ルカは歩を合わせて結界の輪を一枚ずつ張り足し、足元に白い環を連ねながら、毒の濃い方角へゆっくり進む。


「具合が悪くなったら即撤退するからね、じいちゃん」

事実だけを置く声に、クレインは短くうなずく。「承知」


やがて靄が渦を巻き、地表の泡が一定の拍で割れる地点に着いた。毒の泉だ。表面は腐食した鏡のように鈍く、気泡が上がるたび、虹色が歪んで消える。

「麓と微妙に成分が違う……陣、組み替えなきゃ」

ルカが屈み、基線を消して引き直そうとした瞬間、底が鳴った。


底が鳴った。

毒が長年まとった怨と術が、形を持った——“守り手”。

ねじれ合う三つの影が水面を割る。鱗の継ぎ目から酸が糸を引いて落ちた。


「なっ、何!?」

「ヒュドラ……厄介な奴じゃ……」クレインは即断する。

「ワシが惹きつける。防壁を張れ」


ルカはすぐに詠唱を始めた。クレインは深く息を吸い、胸の底に力を集める。そして一拍で解き放つ。

「闘気解放・初段《身体強化》」


三つの首が同時に、白い酸を線のように吐く。クレインは「いち」で肩をひねって半身になり、「に」で足を置き直し、「さん」で地面をすべる。外套のすそが紙一枚ぶんだけ焦げた。だが肌には届かない。


クレインは動きながら相手の“決まり”を見つける。吐く間隔はほぼ一定。狙いも体の正面に寄ってくる。ならば、こちらが速くなったり遅くなったりすれば、向こうの狙いは外れる。呼吸は「短く三つ、長く一つ」。歩幅は「大、小、大」。自分のリズムをわざと崩して、敵のリズムを狂わせる。


「拍を変えるぞ。ついて来れるか?」

声は小さいが、はっきりしている。次の瞬間、クレインの足は大きく、次は小さく。息は細く三回、次は深く一回。緩急がつくたび、ヒュドラの首は半拍ずつ遅れ、噛みつきは空をかむ。酸の線も、外套のすそをかすめるだけで終わる。


老剣士は見る場所も外さない。首そのものではなく、根元のねじれ。地面の小石が跳ねる向き。酸の泡がはじける間隔。小さな合図で次の一手を読む。体は大きく動かない。必要なときにだけ、最小の角度でひょいと抜ける。

靄の中で、クレインの輪郭だけがするりと薄れ、ヒュドラの狙いから何度も外れていった。


「——闘気解放・弐段《飛脚》」

土を二度だけ弾み、肩と腰の回転だけで縦軸を捻る。剣が閃き、一本の首が音もなく落ちた。毒の蒸気が噴き、クレインはすでに別の位置へ抜けている。


「防壁、起動!」

ルカの詠唱が結び、透明な膜が半月形に立つ。クレインはその背後へ跳び退いたが、《飛脚》の反動で脚に力が入らない。脛はぷるぷる震え、鉛の錘を括りつけられたみたいに重い。


「じいちゃん、大丈夫!?」

「問題ないと言いたいが……正直に言う。闘気を使いすぎた。あと五分で、ワシは気絶する」


短い沈黙のあと、クレインが言った。

「首はあと二本。一本はワシ、もう一本は——お前がやれ」

「……わかった、じいちゃん」

無茶だとわかっている。でも他にやり方はない。


クレインは防壁をかかとで軽く蹴り、前へ飛び出した。狙いはヒュドラの注意を自分に向けること。ルカに魔法の時間を稼ぐためだ。

空気は金属のにおいが強く、目が少し痛い。クレインはさっき見抜いたことを思い出す——ヒュドラの酸は続けて吐けない。二拍、つまり心の中で「いち、に」と数えるあいだは出ない。離れすぎればルカが狙われ、近づけば牙が襲う。

(なら、牙の距離を選ぶ)


ヒュドラの口が光り、白い酸が線になって飛ぶ。クレインは体を半分だけひねり、すれすれでかわす。鎧が少し焦げた。次の酸まで二拍。今しかない。

「——闘気解放・弐段《剛力》!」

足で地面を強く踏み、近くの岩を割る。砕けた小石が散弾のようにヒュドラの鱗のすき間に突き刺さり、ヒュドラの頭が一瞬止まった。


クレインはそのすきに懐へ滑り込む。熱い毒の蒸気が顔にかかる。すぐに腕をかけ、白い牙に体重をのせてへし折る。手がしびれるほどの衝撃。

折れた牙をつかみ、そのまま振り向きざまに投げた。白い牙は一直線に飛び、ヒュドラの目にズブりと刺さる。


次の瞬間、鋭い叫びが靄を切り裂いた。酸がはじけ、地面がじゅうじゅう音を立てて溶ける。クレインは飛び散る外側を踏んで二歩下がり、呼吸を整えた。心臓がどくんと強く鳴る。

「ルカ、いけるか!」

《剛力》の反動で腕が痺れ、剣を引きずりながらクレインが叫ぶ。喉が砂を噛むように掠れている。


「うん、じいちゃん!いつでも!」

結界の縁でルカが応じる。足は“ため足”、顎はわずかに下がっている。


「——ヴァルドナ流《朧月》」

筋と骨がきしむ音が、内側で小さく鳴った。クレインは半歩の捻りで間合いを潰し、刃の軌跡だけを月の雲のように曖昧にして、芯だけを断つ。一本の首が、地に垂れ下がる。


「——《アイスブラスト》!」

ルカの掌から生えた透明の槍が、もう一本の喉元を貫いた。氷が霧散する音とともに、残る頭部がのけぞる。

巨体が、地を揺らして崩れた。


「やった!」

ルカが息を弾ませる。


「……まだじゃ」

クレインの声は低い。最後の斬り口が浅い。切断しきれなかった頸が、ぬらりと盛り上がり、泡の縫い目でつながっていく。毒の匂いが、鼻の奥で金属の味を立たせた。


次の瞬間、ルカの体が跳ねた。

一歩目で砂が乾いた音を立てて飛び、二歩目で踵が沈む。三歩目はつま先でそっと置く——ため足。呼気は短く、「タ、タ」と拍を刻む。肩は揺れず、腰だけが前へ滑る。視界は靄の中で細いトンネルになり、標的の再生線だけが明滅する。


「一拍、二拍……三拍!」

小さく数えた声が、脚の屈伸と軌を合わせる。短剣は振らない。肘の支点を小さく作り、刃先の角度を二度だけ変える——押さず、通す。刃は頸の結び目に吸い込まれる線へ乗った。


最後の半歩、体の芯が沈む。

足裏は土を掴まず、撫でる。上体はわずかに傾き、重心は“いち”で前、“に”で止まり、“さん”で解ける。短剣は空気よりも静かに出入りし、通過の痕跡だけを置いた。


「ヴァルドナ流《水無月》!」


音のない音が走る。

刃が入ったことを知らせるのは、手応えではなく抵抗の欠如——ぬるりとした“空洞”だけ。抜きの角度は入れの逆相。そのまま残心、視線は揺らさない。


遅れて、落ちる音が戻ってくる。

ヒュドラの最後の首が、土を一度だけ強く叩き、動かなかった。毒の泡がほどけ、靄が浅く退く。ルカは短剣を返して息を吐き、足元の砂へそっと踵を落とす。拍が止まり、静寂だけが、風の匂いを薄く運んだ。


「じいちゃーん、やったよ!」

明るい声が毒の靄を破り、ルカが無邪気に駆け寄る。


クレインは驚きと喜びをまとめて、短く頷いた。

「ルカ……やはり天武の才が……」

「じいちゃんの見てたら、ちょっと興味、出て……」

恥ずかしそうな、小さな声。


そこまでだった。限界の線を越えた身体が、静かに折れる。

クレインは前のめりに倒れ、土の冷たさだけが、しばし呼吸の代わりを務めた。


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