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第1話 徘徊じゃない、旅立ちじゃ


「余命一年、といったところじゃな」

──薄曇りの午後、村はずれの小さな療院に、老医師とクレインは向かい合っていた。


老医師は書見台に両肘を載せ、くすんだ瞳で告げた。

瞬間、クレインの胸板から噴き出したのは、咳払いにも似た豪快な笑いである。


「かっかっか!ワシの歳じゃったら寿命と病死、どちらが追いつくかの競走じゃ、愉快よのう!」


老医師は苦笑しつつ包帯を片づけ、落ち着いた声で返す。

「愉快かどうかは知らんがの。七十九歳、いつ呼び鈴が鳴ってもおかしくはあるまい」


匙が机に当たり、金属のかすかな余韻が残る。

クレインは鼻を鳴らし、腰に置いた左手をひと振りした。

「その通りじゃ。——さて、ワシは帰る。余計な薬も慰めも要らん」


医師は視線を外さず、柔らかく問いかける。

「待たんか。やり残したことなど一つはあろう。あと一年、好きなことを——」


「満足しとる!道場を守って、安らかに過ごす」


短く斬り捨てると、老医師は机を指で叩き、半世紀前の噂を掘り起こした。

「昔は“冒険者になりたい”と騒いどったろう」

「たわけ!半世紀前の戦争より昔の──埃まみれの夢じゃ!」


鈍い罵声が壁に当たり、植物標本の瓶がかすかに揺れた。

クレインは荒々しく戸を開き、風を切って去る。その背を、老医師は疲れた笑みで見送った。


療院を出ると、夕立前の湿り気を含んだ風が頬をなぶった。

余命一年の響きを胸の奥へ押し込み、足取りだけは平生の調子で道場へ向かう。


***


道場に入るや、木剣の打ち合う乾いた音が梁を揺らした。

門下生たちが上段の型で締めに入り、掛け声が床を震わせる。クレインは壁際に立ち、腕を組んで頷くつもりだった。


弟子の一人が踏み込みでわずかに腰を浮かせた瞬間、身体が勝手に反応した。


「——踏み込みは“半身寄せ”、一拍置け」


一歩だけ踏んで見せる。前屈立ちへ移る刹那、パキリと膝が鳴る。

壁に手をついた途端、頭上の古い棚がぎし、と軋み、木箱が落ちた。中から古い写真が数枚、床に散る。


「だ、だいじょうぶですか師範!」「無理な示範は——」

「そうじゃのう……口で教えりゃ済む。稽古を続けい」


クレインは掌をひらりと振って弟子たちを下がらせ、膝を折って銀板写真を拾い上げ、そっと胸にしまった。


***


家に戻ると、炉の鍋がぐつりと鳴り、脂と薬草の香りが満ちていた。長卓に木椀が並び、家族が席につくところだ。王都大学の魔法学部に通う孫ルカが黒麦パンを切り分け、息子のヴィルムとその妻エリシアが碗を配る。


「お帰り、じいちゃん。お医者さまは何て言ってた?」

ルカがパン屑を払って顔を上げる。


「……ただの風邪じゃ」

苦い嘘を吐き、厚布に包んだ短剣を卓の中央へ静かに置く。炉火が鍔を横切って光る。


「——握ってみろ。剣は骨と魂を研ぐ砥石じゃ」


鍋の前のルカは木杓子を回しながら、剣に触れず笑った。

「いま世界を研ぐのは数式と魔法陣さ。僕は“蒸気式マナ変換機”を仕上げて、来季の学会で発表するんだ。

これを寒村の水車に組み込めば、冬の凍死が半分になる。だから急いでるんだよ」


フォークが皿を跳ね、音が湯気を裂く。香りが一瞬で冷え、室内に暖炉と薬草の匂いだけが残った。

クレインは腰を下ろし、低い声を這わせる。

「ルカ、お前には剣の才がある。道場を継いで——」

「爺ちゃんは未来を変えたの?」


ルカの声音は穏やかだが、言葉の刃は鋭い。

「“撤退戦の英雄”って呼ばれても、結局は昔語りの脚色でしょ?」

炉が、ぱち、と鳴った。

クレインは咳を飲み込み、布巾で口を押さえる。白に赤がじわりと広がる。

ルカが鍋越しに手を伸ばす。

「……だから安静にしなよ。もう爺ちゃんの役目は——」

「おいぼれ扱いするなッ!」


卓板が拳で震え、視線が火花を散らし、炉火の爆ぜる音が間を埋めた。

やがてヴィルムが咳払いし、場を収めるように椀を並べ直す。

湯気の向こうで、ルカの瞳には敬愛と、ほんの少しの寂しさが交錯していた。

クレインは気づきながらも気づかぬふりをして、苦い笑みを作る。

椀を手元へ寄せ、胸の前で腕を組み直した。その姿勢が、言葉のかわりに盾になった。


***


——夜。家人が眠る頃クレインは納屋の奥、道場で拾った銀板写真を覗き込んだ。

若い自分と、肩を組む友。川辺、陽に白く光る水面、笑っている。


裏返す。震える筆跡。

「戦が終わったら、一緒に冒険へ出よう」

行の端に、癖のある頭文字——G。


去年、ガレスは風邪を拗らせて先に逝った。

戦のさなか、オルト峠の帰り道で決めた——終わったら二人で旅に出ると。だが焼け跡の復旧と配給、道場の建て直しに追われ、「今は人手が要る」と翌春へ回した。その春は来なかった。


胸の奥で、古い火がじり、と鳴る。

(……老いは止められん。じゃが、やり方は選べるんじゃないか?わずかな歩幅でも、約束は果たせる)

だが次に浮かんだのは感傷ではなく段取りだった。

(……〈旧戦域保護区〉は登録証が要る。王都の冒険者登録は月末締め。王都まで一週間——今すぐ動かねば間に合わん。この脚なら、なおさらじゃ)


そして、もう一つ。

(王都には——昔、腕白小僧に稽古をつけた。“バル坊”がおる。いま何をしとるやら……ま、使える縁はある)


箱を開け、古い甲冑を取り出した。布で錆を拭い、留め具を締める。胸の奥に、あの熱がまだいる。


肩当てに指を滑らせ、深い傷痕を確かめる。赤褪せたマントは蛾に喰われ、徽章は剥落している。

「息子夫婦に孫、温い寝床と三度の飯……これで充分のはずじゃと思っておった」


手は止まらない。磨き上げ、最後の留め具を締めると、胸の奥で何かがはじけた。

「ふっ……見よ、この老骨。いまこそ旅立つ!戦友たちよ、待っとれよ」


鏡に映る自分へ指を突きつける。

「七十九歳?余命一年?笑止!ならば——今夜発つ。三百六十五日の大冒険を、この老体で食い尽くしてくれるわ!」


戸を押し開けると、村が音楽になった。

風が桑の葉を擦り合わせ、虫が低い弦を鳴らし、小川が細い笛で拍を刻む。

頭上では天の川がゆっくり流れ、星の粒が拍を数える。

その拍に歩幅を重ねると、鎧の継ぎ目が軽く歌った。

肩書も歳月も、露に紛れて薄まる。先送りにしてきた重しが、足首からそっと外れた。

残ったのは、骨と息と、ただ進みたい意志だけ。

母屋の灯がひとつ、またひとつ揺れた。誰かが不在に気づいたらしい。

「行くか」


胸当てに当たって銀のペンダントが澄んだ音を落とす。蓋を開けば、亡妻エリサの眼差し。

「……エリサよ。ワシは歳を楯にして、夢を棺に葬っただけかもしれんのう」


言葉にすると、熱が広がった。

「間違うたのは“歳だから無理”と決めつけたことじゃ。無茶はせぬ——知恵と段取りで行く」


里を離れ、小川を越え、膝が呻く。

「休むか……」


路傍の石に腰を下ろし、ペンダントを開く。

「ばあさんや。——もうじき会いに行く。その前に、ワシは“冒険者”になってみることにしたぞ。

土産話を山ほど背負って行くから、茶でも沸かして待っておれ」


——と、言いたいところだが、実際には甲冑と関節のきしむ音の方がよほど騒がしい。


畦道の向こう、松明の灯が赤子の夜泣きのように揺れ、村人たちが次々に飛び出してくる。

「いたぞー!クレイン爺さん発見!」「やっぱり徘徊だってばさ!」「攫われたなんて誰が言ったんだよ!」


夏草がざわめき、クレインは眉間に峡谷を刻む。

「違うわい!ワシは旅……いや、冒険の途中じゃ!」

抗議のため立ちあがろうとしたクレインの膝がパキリと音を立て、若い衆の苦笑いがやわらかく包む。

「はいはい、“冒険”ね。とりあえず家に帰って、明るくなったらまた旅立とうね?ね?」

「最近ちょっと物忘れが——」「誰がボケ老人じゃッ!」


鎧をカスタネットのように鳴らして反撃——したつもりが、肘当てを振った瞬間、

「ぬおっ!?外れぬ!」

錆びた関節が噛み合い、想定外のロック機構と化す。左右から抱えられ、救助か逮捕か判然としない。


「離さんか!ワシは自由なる流浪の冒険者——ぐあっ、膝が!」


三百歩を超えた脚が悲鳴を上げる。月光が円い舞台照明のように照らす中、鳴り響くのは鎧の軋みと若者たちの号令。

抗議だか実況だか分からぬ叫びが夏草の海を渡り、遠くの梟が呆れた声で応じた。


老剣士クレイン——七十九歳。

彼が一度に歩ける距離は、たった三百歩ほど。距離にして三百メートル。

けれど胸の奥では、少年の頃に描いた冒険譚がふたたび灯をともしていた。


——一年しかない?

笑止。


「まだ、終わらせん……物語を」


東の空が、わずかに白みはじめていた。


「——残寿:12ヶ月」


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