流氷の領土
社会歴史99 ホラー1 お覚悟を
北方領土である国後島、択捉島、歯舞島、色丹島の四島。ここにはロシアやウクライナの人達が16000人程暮らしている。小学校から日本の領土であると習うのだが、実質そう機能はしていない。主権も軍事も、日本国民の1人すらない。領土問題の典型である。
1945年8月。ソ連が四島を含む千島列島に攻め込んできた時にはそこは日本の領土であり、16000人の日本人が暮らしていたのだが、占領され追い出されることになった。ここで日本とロシアにおける歴史を置いておく。ホラー要素の準備のためとはいえ遠い。
■1782年
大黒屋光太夫。31歳の光太夫は江戸を目指して白子の浦(現三重県鈴鹿)を廻船問屋の船頭として出航。駿河(現静岡県)沖にて暴風に遭い舵が破損。航路を外れ7カ月漂流し、日付変更線を越えアムチトカ島(現アラスカ州)に漂着。そこの先住民と、別に漂流していたロシア人と4年を過ごし、ロシア語を習得。脱出を試みる中で別の船が来るが、その船も難破して、遭難民がどっと増える。難破した船の材料をありあわせて船を作り、島からの脱出に成功。カムチャッカ半島、オホーツク、ヤクーツクを経てイルクーツクに1789年に到達。そこで日本人に興味を抱いていたキリル・ラクスマンと合流。一緒に6000km以上離れたロシアの首都サンクトペテルブルクへ。1791年にロシアの女帝エカチェリーナ2世に謁見。彼女は光太夫に勲章を与え、帰国を許可・サポートし、鎖国している日本との通商を望む。キリルの次男アダム・ラクスマンを遣日大使とする。1792年に蝦夷(現北海道)の東端の根室に到達。ラクスマンは松前藩、そして老中松平定信から長崎出島でしか交渉を受け付けないとの事情を説明され泣く泣く帰国。1804年にラクスマンから貿易許可証明を受け取ったレザノフは長崎に正式に通商を求めたが幕府側は拒否した。
■1808年
間宮林蔵が蝦夷地から樺太に渡り、そこが島であることを確認。現地のアイヌ人やロシア人と接触する。樺太の南部は幕府から任されていた松前藩の領土としたものの、北部は寒冷な気候、山岳、森林の多く、先住民族はロシアとの結びつきが強かったので実効支配を諦めた。
■1875年
樺太千島交換条約。日本の占有していた樺太とロシアが占有していた千島列島(十八島)を交換。日本は後に北方領土と呼ばれる四島を含む千島列島を得る。
■1905年
日露戦争講和条約であるポーツマス条約。小村寿太郎外務大臣がルーズベルト大統領の仲介で南樺太を得る。他にも色々と得たのだが、戦勝国ながら賠償金が得られず国内では日比谷焼き討ち事件などの暴動が発生。ただ国際的には日本が強国であると知られる。
■1945年
7月26日 ポツダム会議にて日本に無条件降伏を要求し、応じなければ原爆投下の可能性を示唆し警告。
8月6日 広島に原爆投下
8月9日 長崎に原爆投下
同日ソ連が1941年の日ソ中立条約を破り満州・樺太・千島列島に攻め込んでくる
8月15日 ポツダム宣言受諾。玉音放送にて降伏を発表。日本における終戦。
8月25日 樺太全域を占領される。
8月28日頃 満州全域を占領される。
9月2日 降伏の署名。世界における終戦。アメリカ、イギリス、中国、ソ連などの連合国が立ち会う。
9月5日 北方領土の四島が占領される。
■1951年
日本がサンフランシスコ平和条約にて南樺太と千島列島の内の四島を除く島の領有権を放棄。
ただし、ソ連も立ち会った降伏署名後に占領された四島に関しては、日本固有の領土であると主張。
■1956年
日ソ共同宣言。ソ連が歯舞群島、色丹島の2島返還を提案。面積で言えば国後島(3139㎢)、択捉島(1497㎢)、歯舞群島(6㎢)、色丹(289㎢)であるので4島の内2島と言えば聞こえは良いが、僅か6%弱。ただ鳩山一郎首相は前向きに捉える。
日本とソ連の接近を危惧したアメリカから待ったがかかる。
「2島返還の話に乗るなら、アメリカは沖縄(本島1206㎢、島々込みで2281㎢)を返還しない」
単純に面積や、地域、気候で考えた訳では無いのだろうが、北方四島の返還の話はその時点で流れる。改めてソ連との平和条約締結後に2島は返還するという文言が盛り込まれた。
■1972年
沖縄返還。アメリカとの仲を深めた事により、冷戦の長期化や領土問題、実効支配の長期化などが以降も続く。
■2025年
夏時点で北方領土の四島は返還されていない。
……急展開を見せたのは
■2028年
ロシアが対外に仕掛けていた戦争とその隠されていた手段・目的が国際的に非難されブーチン大統領が失脚。その後釜に据えられた大統領がえらく宥和政策を推し進めた。緊張を和らげ和解や平和・友好に持ち込む。譲歩や協力も惜しまないタイプであった。
日本とも急速に歩み寄りロシアの新たな観光地の建設の支援や、日本とロシアの交換留学生を日本に大量に受け入れる制度が加速した。
そんな中で目玉となったのが、北方四島における大型レジャー施設『スヴェスタ―』の建造だ。ロシア語、日本語のいずれでも星という意味が含まれており。一度は訪れる目指すべき場所という意味が込められている。
2025年7月ジャングリア沖縄がオープン。日本の中でも最も南にある遠い島であっても、飛行機の便さえ整えてしまえば日本中から観光客が押し寄せる事は証明されていた。
2032年。ロシア・日本の共同で製作された海外のビザを持っていなくても、海外旅行に行く事ができるというウリで日本から、ロシアからの観光客が押し寄せた。日本人通訳・ロシア人通訳・スマホの同時通訳・AR付きの案内看板が十分に機能。そこに働くキャスト達も異国情緒あふれた衣装や装飾を身に着け憧れの職業となる。日本の若者、ロシアの若者がどんどん高倍率になっていくオーディションを潜り抜けて高給取りのキャストとなり、TVタレントのように紹介される。世界でその成功例が取り上げられ、世界中からも観光客が押し寄せる。だからと言っていい加減な宿や施設を作らないのが日本クオリティー。一流のおもてなしを用意。ロシアも良い意味で競い合い、連日花火が上がり、お祭り状態。大フィーバーを巻き起こした。
犯罪治安に関してはまさかのダブルペナルティ。日本、ロシア双方に重い罰金、刑務所の刑期もそれぞれ日本で収監⇒ロシアで収監と単純に2倍。ただし満足度の高さからトラブルに発展するケース自体が極めて稀であった。
更に戦争の跡も残る北方四島。砲台跡が生々しく残り、上記のような歴史を知るためにも貴重な遺産。修学旅行先としてあっという間に人気ナンバーワンとなる。旅行中にバスガイド、レジャーランドの若いロシア人キャストに恋をして、大学でロシア語を専攻してロシア行きを決意する青少年、少女が増えたとかどうとか。
しかしその夢が叶う事は無い。
2035年。北方四島に暮らす人々はやはり運が良かった。
世界を同時に襲った奇病から何故だか逃れる事ができたのだ。
突然に世界の95%を越える人が亡くなった。原因は分からない。コロナのような病原菌は発見されなかった。しかし特定の地域に住む人達だけは全く症状が出ずに普通の暮らしを送る事ができていた。日本では北海道の北側、北方領土のみ。世界的にはノルウェーやイギリスの北側、ロシアやカナダ、アメリカのアラスカなど、非常に寒冷な地域のみ。
寒冷な地域であっても内陸であれば人は亡くなっていた事から、これは流氷が関係しているのではないかと噂になった。
だが真実は分からない。ブーチンの呪いだとか紹介する記事もあったが、当人ももうその奇病ですでに亡くなっている。
世界の国に存在した領土の問題はこのように解決に至った。
人種も国境も産まれも無い。
遠い昔からずっと人と人との心で紡いでいくものだ。
エカチェリーナ2世はロシア領土拡大、統治、外交で大帝と呼ばれた女帝。
トランプ大統領も尊敬する政治家に名を上げ、卓上に写真を置いていた。
プーチン大統領はロシアの復活を掲げ、エカチェリーナ2世の頃の拡張主義や強権政治をモデルに。
■1783年
群馬県と長野県境にある浅間山が噴火。天明の大噴火は天明の大飢饉を引き起こし、田沼意次が東北を米どころとすべく、畑を潰し、別職の人間に米を作らせていた。火山灰と冷夏による大凶作により天明の大飢饉が発生。東北を中心に20万人以上の餓死・病死者を出す。
■1787年
松平定信が天明の大飢饉をどうにかすべく寛政の改革に着手。元は東北・福島にて手腕を発揮し白川藩にて餓死者0を成し遂げた手腕をかわれ老中に抜擢された。ちなみに東北・山形で上杉鷹山も米沢藩にて餓死者0を成しており寛政の改革に関わっている。有名な格言に「成せば成る 成さねばならぬ何事も」。
■1783年
アイスランドのラキ山が大噴火を起こす。ヨーロッパは夏に猛暑、冬は大寒波。土壌や家畜に大ダメージを与え、価格高騰が続く。食糧不足は1789年のフランス革命に繋がる。
この18世紀後半の世界における災害とそれを(うっすらと)繋ぐ光太夫。江戸にて11代将軍徳川家斉の聞き取り、後に見聞がまとめられ蘭学の発展に寄与。1795年45歳で18歳“まき”と再婚し子をもうける。彼はリアル異世界転移をしたなろう系の典型か…。オチも光太夫のエピソードに丸投げした感があります。ラクスマン・レザノフの呪いです。