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初恋  作者: 早能 せい
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初恋

 1章 通り雨

 通りかがった雲が、まるでいたずらするように町を濡らしていく。遠くの空は晴れているのに、足元にできた大きな水たまり。

 3月。

 山の上には、まだ雪が残っている。もう二度と歩くことのない、学校までの道、3つ目の交差点。


 本当はもう少しゆっくり、この町の景色を、心に焼きつけておきたかった。


 両親の離婚が決まって、もうすぐここを去る。

 17年間過ごした町は、人口1万人に満たない小さな町だった。町に3つある小学校は、昨年1つに統合された。中学は2つ。高校は1つ。1学年1クラスしかない高校は、保育園からずっと一緒の同級生が多くいた。


 渋谷遥しぶやはるかは、父のさとしが運転席で待つ、車の後部座席に乗った。

「遥、本当にいいのか。出発は明日って言ってたのに、急に行くことになって。」

「別にいいよ。今日も明日も変わらないし。」

「クラスの子には、何か言っておいたほうがいいんじゃないのか? 保育園からずっと同じだった友達もいたはずだし。」 

「お父さん、早く行こう。」


 遥は後部座席に寝転がる。

「シートベルト、しないとダメだぞ。」

「はい、はい。」

 遥はシートベルトを締めると車の窓にもたれて目をつぶった。


 半年前、母の浮気が発覚した。母と同じ職場にいる、父より10歳も年下の男性との関係は、もう3年にもなるらしい。母は仕事しかできない父を残し、半年前からその男性と暮らし始めた。

 小さな町での不倫など、あっという間に広がってしまうのに、母はまるで、少しずつ老いていく父が悪いように、私はいつまでも女性でいたかった、そう言って父を責めた。


 大学生の3つ上の姉は、すでに家を離れていたので、母の浮気の事は知らなかった。どうせ一緒には暮らさないからと、母と新しい父の籍に入った。

 父は気の知れた仲間のいるこの町の支社から、大きな町にある本社への異動を願い出た。長年暮らした家を売りに出すと聞いた時、遥は大切な思い出も何もかも失った父と、一緒に付いて行く決心をした。

 

 一生誰かを愛し続ける事なんて、できるわけがないんだ。時々思い出す母の粘っこい笑い声が、遥はいらやしくて耳を塞いだ。父が一生懸命になればなる度、その背中を見るのが情けない。  

 

 お母さん、あなたが幸せになる事なんて、絶対許さないからね。

 

 遥は赤信号で車が止まるたびに、寂しさが母への憎しみに変わり、やるせない気持ちが募っていった。


「お父さん、ごめん。学校に寄って。」

「どうした?」

「机の中にシャープペン入ったままだ。」

「そんなの後で誰かが捨ててくれるだろう。」

「そうだけど……。何も残して置きたくないの。」

「そうか、わかった。」

 父は車を引き返した。

 家から出て、3つ目の大きな交差点にくると、学校の薄い黄色の壁が見えてくる。

 本当はシャープペンなんて、どうでもよかった。父のいう通り、誰かが見つけて、もう捨ててしまったかもしれないし。


 学校の玄関に入ると、近くにあるスリッパを借りて教室へ向かった。ペタペタとスリッパでは歩きにくい階段を上ると、少し前まで自分が過ごしていた教室が見えた。なんだかとても重く感じるドアを開け、グランドを眺めていた自分を思い浮かべなから、窓際の席まで、机と机の間を歩いていく。


 自分の机は、やっぱり空っぽだった。


 少しだけ残る思い出を吸い込むと、遥は教室を後にした。玄関にある、まだ自分の名前のついている下駄箱が、最後の挨拶をしているようだった。

 この連休が終ったら、本当に何もなくなってしまうんだろうな。

 遥は吸い寄せられるように何も入っていないはずの下駄箱を開けた。上靴がない淋しそうな下駄箱の中には、薄い緑色の便箋が置かれていた。

 名前も何もない便箋を手に取ると、しっかりのり付けされて開かないようになっている。

 誰のだろう、これ。


「遥。」

 部活の休憩中なのか、玄関を通った小百合が声を掛けてきた。

「小百合、部活だったの?」

「そう。遥は忘れ物?」

「うん。」

「明日、行くんだっけ、向こうに。」

「ううん。今日行くの。」

「えー、明日みんなで見送りに行こうと思ったのに。」

「ごめん、小百合。会うと辛くなるから。」

 泣かないはずだったのに、思い出が喉の奥を熱くする。

「遥、大変だったね。新しい学校に行ったら、ラインちょうだい。」

「うん。」

 

 遥は手紙を下駄箱に戻すのを忘れ、父の待つ車へ戻ってきた。

「あったか?」

 父が遥に聞いてきた。

「なかった。」

 遥はシートベルトを締めながら答えた。

「シャープペンなんて、また新しいの買えばいいだろう。」 

「そうだね。」

 父はとても急いでいたので、持ってきた手紙を下駄箱に戻すのは諦めた。薄い緑色の封筒をそっとカバンにしまうと、遥はまた車の窓を眺めた。

「新しい制服、明日できるそうだ。」

「うん。」

「連休が終ったら、学校だからな。」

「わかってる。」

 父の言葉など、本当は耳に入ってこない。どうして父と私だけが、逃げるようにこの町を出ていかなければいけないのか。時間を巻き戻せるなら、どこから巻き戻せば、静かで穏やかな日がまた戻ってくるのだろう。そんな事を言ったら、父は母との出会いすら、消してしまいたいって言うかもしれない。

 私は生まれてこない方が、よかったのか……。あの母から生まれこなければ、父はもっと自由に、次の人生を歩んでいけたのに。

「ほら。」

 運転席から伸びた手が、冷たいお茶を遥に渡す。

「ありがとう、お父さん。」


 社宅に着いた。

 無造作に置かれた段ボールだらけの部屋の中。遥は開かないように止めた段ボールのガムテープを、カッターで裂いて蓋を開けていた。

 机の引き出しの物をぐちゃぐちゃに詰めてきた箱の中には、制服のボタンが入っていた。

 もしかしたら……、

 遥はカバンの中にある封筒を出した。

 机に置かれていたカッターで、丁寧に手紙の封を切ると、中から封筒と同じ薄い緑色の便箋が出てきた。


 さみしくなったら、ラインしろよ。


 手紙の下には、自分で書いたデタラメのQRコードがあった。

 これ……、

 手紙の相手は藤原叶太ふじわらかなただとわかった。


 あいつ、バカなの?


 叶太は小学2年の時、突然この町に転校してきて、遥の隣りの席になった。

 母と2人きりで都会からやってきたという叶太に、同級生は興味津々だった。言いたくもない事だってたくさんあるだろうに、叶太は誰にでも同じように笑顔をむけて、すぐにみんなと打ち解けた。

「渋谷さん、少しの間、藤原くんに教科書を見せてあげて。」

 担任の先生がそう言うので、遥は藤原に教科書を見せるために、授業が始まると机をくっつけた。

 遥の教科書にデタラメのQRコードを書いた叶太は、

「これで、俺と繋がるから。」

 そう言って笑った。

 叶太の教科書が来るまでの1ヶ月の間、叶太は遥の教科書に、いつも落書きをして笑わせた。


 中学の卒業式の日。

 ついたまま帰ると母が悲しむと言って、遥に学生服のボタンを渡した。

「いらないよ。」

 遥はボタンを叶太に返した。

「遥ちゃんのボタン、くれよ。」

 叶太はそう言って手を出した。

「なんで?」

「交換してもいいだろう。」

 叶太は遥の左手に自分のボタンを握らせると、遥のブレザーのボタンをもぎ取った。

「ちょっと!」

「携帯、買ってもらったから、今度ラインしようよ。」

 叶太は笑った。

「私、携帯なんて持ってないし。」

「嘘つけ。遥ちゃん、この前、携帯選んでるの見たよ。」

「見てたなら、声を掛けてくれれば良かったのに。」

「ボタン、大切にするから。」

 叶太はそう言って友達の中に戻っていった。 

 転校してきた日から、ずっとそうやって近くで笑っていた叶太。同じバドミントン部だった事もあって、遥と叶太は、少しずつ距離が縮まっていた。


 本当は、部活で学校にいるはずの叶太に会えると思って学校に寄ったのに。今度こそラインを交換して、離れていても、ずっと繋がっていたかった。

 結局、叶太に会えないまま町を出てきた遥は、初恋と失恋とよくわからない気持ちを、このまま胸の奥に閉じ込めた。

 

 2章 霧雨

 新しい学校の制服は、セーラー服だった。セーラー服なんて、一生着る事はないと思っていたので、遥は嬉しくなり、早速それに袖を通した。

 鏡の前でリボンを結ぶ練習をしていると、いつまでも女でいたい、と言った母の顔が急に浮かんだ。

 少しずつ女になっていく自分が、とても気持ち悪かった。


 遥はセーラー服を脱いだ。  

 脱ぎっぱなしになっていた短パンとTシャツに着替えると、居間に置きっぱなしの段ボールから、食器を出して棚にしまい始めた。

 そう言えば、お弁当箱、用意してないや。

 職場に挨拶に行った父にラインをすると、もうすぐ帰るから、一緒に買いに行こうと返事がきた。


 次の日。

 転校した高校は、1学年全部で8クラスあった。40人が机を並べる教室は、圧迫感がある。

 遥はなるべく目立たないように挨拶を済ませると、担任から一番奥の席に案内された。ここからは黒板がぜんぜん見えない。遥はカバンからメガネを出すと、黒板が見えるように、首を横にむけた。

 たくさん人がいるはずなのに、誰もが遠くにいる様に感じる。

 悠には、間に合わなかった教科書の代わりに、授業で使う分のページのコピーが渡されている。知らない国の中で、1人取り残された気分になった遥は、淡々と進んでいく授業の板書を、ひたすら書き写していた。


 休み時間になり、2人の女の子が遥の前にきた。

「何部に入るの? ラグビー部、マネージャー募集してるよ。チア部も募集しているし。」

「そんな部活もあるの?」

「あるよ。前の学校にはなかったの?」

「前の学校は、3つしかなかったから。」

「へぇ~、ずいぶん小さな学校だったたんだね。クラスは何組あったの?」

「1組。」

「それなら、みんなお友達じゃん。」

「そうだね。」

「部活は何をやってたの?」

「バドミントン。」

「じゃあ、バドミントン部に入ろうとしてた?」

「1回見学してから決めようと思って……。」

 遥の近くにいた女の子が、

「私もバドミントン部なの。今日、練習あるから、見においでよ。」

 そう言った。

「遥っていうんだっけ。私は水川華英みずかわはなえよろしくね。」

「私は瀧本朱莉たきもとあかりよろしくね。」

 口紅のせいなのか、2人共薄っすらと唇がキレイなピンク色をしている。まっすぐ伸びたキラキラした髪に比べて、自分の髪は、ただ後ろで集められただけの厚ぼったい束。

 今まで生きてきた17年間が、否定された気分になる。  

 目の前にいる女の子が、普通の女子高生の規準になるのなら、自分のように、朝起きてそのまま学校へくる様な人間は、この環境では少し生きにくい。

「ねえ、黒板見えないんだったら、先生に言って前にしてもらったら?」 

 華英がそう言った。

「大丈夫。」

「部活の時は、メガネなの?」

「メガネもとってる。」

「それで、よくやってこれたね。」

「そんなに人もいなかったし。」

「ここは部員は30人以上はいるよ。コンタクトにしたら?」

「みんな、そうなの?」

「コンタクトの人、多いね。私もそうだし。」

 遥は華英の目を覗いた。

「ぜんぜん、わからなかった。」

「当たり前じゃん、そんなの。」 

「みんな、化粧してるの?」

 遥は2人に聞いてみた。

「私は化粧なんかしてないよ。これは色付きのリップ。うちの学校、けっこう厳しいからさ。」

 朱莉が言った。

「この髪なら、頭髪検査引っ掛かるよ。」

 華英は遥の前髪をおでこに押さえつけた。

「厳しいんだね。」

「あとで、裏技教えてあげる。」

 3人はすぐに打ち解けた。


 放課後。

 華英に案内されたバドミントン部を見学にきた。

「ラケット貸すからやってみなよ。」

 華英は悠にラケットを渡すと、コートに入った。

「渉、ちょっとそっちに寄って。」

 華英は隣の男子にそう言うと、遥にシャトルを渡した。

「サーブ、打ってみてよ。」

 遥は華英にむかってサーブすると、高く上がったシャトルは、長い滞空時間を経て、華英のラケットからまた、高く返された。広い体育館のいろんな場所で、シャトルを打つ音が聞こえている。

「ねえ、遥。私と組まない?」

 華英はそう言った。

「私、ダブルスなんてやったことないよ。」

「大丈夫。」

「転校生?」

 隣りの男子が遥にそう聞いた。

「そうです。」

「何組?」

「B組です。」

「バドミントン、けっこうやってたの?」

「……はい。」

「俺、冴木渉。《さえきわたる》あっちは、小島拓哉。《こじまたくや》拓哉はF組だから。」

 遥はABCと指を折っていた。

「遥、ここは8組あるんだよ。」

 華英が言った。

「同じ学年でも、知らない人の方が多いでしょう?」

 遥は華英に聞いた。

「そうだね。あっ、先生きたよ。挨拶に行こうよ。」

 華英は遥の手を引っ張った。


 家に戻ると、父が台所に立っていた。

「お父さん、私がやるよ。」

「今日は早く終わったから、カレーくらいならお父さんでも作れるぞ。」

「料理なんかしなくても、買ってくればいいんだし。」

 遥は無理して普通の家庭を取り戻そうとする父を見るのが嫌だった。

「部活やる事にしたの。これから私も遅くなる時は、すぐ食べれるもの、買ってこようよ。」

「そんなのばっかり続いたら、体壊すぞ。」

「大丈夫だよ。お弁当は自分で作るから。」

「すまないな。なあ遥、せっかく都会に来たんだから、塾に行かないか? 来年は受験だろう。」

「行かないよ。それにまだなんにも決めてないし。」


 部屋に戻ると、遥は窓を開けた。霧雨が降っているせいか、ぼんやりとオレンジ色に見える街灯の光に照らされて、小さな雫が騒いで見える。

 教科書のない空っぽのカバンの中。

 きっと叶太のランドセルも、そうだったんだろうな。

 ここはこんなにすごい人だもの、いろんな事が紛れて消えて、そのまま何もかも忘れて行くはず。

 叶太も近くにいる誰かを好きになって、自分のことなんて、あっという間に忘れていくんだろうな。

 あの町から少し離れただけなのに、新しい学校でも楽しくなくやっていけそうなのに、なんでだろう。心が鎖でグルグル巻きにされているようだ。

 思い出になんかなりたくない。だけど、思い出にすらなれないのかと思うと、それもまた悲しい。

 恋だとか、愛だとか、そんな感情なんて、みんな嘘っぱちだって思ったじゃない。長年一緒にいた父と母だって、いつの間にか気持ちが離れていったんだし。

 叶太、私の事なんかもう忘れた? きっと忘れたよね。私だって、少しずつ忘れていくんだもの。

 遥は膝を抱えると、顔を伏せた。


 3章 2つの傘

 遥と華英と朱莉の3人は、放課後の教室で、初めてコンタクトを入れる遥の前に集まっていた。

 

「遥、なんでわざわざ毎日取り替えるタイプにしたの?」

 朱莉がそう言った。

「1週間とか、3日間とかだと、いつ取り替えたか忘れてちゃうと思ったから。」

「だけど、こんなに怖がってて、毎日なんて入れられるの?」

 華英が言った。

「いざとなったら、メガネに戻すから。」

「ねぇ、早く入れてみなよ。せっかく手洗って、準備したんでしょう?」

 朱莉が遥の肩を掴んだ。

「待って、1回、深呼吸するから。」

 2人は遥の瞳を見つめる。

「あー、ダメ。やっぱり怖い。」

「私が押さえて、朱莉が入れるとか。」 

「やめてよ、その方が怖すぎる。」


 3人がいる教室へ、渉ともう1人の男子がやって来る。

「何やってんの?」

 渉が遥の机の前に来た。

「あー、ちょっと、コンタクトあるから気をつけて。」

 華英がそう言った。

「お前たちの声、廊下の端まで聞こえるよ。」

 渉がそう言うと、一緒に来た木下哲きのしたてつが遥の顔を覗いた。

「遥、早く入れなよ。なんか、余計な2人もやってきちゃったよ。」

 華英が言った。

「よし!」

 遥は水に浮かぶコンタクトを指ですくうと、

「みんな、そんなに見ないでよ。」

 そう言って、少し横を向いて左目にコンタクトを入れた。

「どう?」

 哲が聞いた。

「待って、右目も入れる。」 

 遥は右目にもコンタクトを入れ、数回瞬きをする。

 遥の周りに集まっていた4人は、みんな遥の顔を見ていた。

「よく見える。」

 遥がそう言うと、4人は一斉に拍手をした。


「おい! お前たち、もういい加減、家に帰れよ。テスト期間に入ったぞ!」

 教室のドアを勢いよく開けた担任が、5人に注意した。急いで玄関に向かった5人は、ケラケラと笑いながら下駄箱に上靴を収めていく。

「じゃあな。」

「またね。」

 5人はそれぞれの方向へむかって歩いていった。


「渋谷さん!」

 哲が追いかけてきた。

「同じ方向でしょう? 一緒に帰ろうよ。」

「うん。」

 遥は哲の方を向くと、

「小島くん?」

 と不思議な顔をした。

「ひどいなあ。コンタクトする前は、本当に見えてなかったんだね。」

「ごめん。」

「俺、D組の木下哲。渉と同じ中学だったんだ。」

「そうなんだ。」

「学校は慣れた?」

「そうだね。たくさん人がいるから、ちょっと大変。木下くんは何部なの?」

「俺は軟式野球部。」

「軟式って何?」

「柔らかい球を使う方。」

「じゃあ、硬い方はなんていうの?」

「硬式野球。甲子園とかはそっちだよ。うちの学校は2つともあるんだ。」

「ふ~ん、大きな学校ってなんでもあるんだね。」

「渋谷さんは、ずいぶん小さな所から来たって聞いたよ。」

「そうだね。1クラスしかなかった。」

「けっこうモテたでしょう?」

「モテるわけないじゃん、それにみんな保育園からほとんど一緒だし、好きとか嫌いとか、そんなのぜんぜんないよ。」

「そっか。」

「苦労して入れたけど、ちゃんと外せるの? コンタクト。」

「わかんない。」

「よく見える?」

「うん。よく見える。」

 遥は哲に笑顔をむける。遥の澄んだ目は、哲の心に、鮮やかな色をつけた。 

 転校してきた時から、ずっと気になっていたけど、哲は遥の事が好きだと確信した。

「渋谷さん、あのさ。」

「何?」

「下の名前ってなんていうの?」

「遥。木下くんは、鉄砲の鉄?」

「そんなわけないだろう、哲学の哲。」

「わかった、もう覚えたよ。哲学の哲ね。私の家、こっちだから、じゃあね。」

 遥は手を振って行ってしまった。


 テストが終わった日。

 午前中に曇っていた空は、雨を抱え込んだように低くなってきた。学校を出て1つ目の交差点につく頃には、ポツポツと雨の雫が道路を濡らし始めた。

 遥は手に持っていた薄い緑色の傘を開くと、内側に浮き上がった小さな花を眺めた。

 信号が青になる。横断歩道を渡りきった所で、哲が遥に声を掛けた。

「渋谷さん、一緒に傘に入れて。」

「木下くん、傘持ってるでしょう?」

 遥は哲の持っている黒い傘を指さした。

「これ、壊れちゃってさ。」

 哲は嘘をついた。

 傘の中に入ると、遥が持っている柄を掴んだ。

「俺が持つよ。」

「ありがとう。」

 遥の持っている薄い緑色の傘の中は、ちいさな花が広がっていた。

「あれ? 外側にはこんな模様なかったよ。」

「中だけなの。濡れると見える花なんだって。」

「そうなんだ。」

 哲は遥の肩をそっと自分に寄せた。

「傘からはみ出したら、濡れちゃうよ。」

「大丈夫だって。木下くん、傘が壊れたなら、ここから困るね。」

「あっ、まあそうだね。」

「私の家近いから、木下くんに傘貸してあげる。」

 遥はそういうと、傘の中を抜けて出して、走っていってしまった。

「渋谷さん、そうじゃくて、あのさ……。」

 雨の中に消えていく遥の背中は、あっという間に見えなくなった。

 嘘なんかつかなきゃよかった。

 哲はため息をついた。

 自分も傘を広げて遥の隣りに並んでいたら、もう少し話しができたのに。

 明日から、部活が始まる。

 次にこうして会えるのはいつだろう。


 家に着いた遥は、びしょ濡れになった制服を洗面所の物干しに掛けた。乾いたタオルで丁寧に制服を拭くと、体が冷えたせいか少し寒気がした。

 父に温かいものが食べたいとラインをすると、布団に入り、目を閉じた。冷たい自分の腕をさすると、肩を触った哲の手の感触を思い出した。遥は肩をギュっとつねると、その感触を忘れるために、このまま眠ってしまおうと、固く目を閉じた。


 小さい頃はなんのためらいもなく繋いでいた手も、いつの間にか指先が触れるだけでも恥ずかしくなる。

 急に馴れ馴れしく遥の肩に触ってきた哲は、叶太よりも少し大人びて見えた。

 

 傘、持ってたくせに。

 本当の気持ちをつぶやくと、少し体が熱くなった。

 

 

 4章 水たまり

 初めてキスをした相手の事は、自分が死ぬまで忘れる事はないだろう。たとえそれが好きじゃなかった相手だとしても、淡い思い出色に染まった心は、いつまでも色褪せる事はない。初めて足を踏み入れた恋という空間の中では、自分さえも見えなくなる。


 

 転校してきてから2ヵ月が経った。

 5月。

 高体連が始まった。

 華英と組み始めたダブルスも、息が合うようになってきた。力技で攻めていくことの多い遥と、多彩なシャトル捌きで相手を動かしいく華英は、次にどこにシャトルを落とすか予想ができず、相手を翻弄させた。

 華英は今まで何人かとダブルスを組んではいたが、彼女の動きに合わせられる相手は、なかなかいなかったようだ。

 順調に勝ち進み、準決勝戦に向かう準備をしていると、

「渋谷、哲達が応援に来てるよ。」

 渉はギャラリーに座っている軟式野球部の同級生達に手を振っていた。

「野球の方は終わったの?」 

 華英が渉に聞いた。

「軟式はチームが少ないから、優勝して県大会が決まったって。哲もさ、本当に野球が好きなら、硬式の方に入ればいいのに。」

 渉がそう言うと、遥は哲の方を見ることなく、華英とアナウンスされたコートへ向かった。

「遥、ここが一番の勝負だからね。相手は去年、優勝してるから。」

 立て続けに試合があるせいか、遥は少し疲れていた。

 最初のセットを落とすと、遥のガッドが切れた。

 違うラケットに取り替えて握ったグリップは、いつもの感覚と少し違う。

「大丈夫、何かトラブルがある時は、絶対勝つから。」

 華英はそう言って笑った。

 華英の言う通り、決勝まで駒を進めた2人は、決勝戦もストレート勝ちで優勝した。

「渋谷、もっと試合に慣れないとダメだな。足がぜんぜんついていってない。」

「はい。」

 顧問の先生がそう言うと、遥は額に残る汗を拭いた。汗で濡れたタオルをカバンに押し込むと、華英と一緒に会場を後にした。

 玄関を出たところに、渉と拓哉が待っている。

「俺の家で、祝勝会って話しになってるんだけど。」

 拓哉がそう言った。

「本当! 私も行きたい、ねえ、遥も行こうよ。」

 華英は遥を誘う。

「渋谷、哲も来るってさ。」

 渉がそう言った。

「私、ガッド張り替えてもらいたいから、これからお店に行こうと思ってて、せっかくだけど、ごめん。」

 遥は誘いを断った。

「遥、ガッドなら知り合いに頼んであげるよ、貸して。」

「ううん。今日は、このまま帰る。また、今度。」

 何人かが集まって話しをしている中を抜け、遥は歩き出した。父に連絡をして、スポーツ店の駐車場まで迎えに来てもらうと、遥は車の中に乗るなり、後部座席で横になった。

「遥、シートベルト。」

「わかってる。」

「疲れたか?」

「うん。」

「前も大会はあったけど、こことは規模が違うからな。」

 遥は目を閉じていた。

「何か食べてくか? 帰って作るのもなんだし。」

「そうだね、私、ラーメンが食べたい。」


 次の日。

 学校も練習も休みだったので、遥はラケットを取りに、父に昨日のスポーツ店まで送ってもらった。

「帰りは歩いて帰るから。」

 父にそう言うと、遥は店の中に入っていった。

 新しくガッドが張り替えられたラケットを受け取りレジを済ませると、誰かが遥の肩をたたく。

「木下くん。」

 哲が立っていた。

「昨日、来ると思ったのに。」

「ガッド切れてたから。」

「なんか俺の事、避けてない?」

 店を出て歩き出した遥の後を、哲がついてくる。

「別に避けてないよ。」

「だってぜんぜん、目を合わせてくれないじゃん。」 

「そんな事ないよ。」

「ねぇ、ちょっとそこで話そうよ。」

 哲は遥の手を握ると、近くのコーヒーショップに入った。

「私、こういう所、苦手。」

 遥は少し後ずさりした。

「奢ってあげるよ。俺と同じものでいいでしょう?」

「大丈夫、私、自分で払うから。あんまり苦くないものってどれ?」

「誘ったのはこっちだから。一緒に頼むからね。」

 店の奥の席まで行くと、いろんな人がそれぞれの時間を過ごしているのがよく見える。

「こっちの生活に慣れた?」

 哲が聞いてきた。

「どうかな。」

 遥はメガネをカバンにしまう。

「見えるの?」

「見えないよ。」

「なんでコンタクトつけないの?」

「休みの日だし。」

「なんか、冷たいね。もっとテンション上げて話せない?」

「木下くん、大きな町で暮らしてる人って、こんな風にお店で誰かと話したりするの慣れてるんだね。こういう所、よく来るの?」

「今日はたまたま遥に会ったから、来たんだよ。」

「遥だって……?」

「だって、そう言う名前だろ。むこうではなんて呼ばれてたの?」

「渋谷さん。」

 遥は嘘をつく。保育園から同じ同級生は、みんなお互いを名前で呼び合う。叶太は最近まで、小学生の時と同じ、ちゃんをつけて遥の名前を呼んでいた。

「名字だと、なんとなくよそよそしいよ。」

 哲はそう言った。遥はストローで一気に飲み物を吸いあげると、コップの中に四角い氷が見えた。

「ねえ、この後、どうする?」

 哲は聞いてくる。

「家に帰るよ。」

「ちょっとだけ一緒に来てほしい所があるんだけど、いい?」

 哲は立ち上がった。

「ごちそうさま、美味しかった。木下くん、どうもありがとう。」

 遥がそのまま帰ろうとすると、哲は遥の手を握って歩き始めた。遥は何度も手を離そうとしたが、哲は遥の手に指を絡めた。

「木下くんは誰にでも簡単に手を繋ごうとするんだね。」

 遥が聞いた。

「そんな事ないよ。」

 

 古いお寺の前につくと、

「ほら、こっち。」

 哲は遥をお寺の裏側に連れて行った。哲が案内したその場所には、たくさんの藤の花が風に揺れている。  

 雨が地面につく手前に止まっているような藤の花は、時間の流れも止めてしまっているみたいに感じる。はっきりとした白と紫色は、ただそこに吹く風に気持ちよさそうに揺れている。

「すごいね。こんなの初めて見た。」

 遥は哲にそう言うと、藤の花の近づいた。

「遥、ちゃんと見えてるの?」

「見えてるよ、揺れているのもわかる。」

 遥の目に映る藤の花を、哲は見ていた。

 

 遥が転校してきた日。

 下駄箱がわからなくて探している背中に、哲は声を掛けた。不安そうな小さな肩と、精一杯作っている笑顔が、哲の心に突き刺さった。

「クラスは3階にあるよ。」

「どうもありがとう。」

 やっと目が合って話そうとした時、担任が遥を迎えにきた。

 

 哲は藤の花に見惚れている遥の口元にゆっくり近づくと、遥の肩を抱いて、そっと唇を重ねた。 

 遥は突然の事におどろいたが、哲が唇を少しずつ動かす度に、体の力が抜けていった。

 藤の花を揺らしている風は、遥の心にも心地良い風を感じさせる。

 哲の唇が遥から離れると、

「ごめん。急にこんな事して。」 

 そう言って、哲は遥の目を見た。

 今の哲の顔は、どんな表情をしているのだろう。ぼんやりと見える顔の輪郭に、遥はそっと触れようとした。

 哲は遥を抱きしめると、もう一度、遥の唇に近づいた。自分の腕の中にいる遥が、逃げ出したがっているように感じた哲は、遥を人から見えない場所まで、連れて行った。

「遥、俺と付き合おうよ。転校してきた日から、ずっと好きだったんだ。」

 哲がそう言うと、遥は下を向いた。

「木下くん、返事はちゃんとするから。」

 遥はまた藤の花を見て、今にもこぼれ落ちそうな花のひとつを、静かに触った。

「この花は、みんな下をむいているはずなのにね。」

 遥はそう言って、哲の方を見た。

「本当だね。」

 

 家に帰っても、体の力が抜けたような遥は、晩ごはんを残して、自分の部屋に閉じこもった。

 哲とキスした事が、頭の中も心の中もみんな埋め尽くしている。

 自分の唇は、哲の唇の温かさをまだ感じている。


 遥の耳に母の笑い声が聞こえた。

 誰かの温もりを覚えたら、忘れられなくなってしまうんだ。

 遥は膝を抱え、耳を塞いだ。

 叶太が来るまで空けておいた隣りの席は、哲が座った。哲に気持ちが移ろうとしている自分は、言い逃れのできない罪を裁かれているような気持ちになった。   

 遥は机の引き出しに閉まってあった叶太からの手紙を手に取った。今まで気が付かなかったけれど、イタズラなQRコードだと思っていたものは、好きだと言う言葉が塗りつぶされている。

 あいつ、本当にバカすぎる。

 遥は一晩中泣いた。


「おはよう。」

 哲が遥に声を掛けた。

「おはよう。」

「今日はメガネなんだ。」

「そう。」

 メガネをしていても、遥の両目は、赤く充血しているのがわかった。

「もしかして、怒ってるの?」

 哲が遥の顔を覗いた。

「ううん。コンタクトがうまく入らなかっただけ。」

 遥は嘘をついた。

「そう、それなら良かった。良くないか。」

 哲がそう言うと、ちょうど朱莉がやってきた。

「おはよう、遥。」

「おはよう。」

「じゃあ、あとで。」

 哲が去っていく背中を見ていた朱莉が、

「遥、あの人と付き合ってるの?」

 そう聞いてきた。

「違う。」

 遥は小さな声でそう言った。

「今日はメガネか。後で無理矢理コンタクト入れてやろうか。」

 朱莉が遥の顔を見た。

「やだよ。」

 遥はそう言って笑った。

 

 5章 土砂降り

 高校生の頃の恋愛なんて、まだ削られていない鉛筆の様なもの。これから描いていく未来も伝えられないのに、付き合うという言葉が、全てを支配してしまう。好きという気持ちが、本当はなんなのかもわからないまま、キスさえしてしまえば、それが自分の出した答えになってしまうのだから。

 

 叶太、私達はどうして、意地を張ったのかな? 


 県大会の日。

 トーナメント表を見て、男子のシングルスの選手の中に、叶太の名前を見つけた。

 叶太、ずいぶん強くなったんだね。


 揃いのチームジャージが行き交うギャラリーで、叶太が顧問の笠井と2人だけで、席に座っていた。

「渋谷、元気だったか?」

 バドミントン部の顧問で担任だった笠井が、挨拶にきた遥に声を掛ける。

「先生、お久しぶりです。」 

「新しい高校でバドミントン続けられて良かったな。」

「はい。」

 遥は叶太をチラッと見た。

「うちは、叶太がずいぶん頑張ってくれて、今年は県大会までやってこれたんだ。他のみんなも、メキメキ力をつけてるし、この学年には期待してるんだよ。」

 笠井が、叶太の肩を掴んだ。

「会いたいです、みんなに。」

 遥は笠井にそう言った。

 

 母の浮気さえなげれば、自分はずっと叶太の隣りにいたはずなのに。

 ここに座っている叶太の隣りに、自分もあたり前のように並んでいられた。


「渋谷、先生が集まってだって。」

 渉が遥を呼びにきた。遥が渉と歩いていったその先には、同じジャージをきた数人が、楽しそうに集まって話しをしている。背中に書かれた揃いの文字に、叶太は少し嫉妬した。


 遥。

 あの日、手紙を見て笑ってくれたら、ずっと胸に溜めていた気持ちを伝えようとしてたのに。なんで勝手に行ってしまったんだよ。

 小学2年の夏。

 両親が離婚して、母親と一緒この町にやってきた時、貸してくれた遥の教科書に、たくさん落書きをしたよな。


 遥も叶太も順調に勝ち進んだ。

 叶太の3回戦は、遥を呼びに来た渉との試合だった。

 試合が始まり、叶太はギャラリーから自分を見ている遥に気がついた。

 急に力んでシャトルを見失うと、叶太を笑うように、シャトルは足元にポトリと落ちた。

 遥の右手が固く握っているのがわかる。

 バカかよ、遥。

 試合は3セット目までもつれ、結果は叶太が勝利した。

 叶太は遥が次の試合の準備をしているコートの後ろを通ると、遥に小さく右手を上げた。

 

 遥と華英の試合が始まった。

 遥がサーブを打とうと構えると、ギャラリーに叶太の姿が見えた。

 遥のサーブが、ネットに引っ掛かる。

「遥、何焦ってんの?」

 華英がそう言った。

 叶太が見ていると思うと、次もシャトルを見失った。

 1セット目が終わった所で、華英が声を掛ける。

「遥、もう少し集中してよ。」

「ごめん。」

「どうしたの、コンタクト、落とした?」

「ううん。次はちゃんと見失わないから。」

 その後も気持ちがソワソワして、小さなミスが続いた。華英が遥に声を掛け、何度も助けられる。なんとか勝つ事はできたが、次の試合を前に、渉は遥にこう言った。

「渋谷、今日はひどいな。水川に負担掛け過ぎだろ。あとで哲がくるって言ってんだ。それまでなんもしても勝ち続けろよ。」

 華英は遥に、

「さっき話してた人って、前の学校の人?」 

 そう聞いてきた。

「そう。」

「気持ちが入らないのは、そのせい?」

「違うよ。ごめんね、華英。次はちゃんと動くから。」


 準々決勝で、叶太は敗退した。

 斜め後ろのコートで試合をしていた遥は、荷物を持ってコートを後にする叶太に気がついた。

 叶大の事が気になっていると、相手の打ったシャトルが、遥の右目を直撃して、遥は転んだ。

 右の手首から、鈍い音が聞こえた。

 少しでも動かそうとすると、体中が稲妻が走る。

「大丈夫?」

 起き上がれらない遥に、華英が声を掛ける。

「あと3点。華英、なんとか頑張るから。」

 遥は華英の手を借りてなんとか立ち上がり、左手でラケットを握った。

 

 試合は勝ったが、結局、次の試合は棄権となった。

「ごめん。華英。」

「そんな事より、早く病院に行こうよ。」

 華英が遥の腫れてきた右腕を心配した。

「渋谷、家族に連絡して、すぐにここにくるように言いなさい。」

 顧問の先生がそう言うと、遥はカバンの中から携帯を出そうとしたが、使い慣れない左手では、ファスナーさえ開けることができない。

「渋谷。」

 笠井が心配そうに遥の元にきた。

「遥。」

「遥ちゃん。」

 叶太と叶太の母もいる。

 笠井が遥の右手に触った。

「折れてるぞ、これ。」 

「遥ちゃん、このまま病院に送って行くよ。渋谷くんには、私から連絡しておくから。」

 叶太の母がそう言った。

 笠井と叶太の母が、監督に事情を話している。

 叶太は遥のカバンを持つと、

「行くぞ。」

 遥にそう言った。

「華英、ごめん。先に帰るから。」

「わかってる。早く病院に行きな。」

 華英は心配に遥を見ている叶太と、少し目があった。

「渋谷、気を付けてな。」

 監督がそう言って、遥を見送った。

 遥はみんなに頭を下げると、叶太の後をついて行く。 

「叶太、頼んだぞ。俺は一旦、学校に戻るから。」

 笠井はそう言うと、叶太の母に頭を下げた。

 右手を使えない遥が、靴を履くのに手間取っていると、叶太が手を貸してくれた。

「ありがとう。」

「遥にお礼なんて言われたの、初めてだな。」

「そんな事ないよ、いつもちゃんと言ってるよ。」 

「痛むのか?」

「何も感覚がないの。」


 哲が玄関に入って来るのが見える。遥を見ると、

「試合、終わったの?」

 そう聞いた。

「終わったよ。」

 遥が押さえている右手を見て、

「大丈夫?」

 そう言って遥の顔を見た。

「これから、病院に行くところ。」

 遥は叶太の隣りに並んだ。 

 遥の肩が、隣りに男の肩に吸い込まれて行くようだ。

「遥! 後で連絡くれよ。」 

「うん。」 

 遥は振り向くと、哲に向って静かに微笑んだ。


 叶太の母の運転する車で、救急病院へ向かった。叶太の母が連絡を取ってくれた父も、病院に駆けつける事になった。 


澄子すみこさん、すみません。」

 遥は叶太の母にそう言った。

「澄子さんなんて呼ぶの、遥ちゃんくらいよ。」

 叶太の母と父は高校の同級生だったらしく、澄子さん、渋谷くん、と呼びあっていた。幼かった遥は、大人なのにそうやって呼び合うのが面白くて、父が呼ぶように、叶太の母の事を澄子さんと呼んでいた。


 病院に着くと、すぐにレントゲンを取った。腫れて熱を持つ遥の右手をレントゲン技師が台に乗せると、痛っ! 遥は思わず声が出た。

 ギプスを巻き終え、遥が処置室から出てくると、父が待合にいるのが見えた。

「お父さん。」

 父の服が濡れている。

「雨、降ってるの?」 

「すごい雨だよ。」

 遥は玄関に目をやると、外は土砂降りの雨だった。 

「大丈夫か、遥。」

「折れてるって。」

「そうか……。痛むか?」

「少し。」

「遥、お父さん、明日から出張でな。少しの間、お母さんの所、行くか?」 

 父がそう言うと

「遥ちゃん、家に泊まってよ。」

 澄子はそう言った。

「遥、そうしなよ。」

 叶太は遥の顔を見た。

「澄子さん、そう言うわけには行かないよ。」

「うちはいいのよ。遥ちゃんだって、お母さんの所なんか行きにくいと思うし。出張はいつまで?」

「明後日。」

「それなら、どうせ土日になるんだし、帰ってきたらこっちに遥ちゃんを迎えにくればいいでしょう。」

「そうだな。澄子さんの言葉に甘えるよ。」


 叶太の家に着いた。

「私、ちょっと買物に行ってくるから。遥ちゃん、右手使えないなら、晩ごはんはスプーンで食べれるものにしようか。ユニフォーム洗うから、叶太の服に取り替えて。」

 

 2人きりになった遥と叶太。

「叶太、ゼッケン取ってくれる?」

 遥は少しでも叶太に触れてほしかった。

 ジャージを脱ぎ、叶太に背中を向けた。

「わかったよ。」

 叶太は遥の束ねた髪を肩に掛けた。本当は思いっきり遥の背中に触れたかったけれど、ユニフォームとゼッケンを止めている安全ピンをそっと外して、背中越しに、外したゼッケンを遥に渡した。

 遥の背中が少し震えているのがわかる。 

「ほら、」

「ありがとう。」

「遥。」

「何?」

 叶太は遥を後ろから抱きしめた。

「俺、遥の顔、まっすぐに見れないよ。」

 叶太は遥の髪に顔を埋める。

「どうして?」

「小百合と付き合っているから。」

「そうだったんだ……。」

「子供の時みたいに、なんにも考えずにいられたら良かったな。好きだって言葉が、こんなに苦しい事だって思わなかったよ。」

 遥の溢れた涙が、自分の体を抱きしめている叶太の手に落ちた。

「黙って出ていったのは私だもん。もう会うつもりなんてなかったのに、また会えて嬉しくて、やっぱり好きだったなんて、都合のいい話しだよね。」

 遥は精一杯、強がった。

「やっぱり、遥の事、」

 叶太は遥に近づいた。

「叶太。私もね、さっき玄関で会った人と、付き合ってるの。」

 遥は叶太を遠ざけた。

「バカだな、俺達。」

 叶太はうつむいた遥のギプスを触った。

「痛むのか?」

「痛いのかな、」

「なんだよ、それ。」

「こんな痛みよりも、心の中はもっと痛くて辛いから。」

 泣き続ける遥を、叶太はソファに座らせた。

「手、すごく腫れてるぞ。指まで色が変わってる。」

「何日か腫れるって、先生が言ってた。」

「なんか飲むか?」

「カバンの中に、飲み掛けた水が入っているはず。本当はもうひとつくらい、試合ができると思ったのに。」

「遥と組んでた子、すごく上手かったな。」

「そうでしょう。」

「すぐに友達ができてよかったな。」

「叶太も転校してきた時、緊張してた?」

「こんな田舎になんで俺だけって、ずっと思ってた。」

「そうだよね。だけど、誰かのせいにしたって、仕方ないよね。大人の事情は、子供は変えられないんだからさ。ねぇ、同じ人とずっと一緒にいるのって、そんなに難しい事なのかな?」

「遥、あのさ、」

 遥は叶太が言いかけた言葉を遮って、

「私がここに来たこと、誰にも言わないで。小百合が知ったら、きっと嫌な気持ちになると思うから。」

 そう言った。

「言わないよ。」

 叶太は遥のドリンクボトルをカバンから出すと、それを台所へ置き、冷蔵庫から牛乳を持ってきた。コップにそれを波々に注ぐと、

「ほら、ストローさしてやったぞ。」

 そう言って遥の前に出した。

「えっ?」

「遥、牛乳嫌いで、俺によくくれたよな。」

「そうだった。今も大嫌い。」

「わがまま言わないで飲めよ、このままなら骨がつかないぞ。」

 遥は仕方なくストローに口をつけた。一気に吸い上げようとしたけれど、途中でどうしても飲み込めなくなった。

「やっぱり、苦手。残りは叶太が飲んでよ。」

 少し笑った遥は、隣りに座っていた小学生の時と、変わらない目をしていた。

「なんにも変わらないな、おまえ。」

 叶太は遥に残りを渡した。

「頑張ってちゃんと飲めよ。」

「無理だって。」


「わー! すごい雨。」

 澄子が帰ってきた。 

「あなた達、ちょうどいい時に試合が終わって良かったね。」

「そんなに?」

 叶太は窓の方に歩いていった。

「さっき、大雨警報が出たみたいよ。遥ちゃん、今日はシチューにするから。」 

 澄子は遥の前に置かれた牛乳パックを見た。

「あら、それ飲んじゃたの?」

「あっ、ごめんなさい。」

 遥は謝った。

「だってそれ、俺が買ってきたやつ。」

「冷蔵庫に入ってたから、買ってこなかったのに、もう一回行って牛乳買ってくるわ。」

「それならカレーにすればいいだろう?」

「だって、一昨日もカレーだったじゃない。」

「俺は別に続いてもいいけど。」

「じゃあ、カレーにしようか。」

 澄子はそう言って、野菜を買い物袋から取り出した。

「ごめん、カレルーがなかった。もう一回買い物に行ってくるわ。やっぱりシチューにしましょう。遥ちゃんの骨が、早くつくようにね。」


 遥と叶太のユニフォームが、並んで除湿機の風に吹かれている。

 

 澄子は遥を脱衣場に呼んだ。

「遥ちゃん、お風呂入っておいで。後ろのホックとるからね。」

「すみません。」

「困ったわね、右手なら。」

「なんとかなります。」

「これ、ホックのない下着だから、遥ちゃんに買ってきたの。お父さんなら、そんな事わからないでしょうから。」

「澄子さん、ありがとうございます。」

「ねえ、新しい学校は楽しい?」

「楽しいです。」

「遥ちゃんも、叶太も大人に振り回されて、たくさん傷ついてるよね。」

「どんな事情があっても、澄子さんにも叶太にも会えたから、結局、良かったんです。」

「遥ちゃん、叶太の事、好きなんでしょう? 叶太もきっと好きなんだろうって……。」

「ずっと隣りの席だったし、背も同じくらいで、一緒に並ぶ事が多かったですからね。今の叶太は、すごく大きいですけど。」

「そうね、身長がすごく伸びたわね。実はね、この前、小百合ちゃんが家に来て、それから叶太がちょっとずつ、前みたいに話さなくなってね……。」

「いろいろ考えてるんだと思いますよ、次は何を話そうかって。」

「そっか。遥ちゃん、お風呂入っておいで。頑張って背中は自分で洗える?」

「大丈夫です。」


 叶太の部屋に澄子は布団を敷いた。

「叶太は布団よ。遥ちゃんはベッドの方が起き上がりやすいから。じゃあ、おやすみ。2人で変な気、起こさないでよ。」

「母さん、変な事言うなよ、本当に。」


 澄子が部屋を出ていくと、叶太がベッドに座った。 

「遥、携帯教えろよ。」

「そうだね。」

 遥は携帯を叶太に渡した。

「右手を使えないから、叶太に任せる。」

「ずいぶん、着信あるみたいだな。」

 相手が哲からだという事が遥にはわかっていた。

「いいの、別に。」

「彼氏なんだろう?」

「……。」

 布団に座っている遥は、叶大の膝に左手を置いた。

「叶太が悪いんだよ。あんな手紙くれるから。」

 遥は叶太をまっすぐに見た。

「やっぱり、迷惑だったか?」

「ごめんとか言って謝らないでよ。かえって辛くなるから。本当は転校する前に、ちゃんと叶太と話しをしておけばよかった。」

 叶太はベッドから降りると、遥を布団に押し倒した。

「痛っ、」

「ごめん。大丈夫か?」

 叶太は遥の右の肩をそっと撫でた。

「大丈夫。」

 遥はそう言って少し笑うと、そのまま体を横に向けて丸くなった。

「私がここで寝るよ。ちゃんと1人で起き上がれるから。」

 遥はそう言って目を閉じた。

「おやすみ、叶太。今日の事、全部忘れてね。」

 

 6章 入道雲

 なんのしがらみもない高校生の頃は、好きだって言ってしまえば、全ての事が免罪符になると信じてしまっている。心は未熟なのに、体はすでに大人になっているあの頃は、うまく伝えられないもどかしい言葉さえも、それを優しさだと履き違えて、思うように触れてもいいと、勘違いしていたのかもしれない。

 

 自宅へ戻ってから、遥は哲に電話をした。

「遥、心配したんだよ。」

「ごめん。」

「痛むの?」

「大丈夫。華英に悪い事しちゃった。」

「水川さん、シングルスで優勝したみたいだよ。」

「そっか、良かった。木下くんは?」

「俺は1回戦で負けたよ。」

「冴木くんがね、野球好きなら、硬式の方をやったらいいのにって言ってたよ。」

「好きだから、すぐにレギュラーになれる軟式にしたんだよ。硬式なら、そうはいかないから。」

 哲は遥に昨日の事を聞きたいと思っていた。玄関で会ったあの男の事も。

「その手が治るまで、部活なんてできないだろう。黒板の字も写せないだろうから、俺が勉強、教えてやるよ。」

「いいの?」

「図書室は6時まで開いてるから、放課後、そこで待ってる。」


 月曜日。

「華英、優勝おめでとう。」

 遥は朱莉と教室に入ってきた華英に、声を掛けた。

「遥こそ大丈夫? こんな事にならなかったら、ダブルスもいけたのに。」

 華英はそう言った。

「ごめん。」

「まだ痛むの?」

 朱莉が遥のギプスを触る。

「硬っ! 何これ。」

「すごく重たいの。」

 華英もギプスを触った。

「硬っ! これじゃあ中の腕、めっちゃムレムレじゃん。」

「そうなの。そのうち、すごく臭くなりそうで心配してるの。」

「そんな事になったら、木下っていうやつに嫌われるよ。」

 朱莉がそう言った。

「遥、木下くんと付き合ってるの? 渉が言ってたから。」 

 華英は遥に聞いた。

「付き合ってるっていうか……。」

「この前、遥の荷物を持ってたあの人は?」 

「あの人は前の学校の人。小学校の時からずっと一緒だったし、親も知り合いだから。」

「なーに、遥、男の子の知りたいがたくさんいるんだね。」

 朱莉が遥の制服を引っ張った。

「キレイな顔した人だったよね。優しそうで。」

 華英がそう言った。

「俺が3回戦で負けたやつの事か。」

 渉が哲を連れて教室に入ってきた。

「渋谷、ちゃんと哲に謝れよ。哲、せっかく応援に来たのに、そいつと帰ってしまうなんてひどいよ。」

 渉は遥にそう言った。

「渉、遥はすぐに病院へ行かなきゃならなかったんだし、幼馴染が連れて行った事くらい、別にいいじゃない。もしかして、本当はその人に自分が勝てなかった事、悔しいんでしょう?」

 華英は渉にそう言った。

「幼馴染なら、何かあるんじゃないかって、余計に心配になるだろう?」

 渉は華英に言った。

「なにムキになってんの? 木下くんが言うならまだわかるけど、なんで渉がそんな事、言うのよ。」

 華英は渉に言い返した。

 ちょうどチャイムが鳴り、渉と木下は自分の教室へ戻って行った。


 放課後。

 遥は図書室で、哲を待っていた。

 窓を見ると、モクモクと膨れている入道雲が、いつ雨を降らせようかと企んでいるようだった。

 哲が遥の隣りに座った。

「木下くん、雨降りそうだから、もう帰ろうか。」

「こんなに晴れているのに?」

「きっともうすぐ雨になる。」

 遥はノートをカバンにしまうと、席を立った。

「じゃあ、俺の家でおいでよ。今日の分は今日やらないと。」

「木下くんは明日に残すの嫌いなの?」

「嫌だな。明日やればいいやって思っても、明日は明日の事があるし。そうやって残しておくと、少しずつ時間が短くなっていくようでさ。」

「真面目なんだね。」


 哲の家まで歩いていると、急に雨が降り出した。

「家、もう少しだから、走るよ。」

 哲は遥の左手を握った。

「ただいま。」

 哲の家は静かだった。

「いつも誰もいないんだ。みんな仕事。19時を過ぎないと誰も帰ってこない。」

「うちもそうだよ。今はみんなそうでしょう?」

「遥、制服濡れただろう。服貸すから、着替えたら?」

「大丈夫だよ。」

「俺のジャージ貸してやるよ。それならいいだろう。制服、少し干しておけよ。」

「うん。」

  哲は遥が着替えている間、部屋を出ていた。本当は右手が使えない遥の着替えを、手伝ってあげたかったけれど、遥は恥ずかしいとそれを嫌がった。

 高校生っていっても、体はもう大人なんだし、そんな関係になったって、それはそれで、自然の流れだろう。右手が怪我をしている事が理由にするなら、右手が治ったら、いいんだよな。哲はそう思っていた。

「着替えたか?」

「終わった。」

「入るからな。」

 哲の少し大きなジャージを着た遥は、制服をハンガーに掛けようとしていた。

「俺がやるよ。左手だと難しいだろう。」

「ありがとう。」

 窓辺に2人の制服が並んでいる。

「遥、幼馴染の話し、ちゃんと聞かせて。」

「小さな町って、みんなそうなの。家族の事もみんな知ってる仲なの。」

「遥はその人の事、好きだったの?」

「違うよ。あの日も病院に連れて行ってもらっただけだから。」

 遥は嘘をついた。

「そっか。それならよかった。」

「どうしてそんな事聞くの?」

「だって、幼馴染なんかと比べられたら、俺なんかすぐにフラレるし。」

「そんな事ないよ。一緒にいた時間なんて、関係ない。」

 叶太と話すと辛くなって飲み込んだ言葉が、哲の前では嘘になって、口からこぼれてくる。

 

 叶太とは何もなかった。

 3日間も一緒にいたのに、叶太は隣りで教科書を見ていた小学生の時の様に、時々辛そうな笑顔を見せながら、自分の隣りに座っていた。 

 夜になる度、本当の気持ちを言えないまま、お互い眠れずに朝を迎えた。2人でいるのに、1人でいる時よりも、淋しくて悲しかった。こんなに辛い思いをするのなら、叶太といた記憶を、全部切り取って捨ててしまいたいと思った。

 家に帰って見た携帯には、叶太の番号もラインの入っていなかった。

 これが、叶太の答えなんだ。


 哲のノートを写していた遥は、左手で書くせいか、時間が掛かっていた。

「それ、写メすればいいだろう?」  

 哲がそう言った。

「だって、片手で撮れないし。」

「じゃあ、明日からコピーしてやるよ。」

「本当? ねえ、木下くん、ここの計算式、教えて?」

「いいよ。」

 木下は遥に近づいた。

「ありがとう、木下くん。」

 遥が顔を上げると、哲は遥のメガネを外し、肩を抱きしめた。

 好きで好きでどうしようもない遥に唇を重ねると、何度も離れてもまた、重なりたくなる。

「ちょっと、木下くん。」

 遥が顔をそらした。

「ごめん。遥の事、すごく好きなんだよ。」

 哲はまた遥の顔に近づこうすると、

「ちゃんと勉強しようよ。明日に残すの、嫌なんでしょう?」  

 遥は哲を止めた。

「わかったよ。」

 2人はまた勉強を始めた。

「雨、止んだから、帰るね。今日はどうもありがとう。」

 遥は立ち上がると、左手でカバンをよいしょと持った。

「送っていこうか?」 

 哲は言った。

「大丈夫。明日も図書室で待ってるから。」


 家に帰る途中の大きな水たまりに、遥はわざとに足を入れた。

「あっ、木下くんのジャージ、着てきちゃった。」


 次の日。   

 ジャージで登校してきた遥は、職員室に呼び出された。

「渋谷、校則違反だぞ。」

「すみません。右手が使えないので、制服を着るのが大変なんです。」

「渋谷の家は、確かお父さんだけだったよな。」

「そうです。父も早くに会社に行くし、先生、ほらスカートのホック、止められないんです。」

 遥は脇腹を触った。

「わかったよ。じゃあ、ジャージ登校の許可書をちゃんと出しておけよ。」

 

 職員室から出てきた遥を、華英と渉が待っていた。

「遥、木下くんが探してたよ。5時間目の体育、ジャージがないから見学にしようかって困ってた。」

 遥はそれを聞くと、哲のジャージが入っている紙袋を持って、哲の教室に走っていった。  

 クラスの中を覗くと、誰に用事? と数人の男子達が声を掛けてくる。哲が遥に気がついた。

 哲は紙袋を持って、遥を少し離れた所へ連れて行く。

「ごめん、昨日ジャージ着たまま帰ってちゃった。」

 遥は紙袋を哲に渡した。

「俺もごめん。今朝、制服がそのままだって気がついて、連絡しようと思ったんだけど……。遥、さっき職員室に呼ばれたんだろう?」

 哲の心配そうな顔を見て、遥は笑った。

「大丈夫。右手が使えないって行ったら、これからジャージ登校でいいって言われたから。」 

「えぇ~! これからジャージで来るの。」 

「うん。」

「そんな。」

 哲はがっかりしていた。

「どうして?」

「ジャージで一緒に帰るのかぁ。」

 哲は制服の入った袋を見つめた。

「もう、戻るね。そろそろチャイムなるから。」


 昼休み。

 遥達3人が家庭科室でお弁当と食べていると、哲と渉がやってきた。今日は拓哉も一緒だ。

「渋谷、勝手に電気レンジ使ったら、また職員室に呼ばれるぞ。」

 渉がそう言った。

「大丈夫。朱莉が平井先生に許可をもらったから。」

 遥がそう言った。

「今日は小島くんも一緒なの。めずらしいね。彼女にフラれた?」

 朱莉がそういうと、

「おまえら、言葉選べよ。」

 渉がそう言った。

「やっぱりフラレたのか。」

 華英が笑った。

「なんか楽しそうだな。そういう話し。」

 渉は拓哉の肩を組んだ。

「誰かが別れた話しって、1人女子には活力になるの。ねぇ~、華英。」

 朱莉と華英がそう言って笑った。

「哲と渋谷にも、別れてほしいのかよ。」

 拓哉がそう言った。

「別れてほしいよ、2人で泊まったって思うと、余計に嫉妬しちゃう。」

 華英は哲のジャージを指差した。

「泊まってないし、雨で濡れただけだし。」

 哲がそう言うと、

「それって、どっかで着替えって事だろう。絶対お前ら、もうそういう関係になったんだろう。」 

 拓哉が言った。

「違うって。」 

「違うよ。」

 否定した遥と哲に向って、

「渋谷、哲と別れてしまえよ。そうやって、幸せそうにしてるから、バチが当たって腕が折れたんだろう。」

 拓哉は近くに置いてあったマジックで、遥のギプスに別れろ! と書いた。

「小島くん、ひどい。私にもマジック貸して。」

 華英がそう言って、ギプスに遥が泣いてる絵を書いた。

 次々にいろんな事が書かれていく遥のギプスに、

「ほら、哲。一番いい場所残したぞ。なんか書けよ。」

 そう言って渉が哲にマジックを渡した。

「やっぱり、好きとかって書くの?」

 朱莉がそう言った。

 早く治れ、哲は遥のギプスにそう書いた。

「なんだよ~、それ。」

 みんなが一斉にがっかりした。

 

 7章 雪の結晶

 高校生活が終わろうとしている。

 

 遥の折れた右腕は、寒くなると時々痛んだ。


「哲、北海道へはいつ行くの?」

「卒業式が終わった次の週。」

「遥は大学へは家から通うの?」

「うん。家から通うよ。」

「なんか、いつも一緒にいたから離れるなんて想像ができないね。」

 哲はそう言って遥の手を握った。

「夏休みには帰ってくる?」

「帰ってくるよ。」


 ひとつの恋が終わろうとしていた。

 

 遥が転校して、叶太との恋が終わったように、離れてしまった哲とは、次第に連絡がなくなった。

 色褪せてしまった哲がくれたノートのコピー。

 たくさん嘘をついて、哲の笑顔を胸に刻んだ、去年の夏。


 藤の花の咲くお寺を通ると、今年も変わらずこぼれ落ちそうな紫色が、風に揺れていた。変わってしまったのは、2人の心だけ。


 大学生になった遥は、バイトと学校の往復が続いていた。高校の時の様に何かに夢中になる事もなく、与えられた課題と与えられた役割を、なるべく目立たないようにこなしていく毎日。

 苦手だったコンタクトも、今はすんなり入れる事ができる。

 嘘をついて誤魔化した事も、時間が経てば、もう少し嘘をついても良かったとさえ、思ったりもする。


 

 雪虫が飛ぶようになってきた頃、遥は楽器店に寄り、ピアノの楽譜を選んでいた。自分の小指よりも大きい音符を見ていると

「渋谷?」

 誰かが遥に声を掛けた。

「冴木くん。」

 遥の名前を呼んだのは、渉だった。

「そっか、渋谷は小学課程選んでたのか。」

 渉と遥は同じ大学に通っている。

「久しぶりだね。」

「本当だな。同じ学校にいるのに、ぜんぜん会うことってないよな。」

「冴木くんは、何を専攻してるの?」

「俺は体育を選んでるんだけど、水泳も柔道もあって逃げたいよ。おまけに保健なんか超苦手だし。教師になるのって、こんなに大変だったなんて、知らなかった。渋谷もピアノの試験あるんだろう?」

「そうなの。私、ピアノなんて全く弾けないから、逃げ出したい。」  

 遥はそう言って笑った。

「なあ、渋谷、もう帰るのか?」

「うん。帰るところ。」

「もうちょっと、話ししない? 下の店でさ。」


 コーヒーショップに入った遥と渉は、奥の席に座った。苦手だった注文も、哲から聞いて、すんなりできる様になっていた。

「哲とは、まだ続いてるの?」

 渉が遥に聞いた。

「ううん。連絡がなくなってから、けっこう経つ。」

「あいつ、何やってんのかな。」

 渉は哲に新しい彼女ができた事を知っていた。

「きっと、むこうの生活が楽しいんだろうね。」

 遥は少し視線を落とした。

「渋谷と哲は、絶対別れないと思ったのに。」

「……。」

 遥は少し遠くを見た。

「冴木くん、バドミントンは続けてるの?」

「続けてるよ。毎週火曜日と金曜日に、中学校の体育館でやってるから、渋谷も来ない?」

「いいの?」

「いろんな人が来てるから、きっと楽しいと思うよ。」


 火曜日。

 遥は渉と渉の母校の体育館に来ていた。

「昔ここでやってた仲間が集まって、夜に練習してるんだよ。」

「へぇー。」

 遥は久しぶりに履いたシューズの紐を縛ると、渉の後をついて行った。

「林さん、隣り、借りてもいいですか?」

 渉が近くの男性に話し掛けた。

「いいよ。この人は冴木の友達か?」

「そうです。同じ高校で、今も大学が一緒です。」

「同じ高校なら、あの水川と一緒?」

「あいつとダブルス組んでたのが、渋谷です。」

「そっか。じゃあ、少し打ったら、試合しようよ。」

 渉と少し打ち合いをした後、渉と遥、そして林と林に呼ばれた高校生の男性と、試合が始まった。

 大きな声で笑いながら、試合が進んでいく。

「ねえ、今度は俺と組んでみようよ。」

 林が遥に言った。

 林が点を決める度に、遥の笑顔が自然とこぼれてくる。試合を終えて、タオルで汗を拭く遥に、

「金曜日もくる?」

 林が聞いた。

「金曜日は、バイトがあるから。」

「バイトって何をやってるの?」

「居酒屋です。」

「何時に終わるの?」

「1時くらいかな。」

「そっか。今度行こうかな。」


「渋谷、送って行くよ。」

 渉が遥にそう言った。

「ありがとう。だけど本屋に寄りたいから、今日は歩いて帰る。」

「それなら本屋に寄ってやるよ。林さん、また。」

「また。渋谷さん、次の火曜日、待ってるよ。」


 渉が運転する車に乗ると、

「いつ免許を取ったの?」

 遥は聞いた。

「高校を卒業してすぐ。」

「私もとりたいけど、それならバイト辞めなきゃ。」

「短い間にとれる所もあるから、紹介しようか?」

「そんな所、あるの?」

「さっきの林さんは、自動車学校の先生なんだよ。」

「そうなの?」

「あんな風に見えるけど、すごい厳しい先生だからね。」

「どれくらいで免許がとれるの?」

「合宿もあるし、そうじゃないなら1ヶ月くらいかな。」

「着いたよ、本屋。」

「ごめんね、寄ってもらって。」

「俺も漫画買うから、一緒に降りるよ。」

 遥は車から降りると、いくつかの辞典を手に取っていた。

「辞典なんて買わないで、電子辞書を使えばいいのに。」  

 渉が言った。

「それなら調べた言葉に、付箋をつけておけないでしょう。」

「言葉って、見返す時ってある?」

「そうだね……。よく考えたら、あんまりないかな。」

「じゃあ、なんで付箋をつけるの?」

「なんでだろう。また調べるかもって思うのかな。」

「渋谷、変なやつだな。」

 

 遥は渉の車に戻った。

「正月には哲が戻ってくると思うから、またみんなで会おうよ。」

 遥は首を振った。

「冴木くん、私だってわかるよ。哲がどうして連絡をくれなくなったのか。」

「渋谷と会えば、気持ちだってまた変わるだろう。」

「それはないよ。」

 いつも哲と楽しそうにしていた遥が、とても小さく見える。

「渋谷、あのさ。」 

「私、ここでいいから。今日は楽しかった。また、火曜日に行ってもいい?」

「わかったよ。火曜日、また迎えにいくから。」

 渉は冷たい夜の風に消えていきそうな遥の背中を、ずっと見つめていた。


 金曜日。

 遥のバイト先に、数人の友人を連れて林がきた。

「本当にバイトしてたんだ。」

 林は遥にそう言った。

「嘘だと思ったんですか?」

「避けられたかと思ってた。」

 林はラストオーダーまで店にいた後、遥の事を裏口で待っていた。

「おつかれ。」

「待ってたんですか?」

「待ってたよ。家はこの近く?」

「少し歩きます。林さんの家は?」

「家はここから少し遠い。」

「じゃあ、急いで帰らなきゃ。寒いから雪降ってくるかもしれませんよ。」

「明日は仕事が休みだから、適当に時間潰して、始発で帰ればいいし。」

「そういう事、よくするんですか?」

「あんまりしないよ。学生の時は無茶もしたけど。」

「自動車学校の先生だって聞きました。」

「渉が言ってたのかい?」

「そうです。」

「あいつ、注意してもヘラへラしてて、何回も怒ったよ。」

 遥は笑った。

「私も免許取ろうと思ってて。」

「講習中にそうやって笑ってたら、遠慮なく注意するからね。渉とは友達なの?」

「そうです。」

「あいつはそうは思ってないよ。」

「ちゃんとした友達ですよ。」

「渋谷さん、下の名前は遥だったかい?」 

「そうです。林さんは?」

「てつや。」

「哲学の?」

「違う、徹夜のほう。」

 林は遥の手のひらに、徹也と書いた。

「あーあ、わかった。」

 自分を見上げた遥を、徹也は抱きしめようとした。

「あっ、雪降ってきた。」

 遥がそう言った。

「降ってないよ。」

「今、顔にあたったよ。ほら。」

「本当だ。」

「早く帰ろう。林さん、朝までいるなんて言わないで、走って帰ったら?」 

 遥は林の誘いを振り払うように、手を振って消えていった。

 

 8章 みぞれ

 遥が免許をとれた頃、別れた母が父を訪ねてきた。


「お母さんね、やっと気がついたの。大切なのは、本当は家族の方だったのに。」 

 遥は母と目を合わせなかった。

「許してもらえるとなんて思ってないよ。だけど、あの人とじゃ、もう暮らせないの。」

 母はキレイに塗られたワイン色の爪をしていた。遥はその爪を、削ぐ様な思いで見つめていると、

「勝手な事言うな!」

 黙っていた父が大声をあげた。

「ごめんなさい。」  

 母は泣きながら謝った。

「1回壊れたものが、簡単に戻ると思うなよ。」

「わかってる。」

 父が怒りで震えているのを見ない振りして、

「遥、キレイになったね。成人式、お母さんも一緒に見たいな。」

 母は遥の手を握った。遥は母が握っている手を離した。

「私には選ぶ権利なんかないし、そうやっていつも、大人の都合に振り回される。」

 遥は玄関へ向かった。


 バイト先まで歩いていると、徹也からラインがきた。

 <今日はバイト? >  

 <そうです。>

 <何時に終わるの? >

 <1時>

 <明日は? > 

  <明日はないです。>

 <学校は? >

 <休み>

 <じゃあ、免許がとれたらお祝いに、朝日を見に連れて行ってあげるよ。バイトが終わる頃、迎えに行く。>

 <ごめんなさい。今日は行けないです。>

 <何かあったの? >

 <いいえ、また今度。>

 

 バイトが終わり、母と父が言い合っている家に帰ると思うと、足取りが重くなる。何度もため息をついているのに、心の中が淀んだ空気で、ずっと曇っている。


「遥ちゃん。」

 徹也が声を掛けた。

「待ってたの?」

「待ってたよ。」

「行けないって言ったのに。」

 遥は暗い顔をしていた。

「何かあったの?」

「何も。」

 小さくため息をついた遥の手を握ると、

「おいで。」 

 徹也はその手を引っ張った。

 寒いせいか、昨日から右の手首が少し痛む。遥は徹也の歩くスピードに合わせた。

「火曜日、練習に来なかったね。」

「テストがあって。」

 遥は嘘をついた。徹也は遥を車に乗せた。


 父に母から電話があった日、めったに感情を出さない父は、少しイライラしていた。

 遥は父の気に障らないように、すぐに自分の部屋に入った。

 父と出会って、別の人に夢中になって、また父の所に戻ってこようとする母は、自分は悪くないと何度も口にしている。

 時々自分が当たり前の様に嘘をつく事は、そんな母とよく似ている、遥はそう思った。自分をよく見せようとするためには、嘘だって仕方ない事だと、平気で言える。自分の中に流れている血は、母と同じ、男の人に寄りかかろうとする、生ぬるい、汚ごれたものなんだ。全部を入れ替えるのには、やっぱり消えてしまうしかないのかな。


「どこに行くんですか?」

 遥は徹也に聞いた。

「ここから少し離れているけれど、遥ちゃんにどうしても見せたいんだ。」

 徹也はそう言った。

 徹也がコンビニに寄った。車を降りると、誰かと電話しをしている。

「今さぁ、女の子と一緒なんだよ。」

 遥は降りようとしてドアを開けた時、徹也がそう言っているのが聞こえた。

「ミオリじゃないって、違う子だよ。そう、いつもの場所に。」

 徹也は笑っていた。遥はドアを閉めてうつむいた。    

 どうやってここから帰ったらいいのか、ぜんぜんわからない。ついてきてしまったのは私だし、今さら帰りたいだなんて、わがままを言って嫌われたくない。

 徹也は助手席の窓を叩く。遥が窓を開けると、

「降りないの?」

 徹也はそう言った。戸惑っている遥を見て、

「家族が心配するといけないから、友達の家に泊まるって連絡したら?」

 徹也が言った。

「みんなもう、寝てると思うから。」  

 遥はまた嘘をついた。

 家にはまだ母がいるのだろうか。イライラしている父の気を逆なでないように帰るには、どうしたらいいのだろう。

 何度も着信が残る父の携帯に、遥は深呼吸をした後、電話をした。

「遥、どこにいるんだ。」

「ごめんなさい。友達の所。」

「それならそうと、連絡をしなさい。」

「ごめんなさい。」

「もう遅いから帰ってきなさい。」

「お母さんは?」

「お祖母ちゃんの所へ行ったよ。」

「お父さん、」

「なんだ?」

「今日は友達の家に泊まる。」

「それならそれで、迷惑かからないようにするんだぞ。」

 電話を切った後、お父さん、帰ってこいって怒ってよ、遥は携帯を握りしめた。

 みんな、私が悪いんだ。

 徹也が運転席のドアを開けた。

「やっぱり、心配してたでしょう?」 

 頷いた遥は、青白い顔をしていた。

「大丈夫? なんか、元気ないね。」

「少し、眠くて。」

「じゃあ、着いたら起こすから、眠りなよ。」

 徹也は自分が着ていたコートを遥に掛けた。

「ありがとうございます。」

 遥は少しも眠くないけれど、黙って目を閉じた。

 

 思い出したくない事ばかりが、浮かんでくる。

 母が一度だけ、新しい学校の前で遥を待っていた。隣りにいた男性が、母にそっくりだと遥の顔を見た。 

 哲の部屋で、哲が遥のスカートに手を入れた時、遥は哲に抵抗した。あの日から、優しかった哲との距離が少しずつでき始めた。  

 どうしてうまくいかないのかな。


「遥ちゃん、着いたよ。」

 徹也が、遥の肩を軽く叩いた。

「もうすぐ、朝日昇るから、ここで見よう。」

 徹也は街が見てる丘の上に車を止めると、

「寒くない?」

 遥に聞いた。

「大丈夫。」

 黒い雲の間から見えるオレンジ色の朝日。

 少しずつ血液が流れて行くように、冷たくなった街が、朝日に包まれて生き返っていく。 

 遥は車のドアを開けると、外に出た。

「すごい景色だろう。」

 徹也が遥の隣りに並んでそう言った。

「本当。」

 遥の目に映る朝日を見ていた徹也は、遥の頬に手をやると、遥の唇に自分の唇を重ねた。

「ごめんなさい。」

 遥は徹也から離れると、下をむいた。

 徹也は距離を置こうとしている遥を抱きしめると、

「ここで朝日を見た2人は、絶対別れないって言われてるの、知ってる?」

 そう言って遥の髪を撫でた。

「そんなの聞いたことないです。」

 遥は再び徹也から離れた。

「ねぇ、遥ちゃん。なんか、辛い事でもあったの?」 

 徹也が遥の顔を覗くと、遥は首を振った。

「そうやってあんまり嘘ついたら、ダメだよ。」 

 徹也が遥の手を握ると、遥はもう一度朝日に目をやった。

「さっきの朝日の話しは、本当は嘘だから。」

 遥は徹也の顔を見た。

「林さんも嘘つきなんだね。」

「これで一緒だろう。」

 そう言って徹也は遥を抱きしめた。


 車に戻ると、

「このまま、家に来ない?」

 徹也が言った。

「ううん。帰ります。さっきまで、別れた母が家に来て、父と話し合いをしていたんです。」

 遥がそう言った。

「ごめんね、そんな時に誘って。」

「私にはもう、どうする事もできないから。」

 膝の上にある両手を、遥はぎゅっときつく握った。

「遥ちゃん。」

「何?」

「キレイなサーブだって言われない?」

「そんな事、言われた事なんてありません。」

「俺、遥ちゃんを見た時、やられたって思ったわ。」

「なにそれ。」

「ずっと遥ちゃんを見ていたいんだ。」

 徹也は遥の頬を触った。

「このまま帰したくないよ。俺の家に行こう。遥ちゃんとゆっくり話しがしたいから。」

 遥は首を振る。

「ちゃんと送っていくから、もう少しだけ、一緒にいてほしい。」

 徹也はそういうと車を走らせた。


 家につくと、徹也は無言で鍵を開けた。

 車の中で、話しをしなかった2人。徹也がこれからしようとしている事を考えると、遥は足の先から膝の感覚が、だんだんとなくなってくるようだった。

 好きとか嫌いとか関係なく、徹也は自分を大人の女として見ている。めんどくさい感情なんか捨てて、徹也と一緒寝てしまえば、私も母の気持ちを理解できるのかな。

 徹也は遥をベッドに連れて行った。

 服を脱がせようとする徹也の手を、遥は止めた。

「やっぱり、できない。」

 徹也は聞こえないふりをして、遥の手を押さえると、そのままキスを続けた。

 遥の強張っている体の力が抜けた時、徹也は泣いている遥の顔を見た。

「なんだよ。」

 徹也は遥から離れた。

「男の家についてきて、その気にさせて、泣いてごめんなさいって、最低だよ。」

 遥は起き上がると、

「ごめんなさい。」

 そう言って部屋を出ていこうとした。

 徹也が遥の手を掴んだ時、振り返った弾みで右目のコンタクトが落ちた。

「あっ、」

「どうした?」

 遥は徹也の手を振りはらうと、そのまま部屋を出ていった。

 

 自分がどこにいるのかも、どの道を歩けばいいのかもわからない。さっきまで朝日が照らしていた街は、今にも雪が降り出しそうに曇っていた。

 痛む右手をさすった遥は、近くにあるベンチに座った。

 徹也が何度もキスをした自分の唇が、汚らわしい。

 徹也の言う通り、期待させておいて逃げるなんて、最低だ。だけど、こんな風に誰かに触れる事が、大人のいう大人の恋愛というのなら、もう誰かを好きになる事なんてまっぴらだ。


 細かい雪に混じって、小さなまあるいみぞれが降ってくる。初めは風に飛ばられていた雪も、少しづつ、足元に積もっていく。

 歩いている人に、駅までの道を聞いた。

 遥は上着のポケットにあった手袋を取り出し、さっと指を入れると、駅にむかって走って行った。


 家の玄関に着くと、父が待っていた。

「友達って誰だ? どこに行ってたんだよ。」

 父は怒っていた。

「ごめんなさい。」

「どれだけ心配したと思ってる。」

「お父さん、私だって家に帰りたくない時もあるよ。」

 遥は自分の部屋のドアを閉めた。

 濡れた服を脱ぎ捨てると、捨てられない前の高校のジャージが、引き出しを開けてすぐ近くにあった。悠はそれを引っ張り出して着ると、寒くてそのままベッドにの中にもぐった。

 体は冷たいはずなのに、父に反抗したせいか、顔が熱い。昨夜は眠れずにいた事もあり、悠はいつの間にか深い眠りに落ちていた。


「遥。」

 父が遥を起こした。

「服が脱ぎっぱなしだぞ。」

「ごめんなさい。」

「冴木さんって人が来てるから、入ってもらってもいいか。」

「いないって言って。」  

 遥は布団を被ったまま答えた。

「そう言うわけには行かないだろう。靴があるのも知ってるし。下で待ってるから、早く降りておいで。」

「お父さん、お母さんと一緒に住むの?」

 遥は布団から出てきた。

「もうここへはこないよ。実家に帰るって言ってたから。」

「そうなんだ。」

「遥にとってはお母さんなんだから、会って話してもいいんだぞ。」

 遥は首を振った。

「さっきからずっと待っててもらってるから、早く下に降りておいで。」


「わかった。ちょっと待ってて。」

 遥は左目のコンタクトを外すと、メガネを掛けた。

 

 遥がいつまでたってもこないので、父が遥の部屋を開けると、ジャージを着た遥が倒れていた。

 

 9章 氷柱

 火傷をした澄子に付き添って、救急外来の待合で、叶太は座っていた。

 救急車が止まり、玄関の方を向くと、遥の父の覚がやって来る。

「おじさん、どうしたんですか?」

「あっ、叶太。」

 一緒にきた渉は、一度だけ会った事のある叶太の事を覚えていた。叶太の方をチラッと見ると、ストレッチャーに乗っている遥に付き添って歩いていった。

「遥、何かあったんですか?」

 叶太は渉に聞いた。

 処置室に吸い込まていく遥を、3人は呆然と見送った。

 澄子が、治療を終えて出てくる。

「あら、渋谷くん、どうしたの?」

「遥が倒れたんだ。」 

 医者に呼ばれた覚は、遥が倒れた原因について説明を受ける。

「娘さん、ずっと風邪を引いていたのかな、ずいぶんと炎症反応が高くってね。」

 覚は少し前から、遥が市販の風邪薬を飲んでいた事を、思い出した。

「それに、貧血と栄養不足。まあ、若い女性なら、けっこうある事だよ。娘さんには、ダイエットをやめるように、お父さんからちゃんと注意してくださいよ。」

 遥に付き添っていた澄子は、

「お医者さん、なんて?」

 そう聞いた。

「風邪をこじらせたみたいだ。あと、ちゃんと食べさせろって。」

「そっか。」  

 遥の横にいる叶太が、

「さっき看護師さんがきて、この点滴が終ったら帰っていいって言ってたよ。」  

 そう、覚に伝えた。

「渋谷くん、遥にちゃんと食べさせてるの?」  

 澄子がそう言った。

「ちゃんと、食べさせてるよ。」  

 少し大きな声で言った覚に、

「ごめん。渋谷くんも、いっぱいいっぱいだよね。」

 澄子はそう言った。

 遥が目を覚ます。

「遥。」

 叶太が遥の顔を覗いた。

「なんで叶太がいるの?」

「おまえ、なんて格好してるだよ。」

「本当だね。」

 遥は右手で顔を覆った。そうだ、渉が家にきていたはず。遥は顔から手をとって、渉の方を見た。

「ごめん。ずっと待ってたね。」

 渉が叶太の隣りに並ぶ。

「渋谷、林さんの車に携帯落としただろう。」

「そうだったかな。」

 渉は遥の携帯を枕元に置いた。

「林さんが家に届けにきて、遥に謝ってくれって。」

 遥は渉の顔を見せると、

「謝るのは、私だよ。」

 そう言った。

「なんかあったのか?」

「ちょっとね、いろいろ。哲の時もそうだった。」

 遥はまた顔を右手で覆った。

「なんかよくわかんないけど、林さんはまた練習に来いって言ってたよ。」

「冴木くん、もう行けないよ。」

「それは、渋谷が決めたらいい事だから。」

 渉は遥が言い出せないでいる理由を考えていた。渋谷が本当に好きなのは、ここにいる幼馴染なんだろう。林さんとも哲とも上手くいかなかったのは、2人はただの幼馴染なんかじゃなくて、とっくに結ばれているんだよ。

「渋谷、そんなジャージ着てたら、高校生に間違えられるぞ。」

「そうだね。恥ずかしいね。」

「俺、行くわ。早く元気なれよ。」

 そう言って覚と澄子、最後に渉に頭を下げると、病室を出ていった。


「遥ちゃんの彼氏?」

 澄子が聞いた。

 遥は首を振った。

「むこうでできた友達です。大学も一緒で。」

 遥はそう言った。

「遥ちゃん、今日は家においでよ。たくさん、唐揚げ作ったのよ。私、それで火傷しちゃったの。」

 澄子は覚を見ると、

「渋谷くんにも、ちゃんとわけてあげるから。」

 そう言った。

「叶太、」

 遥は叶太の顔を見た。

「遥、おいでよ。話したい事、たくさんあるし。」 

 叶太は遥の手を握った。

「お父さん、行ってもいい?」

「行っておいで。」


 叶太の家につくと、キッチンに唐揚げがたくさん用意されていた。

「遥ちゃん、まだ作りかけなの。私は手がこうだから、叶太と残りを揚げてくれる?」

「いいですよ。澄子さん、手、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。遥ちゃんも気を付けて。」

「はい。」

 叶太が油を温めている遥の隣りにきた。

「まだ、けっこうあるね。」

「うん。」

「母さん、なんでこんなに作ろうとしてたんだろう?」

「叶太、大好きなんでしょう? 澄子さんの唐揚げ。」

「好きだけど、作り過ぎ。」

 遥は叶太を見て笑った。

「羨ましいなぁ。」

 覚に渡す唐揚げをタッパーに詰めていた澄子は、

「元奥さん、渋谷くんの所に行ったの?」

 覚にそう聞いた。

「来たけど、実家に帰ったよ。」

「私もバツイチだから、わかるけど、別れた相手って、世界一不幸になってほしいよね。」

「そうかもな。」

「叶太もそうやって育てて来ちゃったから、素直に好きになればいいのにさ、恋愛って汚いとかって思っちゃってるのよね。」

「みんな、親のせいなのか……。」

「親は親で必死だったんだし。」

「そうだな。」

「渋谷くん、時々、ご飯食べにおいで。私達は、そのうち、ちゃんとあの子達の前では揃って父親と母親になれると思うけど。」


 晩ごはんが済むと、澄子が叶太の部屋に布団を持って行った。遥はお風呂に入っている。

「叶太、遥ちゃんは具合が悪いんだから、あんたは下で寝なさい。ゲームして夜更かしなんかしたらダメだからね。」

「わかった。」

 澄子が部屋から出ていくと、遥が戻ってきた。

「俺、入ってくるわ。」

 叶太が部屋を出ていった。遥がテーブルに置かれたゲームの攻略本を見ていると、叶太が帰ってきた。

「叶太、ゲームするの?」

 遥が聞いた。 

「たまにだよ。ついつい自分が勝つまでやろうとするから、朝になる事もある。」

「わかる。」

 遥は叶太の隣りに座った。

「遥、どこの学校に行ってるの?」

「教育大。叶太は?」

「俺は隣りの公立大。ここから離れて、1人暮らし。」

「けっこう近くにいたんだね。」

「そうだね。」

「小百合は元気?」

「東京に行ったのは知ってるけど、それからは連絡はないんだ。」

「叶太が大切にしなかったんでしょう?」

 遥は叶太の気持ちを確かめようとした。

「そんな事ないよ。」

「遥は?」

「何が。」

「彼氏いるんでしょう。車の中に、携帯を忘れるくらいだもの。」

 遥は少し考えていた。

「どうしてかな、うまくいかないの。隣りにいるだけでいいなんて、やっぱりドラマの中の台詞なのかな。」

 叶太は遥の肩を自分の方に寄せた。

「叶太、どうして、連絡先、教えてくれなかったの?」

 遥は叶太にそう言った。

「もう会えないかもしれないのに、番号が残るのって辛いだろう。」

 叶太は遥の手を握った。

「10年も隣りにいると、あんまりにも近すぎて、また明日って言えば普通に会えるって、いつも思ってたけど、遥がいなくなって、急に淋しくなって、小百合と付き合ったんだ。だけど、小百合を好きになろうとすればするだけ、遥の事を思い出して、苦しくなって。遥にも彼氏ができたって聞いたら、どうしようもなくなって。」

 叶太は握っている遥の手を自分の胸に引き寄せた。

「叶太からもらったボタン、ちゃんと持ってるよ。忘れられないよ。ずっと会いたかった。」 

 遥は叶太の胸に顔をうずめた。

「遥。」

「ん?」

「キスした事、あるんだろう?」

「何、急に。」

「なぁ、あるんだろう?」

 叶太は俯く遥の顔を覗き込んだ。

「そうだね、あるよ。」

 遥は叶太の顔を見た。

「叶太は?」

「どうだろうな。」

 叶太は目をそらした。

「人に聞いておいて、自分は何も言わないの?」

「俺、自分からした事はないから。どういう時にしたいと思うのかなって思ってさ。」

「そんなの知らないよ。」

 遥は笑った。

 叶太は遥の顔を見つめている。

「子供の頃は手を繋いでも、なんにも思わなかったのにさ、今は遥の手を握ると、もう離したくないって思うんだ。」

 真剣な叶太の目を見た遥は、

「大人になるって、なんか困るね。」

 そう言って叶太の手を握った。    

 どちらからともなくキスした2人は、目が合うと静かに笑った。

 叶太は遥の体をベッドに倒した。

「風邪、伝染るよ。」

 遥は叶太にそう言った。

「もうとっく伝染ってるよ。」

 自分の頬を包んでいる叶太の手の温もりが、長く続いていた雨の終わりを告げるようだった。

 雲の間から見えてきた太陽の光りは、初めは少し照れていたけれど、だんだんと濡れていたアスファルトを乾かすまで、大きく広がっていく。

「高校の時、遥の背中から、ゼッケンをはずしたよな。」

「そうだね。」

 叶太は遥の上着を脱がせた。

「寒い?」

「ううん。」 

 目を閉じた遥の上に、叶太が重なる。

 叶太は遥の唇に近づくと、どうしようもないくらいの好きという感情が、体中から溢れてきた。

 

 10章 雫

 成人式の日。


 小さな町の成人式は、お正月の間に行われた。

 出席するつもりはなかったが、遥の母は、姉が着た振り袖を遥に送ってきた。

 母がよく行っていた美容室で着付けをすると、遥は成人式の行われる会場に向った。


「遥!」

 小百合が遥に気がついた。

 ずっと一緒にいた友達との再会で、胸がいっぱいになる。

 大人になる事なんて、本当は昨日の延長線なんだろうな。今日という時間は、ほんの少しだけ、遠い昔の様に勘違いをさせる。

 叶太が遥の隣りに座る。

「今日は泊まっていくんだろう。」

「うん。」

「お母さんに、写真くらい送ってやれよ。」

「叶太だって、お父さんに送ったら。」


 式が終わり、町の居酒屋を貸し切りにして、クラス会が始まった。30人足らずのクラスは、1人も欠ける事なく、この町に集まった。叶太が友達と楽しそうに笑っている。

「遥、飲まないの?」

 小百合がそう言った。

「私、3月生まれだから。」

「そうだった。まだ、19なんだ。」

「お酒って、成人式が解禁ってイメージだったよね。」

「そうだね。小百合は、今どこにいるの?」

「東京。叶太、なんか言ってた?」

「そういえば、東京にいるって言ってた。」

「遥、叶太の事、ずっと好きだったんだよね。叶太も遥の事が好きだったし。」 

「……。」

「遥が転校するって聞いて、ちょっと嬉しかったの。私も叶太が好きだったから。でも、やっぱり叶太の心には入れなかった。好きって気持ちって理屈じゃないんだよね。」 

「小百合は、今どうしてるの?」

「彼氏、いるよ。だってみんな私の事、放っておかないもん。」

「中島くんの事は? いつもケンカしてたじゃない。先生よく止めに入って、何度もお互いにごめんなさいの握手してたから、絶対2人は結婚するって思ってた。」

「なーに、そんな昔の話し。中島くんね、警察官になったらしいよ。」

「へー、そうなの。」

「ケンカしたら、握手で解決させるんじゃない。幸せなやつだよ、本当に。」

「遥ちゃん、来てたの。」  

 中島が小百合の隣りにきた。

 クラスの仲間がみんな楽しそうに笑っている。

「もう、遥ちゃんじゃないってば。」


 午前2時。

 叶太の家に着くと、澄子が待っていた。

「遥ちゃん、飲んでないでしょうね。」

「飲んでないです。」

「さっきまで、お母さん待ってたのよ。」

「……。」

「叶太もこんな時間まで、遥ちゃんを連れてたらダメ。」

「今日くらいはいいだろう。」

「お母さん、明日から仕事だから、もう寝るから。叶太、明日、遥ちゃんを送って行きなさい。ちゃんとお酒を抜いてから行くんだよ。」

「わかってるって。」


 叶太の部屋に敷かれた布団の中で、遥は目を閉じた。

 お母さん、待ってたんだ。

「遥?」

「何?」

「疲れたな。」

「うん。」

「ねぇ、こっちにおいで。」

 遥は布団から出て、叶太のいるベッドに入った。

「寒い?」

「大丈夫。」

「むこうの成人式は来週?」

「そう。」

「出席するんだろう。」

「ちょっと、行きにくいけどね。」

「いろんな人と会ってさ、いろんな話しをしてさ。小さな集団の中ばかりにいたら、ダメだよ。」

 叶太は遥の髪を撫でた。

「そうだね。」  

 遥は叶太の胸に顔をつけた。

「遥、今も辞書に付箋貼ってるの。」

「貼ってるよ。」

「昔もそうやって付箋を貼ってたな。付箋の数だけ、言葉を覚えたって、そう言ってた。」

「そんな事、よく覚えてるね。」

 眠ってしまいそうな遥に、叶太はキスをした。

「叶太、もう寝ようよ。」

「ダメ。」 

 叶太は笑いながらそう言うと、遥をきつく抱きしめた。


 2回目の成人式の朝。

「着せる人が変わると、変わるんだな。」

 遥の父がそう言った。

「今日は遅くなるのか?」

「ううん、そんなに遅くならないよ。」

「遥、まだ酒はダメだからな。」

「わかってるって。みんなそればっかり。」

「なんで、成人式は二十歳になる年にしたんだろうな。」

「昔は違ったの?」

「前は二十歳になってからの初めの年。だから、21歳になるか。酒を飲んで、会社の愚痴を言って、それが大人の仲間入りだったのに、今はほとんどが学生なんだろう。大人になった感覚なんて、昔とぜんぜん違うんだろうな。」

「今は18歳が成人だよ。」

「そうだったか。何もわからないまま、大人の中に放り込まれるのか。」

「お父さん、今日はずいぶん後ろのむきの話しばっかり。」

「ほら、送ってやるから行くぞ。」

 

 会場の入り口には、華英と朱莉が待っていた。

「遅いよ、遥。写真、すごい並んでるよ。」

「ごめん。華英も朱莉も元気だった?」

「元気だよ。華英ねぇ、全日本の強化選手に選ばれたらしいよ。」

 朱莉がそう言った。

「すごいね、華英。」

「試合の時に転ばない様に気を付けるよ。」

 華英は遥の右手を指差した。

「もう、昔の話でしょう。」

「朱莉はねぇ、小島くんと付き合ってるって。」

「本当に?」

「同じ大学だから、よく話してるうちにね。」

「ほら、」

 渉と拓哉がやってくる。

「どこにいたか、探したよ。」

 拓哉が朱莉にそう言った。

「水川、すごいな。」

 渉が華英にそう言った。

「今、試合の時に転ばないようにって話してたところ。」

「遅くなったな。」 

 哲がやってきた。

「おぉ、元気かおまえ。」


 式が終わり、父が迎えに来るのを待っていた遥は、会場が壊されていくのを見ていた。

「帰らないの?」

 哲が遥の隣りにきた。

「今、迎えにくるの。」

「彼氏?」

「違う。お父さん。」

「今日、20時半だよ。」

「うん。」

「行くんでしょう?」

「行くよ。」

「遥。そのまま来たら? せっかく着たのに、もったいないよ。」

「哲、女の子みんなにそう言えばいいじゃない。」

「冷たいな、せっかく褒めてやったのに。」

「嘘つくほうが、ずっと楽だよね。じゃあ、後で。」


 学校のクラス会が一斉に開かれるためか、店はどこも満席だった。それぞれのクラスの二次会を抜けて、渉の知り合いのバーに集まった6人は、

 思い出話しがいつまでも尽きなかった。

「隣りに座っていいか?」

「いいよ。」

 哲は遥の隣りに座った。

「遥、まだ、飲めないんだったっけ?」

「そう。なんだか、私だけ取り残された感じ。」

「じゃあ、なんのジュース飲む?」

「哲は何を飲んでるの?」

「俺は酒だよ。ちゃんと酒が入ってる。」

「嘘ばっかり。」

 遥は哲の前に置いてあるストローを手に取った。

「オレンジジュースでしょう? 私もそれにする。」

「哲、飲めなかったのか?」

 拓哉が聞いた。

「あんまりな。」

「北海道は寒い?」

 遥が聞く。

「寒いよ。」

「雪もたくさん降るんでしょう?」

「そうだね。遥と一緒にいた時って、よく雨が降ってたね。」

「もう、忘れた。」

「ほら、あの緑の傘。濡れると花が出てくるやつ。」

「そうだ。哲、傘壊れてるって嘘ついて、私の傘に入ってきた。」

「あの時、遥、逃げたよな。俺がちゃんと一緒に帰ろうって言えば良かっただけなのに、嘘ってわかったんだろう?」

「私もたくさん、嘘ついたし。」

「ずっと連絡しなくて、ごめん。」

「ううん。みんな、新しい生活してるんだから。」

「遥は?」

「元気だよ。」

「そうじゃなくて。」

 哲が何かを言い掛けた時、渉が遥の隣りに座った。


「遥、また練習に来いよ。」

 渉が遥の前に来た。

「林さんも、あれからずっとこないから、すごく気にしてるよ。」

「冴木くん、今ね、転校する高校に時々練習に行ってるの。ほら、あのジャージの高校。」

「そうか。もしかして、病院で会った人と?」

「そう。」

「あの人は渋谷の幼馴染なんだろう。」

「小2の時に転校してきて、隣の席で教科書一緒に見てたんだけど、この前、教科書はすぐに届いてたってわかってね。」

「わざとだったのか。」 

「それはわからない。」

「渋谷が来た時って、教科書はどうしたんだ?」

「手に入るまで、毎回コピーをもらってた。右手が折れた時は、哲はノートをコピーしてくれたね。」

 遥は哲を見て微笑んだ。 

「毎日、一緒にいたよな。」

 哲はそう言った。


 若過ぎた自分のせいで、壊れてしまった関係。そろそろそういう関係になってもいいんじゃないかと思って、体を求めた事で、大好きだった遥に拒まれた。

 あの日から、なんとなく今まで過ごしてきた時間までが、否定された気持ちになった。

 高校生という空間が全てだったけど、もう少し大人に近ければ、遥とは違う結果になっていたかもしれないのに。


「遥。良かったな。」

「何が?」

「親切にしてたら、ちゃんと倍になって、幸せが返ってくる。」

「じゃあ、哲だって何倍にもなって返ってくるんじゃない?」

「遥が俺の分も返してくれるのか。」

 遥は笑っていた。

 

 あの頃見た、不安そうな小さな肩の遥はもういない。ずっと一緒にいたいと思ったあの頃の気持ちは、けして嘘ではない。

 俺達は、少しだけ大人になったんだな。

 

「遥。」

「何?」

「あんまり嘘つくなよ。俺はみんな知ってたんだからな。」

 哲は遥にそう言った。


 11章 雨上がり

 大学生活も残り少なくなり、学校へもほとんど行くことがなくなった。

 遥は幼い頃育った町で、保育士になる事に決めた。 

 叶太も遥と過ごしたこの町で、たまたま募集のあった消防署に勤務する事が決まった。

 いつも家で1人でご飯を食べていた叶太の母の澄子は、2人が一緒に住むことになって、本当に嬉しがった。


「遥ちゃん、なんで教師にならなかったの?」

 澄子がそう聞いた。

「私、どうしても泳げなくて。」

「試験の時はどうしたの?」

「脚が浮いてる様にごまかしました。」

「最悪だな、それ。」 

 叶太はそう言った。

「あと、ピアノね、」

 3人はいつまでも笑っていた。

 

 すっかり雪が溶けたと思ったら、また少し雪が降った。


 叶太と高校に、バドミントンの練習に行っていたある日。

 遥のガッドが切れた。

「明日、張り替えに行こうか。」

「そうだね。」


 叶太の車で、小さなラケットショップにきた。

 ガッドを張り替えるために店長と話していると、徹也が彼女と一緒に入って来た。

 徹也の彼女の長くキレイな爪についているビーズに、電気の光があたってキラキラしている。徹也が遥に気がつくと、遥も徹也に気がついて軽く会釈をした。

「徹也の知り合い?」

 隣りの女性がそう言うと

「知らない人。」

 徹也はそう言った。

「遥、14時にはできるって。取りにくる? 送ってもらう?」

 叶太がそう言った。

「取りにくるよ。」

 遥がそう言うと、叶太は店長と話し、遥を連れて店を出た。

「どこかで時間を潰す?」

 叶太はそう言った。

「今、何時?」

「11時。」

「ゆっくりご飯食べたら、すぐに2時になるよ。」

「焼き肉でも行こうか。遥、誕生日過ぎたから、飲んでもいいよ。」

 

 ラケットショップからそう離れていない場所にある焼き肉屋に入ると、平日のお昼なのに、店は混んでいた。

「何でも食べれるんだっけ?」

 叶太は遥に聞いた。

「うん。」

 遥が頼んだ瓶ビールは、叶太の前に置かれた。

「みんな、女の人が昼間から飲むイメージってないんだろうね。叶太が飲んだら? 帰りは私が運転していく。」

「いいよ。俺は飲まないから。ほら、どんな味がするか、飲んでみたら?」

 コップに口をつけた遥は、苦い苦いと言ってコップを遠ざけた。そう言いながらも、もったいないと1瓶飲み干した遥は、少し酔っている様だった。

「食べないと、焦げちゃうよ。」

「叶太が食べたら?」

「遥、ぜんぜん食べてないでしょう。」

「食べてるよ。もうお腹いっぱい。これ、舌でしょう?」

「舌って言うなよ。」

「みんな嘘ついて、抜かれたのかな。」

「そんな事が言うと、食べれなくなるだろう。それに、牛は喋れないし。」

「叶太、アイス食べてもいい?」

「食べればいいだろう。」

「叶太は?」

「俺はいいよ。」

「今度、澄子さんと来よう。」

「遥、酔っ払ってるのか。」

「そんな事ないよ。」

 叶太の車に乗ると、遥は体を横に向けて眠った。

「おい、気持ちに悪くなったら、早めに言うんだぞ。」

「わかった。」


 ラケットを受け取りに叶太が店へ行った。助手席で1人で寝ていると、車の窓を誰かが叩いた。

 叶太、何か忘れ物でもしたのかな?

 遥が目を開けると、徹也が立っていた。

 遥に車から降りるように言うと、叶太がラケットも持って戻ってきた。

 徹也は叶太に何かを言っている。

 遥がドアを開けて外に出る。

「遥ちゃんの彼氏?」

 徹也は叶太を指差した。

「そうです。」

「あれから練習にこないから、どうしてるか気になって。」

「今は、別のところで練習をしているの。」

「彼のところ?」

「そうです。」

「俺さ、年甲斐もなく遥ちゃんに一目惚れしちゃって、ひどいことしたから、ちゃんと謝りたくて……。」

「もう、いいです。それに、家に帰りたくなかったから、林さんと一緒にいたんだし。」

「なぁ、遥ちゃん。彼氏と別れて、俺と付き合わない? 遥ちゃんじゃなきゃダメなんだ。」

 遥は首を振った。

「彼女がいるじゃないですか。」

「いろんな子と付き合っても、遥ちゃんじゃないと、心が埋まらないんだ。」

「林さん、私もずっと心が埋まらなかった。だけど、今は隙間がないくらいに埋まってるの。」

 遥は叶太の隣りに並んだ。

「そっか。わかったよ。」

 徹也はそう言うと、車に乗って消えていった。

「遥?」

 叶太が遥の顔を覗いた。

「もう、昔の事。」

 遥はそう言って車に乗った。

 

 その夜。

 渉から遥に電話があった。

「渋谷、林さんが死んだって。」

 徹也は彼女を乗せて家に帰る途中、対向車線をはみ出して、大型トラックに衝突した。 

 彼女も徹也も即死だった。

 運転していた徹也は、少しお酒が入っていたようだった。

 塞ぎ込む遥のそばに叶太がきた。

「遥。大丈夫か?」 

 家族を不幸にした母を許せないように、誰かを不幸にした自分は、幸せになる資格なんてない。世の中なんて、本当はそんな人で溢れている。


「叶太、ごめん。家に帰る。」


 12章 虹

 触れるだけで熱くなっていた体は、淋しさで震えそうになる夜になると、強がりと恥ずかしさの服を着て、平気だよ、そんな風に強がった。

 大人になるにつれ、ただひたむきに好きだという気持ちが恥ずかしくなり、あれほど純粋だった心が、嘘や誤魔化しで塗りつぶされていく。


 あんなに楽しみにしていた春が、大きな竜巻が全てをさらったように、何もなくなった。

 

 遥は決まっていた保育園にも就職せず、近くの養護学校で、臨時教員として働いていた。 

 ピアノも水泳もやらなくていいんだし、軽い気持ちでこの職場を選んだ。

 就職した学校は、思っていた毎日とはぜんぜん違った。授業の途中で、パニックを起こした生徒が、遥にむかってく噛みつく事もある。


「渋谷さん、なんであの子が、あなたに噛みつこうとしたのか、よく考えてみて。」

 施設長はそう言った。


 仕事がうまくいかなくても、自分はまだ生きている。もう、死んでしまった徹也は、何かを伝えたいと思っても、それができない。

 少しずつ、遥の体に擦り傷が増えていった。

 仕方ない。それが自分が背負ったものなんだから。


 学校が夏休みに入った7月の終わり、渉が叶太のところにやってきた。

「遥なら、いないよ。」

 叶太が言った。

「なんか飲む?」

 叶太は冷蔵庫から、コーラを出して渉に渡した。

「渋谷は?」

「きっと実家にいると思うから、話すことがあるなら、そっちへ行って。」

 叶太はそう言った。

「渋谷と別れたのか?」

「出て行ったのは、遥の方。」

「なんでこんな事になってんだよ。」

「遥はあの事故があってから、自分を責めている。」

「事故は渋谷のせいなんかじゃないって。」

「そんな事、俺だってわかってるよ。」

「このままでいいのか?」

「良くはないさ。だけど、遥が苦しんでる気持ちもわかる。両親が揃っている冴木くんには、理解できないだろうけど、誰かを不幸にしたって事は、自分はそれ以上の罰を受けなきゃならないんだ。」

「渋谷は誰も、不幸になんかしてよ。」

「俺もそう思うけど、遥が出した答えだからさ。」

「林さんに渋谷を紹介した事、俺だって後悔してるんだ。あの人、いろんな人と遊んでたみたいだからさ。」 

「氷、いる?」 

 叶太は聞いた。グラスに氷を入れて渉に渡す。

 コップを受け取った渉は、それにコーラを注いだ。

「たくさん入れたと思っても、泡が消えたら少ししか入ってないんだよな。」

 叶太は残りコーラを、渉のグラスに注ぐ。

「藤原くん、俺達まだ23だよ。この先ずっと、悲しいまま、生きて行くつもり?」

「遥が1人でいるなら、俺もずっと1人でいるだけの事。」

「キレイ事言ってないで、すぐに迎えに行けばいいだろう。」

「俺は冴木くんのように起点がきかないし。遥は頑固だし。」

「渋谷、転校してきた藤原くんの教科書は、本当はすぐに届いていたのに、ずっと隣りで、自分の教科書を見ていたって言ってたよ。どうしたら、渋谷の隣りに座れるかなんて、藤原くんが一番よくわかってるはず。」

「あいつ、やっぱり知ってたのか。」

「ねえ、藤原くん。高校ってここから遠い?」

「そんなに遠くはないよ。」

「連れて行ってくれないか、今度俺も、練習に参加したいから。」


 叶太と渉は、町を歩いていた。

 手を繋いで散歩している保育園児の色とりどりの帽子が、2人の前に近づいてきた。

 列の最後には、1人の女の子を真ん中に、2人の男の子が手を繋いでいる。

「先生、これじゃあ、横断歩道で手を上げられないよ。」

 その女の子が前を行く保育士に言った。

「大丈夫、代わりに僕が上げるから。」

「僕も代わりに手を上げるから大丈夫。」  

 2人の男の子は、横断歩道をそれぞれの右手を左手を上げて渡って行った。

「離れたらダメだよ。早く渡ろう。」

 少し足早に横断歩道を渡っていく3人。

 園児達が通り過ぎた後、さっきの女の子が叶太と渉に振り返って、にっこり笑った。


「藤原くん、俺がもし、この町で生まれて育ったなら、渋谷とあんな風に手を繋いでいたんだろうな。」

「そうだね。」

「そのまま大人になれたのなら、渋谷の隣りは、ずっと俺が座っていたかもよ。」

 渉はそう言った。

「それは困るよ。」

 叶太は笑った。

「高校はまだ遠い?」

「ほら、あの交差点を越えたところ。」

 

 遥は夏休みに実家へ帰らないで寮に残る子供達と、散歩に出掛けるために玄関にいた。

 なかなか靴を履いたがらない男の子に、時間だよ、そう言って足を履かせようとした。

 穏やかだった男の子は、突然暴れ出して遥を突き飛ばした。

 下駄箱に体をぶつけた遥の右の手首から、鈍い音がなる。

 

 起き上がれないでいる遥を、突き飛ばした男の子が、頭を撫でにきた。にっこり笑っている男の子の優しい笑顔に、遥は呆気にとられた。

「なんなの、本当。」

 遥がそう言うと、

「渋谷先生、病院に行きましょう。」

 施設長が遥を車に乗せた。


 診察室から出てきた遥を見て、

「やっぱり折れてましたか。」

 施設長が言った。

 ギプスを巻く順番を待っている間、施設長は遥にペットボトルのお茶を渡した。

「ありがとうございます。」

 蓋を開けられない自分に、施設長は意地悪でお茶を渡したのかと思い、遥は黙って左手でペットボトルを握りしめた。 

「これ、どうやって飲みますか?」

 施設長が言った。

「えーっと、」

「開けてほしいとか、あとで飲むとか、この味じゃないとか、渋谷先生は言えますよね。黙って家に持って帰ることもできる。なんとか自分で開ける手段だって考えようとすれば、思いつく。だけど、それを伝える手段を探している途中のあの子達は、どうすると思います?」

 遥は施設長の顔を見た。

「施設長、これ、開けてもらえますか。」

「いいですよ。喉乾いたでしょう。渋谷さんが私にペットボトルをぶつけてこなくて、ホッとしました。」


 医者がギプスを巻いていると、

「あなた、前にもギプスを巻いた事ない?」

「3年前にここへ来ました。」

「やっぱり。」

 看護師はそう言った。

「すっかりお得意様になったね。」

 医者が遥を笑わせる。


 施設長が電話をしているので、遥は待合に座り、電話が終わるのを待っていた。

 救急車が止まり、玄関の方を見ると、叶太がストレッチャーを押して入ってくる。


「遥?」 


 叶太は処置室に消えていった。

 

 遥が寮に戻ってくると、あの男の子は、時計を合わせていた。

「1分でもズレるとだめなのよ。」

 近くの先生がそう言った。

「順番も時間もちゃんと決まっているの。それをこちらの都合で変更すると、パニックになる。今日もね、渋谷さんがあと1分待っていたら、それで良かったのに。」

 遥のギプスに気がついた男の子は遥の頭を撫でた。

「頭を撫でると、痛いの治ると思ってる。あの子のお母さんはいつもそうやっていたのね。渋谷さん、怪我をした事は気の毒だけど、ここで働くなら、子供達からたくさん学んで。」


 家に着き、左手で玄関を開ける。すぐに閉まろうとするドアを足で押さえると、叶太が父と話している声がした。


「遥。迎えにきたよ。」

 叶太が笑顔で遥にそう言った。

「なんで?」 

「なんでって、そろそろ戻ってきてくれないと困るよ。」

「もう、叶太のところへは戻れない。」

「遥が出ていったら、俺も母さんも悲しいんだよ。これ以上、そんな人を作るなよ。おじさん、連れて行きますよ。」

「叶太、頼んだぞ。」

「わかってます。」


 叶太の車を降りると、澄子が外で待っていた。

「遥ちゃん、今日はシチューにしましょう。牛乳もちゃんと買ってあるから。」

「澄子さん、せっかく3人で暮らそうって楽しみにしてたのに……、ごめんなさい。」 

「遥ちゃん。ずっと待ってたのよ。」

 澄子は遥を抱きしめた。


 少し大きくなった叶太のベッドに、2人は座っていた。

「怪我の事、おじさんに聞いたよ。」

「そう。」

「遥、擦り傷だらけだね。」

「うん。」 

 遥は左腕を見た。

「毎日、どんな仕事してるんだよ。」

「学校だよ。私も先生って呼ばれてる。」

「きっと、優しい先生なんだろうな。」

 遥は首を振った。

「毎日どうすればいいか、ずっと考えてる。」

 叶太は遥の肩を抱いた。

「もう自分を責めるのはやめな。あの日の事故だって、遥のせいじゃないんだし。」

「そんな事、誰にもわからないよ。」 

「遥が不幸になる必要は、ないんだから。」

 うつむいて、少し固まっている遥。

「考えても考えても答えなんて出ないことばっかりだよ。だったら俺の隣りに、ずっといればいいだろう。遥の抱えている辛い気持ちを、俺が半分持ってあげるから。」 

 遥は左手で、こぼれそうになった涙を拭いた。

「私と叶太、どうしてあの病院の救急外来で会っちゃうんだろうね。」

 少し笑った遥の頭を、叶太は撫でた。

「右手はまだ痛むのか?」

「大丈夫。」

「遥の手、繋ぎたいな。繋げないってわかると、余計に繋ぎたくなる。」 

 叶太はそう言うと、遥を抱きしめて背中を撫でた。

「キスしようか。」

「そういう事は、黙ってしてよ。」

 叶太に遥に優しくキスをした。


 遥。

 神様は時々意地悪をして、悲しい雨を降らせる。

 雨が上がった後にできる虹は、どこまで追いかけても、その橋をくぐる事はできないね。

 誰だって、自分が一番虹の近くにいると信じているけど、本当の虹のふもとは、もっともっと遥か彼方遠く。

 いつの間にか消えてしまう虹は、気まぐれな通り雨と一緒に、また空に架かる。

 これからは俺とずっと一緒に空を見ていようよ。

 雨が上がって、最初に虹が架かる瞬間を、いつか遥の見てみたいから。

 

 叶太。

 最初に地面に辿り着く雨は、何も残らないね。 

 いくつもの雫が手を繋いで地面に降りてきた時、やっと小さな水たまりができる。

 叶太の書いたイタズラなQRコードは、適当に塗られた黒い箇所が、叶太の顔をゆらゆら映しているようだよ。

 ねえ。もう一度、ちゃんと好きって書いてくれない?

 叶太じゃないと、ダメなんだ。 

 叶太が私の背中のゼッケンを取ってくれた時、その手が少し触れただけで、涙が出そうになったの。

 どうしようもないくらい好きで、今でも心に大きな水たまりができたまま。


 遥は叶太の右手を触った。

「どうした?」

 叶太が言った。

「どうもしないよ。」

「嘘つくなよ。」

 少し色が変色してきた指先を叶太は見つめた。

「もらってる痛み止め、飲むか?」

「うん。」

 叶太は薬をシートから、出して遥の口に入れた。

 水の入ったコップを遥の左手に渡す。

「早く痛みがとれるといいな。」

「今日と明日はこんな感じだよ。」

「そっか。2回目だから、よく覚えてるんだな。」

 叶太は遥をベッドに寝せると、前髪をあげておでこを出した。

「遥ちゃん、なんにも変わらないな。」

「叶太だって。」  

「なあ、キスしようか。」

「また? そういう時は黙ってできないの。」

 叶太は遥のおでこに唇を押しあてると、遥の唇に自分の唇を重ねた。

「俺の気持ち、遥に全部あげるから。」

「少しでいいよ。叶太が空っぽになったら困るからね。」


 明け方まで眠れなかった遥は、叶太の背中に左手でそっと触れた。

「ゼッケンなんて、もうないぞ。」

 叶太は背中越しに言った。

「そうだね、もうないのにね。」

 遥は叶太の背中に頬をつけた。

「手、痛むのか?」

「大丈夫。」

 叶太は振り返ると、

「薬、持ってきてやるよ。嘘だってバレてるよ。」

 そう言って起き上がった。

 

 少しずつ明るくなっていく空は、灰色の景色から、青色へとゆっくり変わっていった。


 終。

 

 

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