プラスチック・ハート
その女性は、恋人ではない。女友達でもなければ、姉でも妹でも従姉妹でも母親でも祖母でもない。
今日で二週間になるだろうか。
五野井慎也は、とある女性と同棲生活を送っていた。その女性は自由な性格で努力家で、いろんな意味で不器用で。いつだって笑顔で帰りを待っていてくれる。それが辛かった。
ドアノブに手をかけるよりも早く、いつものように扉が開け放たれる。部屋の明かりとともに、満面の笑みが彼を迎えた。
黒い髪が肩口でふわりと揺れて、化粧気のない幼い笑顔をさらにあどけなく見せる。身にまとうのは慎也の持ち物。ぶかぶかの衣服が、逆に女性らしい体型を際立たせていた。
これが同居相手の女性。名前はRIN――アンドロイドである。
「マスター、お帰りなさい! ご飯できてますよ」
機械とはいえ年頃の女の子とひとつ屋根の下。嬉しい反面、この環境に慣れてはいけない。
「さっそく夕食にしますか? それともお風呂? それとも……」
「ご飯食べて風呂入って寝る」
そっけない慎也の態度に不満の声があがる。
RINはめげずに女性の武器をぴとりとあてがってきた。少し上方へと意識をずらしても、小さな頭が肩に預けられている。休まる場所が、ない。
機械の体、マガイモノの体、と呪文のように唱えていても、ついつい意識があさっての方向に飛びそうになるのは悲しい男の性。ぎゅと拳を握り、暴れそうな指を押さえこむ。
「今日の夕飯はお味噌汁と野菜炒めですよ」
慎也を食卓まで連れて行くとRINはようやく離れた。
台所に立つその後ろ姿はひどく無防備で。思わず顔をそむける。
性欲処理用アンドロイド。いわゆるセクサロイド。
せっかく所有しているのなら有意義に使うべきだが、残念ながら慎也にその権利はない。珍しい拾い物をしてしまっただけなのだから。所有者として誤認識されてしまったのは単純に喜べる事態ではなかった。許されるのならば思いっきり泣きたい。
「おまたせしましたマスター」
「……何度も言うが、俺はマスターじゃない。お前にはお前の家があるだろ」
「私の居場所はここです」
RINはにこにこと、はっきりと言ってのけた。台所と食卓の短い往復を終えてようやく座する。
いつまでも笑みをたたえる彼女にため息しか出ない。
こんな問答は何十回と繰り返した。無意味だと知ったうえでの行為だ。
彼女の肩にはひどい傷がある。そこには個体番号が印字されていたはずだ。アンドロイドにとっての名刺であり、所有者につながる手掛かりのひとつ。それを消してしまえる人間は、本来の持ち主以外にない。
つまりは。
RINは遺棄ロボット。警察に引き渡せば速やかに処理される。
「本当に、何も覚えてないのか?」
「何をですか?」
慎也はうつむいたまま、出された食事を口に運んだ。美味しいともまずいとも言えない微妙な手料理。味噌汁は薄味で、野菜炒めは焼きすぎ、白米はやけに柔らかい。ふと顔をあげれば楽しげに見つめてくる女性がいる。
――もしかしてアンドロイドのふりをしているだけじゃないか?
自分で出した仮定を即座に否定する。あまりのむなしさに一瞬、味覚が麻痺した。
「おいしいですか?」
「……まぁまぁ。ご飯炊くときはもうちょい水減らせ」
「はい、マスター」
RINは笑みを浮かべたまま。初期型ゆえのバリエーションの乏しさが、かえって複雑な表情を浮かべているように見せた。料理をまとめて味噌汁で流し込む。味なんてもう知らない。
食器を乱暴に置くと、ガラス製の視線を振り切るように立ち上がる。机を叩く固い音が手狭い一室に響いた。
「マスター?」
「ビール、買ってくる」
買い物なら自分が、と言い出したRINを説得するのに時間はかからなかった。命令さえすれば、はい、と静かに従う。それがアンドロイドだ。
その素直さが腹立たしい。
口から洩れる空気とともに、魂まで逃げていきそうだ。
ため息の数だけ幸せが逃げていくというのだから、RINは厄病神か何かに違いない。追い出すに追い出せないあたり、かなりのやり手だ。気づけば唇を噛んでいる自分にため息をついてしまう。もうそろそろ弾切れだろう。
報われない妄想に天もあきれ果てたか、ひゅうと涼やかな風を吹かせた。夜ともなればまだまだ肌寒い季節。今宵は月までもが黒い布団の中にもぐりこんでいるときている。明日は雨だろうか。ぶるりと身を震わせた。
予想は、見事的中した。ただし精度の低さも見事なものである。慎也の予想よりも、8時間ほど早く雨は降りだしていた。
彼女との空間が息苦しいからと、買い物に逃げた自分が悪い。それは痛いほど分かっているつもりだ。それほど時間をかけていたつもりはなかったのに、雨は調子良く降り続けている。
部屋まではそう遠くない。雨の中を走って帰るにしては少々離れているが、傘を買うにはもったいない。そんな微妙な距離。傘立てのビニール傘に、思わず手が伸びそうになる。
しばらく考えて、手をひっこめた。
よし、と意を決して水のカーテンをにらみつける。走って帰ればたいしたことはない。
足に力を込めたその瞬間。
視界に人影が写り込んだ。女性だ。何かを大事そうに抱えて、まっすぐしっかりと、急く様子も見せず一歩一歩確かめるように地を踏みしめて――。
「RIN?」
声がうわずる。
彼女は慎也の前に立つと、いつものようにほほ笑んだ。
「マスターの帰りが遅いので迎えにあがりました」
そう言って差し出したのは折りたたみ傘だった。
そんなものを大切そうに抱えて、自分は濡れ鼠――。
「おまッ、バカじゃねぇの!? 傘持って傘ささないでッ!」
「待機命令を守らず申し訳ありません」
即座に頭を下げたRINに、出てくる言葉もなかった。
受け取った傘を開く。RINはいたって自然に買い物袋を受け取ってくれていた。
いつだってにこにことほほ笑んで、一度荷物を預かれば守るように抱き抱え、自分は雨の中を静かに突っ切っていく。
それがアンドロイドだと言われれば、そういうものかと頭の中では理解できる。
慎也はただ黙って、そっとRINに傘をかぶせた。
「ほら! あと体を温めろ」
部屋へ帰ってすぐの命令はそれだった。しかしRINは初期型。命令の意図をくみ取る能力はやや乏しい。RINは受け取ったタオルを手に、にこやかに応えた。
「はい、お風呂をわかしますね。熱めがお好きで……」
「だからお前は自分の体を拭けって!」
「お役に立てず申し訳ありません」
RINの顔面パーツから笑顔が消える。そうプログラムされているからだ。それを“憂いに満ちた顔”と受け取るのは人のエゴだろうか。
人工毛を伝って落ちた雫が頬を伝い、涙のように尾を引いていく。そう思うのはエゴだと言われても。ちぢみあがった心臓はどうしようもない。
「あ、ちが、そのままじゃ風邪引くか――ッ」
反射的に言葉を出した自分に気づき、カッと顔が熱くなる。
風邪を引く? ロボット相手に何を言っているんだ、自分は。
「マスター?」
命令を正しく実行した彼女は、タオルを湿らせながら穏やかな笑みを浮かべていた――ように見えた。
五野井慎也は、とある女性と同棲生活を送っている。
その女性はあまりに素直で一図で、いろんな意味で不器用で。最近では、親しげに話しかけてくれるようになった。
現在の時間は、草木が眠り魑魅魍魎が練り歩く頃。電灯の下に、広いとは言えない一室がパッと照らし出された。
「マスター?」
「寝付けなくてな……そうだ、RIN。怖い話とかできねぇ? 何か涼しくなれそうな」
「涼しくなるために怖い話って、どうして?」
「そういうものなの」
「よくわからないけど……うんと、そうだなぁ」
耳を澄ませばジジジと虫の鳴くような音がする。音源はRINの胸のあたり。緩やかなふくらみは静かに上下し、人間のそれとさほど変わらない。外見だけでなくきっと中身にも、人間の頭の中と同じ、一生懸命に悩み喜び悲しみ楽しむココロが存在している。そう想うのは慎也の自由だ。
ようやくRINが話を切り出す。
「そういえば、来ないんだよね」
「何が?」
「あれよ。――生理」
RINは両の手で口元を覆った。ちろりと視線をそらせ、気のせいか、ほほを染めている。瞳は艶っぽく潤んでいるようにも見えた。
「出来ちゃったみたい」
「――ッ! どこでそういう話を覚えるんだお前は!」
「マスターの年齢や性別、性格を考慮し、ウェブ上で検索した結果です。怖くなかった?」
「……黙れアンドロイド」
「ああ、そっか。失敗、失敗」
RINはこつんと自分の頭を叩く。また変なことを変な媒体から入手したらしい。苦虫をかみつぶす慎也の隣にRINはそっと腰下ろし、肩によりかかった。
人工毛から漂う、むせるような甘い香りに一瞬息がつまる。
「でも嬉しいな。マスターがそういう反応をしてくれて」
「ど、どういう意味だよ」
心臓がつぶれるか弾けるか。どくんと大きく高鳴った。
RINはその音を聞いていたのだろうか。甘えるような声で答えた。
「怖かったんでしょ? うろたえるくらい。次回の参考にさせていただきます」
かくりとうなだれた。何かを期待した自分がむなしい。
「……お前が言うんじゃ怖くないっつの」
RINはきょとんと目を丸くした。“マスター”は、吐き捨てるような言葉ののち顔を赤く染め、視線を逸らせている。以上の事実をもって、RINの電脳回路ではある結論がはじき出された。怒っている、と。
「むぅ、私は本当にダメロボットだね。怖い話、集めておくよ」
そう言っては笑みを消し、「そういう意味じゃねぇ」とぼやく慎也に反応して再び表情を変える、彼女はRIN――アンドロイドだ。
初期型ながら優秀な彼女が、新しい表現を得るのはそう遠くないかもしれない。そんなことを妄想しながら、慎也はRINの髪をくしゃくしゃと乱してやった。