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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

感激の町

フランス産、中国産、ドイツ産、そして

 頭の上で足拍子を取られているようなウォルター・ペイジのベースと、ビル・ベイシーのころころと流れるピアノ・セッションは子守歌代わりになったかも知れない。だが続いて高らかに鳴り響いたコルネットは駄目だ。苦しげな呻き声と共に、腹へ回されていた腕を押しのけると、ガブリエルは身を起こした。

「なに、なに……火事か」

「違う。ビックス・バイダーベック」

 多分、と回らぬ舌で付け足しながら、マリユスも渋々枕から頭を離す。汗ばんだ上半身に、扇風機で攪拌された微風はいっそ不快だった。


 ラジオは夜9時まで、なんて修道院じみたことは言わないが、さすがに常識外れの時間じゃないか。ベッドサイドの目覚まし時計は短針が右側よりの水平に向かいつつある。それなのに階下のパーティーはたけなわ、寧ろ2人が床に着いた11時頃よりも騒がしさは増している気がした。

 皆油断するのだ。イースタン・マリブの断崖に建てられたここでなら、どれだけ騒ぎ回っても大丈夫だと。ウィル・ヘイズのスパイが命がけで崖を上り、カーテンの向こうを覗きに来ることはない。グラフィック誌の記者も守衛に見つかれば、鉛で固めた5セント入りの袋で殴り倒される。ここは保養所兼ヴィラだと、どれだけ広告でうたおうが、効果は全くなかった。


 そもそも、おめこぼしをするのは本来、こちらの義務なのだろう。クロネリー牧師は私生活も厳格で財布の紐が固かった。寄進は全て「野蛮人の子供達を矯正し、魂を浄化する為の神の家」にぶちこんだ。だから天使の名を持つ息子が寄宿学校を閉めたときも、預金残高には大した金額が残っていなかった。このペントハウスで悠々自適に生活しているアパッチの青年について世間は口さがないが、それこそ噂というものが全くあてにならないことの証左に他ならない。ガブリエルの母親はモハーベ族の出。しかも父親は白人だった。何よりも、資金繰りはそれなりに厳しいと来ている。ハリウッドの金持ち達がチャールストンの得意な女の子達と共に「息抜き」へ訪れてくれるから、マリユスの給金も潤沢に出続けるというものだった。


 純血ではない証に、太陽の下で見るガブリエルの肌はまろやかな赤色をしている。だが今、剥き出しの上半身は窓から差し込む月明かりを受け、さながら芳醇な李のよう。高地の涼しさは海風の作る湿度で帳消しになり、寝汗が産毛をしっとりと艶めかせ、柔らかく二の腕の輪郭を縁取っている。かぶりつきたくなってしまう。が、そんなことをしたら、ただでも寝起きの機嫌が悪いこの青年のことだ。条件反射的にベッドから蹴落そうとしてくるに違いない。


 仕方なくマリユスは、不埒の水準を幾らか下げ、主人の肩へ顎を乗せるに止めた。平らな腹に手を当てたのは、あくまで健康を慮ってのこと。大事なご主人様が、夜風で体を冷やし、腹を壊したら一大事だ。

「いい子だからもう寝てくれよ、ギャビー……」

「眠れる訳がない、こんな大騒ぎ」

 もう薄く目を閉じているマリユスの耳にも、音量を限界まで上げたラジオのホットジャズや、女の子の絹を裂くような歓声はきっちり届いている。「窓を閉めるか」との提案は「暑くて死ぬ」と即座に却下。手のひらの下で、薄い腹筋がしゃくりあげるような痙攣を見せる。頬に頬をすり寄せれば、汗に混じって、石鹸の匂いがした。練り込まれたカモミールの薫香。今夜彼は風呂に入った。クロネリー夫人は、養い子がほんの小さい頃から、その体をこれで洗ってやっていた。マリユスの好きな匂い。

 もっとしゃっきり目が覚めていたら、このままやってやるのにな、と邪心は膨らむものの、結局体は正直なものだった。自らよりひんやりしたガブリエルの体にくっついていたら、眠気がとろとろと脳を侵す。むずかりつつも、ガブリエルだって、本心ではもう意地なんて張りたくないはずだ。体はくたりと脱力し、背後のマリユスへ委ねられつつある。胸元へぶつかる肩胛骨の固さに幼さを感じて、マリユスは満足げな吐息と共に、抱き寄せる腕の力を強めた。


 このままシーツへ絡まるようにして、2人夢の中へ落ちていくまで後30秒もあれば事足りたはず。けれど乱暴なノックが、全てを破壊する。降り注いでくるのが天井の埃なのか、完膚なきまでに粉砕された静寂なのかは分からない。ガブリエルが黙って手を振ったのに、マリユスはありったけの恨み辛みを込めた唸りで応えた。椅子にかけてあったシャツとスラックスを身につけている間に、支えを失った主人の体はマットレスの上へと横倒しになり、あまつさえ寝息すら立てている始末だった。


 歯を剥き出す野良犬じみた気迫で応対されても、伯爵は何食わぬ表情を突きつける。顔をしかめる羽目になったのはマリユスの方だった。いつもの身だしなみはどこへ行ったのか、仕立ての良い麻のスーツは今や見る影もない。袖口と言わずネクタイと言わずスラックスの裾と言わず、ぽたぽたと滴り落ちる黄金の液体は、間違いなく海水ではなかった。いっそあの崖から身を投げていてくれた方が、どれだけすっきりしたことか。

「酋長はご在宅かい」

「うちのシャワーからはシャンパンなんか出ないはずだぜ」

「シャワーじゃない。表の噴水をね」

 彼が面白がっているのは自分のことだろうか、それとも他人様なのだろうか。くっくと喉の奥で笑いを転がし、伯爵は顔を手のひらで拭い、甘いチョコレートのような髪を撫でつけた。

「聞いてなかったのか。今夜10時から明日の6時まで貸し切るって……ジョニーがアップルゲイト氏に20ドル渡して頼んでるはずなんだけど」

「あの爺さんに言ったところで金を毟り取られるだけで終わりさ。大体、噴水は貸してない」

「悪いね。もう水を抜いて、代わりにペリエ・ジュエをなみなみ注いである」


 フォン・何とかというご大層な名前が本名であることをこの青年は大いに誇りとし、同じ名称を大っぴらにひけらかす映画監督を散々馬鹿にしている(「あいつは仕立屋の息子で、しかもユダヤ人だぞ」)

 あの14文字の立て看板の麓で「伯爵」を名乗っているのは彼が2人目らしい。血縁関係はないはずだ。1人目が本当に貴族であったかどうかは分からない。どちらにしろ、こいつがやっていることは高貴なご身分の人間が決して手を染めてはいけない悪事だった。

「で、マスターを誘いに来たのか。悪いがあの人は金槌だ」

「見てるだけでも十分楽しいものさ、次からは招待状を送るよ……申し訳ないが、今夜はそうじゃなくて」

 丸っこい、鼠を思わせる愛嬌の顔立ちは相変わらず涼しいままで、続きをさらりと嘯く。

「部屋を借りたいんだ。死にかけてる子がいる。少しの間、隠しておきたくてね」


「最近、ヘロインは禁止って規則が有名無実になってるな」

 この暑さにも関わらず、ガブリエルはシャツの上にキモノを羽織ってきた。赤青白緑黄色、幾何学的で奇天烈な柄の染め付けられた裾を翻し歩いていると、まるで彼自身が悪の総本山であるように見える。力ない腕を担ぎ直した伯爵は「これは阿片ですよ」と笑った。

「大丈夫、僕がここに来る限り、客に無茶な真似はさせません。何かあっても処理は任せてください。大体、ここの医者も患者に打ってやってるでしょう? 僕が卸してるものより、よっぽど質の悪い品を」

「あれは減薬療法用さ。急に注射を止めてなきゃ、今頃ウォーレス・リードはまだピンピンして車を運転してたよ」


 鉄輪につけられた20個ほどの鍵が、先導するガブリエルの手の中でガチャガチャと固い音を立てる。まるでロン・チャニーが登場する怪奇映画の世界だった。薄暗い廊下を歩く4人の影は、等間隔にはめ込まれた窓へ差し掛かるたび、くっきりと別の生き物のように色を濃くする。緋色の絨毯で消される足音は逆に不気味さの演出となる。短期滞在者用である東棟は、「休暇用」として用いられることの多い西棟と違って装飾が少ない、これでも。


 伯爵が月払いで借りている部屋へ連れていくのは本人直々に拒絶された。確かに、高級なマットレスをシャンパンと吐瀉物と失禁で汚すべきではないという判断を、ガブリエルは即座に下す。それを褒め称える気には到底なれなかったが。

「責任は取るだって?」

 伯爵の反対側から「死にかけ」の体を支え、マリユスは吐き捨てた。

「じゃあこいつは一体何だってんだ。クスリやってシャンパンのプールで溺れ死にしかけるなんて、どう考えても監督不行き届きだろ」

 まだやっと、酒場でビールを頼めるようになったばかりの子供に見えた。濡れた濃い金髪は闇の中だとほぼブルネットに近いが、月明かりの下に引き出された途端きらきら輝いて見える。ハンサムな少年だ。その手の趣味の輩が、涎を垂らして手を伸ばしそうな。


 「その手」を隠すことない伯爵はまるで相手の脳内を読んでいたかの如く、気軽に頷いて見せた。

「ああ、この子は元々ムルナウ監督の取り巻きだったんだ。最近喧嘩して撮影所を追い出されたとかで、憂さ晴らしを必要としてたから、誘ったのさ」

「ヤク漬けにしちゃ勃つものも勃たんだろうが」

「普段は薬なんかやらない子なんだよ。でも、上手く行かなくて自棄を起こした」

「抱かれたくない男に抱かれた?」

 ガブリエルは、己がした質問について心底後悔しているようだった。歌でも口ずさむような返答が戻ってくると最初から分かっているのだから、尚更だろう。

「或いは、抱きたい男を抱けなかった」

 馬鹿野郎、との呟きを誰に向けて放ったのか、マリユスは自分ですら分からなかった。


 ガブリエルが提供したのは2階の突き当たりから2番目にある部屋だった。まだ水遊びは続いているのだろう。絶壁にぶつかっては砕ける波の音に紛れて、ぼやけたようなはしゃぎ声が届く。文字通り水の中から聞こえてくるようで、酷く現実味がなかった。阿片をやり過ぎた際に聞くという幻聴は、きっとこういう音色をしているに違いない。

「着替えてきたら」

「いえ、それは後に」

 しゃがみ込んだ拍子に、濡れた悪趣味なコンビの靴がきゅうきゅうと音を立てる。ベッドへ投げ出された青年の首筋へ指を当て、伯爵は頭を振った。

「ああ、思ったよりも大丈夫そうだな」


 最初から分かっていたのかもしれない。シャツのボタンを2つほど外し、襟元を緩めてやる。喉元から手が滑り落ちて、緩やかに上下する胸へと向かったのは、あくまでも心音を確かめるため、らしかった。

「肺に水が入ったかと思ったけれど、呼吸も正常だ」

「もしこいつがくたばっちまったら」

 巻き添えを食らい、すっかり濡れてしまったシャツを肌から引き剥がして空気を入れながら、マリユスは噛みついた。

「お前が処分するんだぞ。こっちはあくまで部屋を貸しただけだ、何も知らない、何も見てない」

「全く怖がりだな、君達は」

 じんわりと黒い染みの広がるシーツへ手をなすりつけ、更なる汚損を増やしながら、伯爵は苦笑を浮かべる。殴りつけないでいる自らを、マリユスはめい一杯褒めてやりたかった。


「ねえ酋長、貴方のお父上はもっと凄かったんでしょう。勇気があって、エゴイスティックで。神の名の元、自分の信念を貫き通した。彼が『正した』魂は、一体いくつです?」

「何にせよ、誘惑には負けたからなあ」

 ぎょっとなって振り返ったマリユスの姿など、そのヌガー色をした瞳の端にすら引っかかっていなかった。そもそもどこを見ているのか分からない。まただ、と歯噛みしたくなる。徹底的に緩んだ焦点を思い切り引き絞り、背中をどやしつけたくて堪らない。派手なキモノに包まれた力ない肩を揺さぶり、真正面から顔を見つめて、叫びたくなる衝動を抑える為、これまでどれほど苦労してきただろう。「お前は間違ってない。だからそんな顔、金輪際するな」


「クロネリー牧師の魂よ安らかに」

「父と子と精霊の名において」

 肩を竦めざま、世間話よりも軽く言ってのけられる伯爵の祈りへ被せられた時、ガブリエルの口調はこの場において不謹慎に思えるほど真面目腐って響いた。

「貴方、臨終の祈りとか出来ませんよね」

「見よう見まねでよければ」

「いや、やっぱり止めておきましょう」

 力なく投げ出された青年の手を握りしめる手つきは、さながら世界で一番正直な態度で患者に向き合う医師のよう。時折喉へ引っかかったような鼾を立てる、無様な横顔を見つめる眼差しの柔らかさを、マリユスは正直、気味が悪いものだと思った。

「彼は助かりますよ」

 まるでその言葉へ操られるように、詰まりを取り除くような咳き込みが湧き上がる。丸太でも転がすかの如く、青年の身体をごろりとうつ伏せにし、背中をさすってやる手付きは信じられないほど真摯で紳士的だった。

「思うんだけれど、その子は阿片に向いていないな」

 掃除の甘い床板の上に、塊じみた吐瀉物が吐き出される。見下ろすガブリエルの眦には、最低限それ位はあった方が良いのではないかという程度の嫌悪だけが一刷毛されていた。

「じゃあペヨーテでもくれてやりましょうか。貴方詳しいでしょう」

「残念だけど、僕は部族の言葉すら話せないんだ」


 もうここら辺が潮時だ。長居し過ぎた程だった。胸の前で組まれた腕は、強引に掴まれることで容易く解くことが出来る。半ば引きずるように、マリユスは主人の身体をドアへと連れ去った。

「部屋代はお前の所につけとくからな。それと噴水の阿呆どもを、とっとと追い出せ」

 胃液と汗で頬に張り付く髪を優しく払ってやる手付きから察するに、伯爵はもうすっかり自らのファンタジーへ没入している。心配する必要は無いだろう。奴は金払いのいい客だ。何よりも、商売は右肩上がりなのだから。少し上乗せしてやっても良い位だった。

 悲しいことに、この程度の騒動など、迷惑料として加算するにしては余りに些細な出来事だった。この館においては。ガブリエルも心得ているのだろう。「明日の朝6時にはアップルゲイト氏が蛇口を捻るから、シャンパンはちゃんと抜いておいて」などと、全く呑気なことに。思わず昔のように、頭を小突いてやるところだった。


 気付けば外はすっかり白み、カーテンの隙間から漏れる光も鋭い月光から、ぼんやりとした柔らかい朝日へ移り変わっている。これが肌を焼く灼熱へ変わるまで、まだあと数時間は猶予があるだろう。


 服を乱雑に脱ぎ捨てて椅子へと投げつけ、シーツへ滑り込んだ主人を、マリユスもすぐさま追いかけた。背後から回した腕は振り解かれるかと思ったが、ガブリエルは身じろぎの一つもしない。じんわりした熱波と人恋しさが作る最大の妥協点。その均衡が全く危ういものであると知りながら、マリユスはもう一歩あゆみ寄った。ヘーイと低く耳元へ囁きざま、腕枕を頭の下に差し込んでやる。

「ギャビー、ギャビー……落ち込むなよ」

「なに……」

「お前に罪はない。ましてや罪そのものでもない。親父さんの罪を贖うなんて、ちゃんちゃらおかしい話さ」

 お前がお袋さんに似た最高の誘惑と堕落に染まっていようとも、父親譲りの淫蕩と偽善を持っていようとも。寧ろ俺は望むところだ。それは俺にとって、間違いなく美徳なのだから。そう教えてやりたかった。いや、きっとこの青年は最初から知っている。ただ、一欠片残された善良な心が拒絶しているだけで。何せ腕に預けられた頭はこんなにも重い。賢い男なのだ。この見かけでさえなければ、神学校への入学だって容易く許され、父の跡を継ぐことなど造作も無かった程に。


 汗ばむこめかみを指先で撫でてやっていたら、先程伯爵が見せた甘やかさを思い出し、堪らず顔を顰める。まるで背後が見えていたかのように、ガブリエルは溜息をついた。

「お前、酒臭いな」

「あー……あのガキを担いで階段を上ったんだ、そりゃあな」

「起きたら身体を洗えよ」

 くんくんと、自分より二回りは太い腕に鼻を押し当てて嗅ぐ真似すらする。一向に汗の引かないマリユスの肌と違い、ガブリエルの鼻先はひんやりしている。何だか犬みたいだと思った。


 畜生が眠る前に3度寝床で回るように、ガブリエルは頭の下に据えられた腕を軽く引き寄せ、位置を整えた。特に蒸れた肘の裏を滑る、深い息。信頼こそが、委ねることこそが愛だと、この主人はいつも身を以て示す。それは確かに甘えなのかも知れないが、マリユスは可愛げ以上の悪徳を感じることなど到底出来なかった。

 すっかり満足しきると、マリユスは本来数時間前にやっておくべきだったこと、すなわち腕の中の青年を抱きしめ、シーツを胸まで引き上げると言う仕事を、ようやくこなすことに成功した。


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