春1番に咲いた花の色は、きっと忘れたりしない。
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散ると分かっていて、どうして花のことを美しいと呼ぶのか。花壇の水やりを欠かさない用務員のおじさんは、俺の目の下で今日も丁寧に花に水やりをしている。隅から隅まで、抜け漏れなく、どの花にも平等に行き渡るように、均等に。
その人はいつも、ホースの先にシャワーヘッドをつけて蛇口をひねるのではなく、大きなじょうろで水をやっていた。蛇口を捻り、シャワーヘッドの下についているトリガーを握って水やりをした方が楽だろうに。少なくとも俺だったらそうやるんだろうな。だって面倒臭いし。ほら、中の水がなくなった。叔父さんは最後の一滴まで丁寧に水をやり、またじょうろの中に水を溜めるために一旦花壇を離れていった。
花は散る。とても呆気なく、こんなに毎日丁寧におじさんが水をやっていたとしても、明日強風が吹いて、土砂降りの雨が降ってしまえば、途端にダメになってしまう。
桜なんてその最たる例で、満開に咲き誇ったかと思えば3日後には葉桜になっていることなんてザラにある。
桜は脆い。花ごと足下に落ちていたそれを拾うとよく分かる。花びらは授業で配られる紙よりもずっと薄く、太陽を透かす。きっと月も透かせるだろう。そしてはらりと落ちる。接続部分が弱く、花としての形を保っていられるのなんてほんの数日だけだ。
だからこそ、満開の桜並木を見るのは至難の業だ。それだけ桜が脆いから、満開のように見えていても、途中に葉桜が現れたり、風にさらわれて妙に禿げた木があったり。カメラを構えた人たちはそれらが映らないように、まるですべての桜が満開を迎えているかのようにその光景を写真におさめて、SNSにアップする。
葉桜も、禿げた木も、元からなかったみたいに。
「おじさん」
俺が用務員のおじさんに声をかけたとき、叔父さんは驚いたような顔で俺を見た。目尻に深い皺の入った、優しそうなおじさんだった。
「あれ、今は授業中ではなかったかな?」
叔父さんは俺を責め立てる様子はなく、道端で偶然顔を見合わせた知り合いのような語り口調でそう言った。
「いつも気になってて。叔父さんがじょうろで水やりしてるのを、ずっと見ていたから」
花は間も無く開花を迎えそうである。大きな蕾と開きかかった蕾、一部はもう咲いていると言っても良い。あれだけ丁寧に、平等に水やりをしているのに、花たちが咲くタイミングはバラバラである。
「そうかい、なんだか恥ずかしいねぇ。そんなこと言われてしまうと」
叔父さんはそう言って目尻の皺をさらに深くするように笑う。あまりにもその皺が深いので、アイロンでもかけてあげたくなる。そうしたら、叔父さんはもう少しくらい若く見えるだろうか。
「なんでじょうろなんですか」
「じょうろの水は優しいんだよ。それにね、花を一つ一つ見ていくと、それぞれに表情があるのさ。今日は水は少なめで良いよ、という花には少なめに、たっぷり欲しいという子には、たんと水をやるんだ」
俺には、その花の表情というやつが分からなかった。すべて同じに見える。俺にわかるのは、花の色と蕾の大きさと、開いているかどうかくらいである。
「花は好きかい?」
おじさんはじょうろの中の水をちらりと確認しながら言った。
「…わかりません。俺が興味があるのは、散ってしまうと分かっているものに、どうしてここまで愛情を注げるのか、どうして美しいと呼ぶのか。そっちの方が気になってしまって」
そこまで言うと、叔父さんは俺に大きなじょうろを差し出してきた。部屋から見るよりも、それはずっと大きく見える。俺のひ弱な腕よりも、よっぽど生命力があるように感じた。最も、じょうろは生きてなんていないけど。
「水をあげてごらん」
おじさんの手がじょうろから離れると、水の重さがずしりと手にかかる。地球の重力が水を引っ張っている。そんなことを思ったのは、この時間はいつも物理の授業中だったからなのかもしれない。
俺は、じょうろの先端の細い方にも手を添えて、花壇の周りを固めたコンクリートの細い道の上からまだ土が濡れていない場所を探した。
大きな蕾の前で足を止める。
「おじさん」
「なんだい?」
呼ばなくとも、おじさんは俺の隣に来てくれた。そして、開き掛けの大きなつぼみを一緒に覗き込む。
「この花に、今水をやったら今夜は咲かないと思う。でも明日には咲くように思います。今、水をあげてしまったら、咲いていられる時間は短くなると思う。水を欲して、水を求めて花を咲かせることと、今たっぷりの水をやって長く咲かせてやること、どっちが大切だと思いますか?」
あはは、とおじさんは呑気に笑った。俺は至って真面目だったので、少々腹が立った。
「分かっているじゃないか、君は」
叔父さんは相変わらず目尻に深い皺を刻み続けている。
「散ると分かっているものに、どうして愛情を注げるのか。散ると分かっているものを、どうして美しいと呼ぶのか」
俺は目の前の花を見ながらその言葉だけを聞いている。
「花はね、人間と一緒なんだよ。いつ咲くかは花が決めること。君はいま、花の声を聞いたわけじゃなく、主観で話していると言うのはわかるかい?君のエゴだよ。花は水を求めている、でも今与えたら、咲いていられる期間は短くなるかもしれない。自分はどうしたいか、と考えているんだろう。だから私は言ったはずだよ、花の表情を見るんだと。そこに自分のエゴはいらないのさ。求めているならやれば良い、求めていないならやらなければ良い、君ではなく花がそうしたいようにしてやることが大切なんだ。だから私は花の表情をみながら、一つ一つに合わせて水をやる。ホースで水をやるというのは、平等に見えるかもしれないけれど、押し付けているだけに過ぎない。声や表情に耳を傾けず、見ることもせず、求めてるかもわからないのに、水を与える。それは個性を殺しているのと同じことなんだよ」
花は語らなかった。しかし、叔父さんの言っていることに同調して喜んでいるように見えた。花がそんな風に見えたのは初めてのことだった。
「俺が先に咲いて、先に枯れて、先に摘み取られて、その後に花が咲き誇って、それを人は綺麗と呼んで、その中に俺がいたことになんて気がつかなくて、」
まだ濡れていない、乾いた土の上に落ちたのが自分の涙だと分かったのはしばらく経ってからだった。
「まるで元からいなかったみたいに排除されて、俺の声は届かない。俺は葉桜で、風に吹かれて花びらを失った桜の木で、カメラにも絵画にも邪魔者扱い。元からいなかった、元からなかった、そうなるのが怖かったんです。…俺も、おじさんのじょうろで水を注いでもらいたかったな。もう少し待っててって、もう少しだけで良いから」
散ると分かっていて、どうして花は愛されるのだろうか。いなくなるとわかっていて、どうして自分は愛されるのだろうか。どうして俺の声は届かないのか、どうしてもう少しだけ待ってもらえなかったのか。
「花は散るからこそ美しい。散るからこそ、愛くるしい。散ったからと言って、その存在が消えるわけではないさ。この花壇の花はずっとそうやって命を繋いできたし、新しい色をつけてきた。早咲きの花は無かったことにはならない。誰かに春がきたことを真っ先に知らせて、誰かの心を温める。誰かの心に残る。この年の1番に咲いた花の色は、黄色だったね、今年1番に咲いた桜の木はあの木だったね、春がきたね。誰かが言うのを、私はいつも嬉しい気持ちで聞くんだよ」
葉桜なんて嫌だと泣いた。桜の花びらが散っていくのを見るのが嫌いだった。1番に咲く花を、惨めだと思った。
まるで、自分のようで。
1番に朽ちていくその姿が、花びらの端から水分を失って、周りの花が大きく開いた時にはもう下を向いている花が、自分のようでたまらなく嫌だった。
でも、なによりも愛おしく、尊く思った。
「桜が咲くのはまだ先ですか」
「…そうだね、もう少し先になるかな」
蕾はもう大きくなり始めていた。それでもまだ、花たちは開かない。
「桜が咲く頃、この花は枯れるんでしょうね」
目の前の花は、俺の涙くらいじゃ足りないとばかりに水を求めているように見えた。
そうか、お前も出来るだけゆっくり咲いて、ゆっくり死んでいきたいか。
俺と、同じだな。
じょうろを傾けると、思っていたよりも繊細で細い水が弧を描いてやわらかく花の上に降る。太陽がそこに虹を作って、花に花を添えた。
「花は美しいですね。散っていくと分かっていても」
「あぁ。私もそう思う」
叔父さんは優しい声で言った。
もし生まれ変わったら、俺はこの花壇の花になりたいと思った。叔父さんなら気がついてくれるような気がした。ホースではなくて、一輪一輪の表情を見ながら、じょうろで水をくれるような気がした。その時俺は言うだろう。もう少し長く生きたいんだと。もう少し長く咲いていたいと。
叔父さんはきっと、そうかい、と言いながらたくさん水を与えてくれる。優しい雨を降らせてくれるだろう。
「それに、私は葉桜や花びらの薄い桜の木が好きだよ」
「…俺も。俺も、好きです」
桜の季節がやってきたとき、そこに俺はいないだろう。
ただ、春を告げる、1番に開いた花の色を、きっとみんなは、叔父さんは、覚えていてくれるような気がする。