37.幼なじみは遠慮してほしくない
萩月に逃げられた後、僕はひとりで保健室を訪れた。
短く五回ドアをノックして中に入る。
萩月はまだ来ていない。
中にいたのは真名佳だけだ。
自習用の机に座り、その中をごそごそやっている。
机の上にはすでに弁当箱が置かれていた。
僕は少しのあいだ棒立ちで、幼なじみの姿を眺めていた。
制服を着た真名佳が机に座っているという、なんの変哲もないワンシーン。
高校生活の日常を切り取ったような光景。
その中に真名佳がいることに、ちょっとばかり感動してしまったのだ。
「つぐみんは?」
真名佳は真っ先に友達のことを聞いてくる。
「さあ、教室を出ていくのは見たけど」
僕はしらばっくれる。しつこく絡んだせいで怒って逃げられた、などとは口が裂けても言えない。
「そう。じゃあ二人きりね」
「具合はどう? 居心地が悪いとか、落ち着かないとか、そういうことはない?」
「平気よ。休み時間に生徒が来たときは外へ逃げたけど」
「そっか」
逃げる元気があるなら大丈夫そうだ。
「で、つぐみんはどうして来ないの?」
「知らないよ」
僕は再びしらばっくれる。
「じゃあ想像でいいから答えて」
「急な用事とか? クラス委員長だから何か頼まれたのかも」
僕は三度しらばっくれる。
「恭ちゃん」
しかし、真名佳は逃がしてくれなかった。
「あと一回だけチャンスをあげる」
ぴん、と人さし指を立てて、じっと目を合わせてくる。
『怒らないから、正直に言ってみて?』と無言で語りかけてくる、まっすぐな瞳。
これ以上ごまかすことはできそうになかった。
「萩月が来ないのは、僕たちに遠慮してるんだよ」
こんなことを口にしてしまったら、最後まで言わなきゃいけないじゃないか。
萩月め。余計なことをしてくれたものだ。
「僕たちを二人きりにして、あとはどうぞごゆっくり、ってつもりなんだろ」
「ごゆっくり……、どうするの?」
真名佳は顔をかたむける。
「さあ……、いちゃいちゃ、とか?」
「するの? いちゃいちゃ。っていうか」
真名佳は弁当箱の蓋を開けた。そして閉めた。
まったく意味のない行動。
「したいの? いちゃいちゃ。わたしと」
「僕は真名佳のことが好きだけど――」
こんなことを言っていいのだろうか、という一瞬の迷い。
「――萩月のことも好きなんだ。たぶん」
真名佳は何度かまばたきをしたが、反応らしい反応はそれだけだ。
「たぶん?」
尋ねる声のトーンもいつもと変わらない。
「自覚したのがつい最近で、まだ確信に至ってないというか……」
「ふーん……、わたしの方のは確信してるの?」
「まあ……」
あいまいに答えると、真名佳はニッと口元を上げた。
「わかってたわよ、さすがに。恭ちゃんが毎日毎日様子を見に来るのは、下心があるからだって」
「幼なじみの距離感は、保ち続けたつもりだったんだけど」
「弱ってる相手に付け込むのは卑怯だと思ったんでしょ。潔癖よね」
真名佳の評価を、僕は否定も肯定もできなかった。
ただ僕は、幼なじみの一線を超えられない自分を臆病と感じていたので、潔癖というほめ言葉からほど遠い評価でも、悪くはないなと思ってしまう。
「人工衛星みたいだなって思ってたのよ」
唐突に、真名佳が言った。
「人工衛星? 僕のことを? 地球を回ってる、あれみたいに?」
それは果たして褒められているのか貶されているのか。
よくわからないものに喩えられて、反応に困ってしまう。
「そうよ。決して離れていかないけど、これ以上近づいてもくれない。引力と遠心力のあいだでバランスを取って、それで満足しちゃってる」
「どっちかというと貶されてる方だったか……」
「満足してたのは、わたしも同じ」
真名佳は机の上に両腕を重ねて、そこにぺたんと頬を乗せた。
顔が横倒しになり、髪の毛がテーブルクロスみたいに広がる。
「……けど、そうも言ってられなくなっちゃったわね」
真名佳はグラウンドの方を向いてしまったので表情は見えない。
だけど雰囲気で、『これからどうするの?』と聞かれている気がした。
「クズ男っぽいこと言っていい?」
「どーぞ」
「現状維持で……、行こうかと思っております」
現状維持。
これが正解だと胸を張って言える結論じゃないのはわかっている。
だけど、どうしようもない。
今すぐどちらかを選べるほど気持ちが定まっていないのだから。
はっきりしない優柔不断の二股男と罵られることも覚悟していたが、
「まあ、そうなっちゃうわよね」
と真名佳はあっさり納得した。
「え、いいの?」
「何よ、ダメ出ししてほしかったの?」
「いやいや、そんなことは」
「じゃあ現状維持のために今すぐ動かないと」
「動くって?」
「だってつぐみんがこの場にいないのよ。三人そろって初めて現状維持できてるって、わたしは思うんだけど。恭ちゃんは違うの?」
「いや……、そうだね、探してくるよ」
僕はきびすを返して保健室を出ていく。
真名佳は窓の外を向いたまま、ひらひらと手のひらを振っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
恭治の足音が完全に聞こえなくなってから、真名佳は身体を起こした。
その手には、机の中から取り出したスマートフォン。
ずっと通話中にしてある電話口に向かって話しかける。
「聞こえてたでしょ、恭ちゃんの気持ち。そういうわけだから、遠慮する必要なんてないのよ」
一方的に言いたいことを言って通話を切ると、深い深いため息をつく。
「……何やってんだろ、わたし」




