24.幼なじみと制服
例の幼なじみのマンガを届けてから、少しのあいだ部屋でだらだら過ごし、そして帰ろうとしたとき――真名佳が妙なことを言った。
「今夜はあまり夜更かししないようにね」
その意味は翌朝に明らかになった。
カーテン越しに外が白み始めた6時前。
僕の部屋に真名佳がいたのだ。
肩をゆすられる感覚で眠りから覚めると、まだぼやけた頭のまま、枕元のスマホに手を伸ばして時間を確認する。
視界がはっきりしてくると、激しい違和感に襲われて、そこで気づいた。
ベッドの脇に人が立っていることに。
「――な」
「おはよう、恭ちゃん」
真名佳はたぶん笑顔で僕を見下ろしていた。
たぶんというのは、うつむいているせいで長い髪の毛が顔にかかり、半分ほどしか表情が見えないからだ。
「……なんでここに」
「幼なじみが朝起こしにくるっていうシチュエーションを再現してみたの」
真名佳は得意げな顔でとぼけたことを言う。
冗談はともかく、どうやって部屋に上がり込んだのか。
うちの両親もまだ寝ている時間なのに。
「玄関と僕の部屋の鍵は?」
「おばさんが開けてくれたわ」
「え? 両方? 僕の部屋の鍵も?」
「ええ」
なんてこった、僕の部屋にプライバシーなんてなかったのか。
ショックを受けつつも、いま最も気になっている疑問を口にする。
「あと……、なんで制服を着てるの。コスプレ?」
「失礼ね、わたしは高校生よ。学校へ行くからに決まってるじゃない」
真名佳はその場でくるりと回れ右してみせる。
正面を向くと得意げにニヤリ。
「どう?」
「似合ってる」
それは率直な感想だった。
高校の制服を着た真名佳は、ジャージ姿で引きこもっているときよりも活発で明るく見える。
真名佳の制服姿を見たことで、ようやく頭がはっきりしてきた。
困惑が具体的になる。
――真名佳が学校へ行く?
一年半も引きこもっていた真名佳が?
昨日まで特にリハビリも何もしてなかったのに?
今日になっていきなり?
無茶苦茶だ。
なんの慣らしもせずにゼロから1へ持っていこうなんて。
急な環境の変化に、真名佳の心身は耐えられるのか?
戸惑いつつも状況は進んでいった。
ただ乗っているだけで次から次へとストーリーが流れていく、遊園地のアトラクションみたいに。
制服を着て二階に降りると、台所ではすでに母さんが朝食の準備をしていた。
それから、真名佳の母親がいた。娘を送ってきたのだろう。
「……おばさん」
「恭治君、真名佳をよろしくね」
表情や声の響きからどうしようもない不安が伝わってくる。
娘を学校へ送り出す、たったそれだけのことが心配でたまらないのだ。
「この子、すぐにでも学校へ行きたいって聞かなくて……、私はもう少し様子を見た方がいいんじゃないかと思うんだけど」
「思い立ったが吉日っていうし、最初は保健室登校なんでしょ?」
軽い調子で母さんが言う。
「一応、うちの息子もつけておくから大丈夫よ。真名佳ちゃん、何かあったらこき使ってやってね」
「はい、頼りにしてます」
そんなやり取りを横目に、僕は味のしない朝食をもそもそとかき込んだ。
真名佳本人がが行くと決め、両親は不安ながらもそれを認めている。
だったら僕が口を挟めることは何もない。少なくともこの場では。
◆◇◆◇◆◇◆◇
母さんとおばさんに見送られて、いつもよりかなり早めに家を出た。
他人に会うのを極力避けるためだ。
引きこもりとひと口に言っても、その状態には個人差がある。
外へ出るのが嫌な人。
人と会うのが嫌な人。
人混み自体は平気でも、面と向かっての会話が嫌な人。
ネットでのコミュニケーションはできる人。
特定の場所へ行くことだけができない人。
本当に人それぞれだ。
真名佳の場合は、他人の視線を怖がる傾向がある。
誰もいない道を進んでいるだけなら大丈夫なのだが、曲がり角から人が出てくると、それだけで身を固くして、僕の背中に隠れてしまう。
「……ッ」
「心配ないって、犬の散歩中のおじいさんじゃないか」
「わ、わかってるわよ」
やがておじいさんが見えなくなると、ほぅ、とため息をついて僕の隣へ戻る。
これくらいの反応はまだ軽い方だ。
真名佳が最も警戒心をあらわにするのは――
「――ひっ」
前方から自転車に乗った男子学生が近づいてくると、真名佳はしゃっくりみたいな声を出して僕の背中に隠れた。盾にするというレベルではなく、ほとんど密着するように身体を寄せてくる。気になるものも当たっている。
自転車が通り過ぎて、車輪の音が聞こえなくなると、ようやく真名佳の緊張がゆるむ。
肩をつかんでいた手の力が弱まり、背中のぬくもりが遠ざかる。
振り返って表情を確かめる。顔色は良くない。
「車で送ってもらった方が良かったんじゃないの?」
「一緒に通学したかったから」
「でもまだ不慣れなんだし」
「わたしにとっては初登校だから大切にしたいの」
強い意志を感じる目でまっすぐに見据えてくる。
「明日からはわからないけど、最初だけは絶対そうしたかったの」
そこで、そうかわかった、と簡単に納得できないひねくれ者が僕だ。
「だからって、こんな思いつきみたいに、いきなり――」
「思いつきじゃない!」
ヒステリックな大声が早朝の街に響き渡る。
幸いにもあたりに人はおらず、注目を集めることはなかった。
「……真名佳?」
「ずっと考えてた。早く学校へ行けるようにならないとって。そうしないと、置いて行かれちゃう」
真名佳が心配しているのは授業の進み具合のことではない。
それくらいのことは僕にもわかる。
「僕が何か……、急かすようなことをした?」
「ううん、恭ちゃんはずっとやさしかった。わたしが気づいちゃっただけ」
真名佳はじっとこちらを見つめながら、話を続ける。
「この一年半、恭ちゃんはいつも放課後になるとうちに来てくれてたでしょ。友達がいないとか、独りのほうが気楽でいいとか、そんなこと言ってたけど、半分は言い訳よね」
くすりと笑い、目を伏せる。
「わたしのことが重荷になってるってわかってて、申し訳ないって思いつつ、でもそれがちょっとうれしいっていうか……」
「別に、気にしなくていいのに」
「でも最近、ちょっと変わった」
再び顔を上げる真名佳。
「はっきり気づいたのは、ラベンダーね。なんの祝日でも記念日でもないのにプレゼントをくれるなんて、今までなかったから」
それに浮気野郎みたいな不審な態度を取ってしまったからなぁ。
「どうして変わったんだろう、2年に上がって新しい友達ができたから? っていろいろ気になって、そしたらそればっかり考えちゃって」
「昨日の電話は、そういうことか」
あれも迂闊だった。もっと徹底して、周りの声が入らないところで電話を取るべきだったのだ。
「気にしないで……ううん、気に病まないで。恭ちゃんのおかげで、わたしは学校へ行こうと思えるようになったんだから」
そう言ってくれるのはうれしいが、慰められているみたいで複雑な気分だ。
「まあ……、前向きになれたのならよかったよ」
「前向き? わたしは別に学校へ行くのが前向きだなんて思ってないわよ? 学校なんていいところも悪いところもあるんだし、人によって向き不向きがある施設だもの」
と真名佳は彼女らしいツンケンした持論を展開する。
話をしているうちに、声にも勢いが戻ってきた。
いきなり登校すると言い出したときは心配で仕方なかったが、この調子なら大丈夫そうだ。
僕たちはしばらくの間、とりとめのない話を続けた。
学校の話。僕の友達の話や、昨日電話に声が入った女子たちの話。
真名佳の話。ひきこもっていた間の、二人だけの思い出の話。
手をつないで並んで歩きながら、学校へ行きたくないなと、ほんの少しだけ思ってしまった。
ひきこもりという大きなマイナスポイントがなくなれば、僕と真名佳のつり合いが取れなくなるのではないか。バランスが崩れてしまうのではないか。そんな心配をしている自分がいる。
真名佳は僕のおかげだと言ってくれたが、僕は何もしていない。
謙遜ではなく事実として。
真名佳が学校へ行けるようにと、何か積極的な行動を起こしたことはない。
真名佳が自分で決めたことだ。
唐突に決意して、本当に実行した。
ここしばらくは弱い部分ばかりを見てきたが、やはり本質的に真名佳は強い人間なのだ。
ただ、しなやかさが足りなくて、ぽっきり折れてしまうこともある。
だから、まあ、僕の存在意義を見出すとしたら、そこを補うことくらいだろうか。
そんな風に、後ろ向きながらもどうにか自分の心を納得させた。
こういうごまかしは得意なのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
やがて校舎が見えてくると、話が途切れる。
つないだ手に力が込められる。
握り返して目を合わせ、大丈夫だと軽くうなずく。
正門前。
立ち止まって顔を見合わせ、
「じゃあ、行こうか」
「ええ」
人目を避けるために朝早く登校した。
その判断は正しかったと思う。
実際、登校中はほとんど学校の生徒には会わなかったのだから。
だけど同時に僕は忘れていた。
同じように人目を避けて、善行のために早く登校しているクラス委員長がいることを。
「――式守君?」
横合いから声。
僕を挟んで反対側の真名佳がびくりと肩を震わせる。
「ああ、おはよう萩月」
「おはようございます。そちらは……」
真名佳は僕の背に隠れてしまう。
急に話しかけられたらこうなるのも仕方ない。
猛獣に遭ったみたいな反応をされて、萩月はショックを受けていないだろうか。
「あとで説明するから」
「そうですか、わかりました」
萩月は気づかうような表情で小さくうなずく。
真名佳の態度を見て、訳ありなのを察してくれたのだろう。
僕はあらためて、真名佳の手を軽く引いて正門をくぐろうとする。
そのとき。
「……つぐみん?」
隣から声がした。
真名佳がそう言ったのだ。
萩月のことを呼んだのだと、僕はすぐにわからなかった。
萩月は何度かまばたきをして――そして、大きく目を見開く。
「……まなてぃ」
萩月は真名佳をそう呼んだ。
つぐみんと、まなてぃ。
僕の間を行き交う、その親しげな呼び方が意味するものは。




