01.放課後の彼女
「委員長、はいこれ」
プリントを差し出して声をかけると、クラス委員長の萩月つぐみは顔を上げた。
黒縁メガネにおかっぱ頭という、こけしのごとく地味な外見の女子である。
「……これは?」
「進路希望調査のプリントだよ」
萩月はプリントを受け取ると、その内容をちらりと確認してから、A4サイズのケースに仕舞った。
「はい、確かに。ありがとうございます」
萩月は表情をほとんど変えずに礼を言う。
機嫌が悪いわけではないし、僕が嫌われているわけでもない、と思う、たぶん。
元々がドライな性質なのだろう。
「ん」
と僕も短く返事をして席に戻る。
それから次の授業まで特にやることもないので、なんとはなしに萩月を眺めていた。
萩月はプリントケースを机の上に置いたまま、教室を振り返っている。
その視線の先には数名の女子グループがたむろしていた。
スマホの画面を見せ合いながら、周りに聞こえるくらいの大きな声でしゃべっている。
萩月は彼女たちと手元を交互に見て、何か言いたそうに目を細めた。
……が、けっきょく何も言わない。
その仕草で事情を察した。
おそらく、あの連中のうちの誰かが、まだプリントを出していないのだろう。
早く提出してと言いたいところだが、しかし女子グループは明らかに陽キャ。
陰キャ側である萩月が、声をかけるのに気後れしてしまうのも仕方がない。
委員長ってのも面倒な役回りだな。
実に他人ごとな感想を浮かべつつ、次の授業の準備を始めようとしたそのとき。
「なあ、ヒナは進路どうするつもりなんだ?」
女子グループの雑談に負けない大きな声で呼びかける男子がいた。
「えー? なになに遼、うちの将来が気になるの?」
ヒナと呼ばれた女子――榎本ひなたがニマニマと笑いながら聞き返す。
「違えよ、進路希望のプリント、まだ出してなかっただろ」
りょーと呼ばれた男子――天原遼は、照れもせずにそう答える。
「あれ、そーだっけ。……あ、あった。まだ白紙。予定は未定って感じ」
榎本は未記入のプリントを見せながら笑う。
「提出、今日までだぞ。早くしないと委員長が困るだろ」
「あちゃー、そうなんだ。ゴメンね? いいんちょ」
片手を軽く上げて謝ると、榎本はプリントへの記入を始めた。
二人のやり取りを受けて、教室内がわずかにざわつきだす。
「忘れてた」「どこやったっけ」などというつぶやきが、あちこちから聞こえてきた。
榎本のほかにも未提出の生徒が何人かいるらしい。
さっきの大声(※僕基準)でのやり取りには、彼らに提出を促すという目的もあったのだろう。
「さりげない気配り……、出来る男は違うね」
隣の席の遼に冗談めかして話しかける。
「ん? ああ。萩月がなんか言いたそうにしてたからフォローしただけだ」
「それに気づいても遼みたいにできるやつばかりじゃないんだよ」
「まあ人それぞれだろ」
あっさり答える遼に、特別なことをしたつもりはないらしい。
こちらに向けて小さく頭を下げる萩月に、軽く手を振って応じている。
遼は視野が広くて顔も広くて、クラス全体に気を配れるやつだ。
そんな彼にとってさっきの行動は、人助けというほどのものじゃない。
道端に落ちている空き缶を拾うような、軽い気持ちだったのだろう。
このときはそう思っていたが、実際は違っていた。
遼には下心があった。
とても個人的な感情に基づく行動だったのだ。
この日の放課後、僕はそれに気づき、そして巻き込まれることになる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
僕は放課後すぐに家に帰るタイプだ。
部活には入っていないし、一緒に寄り道をするような友達もいない。
学校側としては問題を起こさない、いわゆる手のかからない生徒のはずだ。
ところが、担任にそんなライフスタイルを注意されたことがある。
『君は放課後になるとすぐに下校しているみたいだけど』
『あ、はい』
『それはとてももったいないことだわ』
『もったいない?』
『そうよ。放課後の校舎は青春の空気で満たされているのに、さっさと帰ってしまってはそれを感じることもできない。青春の機会損失よ』
『はあ』
『わかってる、一緒に過ごす人がいないんでしょ? でも大丈夫。西日の差し込む廊下を、ひとりぼっちでぶらついているだけでも、まるで自分だけが置き去りにされたみたいな、青春の苦味を味わうことができるから』
よく意味が分からないし割と失礼なことを言われた気がするが、ともかく、放課後の校舎は青春の空気で満たされている、というフレーズだけは妙に心に残った。
そして今、改めてその言葉を思い出している。
僕は青春としか言いようのない状況に直面していた。
もっとも、当事者ではなく傍観者としてなのだが。
放課後、忘れ物を取りに戻った教室には先客がいた。
男子と女子の二人である。
放課後の教室に男女が二人――こんなシチュエーションは告白に決まっている。
二人の邪魔をしては悪いと思い、僕は教室に入るのをやめた。
わずかに開いた戸のすき間から、そっと中の様子をうかがう。
恋路の邪魔をする気はないが、その結果には興味があった。
まずは状況確認だ。
誰が誰に告白しようとしているのか?
男子は天原遼。
女子は萩月つぐみ。
この組み合わせで早くも察してしまった。
そうか、地味で真面目な萩月も普通の女の子だったか。
人気の男子に優しくされたら好きになり、勢い余って告白してしまう――そんな恋に恋する女の子だったか。
休み時間の一件もあって、僕はすぐにそう考えてしまった。
しかし、事前の情報がなくても同じだっただろう。
地味な女子が勇気を振り絞って、競争率の高い男子に好意を伝えようとしている。
これはそういう場面なのだと、誰もが思うはず。
そして興味を抱くのだ。
遼はどうやって萩月を振るのだろうか? と。
遼の謝罪の言葉を。
それを聞いた萩月の表情の変化を。
僕は固唾を飲んで見守った。
――のだが、予想はあっさり裏切られてしまう。
「それで天原君、用事ってなんですか?」
問いかけたのは萩月だった。
表情は硬いが、それが緊張によるものなのかはわからない。
萩月はいつもだいたいあんな感じの、感情が読み取れない顔をしている。
「ああ、悪いな、急に呼び出したりして……」
対する遼の方は落ち着きがなかった。
頭の後ろを掻いたり、きょろきょろと左右を向いたりしている。
しかし、やがて気持ちを決めたのか、背筋を伸ばして萩月を見つめた。
「――実は俺、萩月のことが好きなんだ。付き合ってくれないか」
まさかの遼からの告白に、萩月は少しだけ口元を開いた。
「え……?」
ポカンと開いた口元を隠そうともしない。
隠れて見ていた僕もびっくりして、危うく声を出してしまうところだった。
「えぇ……?」
萩月は首をかしげたり何度もまばたきをしたり、
「んー……」
と小さなうなり声を上げたりしていたが、やがて頭を下げた。
「ごめんなさい」
しん、と沈黙が下りる。
遠くの運動部の掛け声の、その内容まで聞き取れるくらいの静けさが数秒ほど続いた。
「……なんで?」
遼はようやく短い質問を絞り出す。断られるとは思っていなかったのだろう。この位置から表情は見えないが、声だけでショックを受けているのがわかった。
「じ、実はあたし、式守君と付き合ってまして……」
萩月は申し訳なさそうにうつむき、いつもよりさらに小さな声で言う。
「えっ」
「だから、ごめんなさい」
萩月はもういちど頭を下げると、棒立ちのままの遼を置いて教室から出てきた。
それはつまり、教室の外でのぞき見をしていた僕と鉢合わせるということで。
廊下へ出てきた萩月は、意外なことに無反応だった。
コソコソとしゃがんでいるのぞき見野郎の姿にも、眉ひとつ動かさない。
「……えーと、これは」
言い訳を探してまごつく僕に向けて、
「ついてきてください、ゆっくり静かに、天原君に見つからないように」
萩月はすれ違いざまに小声でそう言い残して、階段を下りていった。
「どういう展開だよ……」
僕は仕方なく萩月を追った。
あまり関わりたくはなかったが、いつの間にか関係者にされていたので無視もできない。
萩月が遼の告白を断った理由。
『実はあたし、式守君と付き合ってまして……』
その式守君というのは僕のことだからだ。