愛でも恋でも嫉妬でもない
胸を締め付けるなんて言葉では生易しいほどの、優しく、それでいて乱暴に心の核を抱きしめられているような感覚に陥ったことがあるだろうか。客観的な言葉で言うならば、嫉妬というものが一番近い感覚なのだろう。しかし、嫉妬で片付けられるほど自分勝手ではなかった。
彼女との関係性を一言でいうなら、友人でしかない。また、僕も彼女へは友人としての好意しかもっていない。しかし、彼女が他者と楽しそうに会話をする度に、自分のいない場所で会話をしているところを見る度に、僕は心の核を抱きしめられているような感覚に襲われるのだ。
これを他者に言えば、「恋」という言葉に片付けられてしまうのだろう。しかし、いや、違うのだ。これは恋とは違うのだ。それだけは僕にも分かっていた。ならば愛だろうか? いいや、違うのだろう。愛というにはあまりにも自分勝手な感覚だ。
嫉妬というには自分勝手ではなく、愛というには自分勝手なこの感情を、一つどうにか形容するとすれば、それは子供の癇癪だ。これは自分のおもちゃを他の子どもに取られた子供の感謝のような感情に過ぎない。
乱暴に抱きしめられた心の核は、その隙間からどろどろと、どす黒い液体を流していく。光が入る隙などないその液体は、僕を卑下し、否定し、嘲笑ってくる。見て見ぬふりをしてもその液体は好きなから絶え間なく流れていき、そうしてついに核さえも溺れたとき、パキリ、と何かが割れる感覚がする。
それが最後なのだ。彼女にとっての己など邪魔でしかなく、友人という枠でいることにおこがましさを感じる。彼女から見えないところへ、彼女に触れないところへ、彼女の存在しない場所へ、彼女という存在を心から消し、ないものとし、全てを更地に戻すのだ。
さよなら、大好きな君。愛してもいない、恋すらしていない、ただただ己の物にしたかった「モノ」である君。もう二度と会うことはないだろうけれど、どうか何も知らない顔で幸せに生きている事を願っている。
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