天使のヒトミ
■ハッピーエンドかバッドエンドなのかは読者様によりけりです
■近親相姦を仄めかす描写があります。
■薬物乱用を仄めかす描写があります。
■R15描写があります
目を開けたら、天使が座っていた。
何度か幻覚を見たことはあったけれど、唄っている時に見たのは初めてだった。
ギターを弾く手を休め、今日は何を飲んだだろうかと、うまく回らない頭で思い返す。
咳止めシロップを一瓶、口直しに発泡酒のロング缶を一本一気飲み。そんな程度だった筈だ。
(珍しいナァ)
幻覚が現れる時はもう少し自棄な飲み方をしたときなのに。
天使は金髪そして青い瞳と、海外のの美術館に飾ってある絵画に出てきそうな程にベタな姿だ。
ただおかしいのは、白いブラウスを着て、緑と茶色のチェック柄の長いスカートが地面につかないように、下着が見えないように、綺麗に器用に畳んで座って――正確にはしゃがんでいる。女子高生――それも私立のイイトコ学校のような姿だ。
まだ四月も頭だというのにコートも着ていない。変な天使だ。天使には季節は関係ないのだろうか。
幻覚はいつもおかしい。この間は部屋の中にエッフェル塔が見えた。自分が今パリに居るんだと思って小林に自慢の電話をかけたら『寝ろ』と一蹴された。言われた通り寝て起きたら部屋の中にエッフェル塔はなかったし、そもそも優一はエッフェル塔がどんなものかよく知らない。小林が言うことはいつもだいたい正しい。
天使が動いた。鎖骨あたりまであるストレートの髪を揺らし、小首を傾げた。青い瞳と目があう。
「もう、歌うのやめちゃうんですか?」
天使は柔らかな声の持ち主のように見えたけれど、酒か煙草にでもやられたような、ハスキーで少し低い声だった。
キンキンした女の声は好きではなく聴きたくなかったので、優一の好みをよく知ったとても良い幻聴だ。
「……いや」
「じゃあ、聞いていていいですか? あ、でも私、お金……」
「別に、金取るために唄ってるワケじゃないから」
「そうなんですか?」
「レンシュ―」
「こんなところで、ですか?」
こんなところ。それは繁華街のトンネルの中だ。音が反響するから気に入っているのだ。
「いつもここでやってるだろー。なんでいまさら聞くのさ」
「そうなんですか? 初めて来たので知りませんでした」
「…………」
幻覚、幻聴とまともに会話をしたのは初めてだ。しかもそれが天使ときた。
もしかしたら自分は死期が近いのかもしれない。小林に『お前は薬で楽しい思いをしている分、寿命が短いだろうな』と言われたことがあるが、いささか短すぎるではないだろうか。
「もう、歌わないんですか?」
「あ?」
「あなたの歌、なんていうか、心臓にびりびりする感じがして……もっと聞いていたいんです」
優一の中で疑問がわき起こる。
「……ねぇ」
「ハイ?」
「アンタ、人間?」
天使が目を見開き、そしてくすりと笑った。天使に相応しい上品な笑い方だ。
「外人かって聞かれることはよくありますけど、人間かって聞かれたのは初めてです」
私は人間です。ジンギのジンにウツクシイと書いてヒトミと言います。と天使は告げた。
家出してきたんです。天使はそう言った。
「イエデ?」
「そうなんです。迎えの車に一旦乗って、忘れ物をしましたって言って裏門から出て……たくさん走りました。いつの間にか夜も遅くなって……そしたらここから歌声が聞こえてきたんです。なんだか元気をもらった気がして、来てしまいました」
優一は薬と酒で頭がぼんやりとしているが、天使が興奮しているのがわかる。
優一もロックに出会った時とそっくりだった。こういう唄があっていいのだと、衝撃に大興奮だった。
「ロックっていうんですか? そういう音楽聞くの初めてなのでよくわからないんですけど、なんだかとっても痛くて、とっても……やさしい感じがしました」
微笑む天使は恍惚に似た表情を浮かべていて、優一の頭がぐわんと鳴る。おまけに心臓も痛い。薬の副作用で動悸が激しくなっているようだ。
「……やさしい? あの唄が?」
ロックをやさしい唄だという天使は、やはり天使らしくおめでたい頭をしているのだろうか。
「ええ、きずとか、いたみとか、そういうのに沁みるやさしい歌だと思いました」
また何かで頭を叩かれたような気がした。
おまけに天使が光って見えた。
これはきっと幻覚なんだろう。
小林に電話を掛けてみたらわかる。多分あいつは『寝ろ』と言うだろう。
***
他人の家に上がる事は初めてだった。しかもその相手が初対面の異性だなんて、自分はどこまで大胆なことをしているのだろうと緊張でどきどきする。
頭の中の仁美が今からでも帰るんだと叫んでいる。叫んでいる仁美を、また別の仁美が興奮で押さえつけて叫ぶとことんまでやってしまえ、と。
ユウイチ、と名乗った男は、仁美が話しかけたせいか、歌うのをやめてしまった。
のんびりとギターをケースにしまい、ユウイチは仁美に言った。
『イエデショージョ。いいな。いいね。いい響きだ。――行くとこないならウチ来る?』
仁美の返答を待たずに、ユウイチはギターを背負うと若干左右にふらふらともつれながら歩き始めてしまった。
無一文の仁美は、所詮今日中にあの家に戻ることになると思っていたので、思いもよらぬ誘いだった。
「蜜がいなくなったから掃除ができてないけどー」
「蜜、ですか?」
「そう、アンリ、カンゴシしてた」
扉を開けたら短い廊下があり、右に扉が一つ――ユニットバスだろうか――左には一口コンロの小さな台所が廊下に面して設置してある。昔、母と二人暮らししていた部屋もこんな感じだったが、それよりほんのすこし狭い。
部屋の壁沿いにぺしゃんこの布団が一組敷かれていて、残ったスペースの真ん中に小さなテーブルがひとつ。
テーブルの上には空き缶と風邪薬の錠剤やシロップの瓶が所狭しと乱立していたり、転がっている。
「風邪……なんですか?」
「あたまのなー」
「え?」
床にも空き瓶や酒の空き缶がころころと転がっており、そして服と思しき布も、脱皮した何かのように置かれ――落ちている。
部屋には、布団、テーブル、布団の反対端にコンポ、そして壁には埋め込み型のクローゼットがあった。窓際の床の上に黒電話がある。
コンポの横には背の高いCDラックがあり、沢山詰め込まれている。
それでもラックの積載量が足りないらしく、周りにはCDが幾重にも重なり、いびつなタワーを作っている。タワーの横にはヘッドフォンがおざなりに置かれている。
ユウイチは器用に――というより、床に置かれているものの存在がないような歩き方で、黒電話の前にどっかと座り、受話器を取って窓に貼り付けてある紙に書かれている番号をじこじこと回している。
もしかして警察に電話するのではないかと、部屋の入り口に棒立ちになったままの仁美はおろおろとしたが、やがてユウイチが『あ、コバヤシ?』と喋ったのでほっと一息ついた。
「あのさ、オレ、いつもンとこで練習してたらさ、天使見つけて拾って帰ってきちゃった」
天使、とは仁美のことだろう。彼は先ほどから仁美のことを天使としか呼ばない。
「あ、切れた」
「……あの」
「寝ろってさ」
ユウイチがわしわしと頭を掻く。サラリーマンで、かっちりとした格好をしている兄と比べて十センチ以上は長いであろう黒髪だ。悪い言い方をするとぼさぼさ頭だ。
「あーでも、天使、ニンゲンなんだよな。一応寝床を作らないといけないわけだ……」
ユウイチはのっそりと立ち上がり、脱皮の後……ではなく服をいくつか拾い歩きながら布団と反対の壁際。コンポが置かれているあたりに転がっている空き缶と空き瓶を足で蹴りのけ、小さなスペースを作る。
そこに脱皮の、ではなく服を置いてゆく。更にはクローゼットからシャツを何枚か、それから使っていたであろうコートを取り出した。中には女性もののコートもあった。
「ほいほいっと……こんだけありゃ寝れるだろ」
「あの」
「いやぁ、オレの布団でもいいんだけどさ、たぶんオレのシッケくさいと思うんだよなァ」
ぺしぺしと服の山を叩いて、天使の寝心地のいいように改良してくれ、とユウイチは言った。
「あ、あの」
どきどきと逸る胸元を押さえて、仁美は声を出す。
「あの、CD……聞いてもいいですか? うちはクラシックしかなくて……ちゃんとヘッドフォンで聞きますから。あ! ヘッドフォンもお借りしていいですか?」
ユウイチはとろんとした目で仁美をしばらく見つめ『音楽の好きな天使。いいな』と呟いた。
「好きに聴いてイイヨ。オレは寝る」
そう言うとユウイチは立ち上がり、小さな部屋を少し歩き、布団にごろりと横になるとすぐに寝息を立て始めた。
仁美はようやく部屋に一歩踏み入り、おずおずとユウイチの服の上に座る。
どきどきしていた。
今頃家はどうなっているだろうか。捜索願いが出されてしまっているだろうか。それとも世間体を気にする兄が嫌がって独自で探しているだろうか。兄の発言力は強いから、きっと警察は動いていないだろう。
心優しい祖父の存在だけが気がかりだ。あの人は仁美の事をいつも気に掛けてくれている。心配のしすぎで負担になっていないといいけれど。
(ごめんなさい)
あまりにも突然わいた感情だった。
今まで考えたことも無かった。逃げるだなんて。
(これが反抗期っていうものなのかしら)
高校二年生。少し遅い反抗期なのだろうか。
じわじわと足元から涌き出る恐怖心に蓋をして、仁美はコンポに向かう。コンポの操作に苦戦し、仁美は十分後、CDラックの一番上のCDから音楽を聴き始めることができた。
初めて、いや、二度目に聞く暴力ともいえるような音楽に頭をくらくらさせながらも夢中になった。
陶酔しながら、現実から逃げるように。
兄は血眼になって仁美を捜しているかもしれない。けれど、兄からの解放感と沢山のCDの誘惑に勝てなかった。
ロックというジャンルは、確実に仁美のどこかを甘やかして、現実から引き剥がす作用があるに違いないと思った。
***
目が覚めても天使は居なくなっていなかった。
優一は目覚ましをかけない。あのけたたましい音で起こされるのが不快極まりないのだ。
本能のまま眠いときに寝て、起きたいときに起きるのが好きだ。
生きている、という気持ちがするのだ。生かされているではなく。
天使はヘッドフォンを耳に被せたまま目を閉じて座っている。
カーテンから差し込む日差しが、伏せた睫毛に反射してきらきらしている。
寝起きの頭でぼんやり思う。
(ああ、天使だ)
優一は天使を間違いなく拾ってきたのだ。
エッフェル塔のように消えていない。小林の言うことで正しくないこともあるもんなんだなぁと思いにふける。
天使は優一が起きたのに気づいたのか、ヘッドフォンをはずして優一を見た。
「おはようございます」
そう言う天使の目の下は少し隈が見えた。
「ずっと起きてたの?」
「……聞き始めたら止まらなくなってしまって」
はにかむように笑む天使の姿に頭が揺れる。寝起きだからだろうか。
「ロックって、初めて聞いたんですけど、こう……頭にガツンとくるかんじがたまらないですね」
ふふ、と天使が笑う。
優一が所持しているものの半分ほど聞いたのか、ラックの半分が空になり、その代わりコンポの横にCDタワーが出来ている。
「たましいのさけび、みたいな。――私みたいな人間からしてみたら、なんだかとっても羨ましい……」
そうか、天使はロッカーが羨ましいのか。
クソの掃き溜めみたいなところで、世の中への誹謗中傷を叫び、ときには愛のようなものを探す歌たちを。
「天使はどうして、イエデしたの?」
おそらく制服のようなものを着ていたので、おそらくは学生だろう。身体の成長具合からしてみたら中学生ではないと思うが、外人の成熟は早いともいう。天使が外人だったら中学生でもおかしくない。
「天使なのにガイジン、いいね、面白い。ジンガイみたいで。ああ、天使だったっけ」
「人間です。……あの、それが、自分でもよくわからないんです」
「わからない?」
目の下に隈をつくった天使はゆらゆら視線を彷徨わせている。
戸惑う天使、それもまたいい。幸せな顔をしてラッパを吹いている姿よりずっといい。
「反抗期……なのかもしれません」
反抗。それは優一の好きな言葉だ。
「いいね」
「いいんですか?」
「オレもずっと反抗期だし」
「でもユウイチさんは大人ですよね?」
「大人でも反抗期が続く人間もいるよ」
「どんな反抗しているんですか?」
「唄ったり、飲んだり、だらしない生活したり。社会から切り離されてみたり」
「……それが、反抗なんですか」
「そう、シャカイへの反抗。生きることへのハンコーかもしれない」
天使が押し黙る。ロッカーの宗教じみた説法でもしてしまっただろうか。あれは酒の場で聞くと相手を張っ倒したくなるのに、もしかして優一は今天使にそれをやってしまっただろうか。
「社会への反抗、生きる事への反抗……だからロックなんですね」
優一の不安は杞憂だったようで、よくわからないうちに天使は納得してしまったようだ。
「ああそうだ。小林に電話をかけないと」
天使は本当に居たんだと連絡しなければ。
受話器を取って、窓に貼り付けられた紙を見て、手元の受話器をチンと戻す。
小林が天使を気に入って取り上げてしまったら困る。
幻覚だったことにして、黙っておこうと決めた。
***
生きる事への反抗。
さらりとユウイチの口から出てきた言葉に仁美は驚いていた。
生きることは当たり前のことであり、何気ないことだと思っていて。
きっと仁美だって今ユウイチに言われなければ『生きること』について考えもしなかった。
仁美は今、生かされていた人間なのだ。そして今回の家出は生かされていることに対しての反抗なのかもしれないとおぼろげに考えた。
心臓がわくわくと躍る。ユウイチは不思議な人だ。季節外れの風鈴みたいだ。ゆらゆらと揺れて、時折チリンと音を聞かせてくれる。
ユウイチは電話の前でしばらく座り込み、最終的に受話器を置いた。コバヤシという人に電話をするのをあきらめたらしい。
「あ――……天使は何に反抗してのイエデ?」
寝起きで、顔も洗わず、そもそも壁に時計がかかっていないので何時なのかわからないこの状態で普通に会話をしはじめるユウイチに仁美はやや驚く。
仁美のスケジュールはいつも細かく決まっていた。兄の取り決め通りに、起きる時間から寝る時間まで。
電話がある場所からずいっとにじり寄ってくると、体臭なのだろうか、嫌いではないが、ふわりと不思議な匂いがする。
目やにはついていないだろうか。隈はひどくないだろうか。朝日がさんさんとカーテンの隙間から差し込むのをやや恨めしげに思いながら、そうですねぇと天井に目をやる。
ユウイチは煙草を吸う人なのだろうか。壁紙が煙草のヤニであちこち黄色く彩られている。
「兄にいつも言われていた、悪いこと……してみたくて」
無意識に口走っていた。はっとしたときには、ユウイチはにんまりと笑っていて、すごく楽しそうだ。
「いいね。で、そのわるいことって?」
「わ、わかりません!」
「ニーチャンは何をダメっつってたの?」
ぺしゃんこの布団に胡坐をかいて、ユウイチはふわあと口を隠さずに欠伸をする。
兄が絶対にやらないような仕草だ。
兄は熊のように大きい人だ。目がややつり気味で、じっと見られるだけで怒られているような気分になる。
けれどユウイチは身長は高いもののひょろりとしていて、ふわふわとした印象があり、つい何でも話して良いような気がしてしまう。
「禁止って言われていることはたくさんありますよ。夜遅く帰ってくることとか、男の人と二人きりになってはいけないとか……」
「おお、それはやっちゃったね! しかも男の家に泊まってるし、ダメのダメダメだね」
にんまりと楽しそうにユウイチが言う。
ダメのダメダメ。兄とはかけ離れた語彙だ。
「たくさんあるって、他には何があんの?」
「えぇと……カラオケ、ゲームセンターには行ってはいけない。不純異性交遊もいけない。あと、コンビニの食べ物は食べていけないとか」
「なんでコンビニだめなの?ベンリなのに」
きょとんとした顔でユウイチが仁美を見る。横を向いて眠っていたのであろう、長い前髪もえりあしも、巻いたように左側に弧を描いている。
「添加物を食べているようなものだから、だそうです」
「テンカブツ?」
「食品添加物です。保存料とか、甘味料とか……着色料とかですかね」
「あー、着色料! あの弁当の真っ赤な梅のやつな! あれ周りの米も赤くなんだよな! しかもまじーの」
ひゃっひゃと笑って布団にころりと倒れる。服の上に乗りあげ、瓶と缶を無理やり押しのけて大きな男の人が転がる。瓶と瓶がぶつかり、キンと音が響いた。
そんな光景がありうるのか、と驚く。
驚いたのはそれだけではなかった。
逞しいと決して言えない細い体躯。ふわふわとした中に纏う気怠い雰囲気。
体躯が細くて、髪が長いからか『男の人』となかなか思えない。声が低いことと、無精ひげが生えている事がかろうじてアピールしているように見える。
そんな人が、あんな歌を歌うのだ。
習っているピアノと違う音。教わっているコーラスとも違う、叫びのようなもの。
『うた』というものが壊された。いや、新しい箱の蓋を開けられた。
仁美の知っている調和とは違う、孤独に主張する激しいもの。
足が棒になって、もう歩けないと思った仁美に、さらに歩かせる勇気をくれた歌。
家に帰らないことを許してくれるような歌だった。
「じゃー天使はコンビニ弁当食べたことない? もしかしてコンビニ入ったことないとかある?」
「コンビニくらい入ったことあります! お弁当も見たことあります! ……食べたことはないですけど」
ユウイチがまたひゃっひゃと笑った。
「あーそだそだ服。アンリのがクローゼットにあるからテキトウに着替えてー。制服少女連れて歩いたらオレエンコーしてるみたいだから」
エンコーなのにコンビニ弁当か、ビンボーなのか金持ちなのかわかんねぇな。とひゃっひゃとまた笑い転げる。ユウイチの長い髪が仁美のスカートに広がる。
立ち上がろうとして気づいた。──足が痺れて動けない。
ユウイチはしばらく転がると、急にむくりと起き上がった。
「そだそだ。悪いことをもうひとつ」
膝立ちになり、一歩一歩と膝を摺って仁美へまっすぐ膝で歩いてくる。
足が痺れて正座の仁美。膝立ちのユウイチ。
自然と仁美がユウイチを見上げる格好になる。
ユウイチの両手が伸びてくる。ギターを弾く人は指の先の皮が硬いとピアノの先生が言っていた通り、頬をかすめる指先は、指先そのものがタコになってしまっているのだろうかと思うほど硬い。
「ロックを知っても天使は天使のままなんだなぁ。目の下のクマができたくらいで」
その時になって初めて気づいた。ユウイチのまつ毛はビューラーいらずの上向きまつ毛だ。
重力に逆らわないように生えている自分のまつ毛との違いに羨ましいなぁとぼんやりしている間に、ユウイチの顔がものすごく近くに来て、唇に何か触れた。
――キスには音があるものだと思っていた。
音もないそれは一瞬で、ユウイチはその後、仁美の向かいに仁美と同じように正座した。
「ふじゅんいせーこーゆー! やっちゃったね!」
ひゃっひゃと笑ってユウイチは大きく伸びをした。
「さー行こ行こ。オレ顔洗ってしっこしてくるから、その間に着替えててねー」
よっこいしょ、と立ち上がって廊下に向かっていくユウイチを仁美は呆然と眺めるしかなかった。
「あれ、でもフジュンな交遊じゃないなァ」
そんなことを言いながら歩いているユウイチを見送り、仁美の頭は驚愕でいっぱいだった。
――人の唇は、びっくりするほど、柔らかい。
***
天使とキスをしてみた。何も起きなかった。
そういえばキスをして目覚めるのは眠り姫だ。間違えた。天使は姫じゃないし、徹夜した天使だ。
「フジュン、フジュン、ムジュン」
フジュンとムジュンは似ているなぁ、と思考が別のところに飛んでいく。優一の癖だ。
不純異性交遊、と天使は言った。
その言葉は知っている。意味はよくわからない。
あれは不純異性交遊になったのだろうか。
用を足し、洗面台で顔を洗う。
異性との交遊は知っている。けれどそれに『不純』とつくと知らない言葉になる。
日本語は難しい。二十数年生きていても、まだ知らない言葉がたくさんある。
短い廊下を歩き部屋に入ると、天使は優一が出た時と同じ格好で座っていた。
「アレ? 着替えないの?」
「えっ!? あっはい!」
天使の顔が真っ赤になっている。あわてて立ち上がろうとして、前のめりにぺしゃりと倒れた。どうやら足が痺れているらしい。
足を痺れさせてもんどりうつ天使。シュールだ。しかもそれが優一の狭い部屋の中でというのがまたたまらない。酒と薬の中で転がる天使――イイ。
真っ赤な顔で天使が羞恥の表情を浮かべている。
優一の頭がまた鈍器で殴られる。目がちかちかして、天使の事がよく見られない。見られないのに、見たくて仕方ない。この表情を。その時の優一の感情を、頭の中に焼きつけたい。一生忘れたくない光景だ。
スカートが乱れ、清潔そうな白い靴下と、その白さに負けないほど白いふくらはぎ。
赤い顔。白いふくらはぎ。羞恥に悶える天使。汚い部屋。
頭の中で警鐘が響く。黒いモヤが頭の中にじわじわと出てくる。
「……おっと」
天使に背を向け、クローゼットを開ける。ワンピースをハンガーから外し、天使を見ないようにして放り投げる。
「もっかいトイレ行ってくるから、それまでには着替えてるよーに」
「…………はい」
羞恥の滲み出た消え入りそうな返答に、腰、というか足の付け根のそれがびくんと反応する。
(たまらん声だ)
天使がハスキーな声なのがいけない。
これはしばらくじっとしたら収まるようなものではないかもしれない。
「あー、ついでにシャワーもあびてくるから」
天使の返事を聞く前によたよたと歩く。
「あ、あの……私も、ユウイチさんの後に、シャワー借りていいですか?」
尻を思い切りたたかれたような衝撃を受ける。返事をしたけれど上手に言葉にならなくて、うめき声のようになってしまった。
長いシャワーになりそうだった。
そして優一は気づいた。
これは、不純だ、と。
***
ユウイチのシャワーを浴びる水音が部屋まで響いている。
足のしびれは収まったが、渡された服に着替えることが出来なかった。
――下着の替えが、ないのだ。
稀に入るコンビニエンスストアの売り場で下着が売っているのを見たことがある。
何故なのだろうと頭の片隅にかかったことがあるが、どういう場面で需要があるのかを痛感している。
下着がないとシャワーが浴びられない。
綺麗なこのワンピースを、思いきり走って汗臭い仁美が着用しても良いのだろうか。
「……無理だわ」
制服のスカートを膝にかぶせ、そこに顔をうずめる。
そしてはっと気づく。
(私、汗臭くなかったかしら)
すごく近づいた。それこそ唇と唇がくっつくくらいに。
ぼわっと顔が上気するのがわかる。
あっという間のファーストキスだった。
唇が柔らかかったことしか覚えてない。強いて言えばそのあと触れた顎の髭がざらりとした感触であった程度だ。
シャワーの水音がやけに響く。それは仁美がユウイチを意識しているからだ。
心臓がどきどきしている。
してしまった。してしまった。
――キス。
仁美の通う女子高の校則にもある項目。不純異性交遊。
だからこそ、その高校へ進学することを勧めた兄。
仁美は後妻の連れ子で、母と継父の年齢が十ばかり離れている。なので実際の血縁は無い。
兄はもう既に家を出て妻子を持っているが、母と継父が再婚後しばらくして事故で亡くなり、祖父と二人きりになってしまった仁美を特に――友人の言葉を借りるなら異常に――気にかけている。
祖父は昔会社を興し、その会社を継父に、そして兄へと代表取締役を譲っている。俗にいう『社長』だ。役職にそぐわった忙しさらしい。らしいというのは同じ家に住んでいないからだ。
仁美は義祖父の家に住んでいる。
けれど兄は頻繁に家に顔を出すし、仁美に関してはとても過保護だ。支配者と言っても過言ではない。
通学には送迎を付け、休日の外出にもSPを付ける。
そんな生活を窮屈だと思ったことはない。今まで放置されすぎていたから、大切に思われているのだと思っていた。
――反抗。
その言葉が頭をよぎる。
(本当は窮屈だと思っていたのかしら)
どうして忘れ物をしただなんて言ったのだろう。裏門から逃げ出したんだろう。
何から走って逃げ出した。
何から。
(何から?)
膝に顔を伏せる。
昨日からわからないことだらけだ。
わかったことといえば、仁美はロックが好きだという事。それから、男の人の唇はやわらかいこと。
シャワーの水音はまだ続いている。
仁美は床に置かれているCDに手を伸ばす。ラックにあるCDのラベルにはタイトルやアーティストが書かれているのに、これにはない。
何もすることがない歯がゆさと好奇心が渦巻き、仁美はラベルに何も書かれていないCDをプレイヤーにセットして、ヘッドフォンを装着し、再生ボタンを押した。
聞こえてきたのは、鈍く響く場所から聞こえるギターと、ユウイチの声だった。
他の人が歌うロックのCDはたくさん聞いたけれど、ユウイチの歌は初めてだった。
***
昨夜の薬と煩悩をシャワーで洗い流してさっぱりした。
一本で事足りると杏里が勧めたリンスインシャンプーは優一に合わないらしく髪の手触りがキシキシしている。
頭の中も少しさっぱりした。シャワーは嫌いだが偉大だ。水音が粘液の音を消し去ってくれるから。
シャワーのお陰できっともう優一は天使に催したりしない。
バスタオルでキシキシ髪をおざなりに拭き、部屋へ戻る。
どんな服を天使に放り投げただろうか。よく覚えていない。――けれどきっと彼女は何を着ても天使だろう。天使なのだから。
(天使?)
思い出したように理性が動き出す。久しぶりに覚えた欲望を吐き出したからだ。
「あれは……イエデショージョだ」
次いで口をついて出る。
「イエデショージョはショジョでショージョ。ショージョはショジョでないと」
小さく韻を踏んで悦に入る。
「あれ」
天使は着替えていなかった。制服服のままヘッドフォンを着けている。
優一用のヘッドフォンは少し値段の高いやつを買った。音をひとかけらでも拾いたかったからだ。そうしたら大きくてごつごつしたデザインのものになった。
小顔の天使は頭も小さくて、ヘッドフォンの着け方も少し下手だ。あれでは良い音は拾えない。
それでも天使は泣いている。
優一のラックにはロックしか入っていない。
彼女はロックを聞いて泣いている。
ああ。
優一の心で嘆きとも歓喜ともつかない感情が湧き出す。
ロックに魅入られていく天使に。
救われない人たちの叫びに、魅入られている。囚われようとしている。
ロックは全て受け入れてくれる。そして全てを拒絶している。
そんな沼のようなぬかるみに天使が白い足を踏み入れようとしている。
ああ。
ああ。
この感情をなんと呼べばいいのだろうか。
天使が優一に気づいた。はっとした表情を浮かべ、慌てて涙をぬぐう。
蒼い瞳の視線が、矢のように優一に突き刺さる。
「あ、の、ごめんなさい……――が、なくて、着替えられませんでした」
天使のピンク色の唇からつむがれる下着、という単語に、刺さった矢が更に木槌で釘を打つような暴力加減で打ち込まれる。
「あー……ごめん、気づかなくて」
いえ、と消え入りそうな声が聞こえる。優一の好きな、ハスキーな声。
「じゃ、オレがテキトーに買ってくるから、ロック聴きながら待ってな」
いそいそと財布を尻ポケットに入れて、バスタオルを洗濯機の上に放り投げる。
扉を開けるとつめたい風が吹き、せいけつな空気が部屋に入り込む。
優一は淀んでいてもかまわないけれど、天使はせいけつでなければいけない気がした。
四月になったばかりで、風が少し強くて髪が冷たい。
それでようやく煮える優一の頭が冷静さを取り戻す。
そういえば、天使は何を聞いて涙を流していたのだろう。
音楽は時として人の琴線に触れる。天使の琴線は何だったのだろうか。
「あ、パンツのサイズ聞くの忘れた」
しばらく考えて、無難にMでいこうと決めた。
マルチのMだ。きっと柔軟に対応してくれる。
それよりも気になるのは、天使の琴線に触れた唄だ。
この心の奥でむずむずする気持ちを、優一は知らない。
(ああ、飲みたい)
家にまだ残っていただろうか。
昨日最後のシロップを一瓶空けてしまった。今日はライブも控えている。
優一はコンビニのすぐ近くにある薬局にも行くことにした。
「あーあ、金ねぇなぁ」
杏里は何週間か前にキレて出て行った。
飲みすぎでできなかったからだ。両手で数えきれないくらいの回数、その理由で断った。
最近ずっとそんなことばかりだったかので、荷物は捨てていいから。と言って出て行った。
片付けるのも捨てるのも面倒くさいので、杏里の荷物はそのままだ。
蜜の杏里が切れてしまった。
優一の生活費の一部を補ってくれた少し不細工で、性欲過多な看護師だった。
ツアーのギャラはいつ入るのだったろうか。カラオケの印税もいつ、どれだけ入ってくるだろうか。
天使が家に来たから、食費も単純に倍になる。
「あーあ……」
何で拾ったかなぁと思うと同時に、また心の奥がむずむずと疼く。拾ってよかったとも思うのだ。
天使にあの安アパートの部屋は似合わない。
けれど、優一はあの部屋に天使を閉じ込めてしまいたかった。
そうしたら、心のむずむずがおさまるような気がする。
「しかし一体だれのCDだ? アレ」
天使が聞きながら涙を流した唄。
あのラックには音楽で知り合った人たちから貰ったものばかりが入っている。
優一が尊敬してやまないロッカーたちのCDやレコードは、陽に当たらない場所に、宝物のように隠してある。
考えながらもだらだらと歩いていたら、ひんやりとした風が優一に吹く。
いつの間にかコンビニに到着していたようだ。
***
パンツだけは替えられた。それだけでよしとしよう。
自分にそう言い聞かせて、渡されたワンピースに袖を通す。
すこしサイズが緩めだが、わがままなんて言ってられない。
ちょっと考えればわかることなのに、仁美は気づいてなかった。
もしあの時ユウイチに出会わなければ、もしかしたら仁美を金で買おうとする輩や、暴漢に遭遇していたかもしれないのだ。
なのに仁美は何もされずにユウイチに与えられるばかりだ。
食事も、服も、居場所も、そして知らなかったジャンルの音楽も。
あの日聞いた歌はやさしい歌だった。バラード調の激しく、そして優しい歌。
ユウイチはよくわからないという顔をしていたけれど、仁美にとってはやさしい歌だった。それで十分で、それで全てだ。
けれどあのCDの歌は、痛々しい歌だった。
仁美が普段耳にするクラシックCDのように、デザインされたラベルがあつらえられているわけでもない、真っ白で粗野な姿。中身の音質も、まるで風呂場の扉を開け放って歌っている人のようなものだった。
ギターのきのきゅ、きゅ、という音が異様に目立つ中に荒立つ声。
ドラムと、ベースと、ギターに押され叩かれる中で存在を訴える大きな声。
音量を上げて、耳をそばだてて歌詞を聞き取る。
痛い、痛い。という歌詞はどこにもないのに痛くてたまらない。
心臓が疼く。
呼吸を忘れそうになるほどの息苦しさを味わった。
――彼の人生の一片を垣間見た気がした。
コンビニのお弁当というのは、お世辞にも美味しいとはいえないものだった。
それなのに仁美の学校食堂の料金の倍近い価格のラベルが貼られていた。
台所で湯を沸かして何やらしていたユウイチが戻ってきて、テーブルの上に不ぞろいなマグカップを置く。
味噌の匂いがふわりとし、マグカップを見ると、中には味噌汁が入っていて、仁美は軽くカルチャーショックを受ける。
味噌汁とは本来、黒だったり朱だったりのお椀に入れられているものではないのだろうか。
いやしかし、ユウイチはこうして仁美の面倒を見てくれているのだ。なにもいうべきではない。むしろ申し訳ないくらいだ。
「ごめんなさい」
「アリガトウ」
「えっ」
「こーゆー時は、ごめんなさいじゃなくて、ありがとうって言ったほうがいいんだって」
「そうなんですか?」
「さぁ。オレは別にどっちでもいい。っていうか、言われたことないかなぁ」
「――ありがとうございます」
「おお、初体験。オレも奪われちゃった。けっこーきもちーもんだね」
なんかアンリの気持ちがちょっとわかった気がする。ユウイチが呟く。
「……あの、アンリさんってユウイチさんの、彼女さんですか?」
失念していた。大人には恋人がいる可能性があるということを。そして先ほどまで全然気づかなかったが、ユウイチはとても綺麗な顔をしている。色白の肌に通った鼻筋。くっきりとした黒い目とつややかな髪。ユウイチが仁美と同じ年頃には、きっと凛とした美少年だったろうことが容易に想像できた。
――こんな綺麗な人に、恋人が居ないわけがない。
「アンリは蜜。カノジョじゃない」
そういえば昨日も言っていた。
「蜜って何ですか?」
「なんか天使に言ったらダメな気がするー」
「え?」
「いいから早く食べよう。冷めるともっとマズいんだ」
「あっハイ、ごめんなさい」
弁当の上に乗った割り箸の袋を破り、頼りない木片の端をつまみ、左右に引っ張る。
みしみし、と湿気た木は彫られている溝とはだいぶ異なる道を通り、しまいには道も半ばでで右手側が折れた。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。
「まさか割り箸を割ったことがないとか、」
「あります!」
仁美はとても、不器用なのだ。
それにしても下手すぎる。ひゃっひゃと笑ったユウイチは、綺麗に割れた箸を仁美のそれと交換してくれた。
交換する際に触れたユウイチの左手の指は、繊細そうな顔には似つかわしくない、ゴツゴツと皮の厚いものだった。
この指が、ギターの弦を押さえ、あの音を奏でていたのか。
ギターでもないのに、仁美の胸がきゅ、と音を立てた気がした。
***
瓶から錠剤を手のひらにざらっと出して、数も数えずに口に放り込む。
次いでラベルをはがされた水をごくごくと飲み、錠剤を嚥下する。
リハもいつも通りに終わらせた。
いつもと違ったのは、上手端の客席で、天使が居心地悪そうに、けれど隠し切れない好奇心を丸出しで、あちらこちらとキョロキョロしていたことだ。
開場は先ほど始まった。天使の席は小林に任せた。ライブで荒ぶるメス達が優一を見る目は、まるでバーゲンセール品に群がるそれに良く似ているからだ。幼い時、母に連れられて行ったバーゲンセール。あのときの母と同じ目をしたメス達。あれらの中に天使は似合わない。
「オイ優一、ヒトミちゃん客席に置いてて大丈夫なのかよ。裏に居てもらった方がいいんじゃねーの?」
錠剤を手のひらにざらりともう一度出した時、小林が言った。
「天使が自分で客席から観たいって言ったんだからいんだよ。席余ってるだろ?」
「余ってねーよ! 関係者席に案内しといた」
「うん、さんきゅー」
「ったく、ざけんなよなぁ」
更に錠剤をあおり、糖衣された甘い薬を水で流す。小林は席は大丈夫だったけどさぁ、と何か言いたげだ。
「飲みすぎるなよ!」
言いたげな事を飲み込んだようだ。小林は友人だが事務所スタッフでもある。
しなくていいと優一は常に言うのだが、彼はきっちりと区別をつける。
「水飲みすぎるとしっこが近くなるかんな」
「そういう意味じゃねぇよ」
本当は嘘だ。副作用で排尿困難になる。
「わかってるって、小林」
小林のスタッフの証であるネックホルダーには木村と書いてある。小林が小学生の時に、母親が再婚して木村になったのだ。小林は実父を好きだった。それ知っていたから、冗談交じりで呼んでいたらいつしか定着した。
「っつーか、今日終わったらヒトミちゃんの事、色々聞くからな!」
(ああ、そういえば)
天使の存在を小林にばれたくなかったのに、小林の居るところに連れてきてしまった。うっかりしていた。けれど天使が優一の唄を聴きたいと言ったから、小林の居るライブ会場に連れてくるしかなかった。
「小林」
「あ?」
「天使、あげないからな」
なんだそりゃ、と小林が言ったところで別のスタッフが小林に話しかけてきて会話は終わった。
本番まであと十数分。何度かに分けて飲んだ錠剤は瓶が空になっている。
――きっとこれなら終わるまで保つだろう。
心臓がドクドクと音を立ててきているのがわかる。
指の先まで感覚が鋭敏になっている。それは聴覚もおなじで、本番前のざわついた声が波のように流れ込んでくる。
瞳孔がゆらゆら揺れて、世界が今日も平和だと思うようになる。
ほわほわとした頭でアンプに貼り付けられた物と同じセットリストが書かれた紙を確認する。
どれも優一が作詞作曲したものだ。歌詞は頭の中に刻まれている。あとは順番を間違えないようにするだけだ。
MCは性根の明るいベースがやってくれるから、唄うペースは彼とお喋りなドラムを倣っていれば大丈夫だ。
「本番十分前でーす!」
椅子に座ってぼんやりと出番を待っていると、金髪の小柄な女性スタッフが連呼しながら駆けていった。
いやに人工的な金髪さに、天使のさらりとした髪の毛を思い出す。
細い金糸のような髪。
優一のような人間が触ってしまったら、真っ黒に染まってしまうのではないかと錯覚してしまうほどに、細くてきれいだ。
ライブが終わったら触ってみよう。
(ああ、そういえば)
またひとつ思い出す。
昨日天使がもっと唄えと言った時、唄ってあげなかったなぁと。
今日たくさん唄うから、それでチャラにしてくれるだろうか。
これも、終わったら聞いてみよう。
「五分前でーす!」
金髪がまた走ってきた。
はじまる。
頭がぐらぐらに煮えて、煮えて、おかしくなる時間が。
***
ユウイチと出会ってからはじめての出来事がもうひとつ増えた。――徹夜だ。
ロックを聴き夜を過ごし、ユウイチと半日を過ごし、夕方と夜の狭間の時間。
すわり心地が良いとは言い難いが背もたれ付きの椅子に座り、ぼんやりと時間をすごしている。
会場には黄色い声でざわついている女の人たちと、何かを語る男の人でにぎわっている。
ユウイチの言う『小林』の首からは『木村』とスタッフ証が下がっていた。どうやら本名は木村らしい。
小林はユウイチの住むアパートへやってきて『リハがあるのに何女連れ込んでるんだよ!』と怒り、最終的に仁美ごとライブ会場へ連れてこられることになった。ユウイチが『天使に唄をうたわなきゃ』と言ったからだ。仁美の為に歌を歌ってくれるのかと思うと心臓がどきんと跳ねた。
小林の運転する車に揺られ、会場についてからは小林に首から下げるスタッフ証を渡されて、ライブが終わるまで待っていてもらうように言われた。
コンサートを鑑賞したことはあるけれど、ライブと、そのリハーサルを観るのは初めてで、あちこちで声が聞こえ、わちゃわちゃと人が動き、ユウイチが発声練習をしている間にマイク調整もされたのであろう、音声がうわんうわんと波打つ。照明が突然カラフルに舞台を照らす様を見ている間、眠気はすっ飛んでいた。
リハーサルの時に賑わっていた舞台上は今、しんとしている。先ほどの光景が無かったようだ。
打って変わってしんとしていた客席がにぎわっている。
仁美が宛がわれた席は二階の右手側――スタッフはカミテと呼んでいた――に座っている。
小林が関係者用の席だから気にしないでと言っていた。仁美は恐れ多くて辞退しようとしたが『ユウイチに頼まれてるんだ。全席埋まってるから、見えにくいかもしれないけどさ、ここにいてよ』となだめられたので、仁美は関係者席の中でも一番端に座ることしかできなかった。
関係者席は紙が貼られていたが、スタッフにより一枚二枚と剥がされ、少しずつ人で埋まってきている。
頭の奥がぽわんと温かい。自分自身で体温が高くなっていることがわかる。――眠いのだ。
先ほどの興奮から一転して、人が会場に入ってくるのをずっと眺めているだけだったので、睡魔がここぞとばかりに頭角を現した。
まぶたが重い。意識して目を開いていないと、まぶたがくっついて永遠に離れなくなってしまいそうだ。
開演はまだかまだかと、時計を持たない仁美は時間を確認することができない。
いつまでも終わらない、ゆらゆらと微睡むモラトリアムのようだ。
ふぅと息を吐き出した。開演するまで睡魔と闘うのを諦めてうたたねすることに決めた。
その瞬間、隣にどすんと遠慮のない勢いで人が座った。反動で仁美の尻が少し浮くかと思うほどだった。
「キミ、かわいいね。どっかの事務所のコ?」
重量が加わった席から野太い声が聞こえた。どうやら仁美に向かって言っているらしく、こちらを見ている。
仁美の通う学校の現代社会の教師は、自身の体重が百キロを超えていることを自慢に思っているらしい。それだけ美味しいものをたべてきたのだ、と。
この男の体系は、その教師と激しく似ている。
「え、あ、いえ。ユウイチさんの知人です」
かろうじてしどろもどろに答えると、男は更にまじまじと仁美を見てくる。こういう奇異な目は慣れているが、どこか品定めをするような視線が不快だ。
「へぇ、U―1の。新しいカノジョ?」
「ち、ちがいます!」
観察をするような視線。ずけずけとプライベートなことを聞いてくる男に嫌悪感を露骨に示していると、男は慣れた手つきで懐から名刺を取り出し、こういう者なんだけど。と、仁美に名刺を渡してきた。
芸能プロダクションのプロデューサーという肩書きの、木村という男だった。
「じゃあ、あれかな。キミをオレに紹介するためにU―1が連れてきたのかなぁ」
どこまでもふてぶてしい態度の木村に、仁美はこんな人もいるのかという驚きを隠せず、びっくりしすぎて眠気はいつの間にか吹っ飛んでいた。
「私、今日ユウイチさんの歌を聞きにきただけですから」
「芸能界とか、興味ない?」
「あの、あんまり、そういうのは、わからないです」
「U―1の才能を見込んでうちの事務所――ああ、音楽関係もやってるんだけど、そこに所属させたのもオレなんだけどさぁ」
何が言いたいのかわからない。真意は何なんだろうと考えているうちに、会場が暗くなった。それと同時に黄色い歓声が沸き上がる。きた、きた。と女の子たちが騒いでいる。
「このバンドはいいよね。特にボーカルの――った感じが」
黙っててください。そう言いたかったけれど、仁美は黙って前を見据えた。
「ようやくゼンツできるようになったんだよねぇ」
自慢げに話す声に苦笑いのような愛想振舞いをする。照明が落ちてきているから見えるかわからないが。
そもそも仁美は男性と会話する技術に長けていないのだ。
ぼんやりと照らされたステージに人が四人入ってきた。
のんびりと少し猫背気味なのがユウイチだ。すぐにわかった。
ユウイチはステージの真ん中に立った。
ドラムの音が聞こえる。
更にベースがリズムを刻む。
ギターの音がそれに加わる。
ぱっとライトがステージを照らした。
ユウイチが歌い始めたので、仁美は食い入るように前のめりになって見つめた。
どうん、と地震のような音がスピーカーから飛び出た。
徹夜で聞いたロックのCDと同じように、頭の奥が爆音で叩かれる時間が始まった。
***
頭の奥がふわふわとしている。まるで地べたから五センチくらい浮き上がっている気分だ。
アンプに張り付けてあるセットリストを確認する。上から順にうたった、うたった、と最後まで指をさす。
「うん、唄い忘れはないみたい。アンコールも終わった」
どっと笑い声が聞こえた。しっかり確認したつもりなのに、幻聴だろうか。優しくない。
そう思って内心ぷんすかと怒っていたが、優一はステージ上にいて、観客も捌けていない。
今さっきアンコール曲を唄ったばかりだからそりゃそうか、と観客と一緒にあははと笑う。
「笑って天然ゴマカシてんじゃねーよU―1!!」
ベースを抱えた男がぼぼぼんとベースを弾きながら何ならもう一曲いくか、とダブルアンコールを誘ってくる。
「え、演出さんに確認しなきゃ」
「真面目に返すなよ!」
またどっと笑い声が響く。やはり優一はライブ中は何も言わないほうがいいらしい。
そもそも、マイクがインのままだとは思っていなかったのだ。
「U―1」
ドラムがこっそりと優一を呼ぶ。
「ん?」
「木村さんが一曲新曲ワンコーラスならギリオッケーって。何にする? つぎのアルバムのやつの」
「えー」
ギリ、ということは仕方なくという意味で、熱くなったファンの対処だろう。優一の失言のせいかもしれないなぁと少し自分を責める。
「あー、じゃあ、椅子とアコギだけちょうだい。ドンチョウ下げてバラシ入っていいよ」
今日の会場は一日だけで、ツアーは数日後に最終日があるのだ。
薬が一番効いている時間で呂律があやしかったが、ドラムにはきちんと伝わったようだ。
「おっけ。じゃあ一回おしまいってことにするべ」
ドラムにベースが目配せする。それだけでベースは理解できたようで、ごめんねぇ。と言い出した。
「ハコの都合上もう一曲はギリ難しいみたいだわ。全国ツアーはまだ明後日のラスト大箱あるから、その時にぜひ会おうね! 初の大箱だから! みんな埋めに来てね! お願い!」
ベースからはじまり、ギター、ドラム、そして優一が挨拶して、緞帳が下がってゆく。
優一は袖に待機させてある椅子とアコースティックギターを確認する。エンディングソングの音に負ける程度の音量でぽろろんと鳴らす。
「うん、昨日通り調子イイネ」
緞帳が下がりきる。ニセモノの金髪娘が近づいてきた。
「U―1さん、照明のピンスポ準備おっけっす。中央に蓄光でバミってあるんで。そこセンターにマイクと椅子もっていきます。いきましょ」
急いでいるから手短にいうのだろうが、どうせ優一の脳に届くのは遅い。
「ん、じゃあおれはギター持っていけばいいんだね」
「ってか、そのまんま急いで付いてきて下さい。椅子とマイク置くんで」
はあい、と間延びした声をあげて、まだ鳴りやまない拍手と耳の奥の耳鳴りに似た音のなか、幕前に歩き出す。
客席の照明は点いていなかったので、どうやらダブルアンコールは予想していたようだ。キャーという声があがる。
金髪娘はささっと椅子を置いて、それから早業のようにマイクをセッティングすると風のように走り去っていった。
優一は椅子に座り、ええと、とマイクに向かって話す。
「ごめんねぇ、ダブルアンコはオレしか出ないんだぁ。なんかねぇ、イロイロ押してるみたい。ホカメン推しにはザンネンなお知らせー」
実際、緞帳の裏ではスタッフが小声で会話したり、歩いているのが聞こえる。使用時間内にバラして撤収しなければならないのだ。
「今日はね、激しい歌が多かったからね。こんやよく眠れるように最後はバラード唄うね。寝てもいいからね。この会場イスあるからね。――あ、イスあるの二階だけ? なら立ったまま寝られるように唄うね」
笑い声と拍手が聞こえる。
「ええと、次に出るアルバムの唄かな。さっき告知あったやつね、あれに入ってる」
宣伝? という声が聞こえる。多分観客からの声で、幻聴ではないはずだ。
「そうそう。宣伝。あはは」
演出と目が合う。早くしろと言ってるようだったので、ギターをぽろろんと鳴らす。
前奏を弾き始めて、タイトルを言い忘れたことを思い出したが、まぁいいかと唄いだした。
***
ユウイチが手を振って去ったと同時に、客席に明かりが点いた。
仁美は、終わった、さあ立ち上がろう。ということはできず、ぼうっと座っていることしかできなかった。
雷が何度も仁美に落ちたからだ。心臓がどきどきと騒いでいる。
(誰? あれがユウイチさん?)
ステージの真ん中で、エレキギターを持って唄うユウイチは昨日、いや、今朝のユウイチの欠片もなかった。
あのほわんとした雰囲気や、ひゃっひゃという笑顔もなかった。
含みをはらんだような笑顔でギターを弾き鳴らし、激しい唄を歌っていた。あのラベルのないCDが飛び出してきたようだ。
「あれが……ユウイチ、さん」
――まるで、仁美の心にいくつものキズがついたようだった。
衝撃の連続で、息をつく間もなかった。
黄色い声が会場内に響き渡っている。それは今回のライブがとても素晴らしいものだったのだろう。時折、最高、めっちゃ好き、やばい大好き。などの言葉が聞こえてくる。
「あれが……ユウイチ、さん」
確認するようにもう一度つぶやく。
「ユウイチさんの、うた」
会場にスタッフが数名入っていき、退場を促す声が聞こえ、更にアナウンスも流れる。観客は蛇の大群のようにうねりながら出口へ向かってゆく。
「どうだった?」
隣から声をかけられてハッとする。そういうえば巨漢の馴れ馴れしい男が座っていたことを思い出す。
「と、とっても……よかったです」
男は満足そうにウンウンと頷いた。
「やっぱこのグループは流行るよ。今回の全国は東京以外小さいハコ多かったけど、次回はもっとデカいとこ押さえてるからね。伸びしろあるよ。今年もフェスに何回か出るしね。それも結構良いステージで」
「そう……なんですか」
「なんてったって曲がいいからね」
曲がいい。その言葉に仁美は大きく頷いた。
「そうですね! 本当に素敵な曲がたくさんあって! 有名にならない訳ないですもんね!」
(ユウイチさんすごいなぁ)
こんな風に人を集めて、その人たちの前で歌うだなんて。
興奮に浸っているうちに、観客はじりじりと退場していっている。
「僕が思うに、君にも彼らと同じくらいの魅力があると思うんだけどなァ」
「あ、ええと」
また振り出しに戻った。ああ、どう返答しようと心の中で頭を抱えていたら、後方から小林の声が聞こえた。
「とうさん! いくら美人さんでもヒトミちゃんを勧誘しないでください!」
「えっ!? 小林さんのお父様だったんですか?」
「っそ。継父兼上司なの。ヒトミちゃん何かされなかった?」
「何か? ……ですか? 特にはなにも」
それはよかった、と小林が一息つく。
「首からちゃんとスタッフ証かけてあるね、楽屋行ってごらん。優一が待ってるから」
仁美について根掘り葉掘り聞きたいという空気を出している木村に、小林がどうどうとなだめている。
「僕が説明しますから、ね、行かせてあげましょうよ」
電撃を受けて足腰が立たないかと思ったけれど、しゃんと立てた。
「じゃあちょっと、ユウイチさんのところに行ってきますね。どこから行けばいいでしょう……?」
「ああ、じゃあ僕案内してきますねとうさん。話の続きは帰ってきた後で!!」
小林がこっちこっち、と前を歩き始めるので、仁美はしずしずとついてゆく。
時折退場していく人がちらりと振り返るのが気になるが、仁美の頭の中は先ほどのライブの音がぐらんぐらんと揺れて流れているのだ。
「その服、――ちゃんがよく着てたのに似てるけど……まさかなぁ」
小林のボヤキも仁美の耳には入ってこなかった。
***
耳の奥がきぃんと鳴っている。
まるで頭の中に音叉があって、それが止まることなく震えている。
「お疲れーっス」
リーダーのドラムが朗らかな表情を浮かべて優一を労う。優一はそれに対してオウム返しに同じ言葉を返す。
優一が楽屋に入る頃にはほかのメンバーは着替えを終えていた。
「めんどうくさいからオレこのまま帰ろうかなぁ」
背中や脇の下がじっとりとしている。脱ごうとすると服は重いし優一から離れるのを拒むかのようにへばりつく。
「いんじゃね?」
「いや、まださみーからダメだろ。ボーカルが風邪ひいたらヤベっしょ」
そんな話をしていると、扉がノックされて小林が入ってきた。
「普通に駄目だから。それ衣装だし。優一、ちゃんと着替えろ」
「大丈夫、もう風邪はひいてる。あたまのなー」
言って、ひゃっひゃと笑う。小林が眉をひそめてため息を吐いた。
「それ以上どっかの風邪が増えたらマジで音楽活動に支障出るから。――着替えろ」
睨み付けられ、優一はしぶしぶ返事をした。
「オレの着替えドコー」
「ハンガーラックに掛かってるだろ。ヒトミちゃん扉の外で待ってんだからちんたら着替えるなよ」
怒っている小林に生返事をする。メンバーはサングラスとマスクをすると、それぞれ立ち上がる。
「んじゃ、また明日」
「お疲れー」
優一は上半身半裸の状態でおつかれぇ、と返す。扉が開くと天使が所在無げに立っていた。優一と目が合うと、一拍置いて顔が真っ赤になった。そしてそのまま扉は閉じた。
『おっU―1のカノジョ?』
『今回はかわいーのな』
『っていうか若くね? アイツ犯罪じゃね?』
『パクられたらツアー中止じゃん。やっべーな』
笑い声が聞こえ、優一は面白くない気持ちになる。
上半身裸のまま、楽屋の扉を開け、困った顔でメンバーに囲まれている天使の手首を引っ張り楽屋に引き込む。
「おっ独占欲?」
茶化す声が聞こえたが無視して扉を閉める。
『楽屋でヤんなよー』
あはは、と笑い声は遠のいていく。
天使はどこを見ていいのかわからないのか、うつむいて黙っている。そしてなぜか耳が真っ赤になっている。問いかけようとしたところで再び小林に着替えろと咎められた。
「ヒトミちゃんの前でそんな恰好してんじゃねーよ。ちゃんと着替えてから中に入れればいいだろ」
「でもあいつらと話してると天使がよごれるから」
「ひっでー言いざまだな」
「天使はジュンスイムクじゃないと」
「んじゃお前と居ても汚れるじゃんか」
「オレはいいの。天使を拾ったのはオレだから」
わけわかんねぇな、と小林が呆れて言った。と、同時に思い出したかのように寒気がして、急いで服を着た。
***
不可思議な生活が始まった。
ユウイチと出会って四日が経った。ユウイチは次のライブのリハーサルに出かけた以外はずっと部屋に居て、ギターを手にぽろぽろと音を鳴らしているか、紙に何かを書いているか――作曲かと思ったが五線譜ではない白紙にだ――。CDを聞いているかのどれかをしていた。つまり、家事は一切しないのだ。
今までどうしていたのかと聞くと「蜜がやってくれてた」と言った。誰の事かはわからないが、とにかく今は居ないらしい。ということで、仁美の仕事は家事全般になった。
昨日は小林がやってきて、布団一式を持ってきてくれた。ユウイチに代金の請求をしていたが。
『オレ金ないよ』
『馬鹿。歌唱印税振り込んだって連絡入れたろ』
『カショーインゼイ?』
『カラオケだ馬鹿。ああ、ヒトミちゃん、こいつ小金入ったから気にしなくていいよ。気のすむまで、とは言わないけどしばらくは居れるよ』
ライブの後、小林に送られる車の中で優一との関係を説明させられたのだ。家出ということについては、渋い顔をしていたが、まぁ誰にでもそういう時期はある。ということで大目に見てもらえた。
『ただし、優一が捕まるのだけは困るから、親御さんに電話を一本入れること。それだけは約束して』
――この約束は、未だ果たせてない。
それよりも仁美は新生活が新鮮でたまらないのだ。幼少期に父と死別してから、継父と再婚するまで、ユウイチの部屋よりほんの少し広い部屋に母と住んでいたのをしっかりと覚えている。今なら世間でいう虐待――ネグレクトを受けていたということも理解できる。あの頃の仁美は存在しないものだった。
今はあの家に仁美は存在していて、何もかも使用人がやってくれるけれども、自分の事は何もかも自分でやる。そういうことを学んだのはこういう小さな部屋でだ。
晴れた日に布団を干して、洗濯機をまわして、これも干す。
転がったビンや缶を選別してはそこらじゅうに落ちていたコンビニの袋にいっぱい入れて、口を結んで玄関脇に置く。
その後は部屋の埃をとる。掃除の基本は上から順に、だ。
さすがにカーテンレールまではできないので、部屋の中で唯一背の高いCDラックの天井から拭いてゆく。
小物類のCDケースには埃が付きやすいので、一枚一枚丁寧に拭いていく。
最後に床を掃除機で思いっきり埃やらちいさなゴミやらを吸い込み、仁美は大満足だった。
ちなみに掃除の間ユウイチはベランダでギター片手にぽろぽろと爪弾いていた。
布団が届いたことにより、今までお世話になっていた服たちは洗濯され、晴れ渡る空の風にたなびいている。
ああ、なんて気持ちがいいんだろう。
こんな気持ちの良い充実感はどこからくるのだろうか。
「ユウイチさん、お待たせしました。あらかたお掃除終わったので入って大丈夫です。――ごめんなさい、寒かったですよね」
「んー、冬と春を感じてたからだいじょうぶ」
「冬と春、ですか?」
うん、と子供のようにユウイチが頷く。
「天使はリッシュンって知ってる?」
「立春、ですか。暦上はこの日から春です、っていうものですよね。確か二月あたりの」
「そう。もうリッシュンしたのに、まだ寒いじゃん。だから、どこが冬で、どこが春かを考えてた」
そしたらあっという間、というユウイチの声が止まる。部屋の中を凝視している。
「なんだ、シンチクか」
「いえ、掃除しただけです」
「この部屋に引っ越してきたときよりキレイ。シンチクだ」
なんだか力が抜けて、拭き掃除したての床の上にへたり込む。
「はは、なんだかユウイチさんて、めちゃくちゃですね」
優一はううんと考えて、誰かの物まねをしているように話す。
「ヒトミちゃん、アイツがイカレてんのに今頃気付くなんて遅いよ!?」
「あはっ! それ、小林さんですか?」
「あたーりー」
あっひゃっひゃ、とユウイチが笑う。つられて仁美も笑う。
「あーっ!」
笑う仁美の姿を見て、ユウイチが指をさしてきた。
「え?」
「ジユーのエミだ!」
「へっ」
ユウイチはもういいだろうとベランダから自分の布団を引っ張ると、いつもの位置に置いて胡坐をかいて座る。
「天使さぁ、たぶんね、ちゃんとね、わらったのね、はじめてだよ」
「え、私そんなに笑ってませんでしたか?」
「ちがうちがう。コドモの笑顔。だいたいの大人がなくしていくもの。とってもステキでムテキなものだよ」
ユウイチの話す言葉はよくわからない。けれどもどこか芯があるように見えて、無碍にすることもできない。
――自由の笑み
(一体何の事かしら。ユウイチさんは本当に不思議な言葉を使うなぁ)
日は西に傾いている。西日を受けながら洗濯物を畳むのは、母が働いている間の仁美の仕事だった。
それが終わったら夕飯の献立を考えることだ。学校の給食とかぶらないように、渡された金でやりくりできるように限りなく安く、そして美味しく作れるか考えるのも、仁美は楽しんでいた。
「――あ、そうか」
あの頃仁美にあったもの。そして今失っていたもの。
「んー?」
「自由なんですね、私」
朝使用人に起こされることもなく、決められた食事を食べ、車で学校へ送迎され、授業態度や成績もなぜか筒抜けで。
帰宅したら着替えて、宿題を片付けて――なければ決められた本を読書して、夕食を食べて入浴を済ませて寝る。
今ならわかる。あれは自由ではなかったと。
ではあれは、何だったのだろう。
***
ぽろん、とギターを弾くとピックにぴきりと音が鳴った。見ると、ピックにヒビが入っていた。が、気にせず優一はギターを鳴らす。丁度何かが降りてきたのだ。西日に照らされながら洗濯物を畳む天使を見ていたら。
そのまま唄いだしいくらいだった。もしミュージックビデオを作れるのならばそうしたいほどに美しい光景だった。
天使がハッとした顔をして、そうしてまた自由の笑顔を浮かべた。
この天使はいつまでいるのだろう。もし誰にでも幻覚が見えるのなら、天使は幻でしかない。
こんなにも長く幻と一緒に過ごしたことがない――居なくなってしまったらどうなるのだろう。一緒に話したことも、食べた食事も、聞いた音楽も、すべて優一の独りよがりで終わってしまうのだろうか。
こういう時に、たまらなく薬が欲しくなるのだ。
「ねぇ天使、まだ中身が入ってるクスリってある?」
「ええ、テーブルの上に」
優一の目の前のテーブルの上に、錠剤が箱の状態でふたつ、そして飲みかけのビンが一つだ。
迷わず飲みかけのほうに手を伸ばして、クッション材を部屋の隅に放り投げる。
そして、呷るように全てを口に含む。
キッチンに向かおうとしたところで、気を利かせてくれた天使が水の入ったコップを持っている。
「もいもと」
口の中に錠剤がごろごろとしているため、変な口調になる。
コップの水を一気に流し込む。水を全部飲み込んだあと、ようやくすっきりとした気持ちになる。
「えと……沢山飲みました?」
「風邪だからねー」
「今、たくさん飲んでませんでしたか?」
「ん、頭のカゼだからなー」
「それって良いんですか? 用法容量……」
「オレルールがあるの。コンビニ弁当の赤い梅は残すとか!」
ひゃっひゃと笑う。あとは薬が効いてくれるまで大人しくしているべきだ。そうすれば暗い気持ちはどこかへ行ってしまう。
「ああそうだ。紙とペン。カミとペン」
先ほど思いついたものを書かなければ、とわたわたしていると、天使がささっと出してくれた。
「天使は魔法使いみたいだね」
「そうですか?」
「天使なのにマホーが使えるのはすごい……」
思いついたものが消えないように、がりがりと紙に書く。天使の唄を。
「ええと……天使は消えちゃうから」
「え」
ヒビの入ったピックでコードを鳴らしながら、コードと歌詞を書いてゆく。
きっと天使は消えてしまう。だからこそ残しておかなければ。
幻覚であろうと本物であろうと、天使は優一の近くにいてはならないのだ。
きっと、音楽を創る上であらわれた女神なのだから。
コードを鳴らす。
ちがう、こうじゃない、これじゃない。これは天使じゃない。
そう言って何度もギターを弾いている間に、ピックが折れた。
新しいピックを探している間に、耳の奥がきぃんと鳴ってきた。ようやく薬が効いてきたらしい。
あとはロックの沼に沈むだけだ。
***
数枚の紙にたくさんの文字を書き連ねた後ユウイチは、はああ、と大きなため息を吐いた。ざっと三時間以上は書き続けていた。
「おなかすいた」
仁美の身体も同じく空腹を訴えていて、かといってコンビニの弁当はちょっと倦厭したかった。
「あ、私料理できますよ。小学生の頃にしてたので、たいしたものは作れませんが」
「へぇ、天使はリョーリもできるんだ。万能だね」
「決してそんなことは」
作れる料理なんてたかが知れている。個人的に得意というか楽なのは、お鍋一つでできる親子丼だ。
「今までの蜜でリョーリできる人いなかったのに」
「蜜さん」
時折その単語が出てくるので、一体どんな存在なのかわからずに首をかしげる。
「お世話してくれるひとー」
ユウイチがさらりと答える。そういえば蜜がいないから掃除ができていないとも言っていたなぁと思いだす。
「あの、それで、お買い物に行きたいんですけど……」
人にお金をせがむ。そんな事したことがないので、どう言えばいいのかわからない。母子家庭時代は生活費支給制だったのだ。毎月決まった日に、机に金が置かれていたのだ。
ええと、ええと、と言っている間に顔が火照るのがわかる。
ユウイチは気付いたのか、さらりと言った。
「そっか。お金がないのか。そっか、天使はイエデショージョだもんな」
「…………はい。天使じゃないですけど」
仁美にできるのはがっくりと項垂れることだけだった。
「いつかきっとお返ししますから……」
「だいじょぶだいじょぶ。カショーインゼー入ったから!」
励ましになっているのかいないのか、ユウイチはあっけらかんとしていた。
ユウイチに近所のスーパーを教えてもらい、更に『曲作ってたら何も聞こえないから』と合鍵も渡された。
スーパーに行って親子丼を作るための最低限の食材を買ってユウイチの部屋に戻ろうとすると、アパートの廊下に一人の女が立っていた。明るい茶色の髪の毛は背中の真ん中ほどまである。そして服も同じくらい背中の真ん中まで切り込みが入っていて肌が見えている。顔はよく見えないが、露出の多い派手な格好をしている。
アパートの階段の下からでも、声が漏れ聞こえている。
「ねぇ! そろそろアタシのありがたみわかったでしょー? 反省したなら開けなさいよ!」
どん、と大きな音がした。女性が思い切り扉を叩いたのだ。――そしてその部屋は間違いなく、ユウイチの部屋。
(ど、どうしよう)
アパートの階段の下で呆然としていると、女性が仁美に気づいたようで、ぎりりと睨んできた。
「アンタ」
「は、はい」
「この間のライブでユウイチと一緒に出てきた女よね。なんでアタシの服着てンの?」
「え、ええと、ユウイチさんに借りたんです」
「ハァ!? ふっざけんじゃないわよ!」
ハイヒールを履いた女性がもの凄い早さでカツカツと階段を下りてきた。そして突然仁美の頬を平手打ちした。――かと思うと、仁美を思いっきり突き飛ばした。
突き飛ばされた反動で仁美は尻もちをつき、手に持っていた袋の中の卵がぐしゃ、と音をたてて割れたのがわかった。
「あ」
主役の一つである卵が壊れてしまった。ひとつでも無事であればいいのだけれど。
頬も痛い。コンクリートに打ち付けた尻も手のひらも痛い。痛いはずなのに感覚はどこかに飛んでしまっている。親子丼が作れないかもしれないということがいささかショックだったのだ。
ユウイチにとって完全にお荷物になっている仁美が役立てるかと思ったのに。
割れてしまった卵の処理はどうしようか――また迷惑をかけてしまうことになった。
涙が出そうになった。親子丼すら満足に作れない自分がちっぽけな存在すぎて。
「アンタ、ユウイチと一緒に住んでんの?」
女が怒り気味に言い、仁美はハッと我に返る。いまだに尻餅をついたままだ。
「え、ええと」
そうです、と正直に答えたら余計に激高しそうだ、と逡巡して、じゃあどう答えようかと考えあぐねていると、無言になる。
「アタシの服までパクってさぁ、ホントさいてー」
沈黙を肯定と捉えられたのか、女は一方的に話を進める。
カツカツとヒールを鳴らして、女はユウイチの部屋の扉の前に立つ――と、思い切り扉を叩いた。
どん、どん、と響き渡る音だ。
仁美は慌てて立ち上がる。
何とかしなければ。
近所迷惑になってしまう。いや、仁美がアパートに戻った時にはすでに扉が叩かれていたから今更だろう。けれど何とかしなければ。
「ねぇユウイチ! 聞いてんの? マジなんかしてる時なんも聞こえないってマジ異常だから! 居留守使うんじゃねぇよ!」
「あ、あの!」
ぐじゃ、と水音が立つ袋を手に持ち、階段をローファーで駆け上がる。
「私、鍵持ってますから、お話があるなら中で――できれば静かに、お願いします」
再び平手打ちが飛んできて、爪が頬に引っかかったようで変な音が鳴った。
***
天使の声が聞こえたのでドアを開けると、そこには転んでいるように座っている天使と、何故か杏里が居た。
「あれ」
なぜ杏里が。
そしてどうして、天使の頬は赤いのだろうか。引っかいたような赤い線がある。
「杏里、天使のことたたいたの?」
ダマになったマスカラをしばしばと動かして杏里は叫ぶ。
「当たり前じゃん! なんでアタシの服着てんの?」
「杏里がいらないって言ったから天使にあげた」
「ってか天使ってナニ!? きしょいんだけど」
「天使は天使だよ。これからオヤコドン作ってくれるの」
「ってかアタシの言葉マジに取ってたの?」
うけるんだけど。キンキンとした杏里の声はあまり好きではなかった。数週間ぶりに聞く声に頭がくらくらした。
今、天使にぴったりの曲を作っていたのに、とてつもない邪魔が入る。
「マジもなにも、小林がロロの蜜になったって言ってたから」
ロロは、優一と同じ事務所の後輩バンドのボーカルの事だ。杏里が出て行ったと小林に言ったら、笑って教えてくれた。『ロロがメシ食えねぇって言ったら、自分チでメシ食わせてロロ食ったってさ。お前捨てられてやんの』と。
なので杏里は優一をやめて――心境的には卒業、という言葉が近い――事務所の後輩に移ったのだと思っていた。
「違うの! あれは……だって、ロロ君が」
「何がチガウの? ロロに貢いでロロ食べるのは蜜のケンリなのに」
そこまで戸口で話して、天使がぽかんとした顔でこちらを見ているので、部屋の中に入ってもらうことにした。
当然のように杏里まで入ってこようとしたので嫌がったら、天使が中でお話しましょうよ、と言うので従うことにした。
「あ、天使、オカエリナサイ」
「は、はい。ただいまです」
ほっとしたように微笑んだ天使の声はやはりしゃがれていて、耳に気持ちよかった。
「なに、マジで一緒に住んでンの?」
きしょいんだけど。杏里のキンキン声は無視をすることにした。
杏里が部屋の中で何かぶつぶつとうめいている。部屋キレーという言葉が聞こえたので、天使がやったのだと鼻高々な気持ちになる。
「ああそうだ。杏里、天使たたいたんだから謝って」
「ハ?」
「人をたたくのは悪いことだよ。謝って」
「だってコイツがアタシの服着てたのが悪いんだし」
「それは杏里がいらないって言ったから」
「言ってないし!」
出た。杏里の言っていない。優一はげんなりとした気持ちになる。
杏里は都合の悪い事になると、知らない、言ってないと喚いて何もなかったことにするのだ。この所為で優一の前の蜜もやめさせられたと、事務所の先輩が教えてくれた。ついでに『お前面倒くさいのに目ェつけられたな』とも。
「あ、天使、オコメは炊飯器でボタン押してあるよ。早炊き」
「ありがとうございます」
「シカトしてんじゃねぇよ!」
「えぇ、だってさぁ、なんで杏里いるの?」
オレは今、天使と暮らしているのに。どうして卒業していった蜜が再来しているのだ。
「だってユウイチ、アタシが居ないと何もできないジャン」
「できるよ。それに今は天使がいるし」
天使は廊下に併設されているキッチンから、心配そうにこちらをちらちら覗いている。恐る恐るという顔がとても可愛いらしい。
どうやら叩かれたこともあって、天使は杏里の事が怖いのかも知れない。
杏里がアタシのエプロン、と喚いたけれどそのエプロンは一回しか――しかも本来の用途とは異なる方法で――使ったことしかない。
「杏里にはロロがいるのにどうしてオレのところに来たの? エプロン取りに来たの?」
ちょっと意地悪に言うと、杏里は優一をにらみつけた。元々つり目なのであまり顔は変わらない。
そして今度はおもねるような顔つきになる。
「だってぇ、ユウイチはアタシが必要でしょ?」
「杏里はオレから卒業したから、ええと、」
どう言葉にしたらいいのかわからない。日本語は本当に難しい。
「べつに必要か必要じゃないかは問題じゃない」
「アタシはロロ君よりユウイチがやっぱり好き」
結局はそこなのか。オンナノヒトはいつも言葉が遠まわしで面倒くさい。
そういえば天使は恥ずかしがりながらも素直に話してくれる。優一は天使のそういうところを気に入っているのだろうか。
「だめだよ」
そういえば『優一は蜜の出戻りを許さない』と、周りからそう言われている。
優一としては、卒業するということは一瞬でも必要がないと思われたからであるわけで、その人が戻ってくるのが嫌ではないのだろうかと不思議でたまらない。
一度否定してきた人間を再度受け入れる余裕は優一にはない。
「杏里はロロを選んだ。オレの事は卒業。オレの事が好きでも卒業は卒業。オレたちのカンケイはおしまい」
「なんでよ! アタシ何だってやってあげたじゃん!」
少なくとも今の天使のように料理は作ってくれていないが、優一は杏里と会話するのが上手ではない。
「ユウイチはアタシが必要なの」
「必要ないよ」
「なんでよ!」
「杏里がいなくても生きていけるから」
「それって売れてきたからじゃん! それまでどんだけ尽くしたと思ってんの? 売れたら捨てるワケ!?」
事実だ。事実だが、見限られたのは優一だ。
「ええと、だから、杏里がロロを選んだから」
ばちん、と平手打ちが飛んできた。杏里の付け爪がぽろりと落ちる。――天使の傷の原因はこれか。
「新しい蜜ができたらアタシはもういらないの?」
ぐず、と今度は泣き落としできた。もう何度も見ている、杏里の泣き落とし。黒い涙が流れるのだ。
「天使は蜜じゃないよ、ええと、イエデショージョ」
「は?」
じゅわ、とフライパンから音をたてさせた天使が慌てて否定する。
「居候です!」
優一は天使を拾ってきたのだとばかり思っていたのだが、居候だったのかと驚いた。
***
仁美は走れメロスの第一文を思い浮かべていた。
『アンリは激怒した』
初めて会ってからずっと、怒っていたなぁと呆然としていた。
走れメロスと違うところは、最後まで怒っていたことだ。
ぐしゃぐしゃに割れた卵は丁寧に殻を取り除いて、なんとか親子丼は形になった。
数年ぶりに作ったわりには上手に出来たと内心自画自賛をしていたら――なぜかアンリにも食べられてしまったが――ユウイチも喜んで食べてくれた。
アンリは怒るだけ怒ると、鞄に入る分と両手に持てるだけの服をクローゼットから取り出して出て行った。
途中しゃべっている内容はよくわからなかった、というか聞き取れなかった。
けれど最後の言葉だけわかった『もうこんなクソみてーなトコこねーよ!』だ。
台風一過。ともいうべきだろうか。嵐のようだった。
「そういえば、蜜さんって何なんですか?」
蜜、という単語がユウイチと過ごすようになってから何度も飛び交ってる。そして聞くとどことなくはぐらかされていた。
親子丼を食べ終えると、布団にごろりと寝転んでいたユウイチは、長い髪の毛を頬にたらしながら、んんーとゴロゴロと転がる。
「あぁ、あれだ」
何かを思いついたように、ユウイチが起き上がる。
「ふじゅんいせーこーゆー! これだ!」
「えっ?」
「あれはフジュンだ! やっとわかった!」
はーすっきりしたー、と満足気な顔をしているが、仁美は完全に置いていかれている。
「不純異性交遊、ですか」
「そう! フジュンにコーユーしてた!」
「はぁ……」
不純異性交遊。それは仁美が兄に禁止されていたことで、数日前にユウイチとキスをしたことを言っていなかっただろうか。
思い出して耳が真っ赤になる。
「じゃぁ、天使の方はフジュンじゃないね」
「アンリは蜜だからフジュンで、天使は天使だからジュン」
「じゅん……」
「そ! じゅんいせーこーゆー!」
「アンリさんはど、どこが不純なんですか?」
「アンリは蜜だから、お金とか、生活とか、面倒見てくれてた。だからシてた」
「してた?」
「セックス」
ぼん、と音がするかと思った。仁美には刺激が強すぎる単語だ。
「でも、天使とのキスは、そーゆーのないから、ジュン」
ユウイチの言葉は的を得ないことが多い。彼の中では回路がつながっているのだろうけれど、仁美にはわからない。
先ほど喚いていたアンリとは不純。そして仁美とは純、な交遊。
よくわからなくて頭がくらくらしてくる。
「ああそうだ! 服を買いに行こう!」
「へっ」
ユウイチが立ち上がると、仁美も立ち上がるように促す。
「アンリがもってっちゃったからね、服。だから天使に似合う服を買いに行こう!」
えぇ、と困惑の声があがる。
しかし別の意味に捉えたのか、ユウイチは胸を張る。
「だいじょぶ。カショーインゼー入ったから!」
この言葉は、ここ数日のユウイチの口癖になっていた。外食をしたり、少し高い菓子を買った時なんかに使っている。
「ありがとうございます」
正直、衣服で買いたいものはたくさんあった。アンリが残したものでは代用できないようなものも。
仁美はクローゼットを開く。
「あ、そうだ! 靴も買おう!」
玄関でユウイチが楽しそうにしゃべっている。仁美はどんな服にも茶色のローファーで過ごしていたから、それを見つけたのだろう。
幸いにもコートは残っていて、そのハンガーに手をかける。
ふと、仁美が初めてユウイチに会った日に着ていた制服が目に入る。
(……私は逃げてきたんだ)
小林にも言われたではないか。連絡を入れろと。
(でもここは、居心地がいいの)
夢のような、ユウイチとのままごとのような生活が。
現実に戻りたくない。その気持ちは日に日に強くなる。
そして、小林に言われた言葉も、日に日に重みを増してくる。
「天使まーだー?」
はっとして、コートと一緒に制服のハンガーも落とした。制服を持ち上げ、ハンガーにかけ直す。軽い布であるはずなのに、鎧のように重い気がした。
スカートのポケットに入れていたものが一つなくなっていることにこの時は気づかなかった。
***
歩いて行ける範囲にある少し大きめのスーパーマーケットに行くと、天使はとても興味深そうにきょろきょろとしていた。上京したての優一とよく似ていた。――驚くものの規模が小さすぎるが。
「こういう大きなスーパー、入るの初めてです」
聞くと、今まで料理の材料は商店街で調達していたと言う。
杏里の服は露出が激しく、なおかつ柄物が多く、とにかく派手だった。天使はもっと質素でいい。シンプルな方が彼女に映えるような気がした。天使もシンプルなものが好みらしく、シンプルを謡っている店に籠りっぱなしだ。
ふと、制服姿の天使を思い出した。あれもシンプルでとてつもなく良かった。
真っ白なブラウスに、チェック柄のスカート、白い靴下、茶色のローファー。
(完璧だ)
ほう、と息を吐き出す。だからこそ幻覚と間違えたのだけれど。いや、未だに幻覚なのかもしれないが。――その疑いはいつになっても優一に付きまとっている。
待ち合わせに指定したカフェでぼんやりしていると、荷物を持った天使がやってきた。
お金のことをとにかく気にしていたので、数万円渡して好きなように使ってもらうことにしたのだ。――杏里にしてもらっていたことを、いま優一が行っているというのはなんだか可笑しい。
「あの、あの、本当にありがとうございます」
天使が深々と頭を下げる。
「自分で洋服を選ぶという機会があまりないので、お時間が掛かってしまっていたらごめんなさい」
「ん、だいじょうぶ。早くてびっくりした」
ああでもないこうでもないとうるさい杏里の数百倍早い。
天使がおずおずと握った手を差し出す。折りたたまれた札と小銭が見える。
「あの、お釣りです」
「小遣いであげるー。これからもなにか必要なものができたらそれで買ってー」
天使はまた頭を下げた。
どうしてだろう。杏里は当たり前にしてたことなのに。
優一がおかしいのか、天使がおかしいのか、杏里がおかしかったのか、小首をかしげた。
もしかしてこれも不純のひとつなのだろうか、と気付く。
「いや、ジュンだからね、ジュン」
だって天使は優一にセックスを強要してこない。
(あれ)
お金をあげているのは優一だ。
何か間違えているような気がしたが、頭がふわふわしていたので考えがまとまらなかった。そういえば朝、薬を飲んだのだった。
天使の荷物が多いので半分持ちながら帰路につく。
大通りを歩いて、そこから小道に入って、何回か曲がれば優一のアパートだ。
何度か小道を曲がってアパートが見えたところで、後ろから歩いていた天使が脱兎の如く引き返して戻っていった。
道を戻っていくと、死人のように真っ青な顔をした天使が、コンクリートの壁と電信柱の間に隠れるように蹲っていた。
「どうして……!」
元々かすれ気味の声がさらにかすれている。
「どしたの」
「あの、兄、が」
「え。探しに来たのかな。でもどうしてわかったんだろ、ジューショ」
歯の根が合わないのか、がちがちと震えている天使がかわいそうで仕方がなかった。
家出をしたのは知っているけれど、帰ることがそんなにも恐ろしいのか。
「どうして、兄さんが……」
「禁止いっぱいのニーチャンか」
ううん、と考え込む。そもそも天使の居場所――優一の住処はどうして判ってしまったのだろう。
「あ、天使」
「はい……」
「ジューショとかバンゴーとか書いてあるモン持ってた?」
天使は逡巡すると、はっと息を飲んだ。
「生徒手帳……」
「セートテチョ―」
「緊急連絡先とか書いてあって、スカートのポケットに……」
ほあほあとした頭の中で合点がいった。杏里が盗んで使ったのだろう。
どうしてこんなにも杏里は嫌がらせをしてくるのだろう。もう優一を卒業してロロの蜜になったというのに。
どうしてこんなにも優一に執着してきたのだろう。いけないと理解していても薬をたくさんあおる、何もできないからっぽの人間なのに。それこそセックスができないから杏里は去っていったというのに。
「どうしよう……私、まだ帰りたくない」
涙声で言ったその言葉を、優一は絶対に叶えてあげようと思った。
***
小林が車を停めて窓を開けると第一声に『人使いが荒いんだよ馬鹿』と怒った。
ユウイチはどこふく風というように、仁美の買った服や日用品の入った袋を持って車の中に入ってしまった。
「ホラ、天使も」
「あの」
「今日これから本番でさー、どうせ小林迎えにくるんだし、場所がチョット違ってもへーきへーき」
「平気じゃねーよ! 大遅刻だっつーの。もうリハ始まってんだぞ」
「えぇー。リハはオレがいなくても大丈夫じゃん」
「ボーカル居なかったらどーすんだよ!」
「どーもしないよ。みんながしっかりしてるからだいじょうぶ」
「はぁ。自分がしっかりしようとか思わないわけ? 一応人気出てきてんだぞ。少しは自覚をだな」
「しっかりしてきてるぞ。天使を養ってる」
はぁー、と大きなため息が運転席から聞こえると、車がブルンと動き出した。
「ヒトミちゃん、急ぐから運転荒くなったらごめんね」
「いえ、おかまいなく」
小林は何かを諦めたようだった。
「ホント、お前から歌取ったらなんもねえなぁ……」
独り言のような呟きに、ひゃっひゃとユウイチは笑う。
「オレもそー思う!」
ユウイチは綺麗な顔をしているし、優しいし、素直だし、なによりも素晴らしい音楽を作る。そう反論しようと思ったが、恥ずかしくて言えなかった。
『歌や曲には本質が宿るのよ』
コーラスの先生が言っていたのを思い出す。
曲には想いが。歌には感情が宿ると言っていた。
(ユウイチさんは素敵な人なのに)
ここ数日しか一緒に過ごしていないが、仁美はユウイチに対してそう思う。
初めて聞いた日のバラードが頭の中で流れる。仁美に勇気を与えてくれた歌。――今日のライブで歌ってくれるだろうか。
仁美が聞いたのはトンネルの中でしかなかったから、きちんと聞いてみたかった。
***
天使の座る関係者席は二階にあって、優一たちの控室も同じく二階だ。
前回木村に絡まれたというので、影アナウンスが流れるギリギリまで楽屋に居てもらうことにした。ほかのメンバーにはものすごくひやかされたが、脂汗がしょっちゅうにじんでいる木村と過ごされるよりかはマシだと思った。もしかしたら木村に天使を取られてしまうかもしれない。
木村は小林の継父で、小林は慕っているけれど優一はあまり彼を好きではない。事務所の人なので世話になっているけれど、友達にはしたくないタイプだ。
いつも人を値踏みするような目をしているからだ。
損得で人間関係を築くタイプだ。
優一は損得で人間関係をつくる人が苦手だった。いつも『あ、こいつダメだ』という目で見られてきたから。
どこがダメなのかもわからないし、勝手に決めつけられるのは好きではない――もっとも、ダメ人間なのは痛いほど自覚している。
鞄に入れた薬瓶を取り出す。
「あれ、それ今朝も」
「うん、風邪だから」
咳止めの薬の蓋をしゅるしゅると音をたてて開ける。優一はこの音が好きだ。
錠剤の数は知らないまま、手のひらにざっと出して口にほおばった。
そこで水を探す。ケータリングの机に水のペットボトルがあるので手を伸ばす。
おそらく数十はある錠剤を一気に飲み下し、ほう、と息を吐く。ふと見ると、天使が何か言いたそうだ。
「……本当に風邪なんですか?」
「あたまのねー」
まだ何か言いたそうだけれど、天使は困った顔をしたまま黙り込んでしまった。
困った顔の天使は可愛い。ついいじめたくなる。
「ほんとうはね、これかくせーざい」
「えっ!?」
「うそ」
「はあ、びっくりした」
「っていうのもうそ」
「え、え?」
「ぜーんぶうそ!」
ひゃっひゃと笑うと、なぜか天使も笑っていた。困った顔のまま。
「ユウイチさんが冗談を言うと冗談に聞こえません」
冗談ではない。飲めば覚醒するのは本当のことだ。
「ユウイチさんてば、面白い」
いつの間にか天使は笑っていた。くすくすと。
育ちが良いからだろう、口元を手で隠している。
先ほど優一が勧めて購入したコバルトブルーのカーディガンの袖が見えた。うん、よく似合うと自画自賛する。
「天使はねぇ、可愛いよ」
「……! 知りませんっ!」
ひゅーう、と声が上がった。お調子者で明るいベースの声だ。
「うるさいなぁ。ほんとうの事だろ」
ね、と天使を振り返ると、顔から耳、首まで真っ赤になっていた。
「知りません!」
天使はもう一度言うと、ぷいと顔を背けてしまった。
『どーもー』
ドラムの声で影アナウンスが流れ始めた。
「わ、私、席に戻りますね――あの、ユウイチさんの歌、楽しみにしていますから。頑張ってください」
言い逃げするように、天使は楽屋から出て行った。
優一の視界の端でにやにやと笑っていたベースがつぶやいた。
「なに今のツンデレ、最凶に可愛いな。顔も超可愛いし」
「あげないからね」
じろりと睨むと、どうしようかなぁと笑われた。
優一のものでもないけれど、天使は誰にもあげたくない。
***
ああ、このまま時間が止まってしまえばいいのに。
ひとつ曲が終わるたびに切実に願ってしまう。
数曲ごとに、インターバル――ユウイチの休憩――のようにバンドの人たちの会話が弾む。それが仁美にとっても心を落ち着ける時間になる。
涙が出そうになるのを必死に抑え込む。
ひたすらに孤独で。
なぜだかかなしくて。
むなしくて。
そんな歌をやさしく、時に激しく歌う優一に、一緒に音を奏でる人たちがいる。
それが無性に嬉しくて、そしていっそうユウイチの歌が好きになる。
先日のライブで聞いた歌や、CDで聞いた歌、それから、聞いたことのない歌。
どれもが不思議と新鮮で、音の洪水におぼれているような気分だった。耳と頭がいっぱいで、あっという間にアンコールが終わってしまった。
終わりかと思ったところで、前回同様にユウイチがアコースティックギターを持って出てきた。
「最後にもう一曲って思ったんだけどさ、今朝出来上がった唄だからみんな知らないんだよねぇ」
残っているメンバーから『当たり前じゃねぇか!』と野次が飛ぶ。
「もしかしたらボツになるかもしれないし、キネンキネン」
黄色い声があがる。仁美にとってはどの曲も新鮮でたまらなかったが、新曲となるとやはり興奮の度合いがちがう。『今』のユウイチの曲なのだ。
「えっとねー、タイトルはまだ決まってないんだけど、テーマがあってねー、テンシ」
大きなスピーカーから飛び出してきた自分の名前――ではないが、ユウイチから呼ばれる愛称――を告げられ、思わず『えっ』と声が出た。
「とりあえず、テンシの唄」
仁美はそのあと、来場者がいなくなるまでの記憶が抜けた。
***
家に着いて、天使がコーヒーを淹れてくれたのでそれを飲んで、優一は薬が少しずつ抜けていくのを感じながらぼんやりしていた。
(天使のアルバム作ってもいいなぁ)
頭の中には天使に対する唄があふれかえっている。今朝も沢山曲を書いたではないか。
優一は何かを得たのだ。いつも何かを手に入れると面白いくらいに曲が出来上がる。
得るものというのは、良いものでも悪いものでも、何かの刺激だ。
優一は天使に刺激されているのだ。
何を。そしてどこをどんな風に刺激されているのかはわからない。けれども確かに心臓――いや、魂と呼ぶべき場所を震わせられている。
「紙、かみ」
書き留めておかないと流れてしまう。
慌てて紙とペンをたぐり寄せ、コードと歌詞を書き連ねてゆく。音符を読むのは苦手なので、独特の音程――歌詞の下に蛇がのたうつような波――を書いてゆく。
時折ギターを鳴らして、違う違うと紙に書いたコードをぐりぐりと書き直す。
目を瞑ってイメージをする。天使がハスキーな声で優一を呼び、こちらを覗き込むように見る。ロックを聴いて目の下にクマをつくる。朝日に照らされた金色のまつげ。夕日を浴びて洗濯物を畳む姿。
――そして青い瞳からは涙を流していた。
「そういえば天使」
「ひゃっ!」
ふと顔を上げると、天使はコンポの前で優一に背中を向けて正座をしていた。
「なにしてるの」
「いえ、あの、ユウイチさんのお邪魔にならないようにと……」
「天使の唄書いてるから、目に入るところにいてよ」
そうだ。思い出さなくても天使はここに居る。すっかり忘れていた。
「そういえば天使さ、前だれの唄聴いて泣いてたの?」
「えっ」
「泣いてたよね」
言うと、天使が顔を真っ赤にさせて頷く。顔が赤くなる必要性が優一にはよくわからなくて、天使は改めて不思議だなぁと思う。
天使は何も言わず、また優一に背を向けてコンポの近くのCDを漁る。ケースのタワーを上から崩してまた新しいタワーを作ってゆく。
ものの一分もかからない間に、天使が一枚のCDを手に取ってぴたりと動きが止まった。
「……これです」
「どれ?」
天使は相変わらず優一に背を向けたままでCDも何も見えない。
「ねぇ天使、こっちに見せて」
「……嫌です」
「なんで?」
「恥ずかしいからです」
「なんで恥ずかしいの?」
天使が黙る。耳が赤い。コバルトブルーの背中に赤い耳。可愛らしいのになんだか気分が悪い。
「じゃぁCDだけ見せて」
お願いしたら、ケースを見せてくれた。クリアケースの中に、何も書かれていない真っ白なCD。
「なんでそれがあるの!」
今度は優一が赤くなる番だった。
――初めて作ったCDだったからだ。
立ち上がって取り上げようとしたら、机に膝をしたたか打ち付けてもんどりうつ。
がつん、と大きな音がしたので天使も慌てて振り返り、大丈夫ですかと聞いてくれる。頬が赤い天使――それもイイ――なんて痛みをごまかすように考える。
心配してくれた天使が近くにやってきた。そういえばライブが終わってから全然会話をしていなかった。
「天使、オレの唄ちゃんと聴いた?」
「もちろんです!」
「よかった?」
「最高でした!」
「最後の唄も聞いた? あれね、天使の唄だよ」
「こ、光栄です」
顔を真っ赤にして言うので、優一は気づいたら起き上がり、天使の両頬を自分の手で挟んでひっぱり、キスをしていた。
唇がくっついた瞬間、インターホンが鳴った。
***
自分に起きた出来事に混乱しながらも、どちら様ですか。ではなく、誰ですか。と聞くあたりがとてもユウイチらしいと思った。
「仁美の兄です」
玄関口から聞こえた声に、背筋が凍るかと思った。
「おお、キンシのニーチャン」
「仁美はどこですか。ここに居ると伺ったのですが」
「だれから?」
「貴方の恋人と名乗る方からです」
「オレにコイビトはいないよ?」
「そうですか。仁美はここに居ますか?」
「天使ならいるよ」
「テンシ? ふざけないでください」
「だって天使みたいじゃん」
問い詰めるような兄の口調と、飄々としたユウイチのちぐはぐなやり取りに、仁美は目を回しそうになる。
(どうしよう)
ライブの余韻ですっかり飛んでいた。ユウイチの家に兄が来ていたことを。
「迎えに来た、と表現してあげているんです。出さないと警察呼びますよ」
厳しい言葉に仁美の心臓がぎゅうっと痛む。
脅迫だ。仁美を差し出さなければ誘拐として警察を呼ぶ、と。
「まだ帰りたくないって言ってたのに連れて帰るの?」
「仁美がそんなことを? 貴方が唆したのでは」
兄の言葉に、仁美は立ち上がり戸口へ向かう。
「言いました」
「仁美」
名前を呼ぶ一言にいろんなものが混ざっている。詰問であり、責苦であり、問答であり、怒り。
「まだ、帰りたくありません」
「ふざけるんじゃない。こんな所に住んでる男の元に転がり込んで。何を考えているんだ」
こんな所に住んでいる男――ユウイチを蔑むような言葉に怒りを覚える。
「シンチクみたいにキレーなんだけどなぁ」
「貴方は黙っていてください」
ぴしゃりと兄はユウイチに言う。ユウイチはおちゃらけたように肩をすくめた。
「私はここに来て、自由を知りました。――この部屋は決して広いとはいえませんが、あの家のほうが窮屈です」
後方にユウイチが控えていてくれて、言葉に勇気が出る。
「自分自身、なんで飛び出したのかわかりませんでした。でもここにお邪魔して、私が自由じゃないことを知りました」
「何か不自由なことでもあったなら改善するが?」
「そういうところが窮屈なんです!」
「仁美、俺はお前を心配しているんだ。唯一の肉親を亡くし、母子家庭で育ってきたお前がきちんとした教育を受けて、ウチの人間としてふさわしく一人前になれるように」
「ばかにしてんの?」
す、とユウイチが仁美の前に出る。
「オレ、あんた嫌い。人を見下してしゃべるから。親が片方しかいなくても、キチンとした教育受けてなくても、人間は一人前になるし、なにかにふさわしいとかふさわしくないとか、そーゆー差別はサイテーだ」
「仁美、こんな人間と居るとお前まで駄目になるぞ」
「オレは確かにダメだけど、天使は全然ダメにならないよ。なんでわかんないの?」
「貴方には関係ない」
「じゃあアンタにもカンケイないよ。だって天使本人の問題だもん」
「とにかく、仁美にかかりました代金は言い値でお支払いするので、一刻も早く返してください」
兄がユウイチを睨み付ける。
「あ、オレその目知ってる。嫉妬だ。アンタ、天使を異性として好きなんだ」
「ええっ!?」
思わずまじまじと兄を見てしまう。兄はユウイチを見据えたままだ。
「貴方には関係ありません――いや、あるかな。貴方の所属している音楽グループの事務所、ウチの取引先の一つでしてね」
「ふぅん。ズボシされるとギャクジョ―するんだね」
ゴッと低い音が聞こえた。次いでごつんと壁にぶつかる音が。
目の前で兄がユウイチを殴ったのだ。そしてそのまま玄関の壁に頭を打ち付けていた。仁美は小さく悲鳴をあげた。
「仁美、帰るぞ」
ぬ、と伸びてきた腕を慄きながら振り払う。
「っ帰りません!」
ユウイチは玄関に座り込んで『あたたー』と言いながら頬を抑えている。
「私、兄さんが人を脅したり、馬鹿にしたりするのを初めて見ました。最低だと思いました」
「それならば謝罪しよう」
「謝罪したところで言った事実も、兄さんの本音も、殴った事実も変わらないでしょう! ユウイチさんは素敵な人です! 見ず知らずの私の面倒を見てくれて、とってもよくしてくれました。沢山の事を経験させてくれました」
思い返せば四日だ。この四日で一体どれだけの経験をしただろう。どれだけ――音楽にのめりこんだだろう。
「……ちゃんと、家には帰ります。でも今日は嫌です」
「仁美」
「兄さんはユウイチさんを殴ったことを謝ってください」
兄が嫌そうな顔をする。
「警察を呼んで傷害で訴えてもいいんですよ」
仁美が言うと、兄は驚いた顔で、小さく済まなかった。と言った。――まさか仁美までも脅し文句を使うとは思わなかったのだろう。
「今後、私に自由をください。何もかもタイムスケジュールを組まないでください」
「余暇は与えているだろう」
「余暇!? それが自由なんですか!? 与えているって、私は飼われているんですか?」
「お前は実母から育児放棄されて育ったから、矯正が必要なんだよ」
「矯正? 私は異常なんですか? 私の今の環境のほうが異常です! 私は普通の女子高生になりたいんです。普通の女子高生がどう過ごしているのか、調べてください。得意でしょう――ここを見つけられるくらいなんですから。……それが、家に戻る条件です。お祖父さまには私から電話をしておきます。とにかく今日は、お引き取りください」
言うだけ言うと、ユウイチを跨いで兄を戸口から押し出し、無理やり扉を閉めて鍵をかけた。
しばらく沈黙が流れた。
兄にはああ言ったけれども、近日中に帰らなければならないだろう。新学年、新学期も始まってしまう。
一気に現実に戻された事に絶望する。――夢のような時間が終わってしまったからだ。
「やー、キョーレツなニーチャンだったねぇ」
「ユウイチさん、大丈夫ですか?」
「ツアー終わった後でヨカッタヨカッタ。だいじょぶだよ」
よしよし、と頭を撫でられる。
するとどうしてだろうか。涙がぽろぽろとこぼれだした。
「天使は幻から現実に帰っちゃうんだねぇ」
ひとりごちるユウイチの声が異様に耳に残り、心臓に突き刺さった。
***
怪我は幸い口の中が軽く切れただけで、漫画のように歯が飛んだりすることはなかった。――おそらく切れたところが口内炎になる程度の悪化が関の山だろう。
天使の涙は真珠のようだった。青い瞳から、金色のまつげに縁取られてこぼれる水滴は、とても神聖なもののようだった。
「アイツの所に天使あげるのやだなー」
玄関でへたりこんで泣きじゃくる天使の頭を撫でながら言う。
天使の髪は思った通り金糸のようなサラサラ具合だ。
「だって、アイツ天使の事好きなんだもん」
「それ……勘違いですよ」
兄さん結婚してますし、と、ぐじゅぐじゅと鼻を鳴らしながら天使が言う。なんだか鼻水さえも神聖なものに見えてきた。
「そーゆーのはカンケーないんだよ。コイって、落ちるものらしいから」
らしい、というのは優一がまだ経験していないからだけれども。一般論というやつだ。
(ホントは隠しておきたかったのかなー)
優一の所属事務所の話まで出してきたということは、相当嫌だったんだろうな、と少し反省した。殴られたので少し、だ。
「恋とか……わかりませんが、……ここから出て行かなきゃいけないのは嫌です」
たり、と天使から鼻水が出た。天使は顔を真っ赤にして玄関から部屋に走っていった。
優一はというと、頬の痛みより勃起している事実に悩んでいた。
(天使、しばらく戻ってきませんように)
そして、ここから出て行きませんように。
からっぽだった優一の家に、やっと何かが入ってきたのだ。
たいせつにくるんで、閉じ込めておきたいものが。
「アレ?」
「どうかしましたかー?」
「んーん! なんでもない! なんでもないからちょっとそっちの部屋に居て!」
勃起がおさまったら小林に電話をかけてみよう。
小林が言うことは、いつもだいたい正しい。
黒電話は受話器を置くとチンと鳴った。
このご時世にじこじこ巻く黒電話は珍しいらしいが、優一の祖母の唯一の形見なのだ。壊れるまで使うのが流儀だろうと思っている。そして個人的に、気に入っているのだ。ダイヤルを回すと、変な音をたてて元に戻る仕草が。
小林に電話をかけた。天使は目と鼻を赤くして、コンポの前――もう天使の定位置になっている場所で――ティッシュ箱とゴミ箱を占領している。
小林は言った『なにをいまさら』と。
「オレさぁ、だれかとコイをしちゃいけないと思ってるんだ」
「ど、どうしてですか?」
気が付いたら天使の顔は赤い。肌が白いからすぐに赤くなる。――それがまた可愛くてたまらない。
「オレがオレをよく知らないから」
自分自身の事を理解できていないのに、誰かを好きになる権利なんてあるのだろうか。優一はいつもそこで思考が止まる。いや、だめだろう。と。
「オレがオレの事をよく知らないのに、誰かに好きになってもらいたいって変じゃない?」
「た、確かに、自分自身の長所とか短所とか、知らないとダメですよね!」
天使がなぜだかぶんぶんとうなずいている。
「だからさ、オレにコイはまだ早いんだよ」
だが電話の相手は言った。
「小林がさ、天使に独占欲まるだしで、恋してるのはばればれなのに、なにをいまさら。って」
天使の顔は真っ赤だ。真っ赤だが、そのまま立ち上がり、優一が胡坐をかいている布団のもう半分に、優一と向かい合わせになるように座る。
「ユ、ユウイチさん」
「ハイ」
「目を、つぶ、つぶってください」
「ハイ」
素直に目を瞑ると、ふんわりした指が耳の下を掴み、優一の顔を斜めに上げる。そして、唇にもふんわりとした感触がやってきた。
唇が離れ、手が離れ、そして天使は言った。
「はい、目を開けてください」
目を開けると、ゆでだこみたいに真っ赤になった天使が居る。
「私はたぶん、ユウイチさんの歌を聞いた時から、恋に落ちていたと思います」
「……でも天使はオレのことよく知らないでしょ?」
「知ってますよ。ユウイチさんは知ってますか? 曲には想いが、歌には感情が表現されるって――受け売りなんですけどね」
真っ赤な天使がはにかむように微笑む。
「ユウイチさんは、音楽を愛していますよね」
「音は裏切らないから」
「ユウイチさんの音は、孤独で、さみしくて、でも、とってもやさしい」
女神のような微笑みで、天使が続ける。
「ホラ、私はユウイチさんのこと、たくさん知ってます。四日しか一緒にいなかったのに。音楽が沢山おしえてくれました」
ふふ、と天使が笑う。たまらなくなって天使の両肩を抱いてキスをした。何回もキスをしたら、天使の両腕が優一の背中にからまってきた。
「私にもっと、ユウイチさんを教えてください……」
あまりにも恥ずかしそうに言うので、優一のイチモツが暴発するところだった。
「これって不純異性交遊になるんですかね?」
コバルトブルーの天使のカーディガンのボタンをひとつずつ外していると、天使が聞いてきた。
「ジュンな気持ちだから、じゅんいせーこーゆーかな」
「じゃあ、校則違反になりませんね」
「だね」
はは、ふふ、と笑いあう。
「そいえばね、ライブで最後に唄った曲のタイトル決まったよ」
「なんて曲名ですか?」
「天使のヒトミ」
優一は、やがて幻になる天使にもう一度キスをした。