第二十七話 魔王城のある谷III 『セカンドステージ』
シャノアール・ヴィエ・アトモスフィア。
最高の導師にして、二百数十年を生きる人間。
魂の契約を交わし、その成長を留めることに成功してから。
彼はずっと、友に報いる日を待っていた。
「……バレット展開。第八から第十六攻性魔導、異常なし。よし、今日も絶好調だ。この僕はね」
「ふぅ……いくら僕とはいえ、このレベルの相手を前に魔力消費が激しいのは歓迎しがたい状況と言えるな」
戦いはまさにセカンドステージに移行していると言えた。
倒れ伏す多くの魔族に加え、疲労でしゃがみ込むユリーカとそれを庇うように立つレックルス。二人ともが満身創痍疲労困憊の状況ではあるが、それでも尚その瞳に宿る闘志は消えない。すぐに回復して参戦するべく、魔素を体内に貯めることに必死だった。
「……こういう時、魔力関係ねぇヤツってのは気楽だなぁ」
ふらり、と。
対峙するシャノアールとアスタルテの間に現れたのは、一人の妖鬼。
三度笠を被ったその瞳は、二人からは見えないが。それでも鬼殺しを握った男の意志は、背中から感じることが出来る。その、ずたずたに引き裂かれた背中から。
「……シュテンくん、大丈夫なのかい?」
「ばっきゃろうが。お前にあれだけカッコつけさせて、俺がのうのうと観戦なんざしてられると思うかよ。なんだよ二百年待つってよ。馬鹿かよ。クソが。ああちくしょう。……それだけカッコつけられちゃあ……体に鞭打ってでも立ち上がるのが……ダチに背中預けて戦うのが……浪漫ってもんだろがよ!」
「……そうか。では、二百年培った魔導がすばらしいものであることをお見せしよう。この僕がね!」
「前衛、必要だろ? 最高の露払いになってやるよ。この俺がね!」
前にシュテン、後ろにシャノアール。
二百年前には実現し得なかった旧友二人のタッグチームが、今最大の敵を相手に牙を剥く。その瞳に宿る熱は、誰にも吹き消すことなど出来やしない。
少なくとも、対面するアスタルテはそう思った。
彼らは四肢をもがれようとも、敗北を認めることはないだろう。
ならば、アスタルテが取る手段はただ一つ。
「僕は英雄として、人間たちの神にも等しい存在であろうと生きてきた」
ふぅ、と大きく息を吐く。
肺が空っぽになるほどに深く深く吐き出した息に、己の中の雑念を全て込め尽くした。今ここにあるアスタルテ・ヴェルダナーヴァは、ただただ一個の現人神であり、アスタルテ・ヴェルダナーヴァという個でしかない。
そこに、英雄たらんという意志はない。
「……だが、今。ただのアスタルテとして、言わせてもらおうか。……お前らは、殺す」
「はっ……かかってこいや!!」
「行くよ……この僕がね!!」
アスタルテが跳躍する。
シュテン、ユリーカ戦では一度も自ら動こうとしなかった彼が、最初に取った行動が移動であった。そのことに目を丸くしつつ、シュテンが追跡を仕掛けようと思ったその瞬間。
「第八攻性魔導・改――滅龍崩牙」
文字通り、今の今までアスタルテが居た場所が"消滅"した。
「……は?」
「シュテンくん。このボクが道を作ろう、きみには、何も考えず戦って貰いたい」
振り向けば、何事もなかったかのようにアスタルテを睨み据えながら魔導の力を漂わせるシャノアールの姿。開幕の一撃が尋常ではない魔力を秘めていた事すら、シャノアールにとっては造作もないことらしい。
「……まさか、僕が最初に回避をさせられるとはね。さぁ、行こうか」
――神蝕現象【四肢五体分かつ暗き刻限】――
――神蝕現象【大文字一面獄炎色】――
――神蝕現象【大いなる三元素】――
空中に座す、最高の魔導司書。
三つの魔導書を展開し、その紅蓮と三つの球体が襲いかかる。
「あぁ、それから」
――神蝕現象【清廉老驥振るう頭椎大刀】――
「これも、復活だ」
軍刀と大薙刀の二刀流。
その尋常ではない魔力に押されながらも、それでもシュテンは獄炎の中を駆け抜ける。
「……閃」
「っ!?」
一瞬の不意を打たれ、動きを捉えられてしまう。
風圧がその身を焦がす、しかしその一歩手前で。
「させるわけないじゃないか、このボクが」
――第十六攻性魔導・水花名月――
まるで花弁が開くようにシャノアールの前方に展開された魔法陣から、目映い月光が放たれる。神性を含むその力は、軒並み風の刃を溶かして消した。
「さすが!」
「いけ、シュテンくん!!」
シャノアールのサポートで、次々に迫る攻撃を交わしながら。シュテンはぐんぐんとアスタルテに迫る。だが、アスタルテは。
「……ふぅ」
一つ、艶めかしいため息と共に虹の瞳をまっすぐにシュテンへ向けた。
「甘く見るなよ、魔導司書を」
シュテンの斧が振りかぶられた、と同時に左腕の大薙刀がその先端にぶち当たる。清廉老驥振るう頭椎大刀はがりがりと鬼殺しの刃を削りながら、そのオーラでもってシュテンの体を食わんと襲いかかる。
それを回避しようと体をひねったその時だった。
「悪いが――」
軍刀が、真正面に。
神蝕現象が放たれるというのなら、まだタイムラグで回避出来る気もした。
だが、シュテンが防御に大斧の柄を構えると同時、繰り出された大薙刀と軍刀の重なる連撃。
「――接近戦は得意なんだ」
「おまえ本当にどうしようもねえな!?」
火花を飛ばす、大斧と軍刀、大薙刀の剣舞。明らかに押されているシュテン。それは単純な膂力ではなく、神蝕現象を持つアスタルテとそうでないシュテンの歴然とした差であった。
さらに言えば、シュテンは背中と左腕を負傷しているのに対してアスタルテは未だ無傷なのだ。明らかに、動きのキレに違いが現れる。
「ぐっ……!」
「吹き飛べ」
とどめとばかりに放たれた大薙刀の一閃。
鬼殺しで防ぐことも出来ない、左からの猛追に、シュテンの左腕は反応しない。
あれだけ神蝕現象によってずたぼろに引き裂かれたのだからそれは当然だ。
だが、それでも。
「っ!?」
「あああああああああああ!!」
守るべき仲間が居て、
背中を預けられた女が居て、
そして何より
「二百年も頑張ってきたようなダチに、これ以上カッコ悪いとこなんて見せらんねえよなァ!!」
「腕をっ……正気か!?」
大薙刀の柄部分を見極め、痛みでどうしようもない左腕を差し出す。
ぶつかった衝撃でひしゃげた腕は、どうしようもないほどにイカレた方向に曲がりきって。
それでも、そこで一瞬の隙が出来る。
「これでも食らってッ……」
地面を抉りながら振りあげる、右手一本で腕尽くの無理矢理な一撃。
だがそれは確かにアスタルテの視界の外からの攻撃であった。
「くっ……」
「テメエが吹っ飛べコルァアア!!」
すかさず軍刀で切っ先を防ぐも、アスタルテの体重は重くない。なりふり構わないシュテンの鬼殺しの一撃に、確かにアスタルテの体は宙に浮く。
「……だが、これでなんだと」
せっかく出来た隙。
とどめを刺す為にはたたきつけるのが常道だった。確かにアスタルテはそれを警戒して上には注意を払っていたし、それだけに下からの振りあげは予想外だった。
だが、それでは予想外なだけだ。
一瞬生じた疑問に顔をしかめ、地面のシュテンを見下げれば。
「俺が攻撃を加えるよりも――」
「――任せてくれたのさ、このボクにね!!」
「なにっ!?」
聞こえてくる不敵な笑い声。
てっきりシュテンのサポートに回るだけかと思って油断していた。
それこそ、接近戦でも不利な状況だ。何かしらの妨害が入るとすれば、シュテンと矛を交えている時だと、そう思っていたのに。
「第十四攻性魔導・冥月乱舞!!」
その瞬間、一つでも凄まじい殺傷力のある混沌冥月が、三十余もの数出現した。
それぞれが全く別の軌跡を描き、しかし間違いなくアスタルテに向かって迫ってくる。アスタルテの虹の瞳が、冥月乱舞で黒く染まり上がった。
「だから――」
しかし。
冥月乱舞が直撃する寸前で尚。
アスタルテの表情は変わらない。
「――魔導司書を甘く見るなと言ったはずだ」
――神蝕現象【天照らす摂理の調和】――
「……っ!?」
その祝詞が響いた瞬間、シュテンもシャノアールも警戒態勢を整える。
だが、誰も"偶然"の森羅万象が敵に回った様子はない。
だとすれば、いったい。
思考が追いついたと同時、凄まじい轟音が鳴り響く。
爆ぜるは冥月乱舞。
ありとあらゆる黒き奔流が、アスタルテが居るであろう場所を中心に弾け飛んだ。
「まさかッ……あの野郎自分に神蝕現象使いやがったのか!?」
周囲の魔素も大自然のうちの一つ。それがそっぽを向くということは、周囲にあった魔素が暴発してもおかしくはない。
「それより、まずいな」
「ちっ!!」
シャノアールは当然のように身を守ったし、シュテンとて冥月乱舞の残骸を受けるほどノロマではない。だが、峡谷の端で休んでいるユリーカたちは。
シュテンが彼女らの居た方向に目を向けると、どうも無事で居るらしかった。
崖から、冥月乱舞の暴走のせいであった落石からも、守られたらしい。
だって、そこにはいつの間にか。
「まさかしゃりっ……ユリーカを助けることになるとは思いませんでしたー」
当たり前のように、そしてのんびりとふわふわ浮かぶ、一人の少女が居たから。
守られたユリーカの目が見開かれる。
確かに今その少女は、ユリーカを庇うようにしてそこに立っているのだから。
「ヴェローチェ……?」
「レックルスもお爺さまのところに飛ばしてくれれば良かったんですー」
「いや無茶言うなよヴェローチェの嬢ちゃん。俺もあん時はマジで頭回ってなかったんだって」
ユリーカの隣でボリボリと後頭部を掻くレックルスの表情には、以前あったはずのヴェローチェへの警戒が無くなっていて。呆けた表情でユリーカがレックルスからヴェローチェに目を移すと、彼女は少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「……今回は、その……これで貸し借りなしってことでー」
「え……?」
言うが早いか、ヴェローチェはあっと言う間にシャノアールとシュテンの元へと飛んできた。お気に入りのフリルアンブレラは、いつも通り健在で。
「なんとか魔力持ち直したんでー……加勢とか要るっすかー?」
「ヴェローチェ、その気力を損なうテンションはやめてくれよ。いいところなんだから。このボクのね!」
「あーはいはいいつも輝いてますよー。……ぁの、シュテン」
「久しぶり……でもねえのか? ヴェローチェさん」
当たり前のように会話する、ヴェローチェとシャノアール。
それがどこか新鮮で、シュテンは少しの間二人を観察していたが。張本人であるヴェローチェがシュテンに向き直ったことで、その会話は終わりを告げる。若干、シャノアールは不服そうではあったが。
視線を合わせたヴェローチェは、あの時と同じように気だるげで、ジト目で、表情も動かなくて。それでもどこか、以前よりも柔らかい印象が表にあって。
「あとで、お話がありますー」
「体育館裏か……」
「え」
「いや、何でもねえ。そうだな、とりあえずは――」
アメジスト色の瞳をきょとんとさせたヴェローチェと共に、まず処理しなければならない案件の方を振り返る。
「用は、もういいのかい?」
「悪いな、待ってもらってよ」
あれだけ攻撃を加えても。どれだけシュテンがボロボロになっても。
それでも傷一つない状態で、魔導司書は佇んでいた。
「あー、あれほんとやばいっすねー。わたくしも魔力回復したとはいえー、シュテンとお爺さまのサポートに回らせてもらいますー」
「もう少しこう、覇気を持ったらどうだい? たとえばそう、このわたくしがね!! とか」
「死んでも無理ですー」
「そうかい……」
がっくりと肩を落としながら、それでもシャノアールは大量の魔導を空中に展開させていた。城一つなら軽く落とせそうな勢いの魔法陣の数に、頬がひきつったのはシュテンだけではないだろう。
「火力バカはお爺さまに任せるとしてー……前衛のシュテンに、少しサポート入れますかねー」
「んあ? サポートなんて出来たのヴェローチェさん」
「……さぁ? "今は"出来ますよー」
軽く小首を傾げてとぼけながら、相変わらずの無表情でヴェローチェは言った。
「古代呪法・闘志精錬」
「……お」
「ま、気休めというかー……戦えるってだけですがー」
「や、さんきゅさんきゅ。ありがたい」
「……そですか。がんば」
「うい」
くるりと背を向けて、ぱたぱたと手で追い払われるようにシュテンは前にでた。
ひしゃげたはずの左腕は元に戻り、流血は止まらないながらも動く分には支障がない。おそらくは魔力の流れを整え活性化させる術式なのだろう、手のひらを閉じたり開いたりしながら、シュテンは調子を整えた。
「……三人か。どんどんハードになっていくね。僕も、あまりこういうどんどんきつくなる展開は嬉しくないんだが」
「うっせえアホ。こちとら試す手試す手潰されてどんどん容赦ねえテメエ相手にしてんだ。もうちょいまけろ。なんなら負けろ」
「……それにしても、ヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィアにシャノアール・ヴィエ・アトモスフィア。とんでもない爆弾が、二つになってしまった原因は――」
――神蝕現象【九つ連なる宝燈の奏】――
祝詞が周囲に響き渡る。
「――いや、今はいいか。さぁ、続きと行こう」
――神蝕現象【清錬老驥振るう頭椎大刀】――
――神蝕現象【大文字一面獄炎色】――
――神蝕現象【大いなる三元素】――
――神蝕現象【四肢五体分かつ暗き刻限】――
「うわー……マジっすかー。四つ同時とか出来たんですかあの現人神ー……」
次々に魔導書が展開され、アスタルテの周囲に強大な魔力が渦を巻く。
その威圧感たるや尋常なものではなく、歴戦のヴェローチェであってもげっそりと面倒臭そうに言葉を漏らすほどだ。
だが、それでも。
「古代呪法・混沌冥月」
黒き奔流がアスタルテに向かって放たれる。速度だけならシャノアールの冥月乱舞を抜き去るその凄まじい一撃に、アスタルテは目を細めて白の球体を繰り出した。
「っ……ごりごり魔力削られますねー」
不快そうに眉をしかめるヴェローチェ。
第十席グリンドル・グリフスケイルの神蝕現象の一つであるその白い球体は、魔素を打ち消すアンチスキル。さらに緑の球体で己の魔導を増幅し、赤の球体を発火剤に地中から急襲。これを駆使して、精錬老驥振るう頭椎大刀と四肢五体分かつ暗き刻限の二刀流、加えて日輪の炎を自在に操る化け物が……今のアスタルテ・ヴェルダナーヴァ。
「……ほとほと、尋常じゃねえな帝国書院」
「それでも、全盛期は終わってしまったよ」
「ほざけ」
筋力活性により敏捷性の上がったシュテンが地面を駆ける。
結局近づいて殴ることしか出来ないが、出来ないなら出来ないなりにその一点で最大限の仕事をする。それが今、シュテンが心に決めた戦い方だった。
一人ではない。
バックには今、頼もしい後衛が二人も居る。
なら自分はただ、真っ向からなにも考えずに叩くだけだ。
「遊ぼうぜ最高の魔導司書!!」
「きみだけに構っていられないのだが」
跳躍と共に振り降ろす大斧。一撃を大薙刀で防がれて、その直後死角から斬り込む軍刀を回避。まるでただブレただけかと錯覚するほどの連続した大薙刀のラッシュを、同じ速度の大斧の応酬で防ぎきる。
「おりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!!」
「……本調子のきみ相手は、少々つらくなってきたかもしれないな……!!」
剣戟のラッシュ。飛び散る火花さえも回避する余裕があるアスタルテに対し、シュテンは思わず笑みを浮かべる。余裕などどこにもない、尋常ではない化け物を相手に、しかし勝利はあると信じて。
「負けるわけにゃ、いかねえよなぁ!!」
「そうだね、このボクもね!!」
「なにっ……!?」
大文字一面獄炎色は確かに放っておいた。
シュテンとの距離が近すぎる以上、シャノアールの魔導も封じられると。
しかし、だというのに、なぜか。
「へ、こいつで仕舞いよ!!」
「……まさかっ」
目の前で打ち合うシュテンの存在感が薄くなっていく。
まるで消えてしまうかのような、そんな。
「お爺さまー、はやくしてくださいー」
「ヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィアか!」
見上げた空に、明らかに魔導を行使しているヴェローチェの姿。
――古代呪法・連環避縁――
いつの日かヤタノ・フソウ・アークライト戦でヴェローチェが見せた"その場に居なかったことにして転移する"という術式の古代呪法。
それが今、シュテンに発動している。
つまり、今ここに、シュテンは居なくなる。いや、すでに居ないのかもしれない。
「わかっている……覚悟はいいか、アスタルテ!!」
叫ぶはシャノアール。
その手には、明らかに今の今まで凝縮していたであろう膨大かつ強烈な魔力の波動。
シュテンに前衛を任せ、己は一撃でアスタルテをしとめる気であったと、まさに言わんばかりのその計略。
「……三人の組み合わせが、恐ろしく良かったということか」
ふ、と。
ほのかな笑みを見せたアスタルテが、シャノアールに視線を合わせる。
あきらめた、とでも言いたげなその表情に冷たいものを感じてシャノアールは。
「いいさ、消えてなくなるがいい。第八攻性魔導・改――滅龍崩牙!」
その溜めに溜めた魔導を、放った。
瞬間、アスタルテの居た地面が爆散し、ブラックホールが収束するように一定の空間が消失した。直前まで打ち合っていたシュテンの姿は、すでにヴェローチェの付近にある。
「……おわった、か」
ふう、とシャノアールが息を吐いて。
まっさらな大地にぽっかりとあいた空間を、シュテンが覗き込む。
「ああ、終わったな」
頷き、笑顔で拳を打ち合わせ――
「いや、終わってないさ」
「っ!?」
「おいおいおいおいマジで!?」
空中から聞こえてきた、男とも女ともつかないその声色に慌てて顔をあげた。
そして、当然のように先ほどと変わらぬ空中に佇む、アスタルテ・ヴェルダナーヴァ。だが、おかしかった。さすがにあれだけの魔導を食らったのだ。いくらなんでも。
無傷というのは、ないだろう。
「おまえ……本当に化け物かよ……」
「いや、危なかったさ……というか、死んだよ」
「は?」
――神蝕現象【十三武錬不敗の巨塔】――
「僕の命が一つであれば、死んでいた」
「……なぁおい。聞こえてはいけない数字が聞こえてしまった気がしたんだが……十三っつったか? 今……?」
「……? きみはよく聞き間違いを気にするが、安心するといい。今のところきみの耳に落ち度はない」
「アッテホシカッタナー」
耳の穴をほじりながら、シュテンはため息混じりにそう言った。
どれだけ、目の前の現人神は強大なのだ。どれだけ、勝利への道はほど遠いのか。
絶望を通りこして呆れ返るような状況の中、しかしアスタルテは肩を竦めた。
「いや、殺されてしまうのは予定外だ。僕は結構慎重でね。一度死んでしまったからには、今回は引かせてもらうとするよ」
すぅ、と背後の魔導具たちが消え去る。
周囲の空気が一気に軽くなった感覚がして、しかしシャノアールは相変わらず腕を組み、じっとアスタルテを横目で睨み据えていた。
「……どういう腹積もりだい?」
「なに。優先順位を考えたまでさ。……最初に殺さねばならないのは車輪ではなく」
そこまで言って、アスタルテはゆっくりとシュテンの方をみた。
虹色に染まっていたはずの瞳は黒く戻り、す、と手をシュテンの方に伸ばして言う。
「運命をゆがめた張本人らしき"鬼神の影を追う者"。きみは……尋常ではない危険因子だ」
「あー……まあ、うん。自覚はある」
「あるのか」
「うん」
ぽつん、とアスタルテは目を点にして。
吹き出すのを堪えるかのように、顔を背けると。
「また何れ……きっときみを殺しに来るよ。その時は……覚悟をしておくといい」
「あ……そ……もういいよ、見たくねえよお前……」
背には縦の一文字。
帝国書院書陵部最高の魔導司書が、踵を返して空中に去っていった。
……。
「……背中から撃ちますかー」
「いやいやいやいや辞めてお願いだから!!」
す、とフリルアンブレラを去っていく背中に向けたヴェローチェを、慌ててシュテンはとどめて。冗談ですー、と相変わらずの無表情でつぶやく彼女にほっと一息。
だが、ヴェローチェの言葉はそこで終わらず。
彼女は、ぽつりと。
「わたくしは、全部……おぼえていますー……」
そう、ほんのりとした笑みを見せた。